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目次
6."独立"と7.「仕事のやり過ぎ… 一過性の小さい再発で仕事の中断」 TOPへ
1)はじめに:95年・「日本列島3,000キロ縦断の旅」を終えて
① 槻木へ向かう
- 佐田岬にゴールして松本君の四輪駆動車に自転車を積み、槻木に向かいました。広島、上下の重森さんから、電話をもらい、タイムリーにゴールの報告が出来て嬉しかったです。
途中、松本君のアマチュア無線仲間の所により、食事をごちそうになりました。私は、ゴールした事もあり、図々しくも食事(釣ってきたばかりの魚)がおいしかったので、昼にもかかわらず、ビールを頼んで出してもらいました。
- 槻木で大宴会。槻木の人達とは卒業式の歌で知り合っていたので、大いに盛り上がって、焼酎を頂きました。生の鹿の肉や蜂の子と言った珍味までごちそうになりました。
- 自転車は松本君に頼み、東京へ送ってもらう事にした。
② 宮崎へ
明くる日は、宮崎の高千穂のコルグの後輩の甲斐さん(女性)の実家に立ち寄りました。松本君とのスナップは甲斐さんの素敵なログハウスで撮影されたものです。
- それから宮崎市内の嵐柴さんの友達の上田みゆきさんの所まで松本君に送ってもらいました。
上田さんの御主人はニュージーランド人でKeith Laneという名前でした。海でカヌーをするのが好きだと言っていました。
- 上田さんのところで2泊させて頂いて、2日目は、車で市内観光をしてくれました。宮崎の有名な所を案内してくれ、上田さんがアルバイトしている古墳の採掘現場やヤクルトのキャンプ場にも行きました。
- 宮崎は物価が安くて住みやすい所だと言っていました。
③ 大分から「宿毛」へ
その後、私は、電車で大分に行きました。
- 電車の中で小林亜星さんに会いました。
- 大分からフェリーで宿毛に渡り、嵐柴さんとまた落ち会いました。
宿毛には嵐柴さんの友人の清家さんがいました。
- 清家さんは塾の先生をされていました。
- 温泉からの夕暮れの帰り道、西の空の山の端に金星が見えたのが印象的で、今でもはっきり憶えています。
- 明くる日は四万十川をカヌーで川下りをしました。10キロ下りました。
本当に清流できれいな川でした。こんな経験はなかなか出来ないので、感激でした。
- 夕食は清家さんのお友達の鮎釣り名人も加わり、鰹のたたき、アユ釣り名人の釣った大きな鮎等を頂きました。
- この人は鮎釣りでは とても有名で本も出しており、高島屋へ高値で鮎を卸していると言っていました。
- 清家さんの庭ではレモンの木があり、料理には庭から取ってきたものを使いました。
- 我々は清家さんの御陰で思いっきり高知を堪能して帰路につきました。
- 帰りは、松山の道後で温泉に入り、高松で讃岐うどんを食べて、東京へ帰りました。
2)東京へ戻り、「旅の整理」と「新たなる出発」
① 挨拶状の発送
- 東京へ帰るとすぐに、佐田岬にゴールした時の写真を使って、旅先で知り 合った方々への礼状として、海外へは、コルグ退社の挨拶状とクリスマス カードを兼ねたものを作る事にしました。
- 日本語のものは前回出しているので、英語のものを紹介致します。
- 併せて、会社を辞めた事と自転車列島縦断の旅の報告をかねた年賀状の準 備もしました。
- 95年内はのんびりするつもりでしたが、お礼のカード(日本語/英語)と 年賀状の作製と発送で年内は忙しく終わりました。
② 仕事のオファーと新たなる出発
旅から帰った事を知ったインドネシアのFreddy Tang 氏から仕事のオファーをもらい1月にアメリカのカリフォルニア州のアナハイムに行く事が決まりました。
- まだこの頃は今後何をするかは具体的に何も決まっていませんでした。
- 95年の年末に嵐柴さんが取引している水道橋のバイオリンの老舗を紹介され、2人で訪問して、一応、お手伝いさせて頂く事になりました。
- 今までと畑が違うので準備がいるので、とりあえず、翌年の3月のフランクフルトに照準を合わせて取り組む事にしました。
- 会社の近くで一緒に食事してお酒を飲みました。
3)96年:マスコミの取材と本格的仕事の再開
① 朝日新聞「全国版」での紹介
- 年が明けて96年になりました。1月5日の朝日新聞の朝刊の“ひと”という欄で、「自転車で列島縦断した元会社員」と紹介されました。全国版です。
この記事が出ると、JTBの旅からの取材依頼、出版社から本の依頼、NHKのラジオ出演依頼、朝日新聞経由で沢山のお手紙を頂きました。
- 多くの依頼を受けましたが、アナハイム行きが決まっていたので、全て帰国してからにお願いしました。
- 航空券だけ手配してアナハイムに行きました。
- ホテルはFreddyサイドで手配してくれました。仕事的にはFreddyサイドで準備ができていなかったので、3月のフランクフルトに向けて準備することにして、このアナハイムの展示会で具体的にすることはなく、私はコルグを辞めてフリーになった事を伝えて歩きました。
- 日本のDJ商品のメーカーにコンタクトされ、東京で打ち合せする事に成りました。アナハイムでは仕事として具体化した物はインドネシアの楽器アクセサリーだけでしたが、種は蒔けました。
② カルバサスの思い出
- 展示会終了後、L/A西の郊外にある車で40分程のカルバサスのDR.KUNI を訪ね、1泊させてもらいました。
丘なのか山なのかわかりませんが、景色の良い所にある ガードマンのいるゲートが付いた一角にある家です。
- プールもありました。
- 邦さんは有名な舞踊家です。
- 私が高校、大学の時に砧の米屋でアルバイトしていた時、邦さん宅にお米を配達に行っていました。
- コルグに入ってから、邦さんからはがきの問い合わせがあり、それから仕事でのお付き合いが始まりました。
- 邦さんは舞踊にシンセサイザーを使用して電子楽器業界の技術の役員の方々と冨田勲さんを呼んでよく集まりを開いていました。
- 私は技術でも役員でもありませんでしたが、コルグの技術の役員と一緒に呼んでもらい参加していました。
③ 東京に帰り、マスコミの取材を受ける
- まず、NHKのラジオに出演しました。朝5時の番組でした。
- 30分くらいでしたが、初めての経験であがってしまいうまく話せませんでした。出演料も頂きました。短い時間だったので充分すぎる出演料でした。驚いた事に、コルグの社員で放送を聞いた人がいました。
- 出版社の人にも会いました。新宿の花園神社の近くの割烹屋さんで打ち合せをしました。列島縦断の旅日記の依頼でした。うまく書けるかどうかわからなかったのですが、サポートして文章をまとめてくれる人がいるというので、とりあえず、お引き受けする事にしました。
- JTBの雑誌“旅”の取材も受けました。
- 現代旅人列伝の最終回に載るという事でした。
- 私の前には、八名信夫さん、岡林信康さんのような有名な人ばかりで“何故、最後が俺なのか”と思いました。
- 私は有名でもなく、実績も無く、冒険家でもありません。
- 家の中が方付いてなかったので、外で取材を受けました。
- 馬事公苑のロイヤルホストと砧公園で取材と撮影を行いました。
④ 本格的仕事への準備;「東南アジアからヨーロッパ」への出張
- この取材の直後に東南アジアへ2週間の出張に出ました。
- カナダの会社に頼まれた市場調査とインドネシアの商品のチェックと打ち合せの為でした。
インドネシア、シンガポール、マレーシア、ベトナム、香港に行きました。
- カナダの会社と契約はまだでしたが、レポートを提出すれば経費と日当は支払ってくれるというものでした。
インドネシアでは洪水に遇って、危うく飛行機をミスるところでした。
- 96年の2月のことでした。
- 3月には、フランクフルトメッセに出張しました。
- フランクフルトへは、脳内出血で倒れて以来、初めての出張でした。
- DJの会社のブースに常駐して何軒かと商談しました。
- 日本からコンタクトしたフィンランドの会社とバイオリンの商談もここの場所を借りて行いました。
- 展示会の間に、イタリアのケーブルとキーボードの2社から仕事を頼まれました。しかし、インドネシアの商品サンプルがメッセに間に合わず、話が進みませんでした。
- それから、ドイツとスペインのコルグの代理店を訪問しました。
- スペインでは、私の後輩であった池島さんと一緒になり代理店と一緒に食事しました。
- とりあえず、フランクフルトは、私が扱う商品を理解する為と1年後に生活が出来る様にする為のウオーミングアップでした。
⑤ 本格的仕事の展開
5月になって、カナダのIVL社と正式に顧問契約しました。
- まだ具体的に商品が無かったので、しばらくは、リサーチが主体で韓国を中心に東南アジアのカラオケ商品の市場調査で飛び回りました。
- 9月にDJの会社VESTAX社と正式に顧問契約して、3年契約で海外営業を任されました。
- とりあえず、カナダとDJの会社の顧問料だけで、コルグ時代の給料以上になったので、自分の予想より半年早く生活出来るようになりました。
- これらに、諸事情でビジネスになったのは日本のバイオリン、イタリアのケーブル、フランスのスピーカーでした。イタリアのケーブルの仕事で、ローマとアンコーナに仕事では初めて行きました。
- フランスのスピーカーの仕事では南フランスのモンペリエにも初めて行きました。海辺の街でワインも美味しいきれいな所でした。
- これらの会社のコミッションが後で乗ってきました。
- 当座、カナダの会社とDJの会社で旅費を折半出来る出張を多くしました。
- 日本にいる時は、DJの会社に1日3時間だけ月曜日から金曜日まで事務所で海外との通信業務も行いました。
4)父との別れ
- 空白だったスケジュール表は、海外出張の予定が書き込まれるようになり、新しい人生に希望の光が見えてきた矢先に、父が10万人に1人という病気で入院しました。
- 出張でシンガポールから帰った日に危篤になり、空港から車で病院へ駆けつけて、父の意識はありませんでしたが、最期には立ち会えました。
- 11月1日父永眠。11月4日の父の葬式当日私が世話になっているDJの会社VESTAXの社員の方にもお手伝い頂き、父の郵政関係の方にもお世話になり、無事葬式を済ませる事が出来ました。
- コルグの社員も沢山来て頂きました。
- 池田美子ちゃんも忙しい中来てくれました。
- その後、いろいろと整理する事があり、年内は忙しかったです。

6."独立"と7.「仕事のやり過ぎ… 一過性の小さい再発で仕事の中断」 TOPへ
5)97年:大きく動き出した仕事の変遷
① 展示会への参加と販売網の確立
- 97年が始まり、アナハイムとフランクフルトの展示会が続きました。
- VESTAXのヨーロッパの販売網を確立する為に、フランクフルトメッセの後、まず、ドイツのMarburgのコルグの代理店に行き楽器との可能性を訴えました。Marburgの常宿の家族とのスナップです。
- 何時も家族扱いしてくれ私の癒しの場所FASANERIEです。

- それから、オランダに行きベネルックスを決めようと思いました。
- オランダがDJビジネスに関して、一番理解していたからです。
- 以前コルグの時に一緒に仕事をしたHans Sarisが最初の客になってくれました。娘のJoyceも参加してくれ、感慨深いものがありました。
- あんな小さかったJoyceと一緒に仕事が出来るなんて不思議で、嬉しかったです。
② 出版の断念と家族との思い出
- 出版社から頂いた列島縦断記の本の出版でしたが、出張も多く集中できず、書き始めてはいましたが、なかなか進まず、折角の良いお話でしたが、お断りする事になってしまいました。

高校を中退してロンドンでホームステイしていた長男とロンドンで会いました。
- VESTAXのUKの事務所はHaslemereにありました。
- ピーターラビットの世界です。
- 長男はグリーニッチにいました。そこからHaslemereに出てきてもらい一緒に泊まりました。
- 高校2年で住んでいれば当たり前かもしれないが、一人で出て来れた長男を頼もしく思えました。
- その後、市内で観光したり、私が以前住んでいた時の友達が経営している「ビストロベニート」で食事などをしたりしました。
- 夏休みには、3男を連れて、カナダのIVLのあるブリティッシュコロンビアに出張を兼ねて行きました。

- 市内観光の他に、「シャチウオッチング」もしました。
- カナダからロスに行き、ユニバーサルスタジオ等を観光しました。

- 3男とはシンガポールやマレーシアにも行きました。
- 次男も連れて行こうと思いましたが、飛行機に乗るのがどうしてもいやだという事で行きませんでした。未だに飛行機には乗った事がありません。
③ 会社設立と新たなる決意
- 97年の6月に、再び、社会という海原へ出航を決意して、ゼロからの出発を意味した「RIO BLANC MUSIC」の名で小舟を漕ぎ出しました。
- 世相は長い不況と株の暴落、円安、都銀の倒産等々、明るいニュースは聞こえてきませんでしたが、どうにか自立出来そうでした。
- 会社の登記をコルグ時代の同僚の兵藤君が自分の勉強になると全て行ってくれました。Thanks.
97年の秋までには、ドイツ、スイス、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、スウエーデン、ノルウエイ、デンマークが決まり、VESTAXのヨーロッパの販売ネットワークがほぼ出来あがりました。
- 96年メッセで交渉をスタートして1年半近く掛かりました。
④ ダイアナ妃の死と「障害者への介助活動」
97年の秋ヨーロッパに出張する前にダイアナ妃が事故死して、その直後にロンドンに行き、ケンジンンガーデンに行ったとき、花束の山が沢山あり、カードが添えてありました。
- カードを読み、ぼろぼろ涙を流して歩きました。
- いかに彼女が愛されていたか分かりました。メモっておけば良かったです。
- この間、障害者の介助の仕事も時間の許す限りさせてもらいました。
- バリアフリーの会議に出席する人を仙台まで泊まりがけで介助したことがあります。彼の京王線の下高井戸の自宅からから新宿経由で東京駅に行くのが大変でした。
- 障害者用の専用通路を通ったりして遠回りするので車いすを押すだけでも 大変でした。車椅子だったので、駅の階段の上り下りでは駅員さんの手を借りました。介助する方もされる方も大変でした。
- 一般社会は、バリアーだらけで車いすの人の移動がいかに大変かという事が分かりました。
- 仙台のホテルで、大浴場で風呂に入りたいと言うので肩を貸して入りました。今考えると恐ろしいです。よくも無事に入浴出来たと思います。
- 無謀な事をしました。
- 当時の体は健常者と同じくらいの力があったようです。
- 他に養護学校への送迎、24時間介助の必要な人の介助もさせてもらい大変な生活をされているんだと、痛感しました。
- 自分なんかは甘いと思いました。
- 今は、車も運転出来ず、搬送の仕事ができません。
- 個人的に頼まれた老人との会食で話し相手だけ、ボランティアでさせて頂いております。
- 以前介助した奥沢の関彰宏くんから世田谷美術館での展示会の案内を頂きました。頑張っているんだと分かり、嬉しいです。
⑤ 98年:新たな仕事のオファー
- VESTAXの契約の切れる1年前の、98年の8月に中国でスピーカーを生産しているチャン兄弟(マイケルとバーナード)からプロオーディオ用スピーカーブランドを立ち上げるので、販売を依頼されました。当初は南北アメリカ以外の地域でした。
- WHARFEDALEという70年の歴史のある英国のハイファイブランドを買収したのでした。その名前を使ってプロオーディオを立ち上げる事に成りました。フルコミッションの契約でしたが、何度か中国に行き、製品と価格をチェックして、ビジネスになると判断をしました。
- 30軒の代理店を作ろうと目指しました。最初の30万円のコミッションが入るまで8ヶ月掛かり、悪戦苦闘でした。
- その後80万円とそれからはサラリーマンとしてはボーナスの時でも考えられないようなコミッションになりました。
⑥ 99年;中国「深圳」への赴任
- すぐに、ハイファイも手がけたいのでということで、私のよく知っている日本人を社長にして私を営業の役員として、英国の本社自体の立て直しを二人に任され、当初は英国に駐在する事になっていましたが、車や住宅までもが収入に加算され税金の対象になる事がわかり、中国に駐在してビジネスの指揮をとる事に成りました。
- 持っていた仕事を全て断り、99年の6月から中国の深圳に赴任しました。
- 住まいは30階立てのマンションの29階に住みました。
- 証券取引所や公園も近くにある深圳の1等地で事務所も徒歩10分くらい、マンションに隣接した地階にセブンイレブンもあり便利でした。

- アメリカ以外が全て私の担当になりました。
- 現地の大学出たての若い中国人が業務を担当してくれました。
- みんな優秀でした。
- コミッションから給料に変わりましたが、充分すぎる給料でした。
- その上、住居費、光熱費等の生活費も全て会社持ちで海外出張する時は香港までのベンツでの送迎付きでした。

- 深圳に住み始めた頃、食事をすると、すぐに体が温まり、頭の回転が良くなりました。このように血流が目に見えて良くなる事が頻繁にありました。
- こういう時は仕事の処理が効率よく出来、この頃を恋しく思います。
⑦ 世界へ広がる事業展開:~2001年
- 出張に明け暮れる日々となりました。
- コルグ時代からそれまでに行ったことのない国や都市が随分増えました。
- インド、南アフリカ、メキシコ、チリ、アメリカのラスベガス、シアトル、スペインのバルセロナ等。2年程の間に、香港—北米—中米—南米—ヨーローッパー東京−香港といった世界1周の旅を3度経験しました。
- この頃は、住まいは何処かと問われれば、ユナイテッド航空の飛行機の中と言っていました。全てビジネスクラスのフライトでした。
- 中国にいる時は、お客も多く毎晩のように宴会で、カラオケ、その後は・・・?
- 夜の暴れん坊将軍だったかも。


- 南アフリカが治安のすごく悪い事を知りました。
- ヨハネスブルグの上空をヘリコプターで飛びました。
ヘリコプターは、初めてコルグの出張でニューヨークに行った時、パンナムビルからケネディー空港に行ったとき以来でした。
- スラムの上では低空飛行は射たれる危険があるので、絶えず地上との距離を保っていました。
- 上空から見ると金持ちの家とスラムの格差に驚きました。
- ヨハネスブルグは街中でも物騒で一人歩きは厳禁でした。場所に依っては簡単に射たれる時があるので、車で通リ過ぎるのが無難といわれました。
- 来年、サッカーのワールドカップがあるので、行かれる人は要注意です。

- ケープタウンはきれいでした。何か空気が違っていて、景色がきれいに見えました。ワイナリーに行きました。

- インドのムンバイでは高いホテルに泊まらされました。
- 驚いた事に、夜になると、大勢の人が歩道で寝ていました。
- この後インドネシアに行き、このとき初めてインドネシアのスラムがそれほどひどくないなと思いました。
雪残る3月のモスクワに行きました。
- 赤の広場です。
- コートの下はスーツにネクタイ、革靴もはいていました。
- 赤の広場でトイレが分からず、大変な思いで探しました。
- この前日、雪が舞う中、乗っていたタクシーが追突され雪の中で小1時間待たされ寒い思いをしました。
- ブラジル、サンパウロ郊外の小さな村の工場までも訪問しました。


- バルセロナに行った時は、ガウディの「サクラダファミリア贖罪聖堂」を観光しました。
コルグ時代はマドリッドのみでした。
- 2001年の9月11日はショックでした。
- あんな映像が深圳のアパートのテレビに届くとは。唖然としました。
- 「同時多発テロ」です。
6)2002年:体調に異変が生じ始める。帰国の途へ!
① 体調に異変を感じる。
- 2001年の年末香港に行く用があり、1泊しました。
- 翌朝、体が変なのを感じました。左腕が上に上がりません。
- 東京へ帰ってMRIを撮りましたが、異常は見つかりませんでした。
- 壁に向かって左腕がまっすぐに付けなくなり、すごく焦りました。
- 問題はこれだけだったのでしばらく様子を見ることにしました。
② 3度の転倒と帰国の決断
- 2002年の1月はラスベガスとアナハイムの展示会に参加して深圳に帰りました。その後、短期間に平坦な場所で3度も転倒してしまいました。
- 一度は足首を痛めてしまい中国人スタッフに付き添われ病院で治療も受け痛い注射も打ちました。
- 仕事も2、3日休みました。しばらく松葉杖で歩きました。

- お金を取るか体を取るかの苦渋の選択でしたが、体、健康を選び、東京へ帰る事にしました。丸2年の深圳の生活でした。
- 仕事は大変でしたが、楽しい事も沢山あり、貴重な体験でした。
- 後で起こった事を考えると、本当に正しい判断で強運でした。
③ 深圳と帰国に際して忘れられないこと
- 深圳滞在中で忘れられないのは、雷雨の時の空の暗さは昼間でも真っ暗になってしまい、雷鳴も雨の激しさも凄まじいものでした。
- 29階に住んでいたので遠くまで稲光が見えてきれいでした。
- 日本では経験した事のないものでした。大陸の嵐はすごいです。
- 小梅沙(シャオメイサ)という海水浴場に中国人の友達と行きました。
- 昼でなく、夜の海水浴が普通のようでした。
- 帰国を決めた後、韓国の代理店にサッカーのワールドカップの招待を受けました。常宿のソフィテルアンバサダーホテルに泊まりました。
そこにブラジルチームが宿泊していて、入れ違いでした。
- ホテルのスタッフは皆興奮していました。
- 中国とトルコの試合を前列のとても良い席で観戦しました。
- ソウルの街中では赤い群衆の中にいました。
- 韓国がポルトガルに勝ってどこでも大騒ぎでした。
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