1.はじめに 2.ミラノから日本へ 3.東京の病院への入院と私の「リハビリへの願い」 4.リハビリの希望と「元には戻らない」という診断の狭間(はざま)で! 5.入院生活と同病の友人との出会い 6.「同じ苦悩を持つ人々との対話」「多くの体験を知る」ということ 7.作業療法(OT)との出合い 8.ただ歩くということがPT(理学療法士)の全てでした! 9.リハビリの意志の持続を支えてくれた力 10.生きる意味を見つめさせられた出来事 11.ローリングストーンズからの小包と転院の決意 12.ボバース式のリハビリへの願い 13.神奈川リハビリテーション病院でのリハビリの日々 14.真に私を支えてくれた人々への感謝 15.社会復帰へ向けての努力の中で… 16.神奈川リハビリテーション病院からの退院と「リハビリの可能性を伝えてほしい」医療関係者への願い
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―ローリングストーンズからの小包に支えられたリハビリの日々―
←1.はじめに→
1)はじめに
イタリアで薬の事故で、幻聴や鬱状態になり、日本に急遽帰る。
- そのあとリハビリが進歩せず、社会復帰できないのでは、生きていて何の意味があるかと悩んでいたときに届いたイギリスからの小包。
-
ローリングストーンズから。
- それを 機会に転院、リハビリの進歩と回復への軌跡
←2.ミラノから日本へ→
2)ミラノから日本へ
- ミラノを発つ時、主治医のベリストリ先生からは、
- “お前の場合は95%は良くなるよ、5%は何が失われるかは分からないがけど。日本のリハビリは発達しているので、水泳なんかもしてリハビリすれば、100%近く良くなると思うので日本へ帰ったら、頑張れ!”と激励されて送り出してくれました。
- ベリストリ先生の激励に送られての帰国でしたから、大きな期待を持って飛行機に乗り込みました。
初めてでは無かったけれど,滅多に乗れない折角のファーストクラスのフライトでしたが、一滴のワインも飲まず、食事も全く楽しめず、飛行機の音で再発してしまうのではと機内ではずーっと心配していました。
- 無事に成田着。陰鬱な空でした。会社の人が迎えてくれ、世田谷の家に直行。子供たちが不思議な顔をして私の事を見ていました。
- 変わり果てた姿だったので、ショックだったのではと思います。
←3)東京の病院への入院と私の「リハビリへの願い」→
3)東京の病院への入院と私の「リハビリへの願い」
- ボバース式のリハビリを希望していましたので、家内が神奈川リハビリテーション病院の冨田先生には連絡は取る事は出来ましたが、すぐにそこに入院する事は出来ないという事で、とりあえず、東京の病院ということになり、私の家のお隣が眼科でそこの長男の方の紹介で病院が決まっていました。
-
*ボバースアプローチとは、
イギリスの医師である故カレル・ボバース博士と理学療法士のベルタ・ボバース夫人により開発された治療である。
-
脳や脊髄といった中枢神経系の可塑性を活用し、
中枢神経疾患をもつ方々の機能改善をめざす治療である。
-
理学療法(PT)・作業療法(OT)・言語聴覚(ST)も、このボバース概念に基づいた運動療法・日常生活動作訓練・摂食嚥下治療・言語療法を通じて、機能回復、家庭や職場への復帰の援助を入院・外来・訪問リハビリテーションの形態で行なっている病院は日本でも相当数にのぼっている。
←4)リハビリの希望と「元には戻らない」という診断の狭間(はざま)で!→
4)リハビリの希望と「元には戻らない」という診断の狭間(はざま)で!
- 家で昼食をとり、早速、病院へ向かい入院しました。

- リハビリの設備はありましたが,専門ではありませんでした。私の期待値が高かったのか、先生との問診はショックでした。
- イタリアで言われた事からてっきり、リハビリすれば,健常者と同様の回復が出来るものと期待していたので、それは無理だと言われ、この世の終わりのような感じがしました。
- 幸い利き手の右が健在なので日常生活は、そこそこに、出来る様にはなると思うが、左手は補助手になれるかは疑問と言われました。
- こう言う病気では後遺症がある事は分かってはいても、元に戻らないという状態が受け入れがたく、本当にショックでした。
- イタリアから帰ってきて、東京の病院でリハビリをはじめる前、左足首はかなり自由に動かせていました。
- ところが造影剤検査をした後、足首の麻痺が進み、動きが鈍くなりました。
- イタリアでは、バスケットシューズで間に合っていました。
- 造影剤撮影をしてから麻痺がおき、本格的にPTをはじめる前に装具をあつらえました。(正直言って、この事と装具の因果関係があるのか分かりません。)
- 本格的に歩行訓練をしたのは装具ができてからです。
- しかし、東京へ帰って入浴したときに足首の動きは確認していましたので、抗議はしませんでしたが、造影剤撮影のあとの足首の麻痺は非常にショックでした。
- 神奈川リハビリテーション病院へ転院してからも造影剤検査をするといわれましたが、東京での経験があるので断りました。短い期間に何度もする必要も無いとも思いましたので。
入院最初の夜がやってきました。6人部屋でした。
- 私は問診で言われた事で、いきなり、目の前に大きな壁がたった様な気がして、誘眠剤も効果無く、全く眠りにつけず、ついにナースステーションのお世話になりました。
- きれいな看護婦さんが一晩中背中をさすってくれ、リハビリすればきっと良くなるよと言って、励まし続けてくれました。そのときの看護婦さんはまさに“白衣の天使”でした。其の晩の支えは本当に有難かったです。
- リハビリの原点は「希望」であることを、体験的に知って行ったのです。
- 最初の夜こそ、えらく落ち込んでいましたが、イタリアで言われた事を信じていました。
-
『ミラノを発つ時、主治医のベリストリ先生からは、“お前の場合は95%は良くなるよ、5%は何が失われるかは分からないがけど。日本のリハビリは発達しているので、水泳なんかもしてリハビリすれば、100%近く良くなると思うので日本へ帰ったら、頑張れ!”』
-
と激励されて送り出してくれたことを信じていたのです。
-
その言葉が、私のリハビリの原点で有り続けたのです。
信じている医療関係者の持つ言葉の重みと力を再確認しています。
←5)入院生活と同病の友人との出会い→
5)入院生活と同病の友人との出会い

- 6人部屋で、脳卒中の患者が3人、他の病気が3人でした。
- 私がすぐに仲良しに成ったのは脳幹出血で一命を取り留めた今井あきらさんでした。
- お住まいも私の家から近い所でしたのですぐに打ち解けて、話をするようになりました。私が入院した時は水彩画をベッドで描いていました。
- 倒れた時期はほぼ同じでしたが、両手も使えて、バランスの良い回復をされていて、私よりもずーっと良い回復をされていました。

- 俺もああいう風になれるかなと思いました。後遺症も、私のような半身麻痺はなく、本人は私の知らない所でリハビリのご苦労はされたのだと思いますが、強烈にリハビリされている印象はあまりなく、インテリアデザイナーの仕事に就く前に画家を志していたこともあり、絵を描きたいという一念が治癒力を高め、バランスの良い体の回復をされたようでした。
- 倒れた時は脳幹出血なので、命も危うい状況だったと思いますが、治癒力のすごいのに驚き、うらやましかったです。
- 今井さんのしてきた事を聞いて良い事は取り入れようと思いました。
- 早速、朝起きると、今井さんと渡り廊下に行き、先生方、看護婦さんたち、患者さんに至るまで、来る人来る人に“お早うございます”と大声で挨拶をしました。
- この他に、左腕の3種類のストレッチも朝食前の日課でした。

- これは今井さんとは関係のない私の自主トレでした。
- 今井さんは1ヶ月後くらいに退院されました。日常生活は完璧にO.K.でした。先に退院されましたが、今井さんの存在は私の大きな支えでした。
←6)「同じ苦悩を持つ人々との対話と多くの体験を知る」ということ→
6)「同じ苦悩を持つ人々との対話と多くの体験を知る」ということ
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今井さんとの出会いで、改めて「脳卒中」という全く経験のない病に倒れ、心身共に危機的状況に陥った時、同病者の友人を持つことが、どれほど大きな意味を持つものかを知ったのです。
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「ピア・カウンセリング」:アメリカでは、この制度が、定着しています。が、日本では自主グループの中で実施されているに過ぎません。「がん患者」「エイズ患者」などの人々の心を癒してあげるのは、同じ病気の体験者であると言われています。
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日本の医療には、精神的な課題へのピア・カウンセリングの制度は、専門職(ピアカウンセラー)としては、確立していないけれど最近やっと、その重要性を語られるようになりました。
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本ホームページの森山志郎記念館長は、こう述べられたことがあります。
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『自主グループで、発見したことは、「自分の痛み」「自分の悩み」「自分の辛さ」を外部の人に分かって貰えないことが、自主グループの中では、自然に分かり合えるということです。
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そこには大きな「心の平和」が生まれて来ます。
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そこでは、あまり努力しなくても、仲間の中では分かり合えるのです。
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「みんな苦しんでいる仲間なんだ」「苦しんでいるのは私一人ではない」そんな仲間の中で初めて言葉を使う機会が生まれてきます。』
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- 経験のない心身のパニック状態は、健常者には全く理解できないものです。
かって、健常者であった中途障害者は、健常者が決して中途障害者の状況を理解できないことが分かるのです。
- ありきたりの慰めの言葉や無神経な激励の言葉には、強い反発心が生じてきます。表面的な、障害による緩慢な身体の行動は、健常者であったときより、何倍も努力した結果であることが多いのです。
- その様なとき、同病の友人の言葉には、素直になって行く自分を発見していきました。
- 今井さんに入院中に描いて頂いた水彩画を大切にしています。
←7)作業療法(OT)との出合い→
7)作業療法(OT)との出合い
- イタリアでは特に作業療法(OT)はなかったので、東京に帰り、初めて作業療法(OT)を受けました。作業療法(OT)の先生は特にストレッチをするように言いました。
- 毎回、コブラツイストのような体勢で体全体のストレッチがありました。
- これが、涙が出るくらい痛かったです。
- 私にはこれが最も大切だと言って我慢しろと言われ、これは本当に痛くてお年寄りだったら間違いなく出来ない痛さでした。
- 作業療法(OT)はもっぱらストレッチでした。今にして思えば、筋肉が硬直する一歩手前でこれが出来た事は幸いだったのではと思います。
- ベッドでも、左腕に体重をかけると、腕と指先までまっすぐになる運動をしました。これは自主トレで、痛いけれど我慢して毎日続けました。
←8)ただ歩くということがPT(理学療法)の全てでした!→
8)ただ歩くということがPT(理学療法)の全てでした!
- PT(理学療法)では、ひたすら杖をついて、歩行訓練をしていました。
- 歩く事が基本なので、懸命に狭いPTの室内を何周も何周も、コツコツ杖をついて回るので、手がしびれました。
- 膝がロックしてしまうので5−10度の角度で膝を調整するように言われましたが、どうしても出来ませんでした。
- 歩く姿も、ミラノの先生にも注意を受けていたが、緊張が高まって、左足を振り出す時にどうしても腰を上げてしまうのが顕著に起こりシーソーのような格好でどうしようもない歩き方でした。
- 技術部の人が奥さん同伴で見舞いにきて私のリハビリを見た時、“正直、あのときは高橋さんも終わりだと思った”と、後日話してくれた程、ひどかったです。
- 毎朝、回診があり、先生方がいつも「形成(緊張)が強まってきている」と言っていました。確かに歩行時には、手が顎の所まで来ていました。
- 緊張というのは、簡単に言うと、高い崖の縁に立つと、すくんで手が内側に曲がってしまう様な状況が恒常的に続くことを想像して下さい。
←9)リハビリの意志の持続を支えてくれた力→
9)リハビリの意志の持続を支えてくれた力
- 東京の病院に転院してからも、海外から花や手紙、カードの激励が届き、見舞いも会長の奥さんをはじめ、会社の人ばかりでなく、乙仲の人にいたるまで来て頂き、極めつけは、台湾のバーナードチャンは 私のお気に入りのカラオケクラブのママを伴い来てくれました。
- 正直、東京でのリハビリは進歩が無く、焦りが出始めていましたが,こうした激励の御陰でかろうじてテンションが保てていました。
- 入院して1月立っても、一向に進歩はありませんでした。
- ちょうど七夕のときに、家内が、3男が幼稚園で七夕の短冊に“早くお父さんが良くなって、一緒に走りたい”と書いたと報告してくれました。

- 子供の言葉に涙して、頑張らなくてはとリハビリに励みましたが、この頃からこんな進歩の無い状態で社会復帰できるのかと不安が募ってきました。
1.はじめに 2.ミラノから日本へ 3.東京の病院への入院と私の「リハビリへの願い」 4.リハビリの希望と「元には戻らない」という診断の狭間(はざま)で! 5.入院生活と同病の友人との出会い 6.「同じ苦悩を持つ人々との対話」「多くの体験を知る」ということ 7.作業療法(OT)との出合い 8.ただ歩くということがPT(理学療法士)の全てでした! 9.リハビリの意志の持続を支えてくれた力 10.生きる意味を見つめさせられた出来事 11.ローリングストーンズからの小包と転院の決意 12.ボバース式のリハビリへの願い 13.神奈川リハビリテーション病院でのリハビリの日々 14.真に私を支えてくれた人々への感謝 15.社会復帰へ向けての努力の中で… 16.神奈川リハビリテーション病院からの退院と「リハビリの可能性を伝えてほしい」医療関係者への願い
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←10)生きる意味を見つめさせられた出来事→
10)生きる意味を見つめさせられた出来事
- 何度となく、病院の屋上に上がり、社会復帰もできないで生きている意味は何なのかと考えました。
- また、その頃、私の隣のベッドの80歳近い男性がリストカットをして、命には問題ありませんでしたが、みんな同じように重い問題を抱えているので、部屋の全員がすごく落ち込みました。
- 直後、この老人に若い彼女がいることがわかり、若い彼女がいるのに何故、頑張れないんだろうと思い、余計に落ち込みました。
←11)ローリングストーンズからの小包と転院の決意→
11)ローリングストーンズからの小包と転院の決意
- ちょうどその頃、英国から小包が届きました。中を開けると、なんと、
ローリングストーンズから
でした。


- もちろん、KBDのチャックの心遣いです。90年、ストーンズの最初の日本公演での、チャックとのリハーサルの時の写真が残っています。このリハーサルの1ヶ月後、私は倒れたのです。
- 小包の中には、ヨーロッパのツアープログラムにミックジャガー初め全員が“早く良くなれよ”のメッセージと共にサインしてあり、帽子、Tシャツ、バッジが入っていました。
- 世界のスーパースターからこんな贈り物がくるなんて、全く信じられませんでした。リハビリで成果があがらず、社会復帰も難しいのではと,絶望していた時だったので、本当にうれしかったです。
- すっかり気を良くして、進歩の無い現状を打破するには、環境を変える事だと思い、丹沢の麓にある神奈川リハビリテーション病院への転院願いをだしました。
←12)ボバース式のリハビリへの願い→
12)ボバース式のリハビリへの願い
- 東京の病院にいた間、低気圧が近づくと体が変にジンジンして、雨が降るのが分かりました。お天気おじさんになれたかもしれません。
- 体が弱い間は自然と体が防衛反応して、危険を察知するのかと思いました。
- 同室の方で、タクシーの運転手をされている方がいて、私に、鋭くて良い眼をしているので、高橋さんはきっと良くなるよと言ってくれた時はうれしかったです。
しかし、私はどうしても、ボバース式のリハビリと冨田先生にリハビリを見て頂きたかったのです。
- 東京の先生には悪いなとは思いましたが、聞いてみたら、冨田先生は有名で100人以上の患者を担当しているので、不可能と言われました。
- 諦めきれず、兎に角トライと思いました。
- 神奈川リハビリテーション病院に、空きがなく、なかなか順番が来ませんでした。8月の初めにやっと転院が出来ました。家内に車で送ってもらいました。
- 病院に着いた時、ある種の直感がありました。
- ここの太陽と山の緑の気をもらえば何とかなりそうだと思いました。
- 病院に着いて、早速、冨田先生にお会いして担当の交渉をしました。東京では無理だと言われていましたが、幸い、快く引き受けてくれました。私がイタリアにいるときから家内が連絡を取っていたのを覚えていてくれた様です。
←13)神奈川リハビリテーション病院でのリハビリの日々→
13)神奈川リハビリテーション病院でのリハビリの日々
- PT(理学療法),OT(作業療法)室も大きく設備も充実しており、体育館やプールもあり、太陽と山の緑と、自分が描いたリハビリが出来る環境が整ったと思い、大きな希望が、持てました。

- いよいよ、冨田先生とのリハビリが始まりました。
- まず、私の体の状態を測定して、メニューが出来ました。
- PT(理学療法),OT(作業療法)、体育の3種類をする事になりました。
- 冨田先生とのリハビリで、左腕が真っ直ぐに伸びています。
- PT(理学療法)ですが,歩行訓練というより、使われていなかった筋肉への刺激をしたのか、ボールの上に座ったり、寝た体勢でボールに足を乗せたり、の運動が初めでした。
そんな事をしているうちに、1週間かからないで、杖なしでも歩けるようになりました。すぐに冨田先生に、1日10キロ歩く提案をして、やってみろという事で、400メートルある中庭を毎日25週歩く事にしました。
- これは自主トレで、昼食後、夕方まで、 炎天下ローリングストーンズのT-シャツを汗びっしょりにして毎日歩きました。

- 同時に、東京の病院にいたときからしていた、左腕と左手のストレッチを毎食事前に3,000回ずつ、1日9,000回以上 ベッドで実施しました。
- この他に通常の訓練をPT、OT、体育とやり、朝夕病院の周りの散歩訓練コースを患者仲間と歩きました。当時の心境は子供も小さかったので、社会復帰は必ず果たさなければ成らず、“やるっきゃない”という気持ちでした。
- 歩行訓練は十分距離を自主トレで歩いていたので、PT(理学療法)では主に、腹筋の強化、ボールを使った運動、縄跳び等をやりました。
OT(作業療法)は特にした事は、覚えておらず、お手玉を、ソフトボールを投げるように投げる事くらいしか印象に残っていません。
- 最初のうちは玉が手から離れずに前に行きませんでしたが、徐々に力が抜けて、前に投げられるように成りました。お手玉投げは緊張を取るのに役に立ちました。OTの先生もあまり何もしてないのに私が回復するので自然治癒力はすごいと言っていました。
- 体育では、体育館でサッカー、卓球、キャッチボール(ボールの捕球は右手にグローブをして、投げるのは右手)等をしました。プールで泳ぎました。
- 平泳ぎだけど、泳げたのでうれしかったです。
←14)真に私を支えてくれた人々への感謝→
14)真に私を支えてくれた人々への感謝
- 其れから高橋さんの奥さんはすごく厳しいねと言っていました。
- それは最初に面接したときの印象です。私の家内は甘い顔をすると私が甘えるので、早く一本立ち出来るようにOT(作業療法)の先生は女性だったので、厳しい訓練を頼んだのだと思います。
- じっさいにはOTとしてはそれほどいろいろとはしませんでした。
- 退院して後に社会復帰と一本立ちが出来たときに、離婚されてしまいましたが、リハビリは本人がするもので、このときに自分に厳しい気持ちを持てたのには感謝しています。
- そういう意味で、今日私があるのは、彼女の御陰だとも言えます。
- 弟の以前の仕事の同僚が理学療法士になって、神奈川リハビリテーション病院の上にある七沢病院のPT(理学療法)で働いていました。
- なんとこの先生が冨田先生の手伝いをしていました。
- 冨田先生の本の執筆の時等ですが。額谷先生です。
- 額谷先生は、私の自主トレのときに立ち会ってくれ、私にとって、すごく大切な事を教えてくれました。
- 東京の病院で言われた緊張の強まりで、歩き始めた当初、左腕が顎の所まで上がっていました。額谷先生はそういうふうになったら、立ち止まって、下を向いて息を吐き左腕がまっすぐになる事が確認出来れば問題ないと教えてくれました。繰り返し、繰り返しこれをやりました。
最初のうちは、歩き出すとすぐに腕が上がって、その度に立ち止まって、息吐きをしていたのでなかなか前に進みませんでした。
- 繰り返しやっているうちに腕があがるまでの距離が伸びていきました。
- それでも、入院中は腕が上に上がる事はなくなりませんでした。
- 実際に左腕の力を入れたり抜いたりできるようになったのは、退院してから2年以上も立ってからです。
- 冨田先生は私が失敗しないようにPT(理学療法)で絶えず私の体のバランスをチェックしてくれました。
- 電柱を見て、体が真っ直ぐになっているか確認することとか、臀部にちゃんと力が入るように刺激をくれたりしました。
- 入院した時、前にジャンプできなかったのが,退院時には30センチ程前に飛ぶ事が出来るようになっていました。
←15)社会復帰へ向けての努力の中で…→
15)社会復帰へ向けての努力の中で…
- 神奈川リハビリテーション病院に入院してからは、ほとんど見舞いはありませんでした。家族は一回も来ませんでした。
- その代わり、歩きがしっかりしてからは、私は外泊で週末には家に帰っていました。海外営業部の人が一度だけ団体で来てくれました。其のときのみんなの感想は私があんなに早く社会復帰できるとは思わなかったそうです。
また、池島さんが、イタリアのミケーレとアメリカのジャックを伴い、見舞ってくれて、其のときに、みんなで、近くの七沢温泉に行きました。
- 温泉に入れたのだから、体はかなりしっかりしていたはずです。
- そこは露天風呂で、足場は良くない浴場でした。
加藤会長の計らいで、神奈川リハビリテーション病院に入院中ではあったが、外泊時に、キース・エマーソン(当時、キーボードの演奏者として世界ナンバーワンの人気と実力で、キーボードを志す人達のあこがれ的存在であった。)と会食できたのはうれしい事でした。
-
9月2日のSt. Petersburgでのコンサートの模様
-
Eugene Starsev 撮影
-
ホームページ:
http://www.keithemerson.com/
-
”キース、64歳でまだ健在!”
- 神奈川リハビリテーション病院に移ってからは、毎日が充実していて誘眠剤なしで眠れました。
- 蔭で、何故、高橋さんはあんなに焦ってリハビリをするのかと、陰口もささやかれてもいましたが、誰も代わってはくれないのだから気にしませんでした。
- 私のリハビリに対する本当の気持ちは“あせらず、あせって、あきらめず!”が一番的を得た言い方だと思います。一生懸命に訓練した御陰で今でもお付き合いさせて頂いている多くの友達が出来ました。
- 正直言って、それまでの人生であんなに努力したことはありませんでした。
←16)神奈川リハビリテーション病院からの退院と・・・→
16)神奈川リハビリテーション病院からの退院と
「リハビリの可能性を伝えてほしい」医療関係者への願い
- ‘90年10月1日に神奈川リハビリテーション病院退院。
- ベニスでの入院以来、半年に及ぶ入院生活でした。
- 退院時、左足には装具が着いていました。歩くと左腕が上がりました。
- 自分の描いていた姿とは程遠いものでしたが、とりあえず、自分の力で歩けるのだから、まあ、いいかというところでした。
- 入院生活を振り返って、自由にならない自分の体に失望し、幾度となく、“俺の人生もこれで終わりか”と思いがちでしたが、入院生活で仕事の現場から離れているにも拘わらず、世界中の仕事を通じた友人たちから、花束や励ましの手紙やカードが届いたりお見舞いをして頂き、時にはくじけそうになる気持ちを支えてもらい、何とか闘病生活ができたことは、感謝にたえず、幸運だったと思います。

-
イタリアでの、絶えず、前向きな先生方の励ましは、リハビリの動機付けに大きく役に立ったと思います。
- 日本の先生方はまじめなので、確かに、個々脳卒中は後遺症の程度によっても大きく左右されるので分からないというのは正直なところだけども、患者に希望を持たせる事はとても大切な事だと思います。
- リハビリが回復に向けてのトリガーに成るのは間違いない事なので、動機付けをいかにするか大切な事だと思います。
- 私の場合、いくつかの幸運なアドバイスや支えがありました。
- 1. イタリアの看護婦マリアの“兎に角歩け”です。
- 歩くと良い刺激が足から脳に上がって機能回復につながる。
- 2. 東京のOTの先生のストレッチのすすめ。
- 3. 七沢病院の額谷先生から指導された緊張の抜き方。
- 4. 陰口をささやかれる程の過度の自主トレ(10キロ歩行)を、私が失敗しないように支えて
- 上記が出来たのも全て、イタリアのリハビリの先生マリアグラッツイエと主治医のベリストリ先生があの手この手でリハビリの動機付けをくれた御陰だと思っています。アシスタントの、パウロもでした。

1.はじめに 2.ミラノから日本へ 3.東京の病院への入院と私の「リハビリへの願い」 4.リハビリの希望と「元には戻らない」という診断の狭間(はざま)で! 5.入院生活と同病の友人との出会い 6.「同じ苦悩を持つ人々との対話」「多くの体験を知る」ということ 7.作業療法(OT)との出合い 8.ただ歩くということがPT(理学療法士)の全てでした! 9.リハビリの意志の持続を支えてくれた力 10.生きる意味を見つめさせられた出来事 11.ローリングストーンズからの小包と転院の決意 12.ボバース式のリハビリへの願い 13.神奈川リハビリテーション病院でのリハビリの日々 14.真に私を支えてくれた人々への感謝 15.社会復帰へ向けての努力の中で… 16.神奈川リハビリテーション病院からの退院と「リハビリの可能性を伝えてほしい」医療関係者への願い
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