1.ーベニスに伏すー 42歳の若さで、ヨーロッパで、脳内出血で倒れる! 2..兆候はあった! 3.ホテルの部屋で倒れる! 4.幸運にも「脳神経専門病院」へ搬送される 5.記憶がハッキリしない発症直後の状況 6.眠れぬ後悔の日々 7.多くの友人からの見舞い 8.音楽アルバムの制作開始まで 9.病院の事 10.病院での生活で困ったこと 11.私の体の状態 12.ミラノの病院へ転院;本格的リハビリへ 13.改めて当時を振り返る
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1.ーベニスに伏すー 42歳の若さで、ヨーロッパで、脳内出血で倒れる!
- 19 9 0年3月30日、出張先のイタリアのベニスで、サラリーマンという平々凡々の企業戦士であった私は、突然病魔(脳溢血)に襲われました。
- 突如として障害者になった私は、絶望のどん底に追いこまれて行きました。

←2.兆候はあった!→
2. 兆候はあった!
- 倒れてから自分に何が起こったのか、認識が出来てからどれだけ後悔したかわかりません。

- それはドイツのフランクフルトでの世界の楽器の見本市で、すでに兆候があったからです。このショーには責任者として参加していました。
- ショーが始まる前から左目の白い部分に針で刺したような深紅の斑点状のものが出ていました。目薬をつけて様子を見たら、少し色が………一時的に薄くなったようでした。

- しかしながら、ショーが始まってから目薬の効果も全くなくなり、ますます深紅の度合いが深まっていきました。
- また、異常な程の肩こりになり、毎晩ショーが終わるとマッサージの上手な女性スタッフがいたので、毎晩彼女にマッサージをしてもらい、何とかショーの期間中を切り抜けました。
- 何とか展示会は無事に終わり、フランクフルトからパリに移動しました。2日間滞在して若干の仕事をこなし、後はのんびり過ごしました。

- それから、ベニスに移動。ベニスは休養でした。
- 倒れた日の午前中はべネチアグラスで有名なムラノを見学。
- 昼食してから、ショッピングに行きました.ワインを飲んだせいか、猛烈な疲労と肩凝りでショッピングの最中たえず椅子をさがして腰掛けていたほどでした。
←3.ホテルの部屋で倒れる!→
3. ホテルの部屋で倒れる!
- ホテルはサンマルコ広場の近くの5つ星の“ルナ”ホテルでした。

- 4時頃、ホテルに戻り、休憩して、7時にロビーで夕食の集合という事で皆と別れました。
- 部屋に戻り、あまりの肩こりだったので、風呂に入り、バスタブの端で肩を揉みました。
- 風呂から上がり、下着を着てからバスローブを取りに行く途中、部屋の中央でもんどり打って倒れました。バスタブの中だったら溺死していたかもしれません。
- 倒れたのが部屋の中央だったのも幸運でした。
- 左半身が動かなくなって、それでも這って、電話しなくてはとベッドの脇の受話器に懸命に何度も何度も手を伸ばしましたが届きませんでした。汗びっしょりになりました。
- 後で、今思えば、こんなことをしなければ後遺症はもっと軽かったかも知れません。
- 脳卒中の知識が無かったので結構頑張ってしまいました。
- 仕方なくドアの側まで這ってそこで待つ事にしました。
- 3時間程立ち、約束の7時になっても私が現れないので、様子を見にきてくれ、これで助かりました。ところが私が全く「ろ列」が回ってなく、私の異常に気づいてくれました。
- ところが大きな問題が生じていました。
- 私がドアの鍵穴に内側から、鍵を差し込んでいて、外から鍵を開ける事が出来なかったのです。しかも、私がドア口に横になっているので、外からドアを蹴破る事が出来ません。
- ここでも幸運な事に、部屋の奥で隣の部屋に通じるドアがあり、そこをイタリアの買い付けのアシスタントをしていたフルビオが蹴破って部屋の中に入って私を救出してくれました。
←4.幸運にも「脳神経専門病院」へ搬送される→
4. 幸運にも「脳神経専門病院」へ搬送される
- 私は、ベニスは水路なので救急車ならぬ「モーターボート」で病院へ搬送されました。

- 幸運にも、私が搬送されたのは、北イタリア1~2の脳神経専門病院でした。手術はしなくて、済みました。
- しばらくして、眠ったのか意識が無かったのか分かりませんが、3時間程空白の時間がありました。集中治療室で混濁な意識のまま、最初の一夜がすぎました。
- 明くる朝、加藤会長夫妻、商社の白木さんが来てくれ、脳内出血を起こした事を知らされました。
- 会長から、“子供のためにがんばれ!”と激励され、白木さんからは、“神様が休みをくれたんだから、休みなさい。ただ、おしっこは我慢してはいけない。血圧が上がるから”とアドバイスを受けました。
- それに対して、空元気で軽口をたたいたので、意外と元気だと思ったらしい。
- 今後のスケジュールは、このまま、予定通リにしてくださいと会長夫妻、白木さんに伝えました。このときには言葉は問題なかったようです。
←5.記憶がハッキリしない発症直後の状況→
5. 記憶がハッキリしない発症直後の状況
- 家内が来るまで、北欧に出張に出ていた私の部下の池島さんを急遽ベニスに来るように手配してくれたようです。当時の事は日記も付けてなかったので、はっきりとどういう順序で何が起きたか覚えていません。
- 2,3日後、池島さんがベニスに着いて、私の身の回りの世話をしてくれました。
- 後日談ですが、病院のドクターにカミソリは隠すように言われたそうです。
- 1週間して、家内が到着しました。何日間か2人で世話をしてくれました。2人が居た時、覚えている事は、たびたび左腕が背中の後ろに回ってしまい何処に行ったのか分からない事が何度もありました。
- 池島さんは1週間程、家内は10日程滞在して帰国しました。
- 助かったのは、家内が少しフランス語が話せたので、同室の患者さん達の家族と意思の疎通が図れて、“内の亭主は一寸頭がおかしくなったのよ”と冗談まじりで話し、すっかりうちとけていた事でした。
- 家内がいた最後の頃は食べっぱなしで、便が出ないで、気持ち悪くなったので、彼女が辞書を見ながら浣腸のお願いをしました。兎に角、入院以来、寝たきりで動かないのでこういう問題が起こりました。私にとっては切実な問題でした。本当に気持ちが悪かったです。
- 実際に、浣腸をしてもらったのは、家内が帰ってからでした。
- ボールのような便が沢山出たので驚きました。入院してから2週間近く立っているので当然です。私は気持ち悪かったのでほっとしましたが、6人部屋だったので同室の患者さんには多大な迷惑を掛けたと思います。
←6.眠れぬ後悔の日々→
6. 眠れぬ後悔の日々
家内が帰ってから、どれだけフランクフルトで、何故、病院に行かなかったのかと後悔して、眠れない夜を幾晩過ごしたか分かりません。私は、本態性高血圧症と診断されておりましたが、私の主治医も私も、私が倒れるとは全く考えられなかったようです。
- そんなわけで降圧剤も飲んでいませんでした。
- 状況次第で血圧は、70~80も変化するものだと驚きます。
←7.多くの友人からの見舞い→
7.多くの友人からの見舞い

- 彼女がベニスを離れる頃から、見舞いの花が届き始めました。
- 欧米人はドライなので、仕事からは離れてしまうと音信が亡くなるのではと思っていましたが、親身の励ましが連日のようにあり、ある時期から、世界中から見舞いの花が、手紙・カードとともに次から次に届きました。
- 花の多さは,花の匂いで、同室の老人が夜、息が出来ないと苦情が出て、花を部屋の外に出したり、同室の患者さんの家族に家に持って行ってもらいました。
- ベッドの周りは、花で覆われ、“リオの花園”と呼ばれた程でした。
- 私は風采の上がらない男だし、なぜ、こんなに花が届くのか不思議そうでした。
- これで私はすっかり勇気づけられました。
- みんなも私の問題をシェアーしてくれて,一緒に戦ってくれていると思いました。
- 取引先のCD VIDEOSUONO社のNO.2のRoberto Guerazzi(ロベルトグエラッツィ氏)にはスタッフが私の面倒を見られるように特別な配慮をして頂き、社員の方ばかりでなく、家族や友人にいたるまで、見舞ってくれたり、洗濯等の日常のお世話までして頂きました。
- 彼自身もベニス、ミラノで何度も私を見舞ってくれました。

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- 家内の友人のご主人がイタリア人で、ベニスに友人がいて、洗濯の面倒を見てくれました。
- 家内が患者さんの家族の方と親しくなってくれた御陰で、食事、歯磨き、服薬の度に患者さんの家族の方にすごくお世話頂きました。

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←8.音楽アルバムの制作開始まで→
8. 音楽アルバムの制作開始まで
- 何しろ、寝たきりで、ベッドの上でやれる事は持っていた本“アヘン戦争”とローリング・ストーンズのテープを聴く事くらいでした。
- ある時、白木さんの言葉を思い出し、思い切り休んで仕事をしていたら出来ない事をやろうと思い、応援も沢山もらって少し前向きになれたので、学生時代に夢見ていた自分の曲でアルバムを作ろうという気になりました。
- 早速取引先に他社のキーボードではあるが、持ってきてもらいました。それから、曲の仕上げに没頭しました。時にはあまり一生懸命やったので、血圧が上がってしまいドクターにとめられた事もあった程でした。この時期に、病気の事を忘れる事が出来るものを持てた事はラッキーでした。

←9.病院の事→
9. 病院の事
- 病院は海辺にありました。病室の窓から湾が見えました。
- 私のベッドは窓から一番遠いところにあったのと、寝たきりで、海は私の所からはほとんど見えませんでした。窓が開いた時、海の香りがしました。
脳神経専門の病院で入院費は1日5万円でした。
- 食事は昼と夜はメニューがあり、パスタ、メイン、サラダ,デザートでメインは肉か魚が選べ、パスタも選べました。但し、金曜の夜だけは魚と決まっていました。宗教的な慣習。
- 朝は、簡単で、ミルク入りコーヒーとパン。このコーヒーの香りが漂ってくると朝でした。このコーヒーの中にパンを浸けてくたくたになったパンを毎朝食べるのが楽しみでした。
- 日本と決定的に違うのは、メインの肉や魚ばかりでなく、パスタサラダにも塩や胡椒を沢山かけて美味しくして何しろ沢山食べて元気になれというのがイタリア流。日本の病院の食事はご存知のように味気ない。
- ベニスで入院中は一度も入浴やシャワーはありませんでした。
- そのかわり、毎朝、下半身をお湯で洗ってくれました。結構屈辱的な時でした。
- 毎朝、男の看護士が私の息子を摘んで、“ジャポネーゼ、ピッコロ、ピッコロ”と叫ばれていました。ベッドの上でお湯を掛けてくれ、石鹸で洗ってくれました。
- 体を洗ってくれるのと同時にシーツ交換も同時にしていたようです。
- 実は、シーツの下にゴムのマットが敷いてあリ、お湯の使用は問題ありませんでした。
- この頃の私にはこの事は必要でした。体が不安定で尿器の扱いで失敗が多かったからです。
- 毎朝、何のためだかは分かりませんが、痛い注射がありました。
- ダートゲームの矢を投げるように、30cmの距離から看護婦にお尻に注射器を投げるように射たれていました。
- ベニス入院中で忘れられないのは、造影剤を使っての脳血管撮影でした。
- かまぼこ型の不安定な木のベッドの上で、足の付け根から血管を取り出し、そこから造影剤がシャッターを切るたびに入ります。
- 不安定な木のベッドの上で腰が痛いのと、シャッターを切るたびに、頭の中で星が飛び散るような現象が起き、頭が変になるのではと思いました。結構、長い時間が掛かったと思います。
1.ーベニスに伏すー 42歳の若さで、ヨーロッパで、脳内出血で倒れる! 2..兆候はあった! 3.ホテルの部屋で倒れる! 4.幸運にも「脳神経専門病院」へ搬送される 5.記憶がハッキリしない発症直後の状況 6.眠れぬ後悔の日々 7.多くの友人からの見舞い 8.音楽アルバムの制作開始まで 9.病院の事 10.病院での生活で困ったこと 11.私の体の状態 12.ミラノの病院へ転院;本格的リハビリへ 13.改めて当時を振り返る
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←10.病院での生活で困ったこと→
10. 病院での生活で困ったこと
- 異国に居て、家族とは離れているのだから、問題は沢山あったけれど、日常的な事は、取引先、同室の患者さんたちの家族の方々の助けで、なんとかなりましたが、日本の家族との電話連絡はいつも待たされて忍耐強くなりました。
- 電話をしたいと頼んでも、いつも“ドーポ”といわれて、たいてい翌日に成りました。
- ドーポというのは後での意味。ベニスの人の気質は南スペインの気質と同じで、“アスタマニアーナ”“See you tomorrow”の意味だが、すぐに処理できないで明日という事に成ってしまうらしい。
- 緊急に連絡したいので電話を頼んでいるのに、何時もとんでもない時間待たされました。受けた本人はそれほど気にしていない様子でした。何しろ聞くたびに、”ドーポ“でしたから。
←11.私の体の状態→
11. 私の体の状態
- ベニスでの40日間の入院生活はほとんど寝たきりでした。
- 針で左手足を刺しても全く痛みも感じませんでした。
- いつ頃から感覚が戻ったのかは分かりません。
- 入院して、2週間以内には左足が大雑把に動かせるようになりました。
- その頃から、ベッドの上でのリハビリが始まりました。座っているだけのリハビリでした。座るだけでも大変でしたから。
- 言葉は倒れた日は多少問題があったかもしれないけど、私的には問題があったとは全く思っていませんでした。
- 左手腕は全く動かず、体の後ろに回っていました。
- 寝ているときは特にひどく、左腕がどこに行ったのか分からず、よく探しました。
- 亜脱臼していてそういう状態になっていたのだと思います。痛みはありませんでした。
- 立つ事は出来なかったと思います。移動は全て車椅子で人の手を借りて、ベッドー車椅子間。ベニスでは立った覚えがありません。ベニスの病院はリハビリ設備が無いので、CD社のRafael Silva(ラファエルシルバ氏)は実務的な事、転院の手続、ドクターとのパイプ役、帰国の手続等々一手に引き受けてくれました。ミラノのリハビリの専門病院を探してくれたのも彼でした。かくして私はイタリア一番の整形の病院へ転院する事に成りました。40日経過してミラノの病院へ。
←12.ミラノの病院へ転院;本格的リハビリへ→
12. ミラノの病院へ転院;本格的リハビリへ
- 1)整形専門の病院へ
- 発症から40日後、ベニスの病院から、担架に乗せられ、モーターボートの救急車と普通の救急車でミラノの病院へ搬送されました。
- 整形専門の病院で部屋は2人部屋で電話、テレビ、トイレも付いていました。1日7万円の入院費でした。
- 同室の患者さんはフランコと言いました。英語が話せたので、いろいろ教わりました。
- この病院は保険ではなかなか入れないと言っていました。
- 彼も保険を使ってないと言っていました。
- ドクターはベリストリ、リハビリの先生は女性でマリアグラッツィエ魅力的でした。
- それにアシスタントのパウロのチームでした。

- 3人とも英語が話せたので楽でした。
- ベニスの病院のドクターは、少し英語が話せたものの、滅多に会う事はありませんでした。食事はベニス同様、メニューがありました。内容はベニスより良かったです。

- 入院して、まずしたことは、左腕に添え木をあて、腕だけでなく、指も入る輪もあり、まっすぐに維持した事でした。
- 腕を骨折したような右の写真が残っています。
- ミラノに移ってシャワーが浴びれるようになり、初めての時、上がった後、体温調節が出来ず、ブルブル震えたのを思い出します。
2)ボバース法という英国式リハビリ
- ミラノのリハビリの方法はボバース法という英国式でした。
- ベニスの訓練の先生もボバース法を推薦していました。
- 当時、ヨーロッパでは主流になっていたようだ。スイスの代理店の社長のクルト・トンメンは日本でボバース法を採用している病院を調べてくれ、後に、日本のPTの第一人者である冨田昌夫先生に神奈川リハビリテーション病院で担当して頂けるようになった。
-
*ボバースアプローチとは、イギリスの医師である故カレル・ボバース博士と理学療法士のベルタ・ボバース夫人により開発された治療である。脳や脊髄といった中枢神経系の可塑性を活用し、中枢神経疾患をもつ方々の機能改善をめざす治療である。理学療法士(PT)・作業療法士(OT)・言語聴覚士(ST)も、このボバース概念に基づいた運動療法・日常生活動作訓練・摂食嚥下治療・言語療法を通じて、機能回復、家庭や職場への復帰の援助を入院・外来・訪問リハビリテーションの形態で行なっている病院は日本でも相当数にのぼっている。
- ミラノはCD社がある所で、スタッフ、セールスマンばかリでなく、彼らの家族に至るまで実に多くの人達に見舞ってもらい、土曜日、日曜日は忙しかった。
3)本格的リハビリ開始と私を援助してくれた人々
- リハビリが始まりました。静から動への移行で希望がいっぱいで嬉しかったです。

- まず、ベッドからおりて立つ事からでした。それからすぐに歩行訓練が始まりました。
- 右、左と言って先生が私の背後について足を出す訓練で私は先生が体を密着してくれるのでなんと言って良いのか気持ちよかったです。
- 男が蘇るようで思いがけないインセンティブとなり、進歩は速かったです。
- 先生も以前担当した患者さんを連れてきて、お前も彼のようにすぐに歩けるようになるよと言ってくれ、ものすごい励みに成りました。
- ゆっくりで少しだけ足をひきずってはいましたが、杖なしで歩く姿は当時の私にとっては上等だと思いました。
- やるぞという気持ちになり、すぐに杖をついて歩けるようになりました。
- 主治医のベリストリ先生の特別な計らいで、リハビリの世界的権威者であるボカルディ先生がリハビリのチェックをしてくれました。そんなすごい先生に見てもらえることで、ものすごく勇気づけられました。ベリストリ先生へ感謝です。

- 初めて階段の上に立ったときは本当に恐ろしかったです。
- それでも一段ずつの上り下りが出来るようになりました。
- 歩き始めた最初の頃、パウロは、私が転倒したりするといけないので、トイレに行くときは付き添ってくれました。
- パウロはリハビリの後、マッサージをしてくれたり、キャンティーンにコーヒーを飲みに連れて行ってくれ話し相手になってくれました。
- 私の行動半径も広がり、若い女性患者の友達も出来ました。

- 看護士、特にマリアという看護士と親しくなり、彼女が、英語が苦手でしたので、イタリア語で会話していましたが、何度も聞くうちにいろいろと理解できるようになっていました。
- PIANPIANINO(少しずつの意)という言葉が印象に残っています。私がもっと歩けるようになったら、一杯歩きなさい、そうすると足からの刺激が脳に伝わり機能回復につながるというようなことを言っていたと思います。
- 娘さんが新聞社に勤めていると言っていましたから、私よりは年上であったと思いますが、とても可愛らしい女性で、何時も私を励ましてくれました。
- リハビリで注意された事は、左足を降り出すときに、左の腰を上げないようにでした。
- リハビリの先生、看護士、若い女性患者の存在が私のリハビリの原動力となり、毎日がとても楽しかったです。この病院で頑張って、回復できると同時にイタリア語もマスターしようと大いに張り切っていました。
4)うつ状態と幻聴等の精神的異常状態の発症
- 長期戦も楽しくやって行けると思った矢先に問題が、起こりました。
- 同室のフランコが退院してから、夜中に幻聴が起こるようになり、胸が締め付けられるような気分になり、落ちつかず、リハビリに集中できなくなってきました。
- あまり変な気持ちになるのでドクターに相談したら、きっと、服薬している血圧降下剤は覚醒作用があり、誘眠剤との相反する作用で体がどう対応して良いか混乱してるのだと伝えられ、時には心臓マヒを起こす事もあると言われ、益々憂鬱になりました。薬を変えても、気分は一向に良くなりませんでした。
- 部屋に一人で居るのが怖くて、気分が落ちつかず、もうこのまま家に帰れないとか、子供にも会えないとか悪い事ばかりが頭の中に出てきて、夜になると、誰もいないはずの隣のベッドからいびきが聞こえてきて、眠れません。
- 外を走る車の音さへ、真っ暗な部屋の中でいびきとなって響きます。完璧にノイローゼ状態でした。東京の家やヨーロッパの友人達に絶えず電話せずには居られない状況になりました。リハビリの先生のマリアグラッツィエとパウロは献身的に、私がリハビリを続けられるように励ましてくれました。
- 私が病院にいると精神状態が悪くなる事を知り、マリアグラッツィエは一度私を彼女のアパートに連れて行ってくれ、ディナーをしてくれました。
- ワインも勧めてくれましたが、そのときの私は非常に落ち込んでいて、とても飲む気にはなれませんでした。こんなことは、日本では考えられないことでした。

- CD社のシルバやグェラッツィにも外でディナーをさせてもらいましたが、そのときだけで状態は変わりませんでした。
- そのときの私の状態を後日、語ってくれた人がいます。
- やはりCD社が取引先である、日本のF社の池田さんが出張でミラノに来た時、私の入院を知り、見舞いにきてくれました。
- 彼は私を一目見て元気が無いのが分かったらしいが、それ以上に,驚いた事に、彼は単行本と女性のヌード雑誌で元気つけようと持ってきたのだが、私が全く無反応だったのでこれは重症だと思ったらしい。食事の内容の良いのにも驚いていました。
5)日本への帰国へ
- ギリシャのマノリス ボフィリアキスがミラノに見舞ってくれ、彼の勧めで、東京へ帰る事にしました。
- 私の手を取って、“家族の元に帰った方が良い。神に感謝しなくちゃ”と言われたときは、ジーンときました。

- ミラノで頑張るつもりで居たので、帰る事は全く考えていませんでした。
- 機能回復も充分でなかったので、無理だと思っていました。
- 早速、ドクターに相談して許可をもらいました。
- CD社に頼み一番早い飛行機を探してもらいました。
- 6月10日のアリタリアのファーストクラスしか空きがなく、会社の許可を取り、それを予約してもらいました。
- 私の帰国はマリアグラッツィエやパウロをがっかりさせてしまいましたが、帰国2日前に病院の近くのレストランで誕生会とお別れ会を2人でしてくれました。

- ベルギーのポールコ二ンクスも無謀にも一人で2000キロの距離を運転してミラノに来てくれました。お別れ会に参加しました。
- また、帰国前日の6月9日私の誕生日にCD社のみんながお別れ会を開いてくれました。

- その日の朝、ドイツのマイヤー社から花が届きました。
- グエラッツィ夫妻、シルバ夫妻、フルビオほか大勢の人たちが来てくれました。
- ベルギーのポールも参加しました。新しい出発の意味がこめられていたのか、一本のローソクの灯ったバースデーケーキが用意されていました。
- 6月10日、東京へ向けて出発しました。
- シルバが空港まで送ってくれました。車いすで特別な入り口を通り、飛行機に乗りました。ファーストクラスでしたが、全く楽しめないフライトでした。
- 脳血管に問題が起きないかとか心配ばかりしていました。
- こうして私のミラノの30日は終わりました。
- 薬の問題でリハビリが出来ないときもあったので、非常に効率よくリハビリができ、一人で立つ事も出来なかったベニスのときを思うと随分すぐに歩けるようになったものだと思います。

←13.改めて当時を振り返る→
13. 改めて当時を振り返る
- 社会復帰できた今、当時のベニス、ミラノに於ける生活を振り返ってみたいと思います。
- イタリアでの病院生活で食事やリハビリにおいての、日本人から見れば少し雑な感じもするが、患者に対する前向きな対応も忘れては成らない事だと思います。
- 「食事を美味しくして沢山食べる」「以前担当した患者さんを連れてきて参考例を見せてくれる」とか、「世界的なリハビリの権威ある先生にリハビリを見てもらう」とか等などの配慮は、患者にとって希望が持てるようで、本当にありがたいことであった。
- 家内が10日ほど付き添っていてくれましたが、その後はイタリアの取引先の人たち、病室の患者さんの家族の人たち、多くの友人たちに、代わる代わるお世話になり、また私のくじけそうな気持ちを、多くの仕事を通した、世界中の友人たちに励まされました。
- 欧米人はドライなので、仕事から離れてしまうと、音信はなくなるのでは、と思っていましたが、親身の励ましが連日のようにあり、ある時期から、見舞いの花が、手紙・カードとともに届きました。

- 同室の患者さんたちもあまりにも多くの花が次から次へと届くので驚いていました。
- こういった励ましがあったからこそ、日本へ帰ってから“人生はなるようにしかならないんだから、いつまでもくよくよしたって仕方ない。どこまで回復するかわからないが、「リハビリに全力を尽くそう」という気になれたのだと思います。

1.ーベニスに伏すー 42歳の若さで、ヨーロッパで、脳内出血で倒れる! 2..兆候はあった! 3.ホテルの部屋で倒れる! 4.幸運にも「脳神経専門病院」へ搬送される 5.記憶がハッキリしない発症直後の状況 6.眠れぬ後悔の日々 7.多くの友人からの見舞い 8.音楽アルバムの制作開始まで 9.病院の事 10.病院での生活で困ったこと 11.私の体の状態 12.ミラノの病院へ転院;本格的リハビリへ 13.改めて当時を振り返る
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