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.退社と自転車「日本列島3,000キロ」縦断の旅 TOPへ
1)はじめに:退院後の「静から動」への挑戦の日々
- 1990年10月に退院してからの5年間は実に活力に満ちて、入院生活の鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように“静”から“動”へといろいろ挑戦して、実 生活に基ずいた有意義なリハビリと共に、子供達とのドライブ旅行で関西、長野、新潟、千葉、丹沢へ釣り、秋川渓谷へ河原遊び、野球観戦。



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- 海外出張、CD制作、熊本山村への歌作り、障害者の介助、勉強会等々。
- 今では全く考えられない行動半径の広さです。
- 良いと言われた事は気功からわき水汲みに至るまで、試しました。
- 丹沢で有名なわき水を3男に手伝ってもらい、ペットボトルを持って汲みに行きました。昼間は、多くの人で混むので夜間に行きました。
- 6月頃には蛍が飛び交っていた事もあり、時には思わぬ副産物もありました。

2)自転車での「日本列島縦断」への思いと自立への願い
- そのような行動を実施しながらも、自転車の練習はずーっと続けていました。自転車で日本列島縦断をする事を、今、実行しないと一生出来ないことだという思いが心の底にいつも消えることはなく、いつどのように決断するか真剣に考えていました。
- 仕事についても、窓際になったとはそれほど思いませんでしたが、身体のことを考慮してもらい、アメリカの気候の良いアナハイムには行きましたが、ドイツ・フランクフルトには全く行かなくなり、会社での立場も以前と違って行ったのは確かです。

- 休職してという考えもありましたが、お世話になった会社に、もうこれ以上迷惑は掛けられないので、会社を辞めて、独立して、離婚のこともあったので、本当の意味の自立を目指そうという考えになって行きました。
- 日曜日には神宮外苑を何周も回り、95年の5月には1日50キロ以上は走れるようになっていました。
- 私の、体力が強化されて行く中で、心の底に持ち続けていた日本縦断の思いが実現できた時、確かな、消えることのない新しい私との出合いがあると思 えて来ました。
- そして、この自転車の旅は、サラリーマンという平々凡々の企業戦士であった私を突然として襲った病魔(脳内出血)と戦った5年間のリハビリに決別を告げるものとなりました。

3)自転車での日本縦断への決意と新たな人生への「48歳の挑戦の旅立ち」
- 素敵な出会い、素敵な感動、素敵な生き方を求めて、旅の中に新たな人生を見つけたいと願う“48歳の挑戦”の旅立ちでした。
- 私の後輩の岡野君が幹事になり、笹塚のレストランを貸し切って送別会を開いてくれました。
- 加藤会長をはじめ役員、男女社員、海外からの人達も参加して、大勢の人達が来てくれ門出を祝ってくれました。
- 北海道出発前に、朝日新聞関東版夕刊に私の挑戦が大きく載りました。
- 1995年8月29日 羽田から自転車を担いで飛行機に乗り込みました。
- 友人の嵐柴さんが最初の1週間伴走してくれる事になりました。
- 不安があったので有難かったです。
- 稚内空港に着いたら、なんとそこには私の後輩であった岡野君がいました。予告なしだったので驚きました。私と嵐柴さんは空港で自転車を組み立て、宗谷岬まで30キロ走りました。北の宿に3人で泊まりました。
4)北海道の最北端宗谷岬で、3,000キロ走破へのスタート!
- 翌1,995年8月30日、
北海道の最北端「宗谷岬」で、ペダルを踏み込み長い旅のスタートを切りました。
- ① 北海道を駆け抜ける
- 北海道の走ったコースは基本的には日本海をただひたすら南下しました。
- 宗谷岬から−稚内—抜海—稚咲内—初山別—小平町—留萌—増毛—浜益—厚田—石狩−札幌—手稲—小樽—余市—黒松内—長万部—八雲ー森−七飯—函館と走りました。前述したように左足はペダルに固定して外れないようにし、ブレーキも右手一本の操作であった。
- 印象に残った事柄を思い出しながら紹介致します。
- 稚内を出て長い急な砂利道の坂を下って原野の道に出た。そこから風が向かい風になり風に向かって長い一本道を走った。

- ②(抜海)
- 家なんか全くない原野であった。荒野の中に茶屋があって、牛乳を飲んだ。真っ暗な中、宿らしい場所にやっと到着。
- ③(稚咲内)
- 風に向かって走ったので、左足の爪が鐙に食い込み出血していた。
- 1日目は75キロ走った。
- 宿で、札幌から来ていた学校の先生に、”こんな馬鹿なまねは止めた方が良いと諭された。75キロ走れれば充分力は証明されているからこれ以上、走る必要は無い。“と。
- 夕食に、エイの煮付けがでた。エイを食べるのは初めてだった。
- 又,特別に、”はまなすのジャム“が出された。これは絶品だった。
- 2日目は小さなアップダウンのある道を50キロ程走って宿を探して泊まった。洗濯して、風呂に入って、夕食に出かけた。
- 宿のおおかみさんにこのへんは何が美味しいかと聞いたらやはり魚で、カレイの煮付けがおいしいと言われ、魚が食べられる所を探したが、休みで、ごく一般的な定食風の食事で終わった。ビールが抜群にうまかった。
- 宿のおかみさんにカレイの煮付けを食べられなかったことを告げた。
- おかみさんが翌朝市場に行ってくれて朝食に大きな肉厚の黒カレイの煮付けを出してくれた。本当に美味しくて、有難かったです。
- おまけにおにぎりまで、昼食用に持たせてくれた。
- ④ 初山別から
- 小平町秀浦の海岸でイカを干している人を眺めながら快晴のもと快調に自転車を走らせ、留萌に到着。距離が伸びて70キロ以上走った。
- 元読売新聞の記者で医者を目指している鈴木さん(CDの時の記者)夫妻と留萌で合流し寿司屋で食事。魚が美味しかった。鈴木さん夫妻ははるばる旭川から出てきてくれた。食事後、旭川へ帰って行った。
- ⑤ 留萌から増毛へ。
- 増毛は漁村で古い家や酒屋があった。
- そこで昼食、ビールにウニ丼ぶりを食べた。絶品。浜益、厚田を抜け石狩に。浜益の送毛トンネルを出た所で横転した。

- ⑥ 増毛から
石狩の間の何処かは憶えてないが峠があり、10キロの登りを、自転車を引いて歩いた。
- 夕方にさしかかり、中断して翌朝再度挑戦した。すごい坂であった。
- 沿道で売っていたトウモロコシがおいしかった。
峠からは一気に降りて、怖かったけれど気持よかったです。
- この辺から、トンネルが多くあり、怖かったです。
- 暗いトンネルの中では車の轟音はものすごい響きになりまるで怪獣なんかに追いかけられているような気分になりました。
- ダンプなんか通ると風圧で自転車ごと巻き込まれそうになりました。
- 一度トンネルを経験してから,嵐柴さんと後方からしばらくは車が来ないこととトンネルの距離を確認して、意を決してトンネルに入り一気に走り抜けた。
- ⑦ 石狩は
有名な割には寂しい所だと思った。宿探しも苦労した。
- 真っ暗な中を探して危うくマンホールに落ちそうになった。
- しかし、夜明けの石狩の海は、美しい!
- ⑧ 石狩からいよいよ札幌へ入る。
嵐柴さんと以前、広島へ行った時に知り合った後藤さんが北大に行っており、北大の中を案内してもらった。
- その後、3人で、有名なラーメン屋に行きました。ビルの地下にあったような気がします。
- 1泊してから、嵐柴さんは東京へ飛行機で帰って行きました。ありがとうです。私は、冨田先生から紹介して頂いた岡田しげひこ先生のお宅にお世話になりました。
- 街の中で拾ってもらい四駆でお宅へ、ログハウスの素敵な家でした。
- 夕飯に頂いたいくらは絶品でした。
- ⑨(小樽)
- 翌日、岡田先生に元の道へ連れて行ってもらい、そこから小樽を目指しました。小樽は坂が多く、風情のある街でした。
- 運河沿いにある石原裕次郎記念館に行きました。

- ⑩ 小樽から
- 余市に向かう途中から、私より少し前にコルグを退社した横山さんが、実家が札幌で、車で伴走してくれ、宿や食事の世話をしてくれました。
- 横山さんとは余市でニッカウヰスキーの工場で昼食したり、温泉に行ったりおいしい焼き肉に連れて行ってもらいました。
- 横山さんと別れてきれいな羊蹄山を見ながら走りました。
- ⑪(黒松内)
横山さんは携帯に黒松内の小間旅館を取ったと連絡をしてくれ札幌に帰りました。
- 小間旅館は川辺の宿でした。
- 黒松内は広葉樹の北限で有名な所。
- 宿のご主人と飲みながら話していたら、娘さんが世田谷の烏山にいるという事で話が弾みました。
- 大瓶2本あっという間に飲んでしまいました。
- 北海道のビールは本当に美味しかったです。のどごしが違います。
- 小間旅館のご主人夫妻とは年賀状の交換を今でもしています。
- ⑫ 黒松内から長万部に出て、
- 日本海と反対側の海に出ました。
- さらに八雲まで走りそこで泊まりました。
- ⑬ 八雲の宿で、
- 以前作ったメロディーとともにロシアの寂しい町で木枯らしの中を歩く女性が歌になり夢に出てきました。
- 女性が恋しくなってきたのか?

- いよいよ北海道最終日。八雲から函館へ。
- 12日間で北海道をクリアー。
- 函館からフェリーで青森へ。
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5)本州の旅
- 本州でのルートは青森—黒石—碇ヶ関—大館−鷹巣ー能代ー秋田—本荘—酒田ー村上ー新発田ー新潟—寺泊—直江津—糸魚川—朝日ー富山—小松—鯖江—武生—敦賀—三方—小浜—舞鶴—宮津—峰山—豊岡—香住ー岩美町—米子—松江—出雲—仁摩町—浜田—益田—萩—長門—下関
- ① フェリーの中で
- フェリーで白装束のおばさんに何をしているかと聞かれました。
- 病気の事と列島縦断を決行していると言ったら,筋肉痛に効くピップエレキ絆のようなものを頂く。
- この先、県境を越える度に、あなたのしている事を取材してもらいなさいと言われた。人に勇気を与える事をしているんだから知らせなきゃダメだと、必ず、取材を受けるように言われた。

- ② 青森に着いて、
義理の妹の実家のある鷹巣を目指した。
- 青森の道は悪かった。黒石の坂道でリンゴを頂く。
- 斎藤春江さん。
- 年賀状のやり取りは続いています。
- ③ 本州1泊目は
碇ヶ関の簡保の宿で泊まる。2日目は鷹巣。
- 義理の妹の実家長崎宅でお世話になる。
ここで東京12チャンネルの取材を受ける。
- 出発前の新聞の記事で取材は決まっていました。
- 鷹巣に入る所から走っている姿を撮影してくれた。
- シャワーを浴びた後、近くの河原でインタビューを受ける。
- 取材後、長崎家のお嫁さんに、温泉に連れて行ってもらった。
- 夕食はクルーの人達も一緒に“きりたんぽ”などごちそうになった。
- 長崎さんは、以前校長先生をされていて、息子さんも先生。
- ④ 秋田
- 翌日は長崎さんの奥さんの弟で、秋田で有名な画家である野呂正夫さんのお宅でお世話になった。正月の秋田新聞の巻頭の画は野呂さんの絵画であった。私は25歳の頃、パリで野呂さんにお世話になりました。
- 野呂さん宅を基点にしてヨーロッパ中を、ユーレイルパスを使って旅しました。野呂さんの絵画はパリのル・サロンで金賞を受賞されています。
- ⑤ 本荘あたりで、
- スタート初日に出血した足の指が化膿してきて痛くなってきた。手のしびれもひどかった。走る振動でしびれてしまう。
- ⑥ 酒田で
高畠に住んでいる本田さんに迎えにきてもらい軽トラックで高畠へ。2,3日休養する事にした。
- 温泉で疲労回復を計り、足の傷の治療と手のしびれを軽減させた。本田さんの友達で自転車に詳しい人が振動を軽減させる為にハンドルの所にテープを巻いてくれた。
- 本田さんの所で2日間温泉三昧の休養をさせてもらい、新潟を目指す。
- ⑦ 新潟で
会社の後輩であった石原さん(女性)に会って、夕食をごちそうになった。
- 翌日は寺泊の民宿“まつや”を紹介してもらって宿泊。台風が来て2泊した。
松屋さんとも年賀状のやり取りをしています。
- 新潟に入って道が良く安心して走れた。
- 8号線をひたすら南下。糸魚川のあたりで砂嵐の向かい風が吹き前進が困難であった。風と闘っている時冨田先生から電話があった。
- ⑧ 新潟県から富山へ
- 石川県の根上町の先生を紹介して頂いた。親不知のこわい坂を越えて富山に入り、朝日で宿泊。夕食に出されたタラ汁は美味しかった。
- 富山の道は新潟より良くてもっと走りやすかった。富山で宿泊。
- 復帰後初めての出張で、ファーストクラスで知り合った十全化学の宇川さんに会い、おいしいお酒とお寿司をごちそうになりました。
- 地元の白エビおいしかったです。
- ⑨ 金沢から小松へ
- 道が良いので快調に走って金沢に入り、8号線上で最初の1週間北海道で伴走してくれた嵐柴さんと合流。
- 嵐柴さんの友人の中出与志明さんも加わり小松まで一緒に走った。
- 嵐柴さんは小松の出身で出版社に勤めており、武蔵野美術大学を出ており、絵画も写真もなかなかの腕前です。“だからアジア”というアジアの子
供達を撮影した写真集も出している。
- 現代童画展で東京都知事賞を受賞した作品を母校の国府小学校に寄付した時の写真に嵐柴さんと中出さんが写っています。
- 真ん中が嵐柴さんで向かって右の背の高い人が中出さんです。
- 中出さんは小松の顔役で市の助役さんや有力者に紹介して頂いて助役室で激励のカンパまでして頂いた。
- 嵐柴さんの絵にはクジラが描かれていて、クジラが話題になる前から嵐柴さんはクジラを好んで描いていました。絵は1990年の作でタイトルは”クジラと海”です。
- 今年の現代童画会に出展した”遠いとおーい日へ”です。
- メッセージは”広い海から さらに大きな空に出たくじらは、砂漠の海に佇む 古い都市の天空を泳ぎ、遠いとおーい日に向けて 旅の途中です。”

- ⑩ 小松市根上町にて
- 冨田先生に紹介して頂いた根上町の谷口先生を訪ねました。
- 先生が担当されているデイサービスの施設に行きました。
- お年寄りとの交流をしました。
- 根上は元巨人の松井選手の出身地で、松井選手のおばあさんが来ていて、自分で作られたティッシューケースを頂きました。
- 車で能登半島の観光もさせてもらいました。
- 宿は遊泉寺温泉で、小松の嵐柴さんの友人達(10人程)に大歓待してもらいました。
- ⑪ 福井へ
小松を後にして、8号線を福井へ。
- 鯖江市で福井新聞の中村記者の取材を受ける。
- すごく親切な人で、鯖江で開催されていた国際体育大会に招待して頂いた。体操競技を生で見るのは初めてであった。
- テレビで見ている時はあまり落下するシーンは見た事は無かったが、ばたばた落ちるのに驚いた。
- 中村記者に競技場の中と外で写真を撮って頂いた。
- 競技場の外で撮ったスナップです。
- 青の雨具はゴアテックス製で現コルグ社長の加藤世紀氏から頂いたもの。鯖江は眼鏡フレームの生産で有名な所だと知った。多分日本一。
- ⑫ 武生で宿泊。
- 宿の食堂で名古屋から来ていた男性に、“青年っ、いい根性してる。
- 俺の実家に寄って行け”と声をかけられた。実家は陶磁器で有名な佐賀県の伊万里であった。
- ⑬ 敦賀への山道で
- 犬に追っかけられ必死で逃げた。
- 敦賀の民宿はとても親切だった。三方、小浜、舞鶴を経て宮津へ。
- 舞鶴の山の中では10月だというのにまだ蝉が鳴いていた。

- ⑭ 宮津から峰山へ抜けた。
- 峰山を抜けるとき、大きな峠があり自転車を引くのが大変だった。
- ここが、野村監督が育った場所かと思いをめぐらし通過した。

- ⑮ 豊岡に入る前に
- 通ってきた山の峯々を遠くに見て、よくもここまで来たと思った。
- ⑯ 豊岡から
香住を経て、鳥取の岩美町へ。
- 岩美町に入る道で、東京の池田美子ちゃんから電話をもらう。
- 何時も元気をもらえる人である。
ここで、勉強会で知り合った大西さんの実家にお世話になる。
錦鯉の養殖もされていて大きな敷地のお宅であった。
- 大西さんのお父さんに日本海が一望できる温泉に連れて行って頂いた。らっきょうの畑も教えてもらいました。
- 大西さん宅で、日本海新聞の前嶋記者に大西さんと一緒に写真を撮って貰ったり取材も受けました。
- 岩美町「浦富海岸」
- ⑰ 岩美町から

- 米子で嵐柴さんの友人に皆生温泉に連れて行ってもらった。

- 米子から松江に入る時、せまい歩道でバランスを崩し、左手を塀にこすって転倒しました。4度目の転倒。

- 出雲大社から帰ってから、宿の娘さんが車で温泉に連れて行ってくれた。
温泉の脱衣場で東京の英国大使館で働く井上正子さんから電話をもらう。
- 宿の近くでキウイフルーツが栽培されていて、日本でも作っているんだと驚きました。
- ⑲ 出雲から海岸線を走り、
- 仁摩町の少し山に入った温泉宿に宿泊。
- ここにNHK松江のクルーが撮影で来ており、宿のご主人が私の事を話して、よく朝、取材になった。
- 宿を出る所が何度も撮影され全国放送のニュースで流された。
- 私の茨城の親戚もこのニュースを見ていた。(後日談)
- 9号線の浜田に入る手前でご婦人が待っていました。
- NHKで見て、もう来る頃だろうと待っていたそうです。
- “聞けば, ご主人が20年前に脳内出血でたおれ、今も闘病中で、テレビで私の事を知り、感激して待っていたそうです。”
- 彼女(川神さん)はその晩の宿にまで来てくれ、激励の意味で1万円までくれました。川神さんとも年賀状交換は続いています。
- テレビの威力はすごいです。
- その後も、車で追っかけてきてくれ、お茶でもしてと、3千円くれたり、道ですれ違うと“頑張って”と手を振って声援してくれた人達もいました。
- 小雨の中を益田へ行く途中、会社の土永君と添田さんから電話があった。
- ⑳ この後、益田で泊まり、萩へ。
山口県の萩へ入る手前で初めてパンクした。
- 3時頃だったので心配したが、自転車屋さんがすぐに見つかり修理できた。テレビを見たと言い、記念にと無料で直してくれた。
- 萩の宿は海の前であった。
- 荷物を降ろして、海を見ていたら漁師風の男性に声をかけられた。
- 列島縦断の話等したら、ちょっと時間があるので萩を案内してやると言って、車で案内してくれた。
- その男性(高梨さん)は居酒屋をやっているのでこれから店で出すイカを釣りに出かけるので、イカを食べさせるから後で店に来いと言われ別れた。
- 私は会社の後輩の南雲君夫妻が萩に到着するので待ち合わせた。
- 新幹線で下関まで来てそこからレンタカーで来る事になっていた。
- 南雲夫妻が萩に着いて、夕食は先ほど紹介された“こずち”という居酒屋に行くことにした。
- 高梨さんは 釣りから帰って来て おり、“やりいかの刺身”をごちそうになった。おいしかったです。南雲夫妻と撮ったスナップです。
- ②①. 萩から晴天の
- 海岸線を一気に下関まで走りました。
- 下関に泊まり、ふぐを食べました。地元では「ふく」というようだ。
6)九州の旅
- ① 九州ルート
- 九州のルートは門司—宗像—福岡—伊万里—佐賀—大川−柳川—荒尾—八代—出水—阿久根—川内—鹿児島—桜島—鹿屋—佐多—佐多岬
- ② 九州に入り、
- 宗像で嵐柴さんの友人に会って、福岡でも嵐柴さんの出版関係の友人にお世話になる。
- ③ 伊万里へ
- 福岡から福井県の武生で声をかけられた西原さんの実家の伊万里に行きお世話になった。お兄さんが魚屋さんで話が通っていて歓待して頂きました。
- 伊万里を通るルートは予定にはありませんでしたが、思いがけない出会いで行って良かったです。
- ④ 佐賀
- 翌日は佐賀市でコルグの後輩で高校の先生をしている為永君にお世話になりました。佐賀から家具で有名な大川、歌で有名な柳川を抜けた。
- ⑤ 熊本県に入る時に
- シンガポールのHoeさん、台湾のバーナードチャンさんよりほぼ同時に電話があり、Hoeさんは私の意志の強さを誉めてくれました。
- ⑥ 荒尾、八代、出水とやって来ました。

- 出水は鶴の飛来地として有名で、宿の人が車で田んぼの鶴を見に連れて行ってくれた。
- まだあまりいなかったが、毎年1万羽くらい来るとのことだった。
- ⑦ 阿久根、川内を通り鹿児島市内へ。
- 市内で泊まり、翌日フェリーで桜島に渡る。
- 火山灰の降った道を通リ、島を半周走って鹿屋から佐多へ。
7)いよいよ日本縦断3,000キロのゴールの佐多岬へ!
- いよいよゴール前日である。宿で朝日新聞の取材を受けた。
- 宿の御主人が夕食に伊勢エビを出してくれ前祝いをしてくれた。

- 翌日、佐多岬のゴールまでは登りだったのでゴールめがけて自転車を引いて歩いた。“いざ!佐田岬へ!”
途中、頑張って下さいと、“さつま揚げ”を頂きました。
ゴール近くで、熊本の松本君が四駆で到着。
- ほかに新聞社の記者達とNHKのテレビが来ていたので驚いた。
- 1995年8月30日に北海道稚内の「宗谷岬」を出発して69日目の11月6日に、ようやく鹿児島の「佐多岬」にゴールしました。
「総走行距離2,950キロ。」
- ゴール当日はマスコミ等の注文に気を取られているうちに、“やった!”という感慨はありませんでしたが、次のステップの大きな自信になったのは間違いありません。
- ゴールから2日後に撮った松本君とのスナップを見れば“やった!”という現実が実感でき満足感が出ています。

8)縦断の旅の振り返って
- 1. 最北端 「稚内:宗谷岬」から最南端「佐多岬」への旅
- 自転車列島縦断の旅を振り返ると、確かに初日に足の指に出血して、後で化膿したり、振動による手のしびれ、たびたびの転倒、トンネル通過時のダンプとのすれ違いのような怖い目にも遭いましたが、全く”苦“ではありませんでした。
- 2. 3,000キロの「日本縦断」が齎(もたら)してくれたもの
- ゴールの佐多岬も通過点のような感じでした。
- 50キロから75キロ走ると毎日のように峠越えがあり、その度に自転車を引いて登るのは大変でした。
- いくつもの川を渡り、いろんな町や村をすぎて、たくさんの出会いに感動しながら、宿を出発して前へ進む気持さえあれば、3,000キロにも達してしまうんだと継続する事の大切さが実感できて、一本立ち出来る自信を掴めた本当に充実した楽しい旅だったです。
- ベニスで倒れて、ベッドから身体を起こしてまっすぐに座るだけでも大変だった事を思うと、3,000キロも自転車で走れた事は感無量でした。
- 退院してから5年余り、あきらめず毎日リハビリを続けられた結果でした。
- 3. 支援してくださった多くの方々への感謝を込めて
- 私は、ひとつの目標を達成した。その達成感よりも、私が達成し得た力の根源が、多くの方々の支援と友情のお蔭だと身にしみて感じた。
- 私は、心からの感謝を込めて、「報告カード」を発送した。

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