別府 正さん 「食と農への道」を生きる

「食と農への道」を生きる(別府 正さん)

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  1. 「私の人生での出会い」
  2. 祖父母と両親の願いに生きて
  3. 私の幸福論(この世に生れてきて)
  4. 「食と農への道」との出会いと願い
  5. 人生の指針としているもの
  6. 団塊世代の自立と責任
  7. 会社案内とプロフィール


別府 正さん 「食と農への道」を生きる


  ← 1. 「私の人生での出会い」→

1.「私の人生での出会い」

  • はじめに
  • 今回、長山さんが「生活の再建」のホームページを立ち上げられましたことを大変うれしく思います。その最初の立ち上げ時に「ここに人あり」のコーナーで私のことを紹介させていただくことに凄く緊張いたしております。
  • 果たして私のような浅薄未熟な人生体験がどれだけお役に立つのやらと思っております。

  • さて長山さんと私の出会いはある地方の有力企業の再建そして破産に至るまでの短期間でのこと。お互いにその企業を何とか立ち直れるように革新することを目的としていました。残念ながら結果は破産。その間、長山さんの企業革新に賭ける自己投資(知力、情熱など)は尋常ではありませんでした。

  • 脳梗塞で倒れ不自由な身になったばかりの人であることを誰でも疑いたくなるほど精力的で頭脳的でした。

  • 私はそんな長山さんから実にたくさんのことを学びました。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • 私にも生きる希望や喜びを剛直球で与えてくれました。

  • そんな長山さんを一言ではとても括れませんが、もし一言で表現するとしたら「人間力」ではないでしょうか。
  • その長山さんがこの「生活の再建」のホームページを通じて、その「人間力」をさらに多くの人たちと共に活かし合えることに深く感動しております。
  • 私は現在、「食農」を会社事業として取り組んでいます。
  • 長年勤めてきた地元の百貨店を去り、なぜ百貨店で取り組んだこともない「食農」に関わることを事業としたのか。
  • その背景には私が生まれ育ってきた中で体験し学習してきたものが複合的に影響し合っています。
  • そのことに触れながら、私が50才を過ぎて挑んだ食農事業の「今とこれから」を最後に語りたいと思います。

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  ←2. 祖父母と両親の願いに生きて→

2.祖父母と両親の願いに生きて 別府 正さん 「食と農への道」を生きる

2-1 自然と暮らした少年時代

  • 私がこの世に生を受けたのは昭和24年12月。
  • まだ敗戦の傷を背負いながら多くの日本人が貧しさから立ち上がろうと頑張っていた時代。そのさ中に私はのちに団塊世代と呼ばれる大集団を構成する一人としてこの世にデビューしました。

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  • 家族は祖父母、父母、四人の姉たちに囲まれたその頃どこにでもある大家族。四方には山々が連なり、すぐ近くには大河の筑後川が流れ、水田に包囲された陸の孤島ともいえる農村。この環境の中で少年期の私は実に多様なものに出逢い様々な体験をしました。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • 経済的には決して豊かではなかった少年期。でもこの時期私は「モノ」との比較が出来ない幸福感に満たされていました。

  • 自然と家畜は私の最良の友。筑後川とその周辺の森や田畑は自由自在な遊び場であり、自然の糧をゲットする場でもありました。
  • 川遊び、木遊び、昆虫や植物や岩石採集など自然は私にたくさんの冒険心と好奇心を育んでくれました。

別府 正さん 「食と農への道」を生きる

別府 正さん 「食と農への道」を生きる

  • お腹が空くと、春には野草摘み、夏には魚獲り、秋には木の実摘み、冬には野鳥捕り(さすがに野鳥は食べませんでしたが)。まさに四季折々の自然食レストラン巡り。その中の一部は我が家の食卓を賑わすこともありました。

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  • 家畜も私が育て、私を育ててくれたかけがえのない友。中でも私の干支でもある牛との生活には思い出深いものがあります。
  • 農耕作業の頼りになる動力であり、生活の金を稼ぐ貴重な源泉でもあった牛は少年の私にとって相性の良い友でした。

  • 小学校から帰宅すると米わらを刻み、それを米ぬかと水で混ぜ合わせた主食を与え、夕暮れ時には二人で筑後川の土手や農道を散歩しながら、野草を食べさせてあげたり夕陽を眺めたりしました。

  • しかしながらそんな友とも別れは何度も訪れました。
  • 私の家族の生計を支えるために飼育しては売りに出されたのです。
  • 最期の別れを見送りながら私は小さなこころを震わせていました。

2-2 祖父母との生活

  • 我が家は父が養子の家庭でした。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • その父は明治生まれの大工一筋の男、棟梁としてたくさんの家を建ててきました。
  • 母は家業の農業を受け継いだ米と野菜づくり一筋の大正生まれの女。
  • 二人ともそれぞれ朝早くから日の暮れるまで仕事尽くめの人でした。
  • 五人の子供と両親を抱えての生活でしたから当たり前のことだったと思います。

  • そんな生活環境でしたので、幼少年期の私にとって両親の役目は祖父母でした。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • 寡黙でこつこつと農作業する祖父、唯一の楽しみは夕餉の濁った一杯の焼酎。
  • 祖母は農作業も家事も人一倍さばける明るくて大陸的な人。

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  • 私はそんな祖父母と広いお座敷の間で中学3年時まで毎晩川の字になって寝ていました。夏になると一つの蚊帳の中で異空間を楽しむ。そんな日常の中で祖父母の匂いや老いていく姿をごく自然に感じ取ることができました。

  • 初めに訪れた祖父の老衰、その不自由な体を支え介護するのは小柄だった当時の私にとって想像以上の負担でした。やがて迎えた自宅での静かな死。この体験は私の高齢者への思いの源泉になりました。

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3.私の幸福論(この世に生れて生きて)

3-1 突然の病魔

  • 中学時代まで自然児としておおらかに順風漫歩に育った私に突然訪れた悲劇、それは中学3年の大晦日の晩でした。
  • 毎年恒例の紅白歌合戦を家族全員で堀りコタツに入って聴いている最中に私の心臓は突然に暴れ出しました。

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  • 激しく鼓動する心臓の異変を家族の誰にも気付かれないように私は一人で自分の部屋に向かい、そこでじっとうずくまっていました。
  • 「どうかこの出来事が夢であって欲しい!」そう祈り続けました。目が覚めたら元どおりの元気な私になっているかも・・・でもその願いははかなく、なおも激しく鼓動し続ける心臓は新年を迎えた私を死の恐怖へ導きました。

  • 数日後、私は母に病状を明かし近くにある馴染みの医師の診察を受けました。初めての心電図の結果は後日、大学病院から要精密検査の回答。母と共に訪れた大学病院、そこで様々な検査を受けた結果に私は生きる希望を失いました。

  • 「左心室肥大、最高血圧160、スポーツはしないこと!」。それ以外に何の説明もなく、大きな注射器の針が私のおびえる左腕の静脈へ。2カ月後に高校受験を控えていた私に、医師たちは励ましも慰めの言葉もありませんでした。

  • 学業もスポーツも得意で両親には「自慢の子」であり続けた私。何の負けも感じないまま過ごして来た私が初めて味わう「挫折、敗北、孤独・・・」。勉強する気力もなくダラダラと過ごす日々。
  • それでも地元では名門と言われた進学校に合格することが出来ました。

  • 入学式では何の喜びもなく相変わらずの病状に不安ばかり。
  • 体育の時間に運動場の片隅から、嬉々としてスポーツを楽しんでいる学友たちを無気力に眺めながら、さらなる挫折と孤独に苦しんでいました。

  • その年の夏休み、私は成績不良者だけを集めたひとつのクラスで夏期補習を受ける羽目に。絶望感で全く勉強しなかったので当然の報い。
  • とはいえ恥ずかしさとショックで居場所を失いました。

3-2 奇跡的病気からの回復 別府 正さん 「食と農への道」を生きる

  • その夏休みに私は再び大学病院を訪れました。
  • 心臓には不安があり極度に神経質な日々を過ごしていましたので結果は変わらないだろうと覚悟していました。

  • そんな私を診察してくれたのは30代前半の若き医師。
  • 検査の結果彼からの第一声は「もう大丈夫だよ。普通に過ごしていいよ!」。
  • 予期しない彼の温かい言葉に私は耳を疑いました。

  • そして、生きていることに喜び、生きて行けることに涙しました。

  • 成績不良者クラスへの強制収用と病魔からの生還者になったその夏、私は出遅れた勉強を取り戻すために猛烈に勉強を再開しました。

  • そして半年後には上位クラスまで這い上がり、校内では成績不良者を励ます格好の材料とされました。
  • この不慮の体験は後に、大学生活でも職場でも家庭生活でも「生きること」のすべての場面で「あきらめない」という前向きさを私にプレゼントしてくれました。

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4.「食と農への道」との出会いと願い

4-1 21世紀への第一歩:「私の決断」

  • 2000年2月29日、私は26年間勤めた地元の百貨店を辞めました。
  • 理由はさまざまですが、定年までの残された10年間をこのまま終えることに対して私の中には少しづつ抵抗感が芽生えていました。

  • ただ家庭には大学生、大学受験生、高校生の三人の息子を抱えていましたので経済上の問題はありましたが、割増の退職金で何とか乗り切れると覚悟しての決意でした。

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  • 妻はそうは言っても不安な心境だったと思いますが、そんな私に抵抗せず私の思いを尊重してくれました。

  • でも最初から私の目指す事業が用意されていた訳ではありません。二つの会社の仕事を経験し、その間に以前から強く関心を抱いていた食と農と健康に関する勉強を自分なりに開始しました。
  • 勉強すればするほどこの分野にたくさんの問題が山積していました。
  • 同時にこの問題の解決こそが21世紀の重要なテーマであることを知りました。

4-2 食農への道を生きる

  • 百貨店退職後3年間の時を経て、私は「食農」を事業とすることを確信しました。
  • この背景には、自然に囲まれた農村での生活、祖父母との暮らし、病気の体験、そして人間と自然に対する将来への不安があります。
  • 中でも「日本の伝統的な食の崩壊」と「農業環境の異状」の現実は食農事業の決定打となりました。

4-3 まずは食の現実について 別府 正さん 「食と農への道」を生きる

  • 朝から子供たちと若いお母さんが大手ハンバーガー店でハンバーグとコーラで「朝の食卓」を楽しんでいる姿。小学校運動会の昼食時間に親子でフランチャイズ店の弁当やフライドチキンを食べている姿。

  • そしてデイカウント店で工場で大量生産された添加物まみれの加工食品を大量に買い込んでいる若いお母さんの姿。どれも私の子供の頃にはなかった異様な光景。

  • 私の子供の頃の食卓には毎日のように季節の野菜、ご飯、味噌汁が主役の食が当たり前に並んでいました。メニューの数こそ多くはなかったけれどすべて母や祖母の手作りばかり。
  • その食事を家族皆で食卓を囲んで愉しんでいました。

  • 運動会や遠足の時には母が早くから起きていつもより奮発して弁当をこしらえてくれました。加工食品はほんの一部でしかなく添加物には縁のない食生活でした。

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  • その後経済が成長し、ありとあらゆる食が店頭に並ぶようになり、お母さんやおばあちゃんの手作りした食事を家族揃って食べなくなり、一人だけの「孤食」や化学添加物まみれの「呆食」が子供たちの日常になりました。

  • そうした現象が当たり前になりいつしか、子供の成人病、子供の切れる事件、学校崩壊などが世間を賑わすようになりました。こんなこと私の子供時代にはなかったこと。
  • そうした子供たちの病みの温床が「食」、中でも家庭における食にあるのではないかと思うようになりました。

  • そんな時、図書館である本に出会いました。
  • 日本と同じような現象がカナダでも起きていたのです。
  • その解決策として「コミュニテイーレストラン」の誕生がありました。
  • 子供も大人も一緒に食卓を囲んで手作りの食事を愉しむ、そこでいろんな会話が弾む。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • ただそれだけのことですが、そうすることによって子供たちの非行や社会問題が次第に減って行ったとのこと。

  • 「食」がただ食べるという行為ではなく、人と人との心をつなぐ大切な場であり、さらにその食の恵みを産んでくれた自然とその食を作ってくれた人への感謝の場であることを、子供も大人も自然に学んだことがその背景にあったそうです。

4-4 つぎに「農」の現実について

  • 事業を始める前に私は地元の農業生産者と農業に携わる関係者(市町村農政部、農業普及センター、農業高校など)に数多く会いました。
  • 「食」を知るにはその源である「農」を理解する必要があると考えたからです。

  • 私が最初に訪れたのは地元の県立農業高校でした。
  • そこで私は農場長である教諭に会いいろんな現実を知りました。
  • その教諭が私に質問したこと。「この学校の生徒たちの何割くらいが農業することを希望していると思われますか?」。「半分くらいはいるのでは!?」と答えました。
  • 「とんでもありません。ほとんどの生徒が農業することを希望していません!」。
  • その教諭の言葉に私は大変な衝撃を受けました。

  • その理由にさらなる衝撃が。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • 「結局、普通高校に受かるだけの成績ではなかったので仕方なく農業高校に来ただけですよ」。確かにそういう理由もないとは言えませんが、ほとんどの生徒がそんな気持ちで授業を受けているかと思うと情けなくなりました。

  • 同時になぜ教諭や親たちがそうした気持ちで落ち込んでいる生徒たちに、農業に対する社会的使命や将来への期待や展望を語り、農業に対して前向きにリード出来ないのだろうかと思いました。将来の農業の担い手不足がとても心配になりました。

  • 次に様々な農産物生産者に会いました。栽培品目は米麦、野菜、果物など。
  • 生産地は田園地帯から山間地まで。生産規模は大規模から零細まで。

  • 共通していることは生産者の高齢化、担い手不足、収益の低さ。表面的には広大な田畑や山地を所有し、田圃のベンツと言われるような豪華な農業機械を購入し、「儲かっているんだろうな」と思えるような生産者も同様な悩みを抱えていました。
  • 「このままであれば子供たちには農業を継がせたくない!」というのが大半の生産者たちの本音でした。この声にまたまた衝撃を受けました。

4-5 何とかしなければ

  • 「食」と「農」の想定外の現実に私は唖然としました。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • 私自身少年期に農作業の手伝いをさせられていましたので、農業のしんどさは身に染みて解っています。でもそのしんどさは肉体的な辛さがほとんど。

  • 今日のように様々な農業機械が使用できるのであれば、その辛さからかなり解放されるはず。

  • 「農業をしたくない」と言う子供、「農業をさせたくない」と言う親の本音の元はどこかにあるはず。

  • 私はさらに頑張っている何人かの農業生産者にその本音を伺いました。

  • そしてようやくその本音が見えてきました。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • そのひとつが「儲からないこと」、もうひとつが「やり甲斐がないこと」でした。

  • なぜ儲からないのか。そこには海外の安価な農産物との価格競争、生活者の食生活の変化、生産と流通コストの負担、不安定な農産物価格など様々な原因がありました。
  • 一年間頑張ってきたのに報われない僅かな儲けや赤字に唖然としながらも長年その繰り返し。
  • さらになぜやり甲斐がないのか。儲からないことも大きな要因のひとつですが、もうひとつ、自分の生産したものがどんな売場でどのように販売され、お客様からどのように評価されているのか。
  • そうした声や情報が全く生産者には届いていない事実です。別府 正さん 「食と農への道」を生きる

  • 生産者の抱えている問題は極めて明快でしたが、なぜかこの問題は長年放置されたままでした。
  • 近年、食料品の自給率アップ、食育への取り組み、農業の担い手育成など「言葉としての政策」は数々ありますが、末端の生産者側から見ると期待できる救いの策にはなっていないと実感しました。

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5.人生の指針としているもの

5-1 食農事業への取組み

  • 3年余り、食と農の現場を自分の足で訪ね歩きながら、ようやく自分別府 正さん 「食と農への道」を生きるの中で取組むべき事業の姿が見えてきました。
  • その最大のカギは食と農をそれぞれ一人歩きにしないこと。

  • 食も農もすべてが「食べる生活者」が相手。
  • ですからこの二つを分断し個別に対応するのではなく、「食べる生活者」に対して「最良の食を提供するパートナー」とし、食と農を元気にする。

  • 私の「食農事業」はそうした考えからスタートしました。
  • 具体的な取組みは下記のとおりです。

  • まずは食と農ふたつの店舗からの出発
    • ●自然食カフェ「菜花saika」の店舗開設
    • ●地元及び国産農産物販売所「みどりの市場」の店舗開設
  • それぞれの店舗を私が勤務した地元百貨店内に縁あって2年半前にオープンしました。
  • 自然食カフェ「菜花」では地元で採れる季節の野菜を主役にしたランチメニューを毎日手作りします。
  • 開店当初は一品のメインメニューを日替わり的に提供していましたが、お客様の希望がいろんな野菜惣菜を少しづつ食べたいということを知り、その方向にシフトしました。

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  • ご飯は地元米の玄米と手作りの味噌汁。
  • 使用する野菜の「種類・色・味」の三要素を考慮しながら八品のメニューを作ります。
  • メニューが先に決まるのではなく、その時々に採れる野菜の種類からメニューが決まります。ですからメニューは毎日変化します。

  • 現在、外食産業にはメニューに使用した原材料の原産地表示(大半が中国産です)はしなくていいことになっていますが、「菜花」では毎日変わるメニューの野菜の生産者や生産地(すべて地元及び国産です)をメニューボードに表示します。

  • 時々はお客様へ生の声で情報をお伝えします。
  • そんなことを毎日繰り返しているうちに、一度ご来店いただいたお客様がご家族やご友人を誘って再度ご来店いただくようになりました。
  • 今では若い女性の方々、小さなお子様連れの若いお母さん、中高年のご夫婦やご友人たちなど幅広いお客様がご来店されます。
  • 行列ができることもしばしばです。

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  • 「ここの食事はおいしかもんね」、「ここの店に来ることを楽しみにしています」・・・こうしたお客様からの言葉をよく耳にするようになりました。
  • さらにお食事されるお客様同士で会話され仲良くなられる光景も目にするようになりました。

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  • 「菜花」で料理する人は主婦していた人ばかり。特に高度な料理技術を持っている訳ではありませんが、皆家族のためにほぼ毎日食事を手作りしていたお母さんです。
  • 手間をかけ真心をこめて作る、そして食べた人に「おいしかった!」と喜んでいただける。さらにカラダもココロも元気になっていただけたら嬉しい、そんな気持ちで毎日お客様をお迎えしています。

  • 農産物販売所「みどりの市場」は「菜花」がオープンした8ヶ月後に食料品売場の一角にオープンしました。
  • 品揃えの基本は地元産及び国産、生産者の顔が見えること。
  • 無農薬ないし減農薬栽培、農産物加工品は無添加ないし極力添加物をおさえたものです。

  • ですから取引はすべて顔の見える生産者と直接行います。
  • 取引を決める前に私が必ず実行することがあります。

  • まず生産者の農場や工房を訪問します。そこで自分の生産するものへの思いを聞きます。この思いを聞くだけで生産者のものの姿が大半見えてきます。
  • 「買って頂く人に自分の家族と同じように安全で美味しいものを食べてもらいたい!」
  • この思いが強い生産者ほど「いいもの」を作っている事実を発見します。

  • 派手さはありませんが地道にこつこつと生産に励んでいる、口数は少ないけれど目がきらきら輝いている、損得勘定がない、こちらが癒されるほどのやさしさがある・・・これが「いいものを作る生産者」の共通した姿です。

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  • 私がそうした生産者と取引をお願いする時に必ず言うのは「お客様にあなたの作っているものを店で紹介し食べていただきたいので、どうか一緒に働かせていただけませんか!」と言う言葉。

  • なぜなら私の食農事業は生活者へ「最良の食」を提供することであり、この実現のためには私も生産者と一体化して「もの作り」をしなければなりません。

  • 私の「もの作り」はお客様の食に対する希望や期待の声を生産者に届け、生産者をその声に応える「もの作り」へシフトさせることです。
  • でも「もの作り」に自信がある生産者ほど陥る罠があります。こんなことがありました。

  • ひとつは伝統的な梨の生産者の勘違いです。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • その梨は昔から巨大なサイズほど値打ちがあると生産者には思い込まれていました。
  • ですから生産者はそうした梨を一生懸命に栽培してきました。
  • ところが都会の百貨店では巨大な梨がさっぱり売れません。
  • なぜだろう?お客様にお聞きしました。
  • 「大きな梨は持ち帰るのが大変、冷蔵庫にも入り切れない、家族が少ないから食べきれず残してしまう」というのが理由。

  • 同じようなことがトマトにもありました。箱詰めしたお得なトマトが売れない。
  • そこで箱詰めしたトマトを半減しビニール袋詰めに。
  • 値段は半額よりも高く設定したにもかかわらずあっという間に完売。
  • 半減した個数がお客様にとって適量だったのです。

  • このふたつの出来事はまさに生産者の思いと生活者の希望との完全なミスマッチ。
  • いいものでも売れない理由があることを知りました。
  • 私の事業はそうした生産者の勘違いや過去の常識を今の生活者の希望や期待に応えるために、生産者と一緒になって働くことが中心にあります。

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  • 「みどりの市場」は開店してしばらくの間、以前の野菜売場(百貨店運営ではなくビル地権者の売場でした)の不評(生産者が見えない、鮮度が悪い、価格が高い、接客態度が悪い)が長らく続き、いいお客様がすっかり離れていましたので来店者も少なく採算割れの状態でした。
  • 途中何度か早期に撤退しようと考えた時期がありました。

  • でもここで諦めたら一緒に働く生産者への裏切りであり、生活者への思いも伝わらないままに終わってしまう。そう考え直して毎日売場に立ち、お客様の希望や悩みやご意見をお聞きしながら接客販売をしました。

  • 約1年が過ぎた頃、お客様からいろんなお声が伝わってきました。

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  • 「この店の野菜は美味しいですね!」、「この店はいいものにこだわってあるので安心して買えるわ!」、「友達からこの店の商品はいいからと薦められました!」などなど。
  • こうしたお客様の喜びの声はこれまでの苦労をいっぺんに忘れさせてくれました。
  • 同時に生産者にも私にも共に働くことの喜びと利益を提供してくれました。

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6. 団塊世代の自立と責任

6-1 明日に向かって

  • 私の食農事業も今年で3年目、ようやく私の目指す食農事業が生産者にも生活者にも理解されるまでになりました。

  • 現在事業の中核である店舗はかって私が勤務していた地域一番店での展開。
  • しかしながら今日、郊外にはたくさんの大型ショッピングセンターや専門店が乱立し、客数も激減し経営的に苦戦が強いられています。
  • かって繁盛していた中心市街地の商店街は空き店舗が増え危機的状況です。

    別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • そんな中、私の二つの店舗は客数も急増し売上も急伸しています。
  • なぜだろう?といつも考えます。
  • そして私なりに検証してみました。以下が私が確信した結果です。

    • ① お客様の「健康」への意識が極めて高い。
    • ② お客様が「ほんもの」を求めている。
    • ③ お客様が心地よい「つながり」を求めている。

  • 以上の三点がお客様のカラダとココロのニーズであり、そのニーズを満足させてくれる商品やサービスが私の二つの店舗に「空気」みたいに存在しているからかも知れません。

  • 私は今、この食農事業に取組んでいることに「喜び」と「誇り」を持てるようになりました。ここに至るまでには様々な苦悩と葛藤がありましたが、今では生活者に食べる喜びを、生産者に作る喜びを実感してもらえるまでになり、この事業をやって来れたことに感謝しています。

6-2 事業創造を支える力とは

  • この事業への情熱が私の中で自然発生的に湧いてきたのは、少年時代に農村で過ごしてきた生活体験が根底にあるような気がします。
  • 四季の自然とその恵み、祖父母との生活の匂い・・・そうした原風景が私の体内にまるでDNAとして存在し反応しているのではないかと思います。

  • 私たち団塊世代は大学時代に学生闘争を体験しました。別府 正さん 「食と農への道」を生きる
  • ベトナム反戦、既存の社会体制への反発、それぞれがそれなりに考え、時には暴走し理想を目指して闘ってきた歴史があります。

  • でもどうでしょう?その後私たちは経済成長に身も心も奪われ、周囲にある大切な風景を見失って来たようです。
  • 今振り返ってみると、「こんなはずではなかった!」とも言える社会の様々な病みの現実があります。

  • 私はそうした現実を目の当たりにしながら、自分自身も加害者のひとりであることを謙虚に受け止めて、食と農という世界で懐かしく「全共闘」しようと決意しました。

  • 食と農が一緒になり、「生活者に美味しさと健康の喜びを提供する」、「生産者もその喜びを共有しこれからの農業の価値を継承して行く」。

  • この二つの場を創造し元気にすることが、これからも続く私の「生活の再建の道」です。

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7. 会社案内とプロフィール

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