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1)はじめに:退院と社会復帰へ

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90年10月1日に、神奈川リハビリテーション病院から退院しました。
- 出来るだけ健常者に近い回復を目指していたので、これからが本当の勝負だと思いました。
- 家内も仕事をしていたので、経済的には心配はありませんでした。
- 更に幸いな事に、会社の方も、加藤会長の計らいで、“いつ来て、いつ帰っても良いから、とに角、ファックスだけは読みに来い”と言われ、すぐ出社できるようになりました。
- 私はリハビリも兼ねて、片道4キロ往復で8キロの道のりを歩く事にしました。会社に着く頃には小汗もかき、ちょうど良い訓練でした。
- 10時頃に会社に着き、仕事は基本的にはしばらくはファックスを読む以外はしませんでした。会社の好意で給料も普通に頂き、午前中には家に戻っていましたから、申し訳ない気持ちはありましたが、まず、もっともっと体を回復させ、元のように元気になって働きたいという気持ちが、すごく強く私の気持ちを支配していました。
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2)退院後のリハビリ
- 家に戻り、昼食を済ませ、午後は砧公園までこれも往復8キロを歩きました。歩行訓練の他に、毎食事前に病院でしていた左腕のストレッチを3,000回ずつしました。
- 起床すると、朝風呂に入りました。
- 血流が良くなる気がしたので毎朝入りました。
- 何となく体の動きが良くなるような気がしました。
- 風呂から出て、ストレッチ3,000回して朝食。
- 歩き出す前に、病院でしていた3種のストレッチに加え、スクワット、バットの素振りをしてそれから会社へ向かいました。

- バットの素振りは体を回転させる事が良いと言われ、取り入れました。
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3)「ビールと食事」:「運転と障害者手帳」
- 病院で酒は飲んで適量ならも良いと言われ、夕食の時はビールのグラスを左手で持って飲む訓練をしました。
- 飲みたい一心でなんとかグラスを左手に取って飲めました。
- ご飯茶碗も左手に乗せて食べる練習をしました。このように、退院後の生活はすべてリハビリでした。よく茶碗が手から転げ落ちました。
- ビールはこういう事は一切ありませんでした。
- 退院後、まもなくして、病院へ行く用事があり、自分で運転して、車で行きました。幸い私の家は東名高速の入り口から10分くらいなので、病院のある厚木インターまでは東名高速に入ってからは30分でした。
- 難なく、病院まで運転できました。そのとき、運転は良いリハビリになると思いました。左手でもハンドルを握って、ギアチェンジをしたり、視覚的にも、前後左右に目を配れば、同時に神経的にも良い訓練だと思いました。
- 早速、念の為、小金井の運転試験所に行き、チェックを受けました。
- とても感じの良い人で、“ギアチェンジ出来そうだなあ”って言ってくれたが、私が、咄嗟には出来ませんと言ったことで、“オートマ限定”になったが、別れ際に、「リハビリ頑張れば、今度来る時には“オートマ限定”がなくなるよ。」と言ってくれた言葉が嬉しかった。
- 障害を得た者にとって、小さな事であっても、少しでも前向きに評価してくれる言葉は、ありがたいものです。
- 家内も仕事で車を使っていたので、障害手帳ももらえたし、退院1ヶ月後に手帳を利用して、思い切って、車を買う事にしました。
- 私の手帳は障害程度2級で旅客運賃等は1種です。
- 低利で東京都からお金が借りられました。
- これで自分の自由にできる車が持てました。
- 2リッターのマークツーを買いました。いつものディーラーだったので、下取りが無くてもかなり値引きをして貰い助かりました。
- 週一で病院の方へも訓練に行きましたので、車は便利だし、また、リハビリにもなりました。障害手帳で高速料金は半額でした。これは大いに助かりました。ガソリンの補助もありましたが、少しだったので、使いませんでした。
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4)リハビリの種々相

- 病院へ行った時は、晩秋の丹沢は気持ちよく病院の周りを2時間歩き、病院で自転車こぎを30分やり、しっかり汗をかき、冨田先生のチェックも受けました。
- 次男が、野球が好きだったので3男もつれて一緒にバッティングセンターに行き始めました。
- 日曜日には世田谷の福祉センターのプールで泳いでいました。
- 週の半ばにもセンターの施設でマット運動等の運動をしました。
- これが当時の私が実行していた訓練のメニューでした。
- 兎に角、病院にいた時よりも、よい状態に成りたいという一念で必死でした。今思うと、かなりハードなリハビリをやっていました。
- それでも、それほど疲れたという感じはありませんでした。
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5)CD制作の準備

- 訓練以外の時は、家でCD制作の準備を始めました。
- 曲を完成させて、楽譜に書いて、デモテープ作りに励みました。
- いろいろな人達へ協力を呼びかけました。
- まず、青山のブランベックの猪俣さんにCDの構想を話しました。彼が全面協力してくれると言ってくれました。
- CDのデザイン、ジャケットのデザイン等をお願いしました。
- 音楽も楽譜とデモテープと共にこちらの要望を書いて、海外のデモンストレーターに送り、編曲と演奏を頼みDATに録音して送ってもらう事にしました。
- アメリカ3人、ドイツ2人、フランス、カナダ、デンマーク、イタリアそれに日本人1人です。
- 全員が手弁当で快く引き受けてくれ本当に有難かったです。
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6)退院後初めての仕事
「ビリージョエルとコンサート」
- そうこうしているうちに90年の年末近くなった時に、USのマイクコビンズからビリージョエルが東京でコンサートするのでフォローアップの依頼が来て、私に退院後初めて仕事が回ってきました。
- 加藤会長とのディナーをセットアップすることになり、ビリー側からはバンドとステージクルーも併せて総勢26人でしたので、正月の日程だったので営業している所が少なくて、場所選びが大変でした。六本木の高級炉端焼きにしました。
- プロモーターが全員をお店まで連れてきてくれました。ビリー初め全員がそこの料理を気に入ってくれてものすごく楽しんでくれました。我々は店の一角を貸し切る形で占領していましたが、個室でないので、ビリーがいる事に気付いてサインを求めるお客さんもいました。
- なぜかは憶えていませんが、私が、ビリーを私の車でホテルまで送る事になり、六本木の細い通りをゆっくり走っている時に、ビリージョエルだと叫んだ人がいましたが高級外車でなかったので、似ているとは思ったが、深追いはありませんでした。
- 赤坂までの短い距離でしたが、とても有意義でした。
- 彼は何故、ステージクルーまで含めてお願いしたかという説明をしてくれました。自分のステージクルーは世界一で、彼らの御陰で自分は良いステージが出来るんだと言っていました。
- 私は自分に自信があるのだなと思いました。
- さすが世界のスパースターだと思いました。
- 俺たち一般人は、飲みに行くと、人の粗探しをして、あいつより俺の方が上だなんて自分自身を持ち上げる傾向があります。恥ずかしいですが。
- また、ビリーは下積みが長く苦労しているから人柄がよいのかなとも思いました。
- それにしても,VIPを私の車に乗せるなんてなんと無謀な事をしたと思います。その後、横浜アリーナでのコンサートに沢山の招待をもらい、家内もビリーが好きなので一緒に行きました。家内にビリーとのツーショットを頼みましたが、残念な事にボケていて、CDには使えませんでした。
←7)画家 今井さんとの親交を深める→
7)画家 今井さんとの親交を深める
- ビリージョエルが終わり、91年の初めは、私はリハビリに専念しました。
- 歩けば歩く程、体の状態が良くなって来ている実感が時たまあるようになりました。
- 東京へ戻ってきて、初めての日本で入院した時、私がすぐに仲良しになったのは脳幹出血で一命を取り留めた今井あきらさんでした。
- その今井さんのお宅が私の砧公園への訓練道の途中にあるので、よくお邪魔しました。今井さんは既に画家としてのスターとを切っており、フル活動されていました。
- 91年の4月に初めての個展を世田谷のケヤキ美術館で開催しました。
- 油絵も本格的に始めて、今までの仕事を断ち切って、新しい事に挑戦されているので、すごいと思いました。
- 今井さんは5月には内部疾患では初めての労災認定を受け、テレビや新聞で取り上げられました。当時は内部疾患の労災認定は非常に難しかったのです。
- その後今井さんは精力的に日本国内だけでなく英国にもスケッチ旅行をされ,多くの作品を残しています。
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8)退院後初めての海外旅行へ
その頃にカラオケママを伴って東京の病院に見舞いにきてくれた、台湾のバーナードチャンがロスに家を買ったので遊びに来ないかと誘われ、1週間有休を取って、ロスに行く事にしました。
- 退院後、初めての海外です。マレーシア航空の安いチケットを買って行きました。
CDの最初の曲が仕上がってきたので、ロスに持って行き、飛行機の中で聞きました。感激でした。
- 滞在中、ユニバーサルスタジオ、雪山、住宅展示場に行ったりしました。
- ユニバーサルスタジオに行った時の写真を見て下さい。
- 歩かなければ、健常者に見えるかも。
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9)発症後初めての海外出張
- 体力も回復してきて、いよいよ私の初めての海外出張の時が近づいてきました。オセアニア,東南アジアに担当が代わり8月に、初めての出張をしました。会社も私の体を心配して、行くまでが大変でした。医者の検査を受け診断書を取ったりしました。
JALのG. CLUBのメンバーだったので、ニュージーランドのオークランドまでビジネスからファーストクラスにアップグレードしてくれ、発症後初めての仕事のフライトは快適でした。
- 充分に楽しみました。
- イタリアから東京へ戻る時の再発への不安を感じたあの日のことを思い出しながら、しみじみとした感慨を感じていました。
- 隣の席の富山の十全化学の役員の方と知り合いになり、今でも年賀状の交換をしています。
- オークランドだけでなく、駆け足ではあったが、ウエリントンやクライストチャーチにも行きました。
- ウエリントンの丘の上に散在する家の景色はきれいでした。
- その後オーストラリアからインドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、香港を回り2週間の出張でした。
- どの国も私の復帰を喜んでくれ、歓待してくれました。

- 復帰するまで、一気に負荷をかけないで、10 ヶ月あまり仕事の方もリハビリ期間をもらいゆっくりテイクオフできたのは幸いでした。
- 会社の配慮に、非常に感謝でした。
←10)「チャックがジョージハリソンとエリッククラプトン」と来日。→
10)「チャックがジョージハリソンとエリッククラプトン」と来日。
夢の競演が日本で実現!
- 91年の年末に、チャックがジョージハリソンとエリッククラプトンと共に日本に来る事になりました。最初のコンサートの日、日曜日だったと思いますが、家にチャックから電話があり、キーボードを依頼され、企画室のアサンに連絡を取り、横浜アリーナに急遽持って行きました。
- そこで初めて、ビートルズのメンバーに会う事が出来ました。
- チャックがジョージを紹介してくれ握手しました。
- 温かい手の感触を今でも憶えています。悔やまれるのは、写真を撮らなかった事です。そのあと、東京の公演もあるのでと思っていましたが、チャンスはありませんでした。
- その晩は、座席券がもらえず、ステージの袖の機材入れの箱に座って公演を聴きました。時代のトレンドが変わり、ギターバンドにもキーボードが使われるようになり、ビートルズやストーンズといった、高校時代のヒーローに会えることが出来、本当に嬉しかった。
-
チャック(chuckleavell)のホームページ:
http://www.chuckleavell.com/

←11)2年半の時を経てCDが完成!→
11)2年半の時を経てCDが完成!
- 92年はCDを完成させました。
- 曲も全員が何度も直してくれ真剣に仕上げてくれました。
- まず、入院生活から退院後の“静”から“動”への“The Smell Of Spring”を表現したくて、春の初めに、菜の花畑を丹沢で撮影しました。

ホームページ:
http://www.keithemerson.com/
”キース、64歳でまだ健在!”:
- 小冊子に入れる文章は3ヶ月掛かり書き上げました。
- 写真も全て私が用意しました。
- 仕上がったテープのマスター制作は大学時代の友人がワーナーに勤めており助けてもらいました。
デザインやレイアウト関係は、全てブランベックの猪俣さんが引き受けてくれ、3月にCD制作会社にパッケージ出来たので、1,000枚注文しました。
- 5月に待望のCDが届きました。
- 私のメロディーだけがアマチュアでしたが、 あとは全てプロ仕上げで完成しました。CDが家に届いた時の感慨は言葉には表せません。
- 自分が企画した物が形に成るのは格別です。
- また、このCD“THANKS TO YOU”にはいろんな思い入れが詰まっていますから、私でないと分からないかもしれません。
- ベニスの病床で考えついて、多くの人達の手弁当の協力を得て完成まで2年半掛かりましたが、本当にありがとうです。
- 早速、会社の人達や、入院中お見舞い頂いた方々にCDを差し上げたり、海外にも発送しました。東京の病院の先生方にもCDを届けました。
- 主治医の先生2人は私の状態を見て、驚いて奇跡だと言いました。
- 自分自身でも回復できたなと思っていたので、先生の言葉は、大きな自信につながり、心からの喜びを感じました。本当に嬉しかった。

完成したCD
←12)子どもに支えられた日々→
12)子どもに支えられた日々
子供たちともリハビリを兼ね、休みの日には、いろいろな所によく行きました。
- 近所では、巨人軍の練習所の側で野球をした時の次男と3男の私の気にいっている写真です。次男がピッチャーやって、私が打ちました。
- かなり遠くまで飛び、次男が、“お父さん、もう、病気じゃないんじゃない!”と言ったのが印象的でした。
- 子供乍らにうまいことを言うなと思いました。

- 5月に、長男と3男を連れて、高尾山に登りました。
- どのコースを歩いたかは憶えていませんが、かなりの勾配を登ったり、降りたりしました。
- 今ではとても無理ですが。
- その後、7月に次男と3男を連れ、越後湯沢、8月には3人を連れ外房の一宮、また丹沢へも釣りにいずれも私が運転して行きました。
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←13)中国出張の思い出→
13)中国出張の思い出
- 出張にも夏から初冬にかけて中国が多かったですがよく出かけました。
- 広州、深圳、上海、北京には開発される前に行きましたので今とは全然違います。
- 郷愁を誘う写真が残っています。
- ① 広州 ―当時はスラム街もあった





- ⑥ 蘇州と桂林にも行きました。観光地ですので週末を利用して行きました。桂林には香港から飛行機
- で行きました。蘇州には上海に行った際に、列車で行きました。

- ちょうどその頃に、モーパッサンの“大地”を読んだ後だったので、桂林に行った時、漓江の川下りをするところ騙されて川上りをして長い間船の上から、川の両岸の景色を見て、私には有名な山水の景色より農民の仕事をしている姿や牛が川の中で水草を食べている様が本の中の光景と重なって心に残っています。勿論あの独特な山水の景色も良かったです。


←14)CDの完成と新たな「出会い→
14)CDの完成と新たな「出会い」
- 11月に遅くなりましたが、お世話になっている世田谷の福祉センターの課長さんにCDを届けました。
- それが区長の大場さんの所に行き、すぐによい話だからと広報の人に取材命令が出ました。
- 早速広報の方が家に来て、初めて取材を受ける事になりました。
- 家内がお茶をだしてから、子供たちも隣の部屋で興味しんしんと聞き入っていました。そして、東京のメジャー紙全部の都民版に私の記事が載りました。初めてでした。CDが出来た時だったら、もっとインパクトは大きかったと言われましたが、当時、そのような事は全く意識していませんでした。
- 公に記録が残るのはうれしかったです。
新聞にでたことで、3つの出会いがありました。
- 八王子の落合さんという左麻痺の方から手紙を頂き、八王子でお会いしました。その人もガッツのある人で富士山に登られたようです。
- 落合さんは地元出身の演歌歌手真木ことみさんの後援会長をされており、コンサートに誘って頂きました。
- 長男を連れて行きました。
- (真木ことみさんは、デビューしたばかりでしたが、今ではNHK TVの歌謡番組によく出演されていて、うれしく思います。)
- 小さなコンサートでその時に、松葉杖の世田谷の三宿から来ているファンの方と知り合いました。
- 私は彼を伴い楽屋へ行き、真木さんに対面してもらうことが出来ました。
- 非常に喜んで頂いて、それ以来、仲良くなりました。
- その方は、柳沢さんと言い、両足に障害を持っていましたが、高級額縁の製造販売をされていました。大変なご苦労をされて独立されたようです。
- 修業時代は、他のお弟子さんたちと同じ様にトイレ掃除等の雑用も不自由な体でされ技術を習得されたようです。
- 額縁に彫刻するのだから手先はものすごく器用だったのだと思います。
- 私は、生まれながらに障害を負った方が自立するのは、俺なんかの比じゃないと思いました。
- 自分の場合、健常だった時からの仕事のベースがあったから自立出来たけど、生まれた時から障害持ってゼロから自立出来るかといえばNOです。
- 想像を絶します。
- 彼のお宅にお邪魔する度にものすごく歓待してくれましたが、一度、浅草にうまい天ぷらやがあるから行こうというので、彼の車で行きました。
- 特別な店ではなかったが、彼のなじみの店でおいしかったです。
- スカイラインに乗っていました。改造車ですが、ハンドルさばきも見事で、スピードもかなりだして私の運転より速かったです。

- 彼の勧めで近所にある”ハンズ世田谷“という障害者を支援する所の介助会員になるように言われました。柳沢さんはそこの介助される会員の第一号だそうです。
- 仕事があったので、土曜、日曜の時間のある時に最初は主に軽い人の搬送のお手伝いをさせてもらいました。
- 柳沢さんのお蔭でいろいろな障害を抱えている方々のお手伝いをして、24時間介助が必要な人もいることも知り、自分の大変さなんかたいした事ではないと思いました。
- 昔はもっと閉鎖的で隔離された生活を長い間、強いられてきたというような話も伺い、そのようなご苦労は、我々には想像を絶する堪え難いものだと思います。
←15)CDに歌詞を載せて熊本の山村へ!→
15)CDに歌詞を載せて熊本の山村へ!
- もう一つの出会いは、朝日新聞に、私のCDの曲に歌詞を書いてくださいという記事が載り、東京のOLの田中明花さんから手紙をもらいました。
- ちょうどその頃、熊本の大学時代の友人から山村留学を応援するような歌を作ってくれと依頼され、田中明花さんと一緒に作ろうという事になり、彼女はイメージを求め、熊本の友人の所に飛んでくれました。

- 私はCDの中から合う曲を決めていました。
- 彼女もその曲に合わせて歌詞を考えるということで現地に飛んでくれました。
- その曲を小学校の卒業式で歌うというので、私はキーボードで伴奏を考えていました。
- 彼女は言葉を合わせるのに苦労したと思います。
- “槻木の里吹く風”という曲が仕上がりました。
- 田中さんは音楽もやっていていたので、私のキーボードの伴奏で歌ってくれ、テープを熊本の小学生の卒業式の練習用に送りました。
- 私は卒業式に参加して子供たちが私の曲を歌ってくれ、胸が熱くなりましたその模様が朝日新聞の都内版と熊本版に載りました。
- 槻木(つきぎ)の里吹く風
- 1 大人になったなら 何になりたいと聞かれて
- 答えた言葉わすれないでいて
- ああー槻木の里吹く風便りに
- 2 楽しく過ごしてたこの場所から飛び出して
- もっといろんなことを知りたい
- 大きな夢もって帰る日の為に
- 3 そのうちにたくさんの人たちが訪ねてきて
- にぎやかな日がやってくるだろう
- ああー槻木の里吹く風求めて
田中明花 詞

- もうひとつありました。それは資生堂からCDを使いたいという要請でした。
- 社会貢献のセクションがあり、目の不自由な方に、メーキャップとかのおしゃれについて、テープ(おしゃれなひととき)を貸し出ししていて、そのなかに音楽コーナーがありそこに使いたいという事でした。
- 担当の方がコンシューマーズセンターの井上裕子さんでした。
- とてもきれいな方でした。
- だいぶ後になってからですが、夜9時台の番組を何気なく見ていたら彼女がコマーシャルに出てびっくりしました。それほどきれいな方です。
- このテープは年4回貸し出され1年半にわたって6曲使ってもらいました。
- 図書館を通じて毎回6,000人にアクセスすると聞きました。
- うれしかったことが3つありました。
- 1. 契約した日に井上さんと銀座の資生堂のレストランで食事が出来た事。
- 2. 初めてお金になった事。
- 3. 1曲目の“Fishing Light”を聞いて、レコード屋に買いに走ってくれた人 がいたこと。
- (このHPの8月の曲)井上さんに問い合わせがあり、今までこんな事は無かったと興奮して連絡してくれ一緒に喜んでくれました。
- この事が最もうれしい事でした。

←16)リハビリの成果と”自転車”との新たな遭遇→
16)リハビリの成果と”自転車”との新たな遭遇
- 93年に入ると、今までのリハビリの成果が出てきて良いことが沢山起きました。
まず、歩行時に、左腕を振って歩けるようになりました。それから,左手で、右腕のシャツの袖のボタンが留められるようになりました。すぐに冨田先生に電話して喜んでもらいました。
- 左足の装具も神奈川の病院に行った時、外しても歩けると思うからやってみろと言われ、歩いてみたら、O.K.でした。装具が外れて良かったのは、出張に行った時の機内での左足がものすごく楽になった事です。
- もうひとつやってみろというのがありました。
- 壁に向かって直角に左手の平を突く事が出来ました。
- 車も最初のマークツーが高速道路では問題ありませんが、狭い道では、“なぜ?”という事が多々あり、ひどい時には、左側面をガードレイルにこすってしまうことが起こり、傷だらけになり、3年で買い替えをしました。
-
94年には回復を表す本当にすごいことが起きました。
-
夏休みの天気の良い日に子供の自転車がパンクして修理に行きました。
-
修理が終わり、自転車を引いて歩いていましたが、そのとき自転車に乗れるような気がして、試しにサドルにまたいでみて乗ったら、乗れました。
家まで乗って帰りました。うれしくて、うれしくて冨田先生に早速電話で連絡しました。どんどん練習しなよと言われました。
- 問題もありました。左足がペダルから落ちてしまいました。本格的に乗りたくて自転車屋さんに相談に行きました。鐙(あぶみ)のようなものがあるからそれを使えば問題ないのではと言われました。
- それを装着した自転車を買いました。それから、左手も満足には動かなかったので、ブレーキは右手一本で操作できるように改造しました。
- ママチャリとマウンテンバイクの中間のようなナショナルの8万円くらいの自転車を買いました。私の場合は1日200キロも走れないので、そんなに高級な物である必要は無いので。日常の延長で走れれば十分でした。
- ギアも20段以上着いていましたが、不要でした。使えたのは3段くらい。左手もだいぶ回復はしていましたが、走りながらのギアチェンジは危険でした。
- その夏にテレビで、小学生が自転車で列島縦断をしたとニュースでやっていました。“あんな子供が出来るんだから、俺でも出来る”と思い練習することにしました。週末に砧公園の自転車コースで走りました。
- 最初は練習で20キロから30キロくらい走っていました。
←17)「ローリングストーンズの2度目の公演決定」と「はっぴ」→
17)「ローリングストーンズの2度目の公演決定」と「はっぴ」
- 出張にも少しは行っていました。東南アジアへ。
- 特に、インドネシア、シンガポール、マレーシアあたりに行っていました。メインはインドネシアでした。以前に比べ日数はだいぶ減りました。
- 恒例の大きな展示会は1月のアナハイムも3月のフランクフルトにも行かなくて良くなりました。
- 95年の3月にローリングスト−ンズの2度目の公演が決まりました。
- 私はフランクフルトに行く必要がなかったので、ストーンズにお見舞いのお返しをする絶好のチャンスだと思いました。
- 西武デパートで働いている友人に相談したら昔の仕立ての高級な“はっぴ”はどうだと言われ、決めました。
- チャックから7枚チケットを買い、家内、長男、姪、友人たちを招待しました。チャックから買っても安くはならないけど席がよい事とバックステージのパスを付けてくれるので大きな違いです。

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チャック(chuckleavell)のホームページ:
http://www.chuckleavell.com/
- 私はチャックの計らいで、Mick(ミック)とKeith/Ron(キース/ロン)と写真が撮れました。

- Mick(ミック)は“チャックから、良くなったと聞いてるよ”と言ってくれ、Ron(ロン)は早速、はっぴを着てくれ、Keith(キース)と一緒に写真を撮りました。
- 家内、長男、姪、友人たちはドラマーのCharlie Watts(チャーリー)と写真が撮れて大喜びでした。
←18)「退院後心がけていたこと」→
18)「退院後心がけていたこと」
- 退院後に特に心がけた事は人に会う事でした。
- 最初のうちは、障害者になったことで、少し恥じらいもあり、躊躇もありましたが、ある時期からは誘いがある時には、そこそこの格好して積極的に出かけました。
- ジャケット着て、ネクタイ姿で。家内から、外出する時には、身だしなみを整えて外出した方がよいと言われました。
- 人と会う勇気を持つことが、自立への大切なことであると思います。
- そして、5月にサラリーマン時代最後の出張に上海に行きました。

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