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目次
8.脳内出血再発と2度目の入院とリハビリ TOPへ
1)体調異変を生じ、中国深圳からの帰国
① 2001年~2002年の体調異常
- 2001年の年末香港に行く用があり、1泊しました。
- 翌朝、体が変なのを感じました。左腕が上に上がりません。
東京へ帰ってMRIを撮りましたが、異常は見つかりませんでした。
- 2002年の1月はラスベガスとアナハイムの展示会に参加して深圳に帰りました。その後、短期間に平坦な場所で3度も転倒してしまいました。
- 一度は足首を痛めてしまい中国人スタッフに付き添われ病院で治療も受け痛い注射も打ちました。
- 仕事も2、3日休みました。
- しばらく松葉杖で歩きました。
② 帰国と帰国に際しての思い出
- ‘90年のイタリアベニスで倒れて以来、右肩上がりで来た機能回復に初めて赤信号がともり、’02年6月、2年間暮らした中国深圳を後にして東京に帰ってきました。
- お金を取るか体を取るかの苦渋の選択でしたが、体、健康を選び、東京へ帰る事にしました。
走り続けてきた列車を途中下車して、次の目的地を探すために、少し休養することにしました。
- 帰国後はソウルへ飛び韓国でW杯を観戦。2度とない機会に興奮しました。
- 赤いTシャツの中でフィーバーしました。
- しばらく出張もする事はないと思ったので、独立してからの取引先3社、VESTAX、仏のスピーカー、英国のスピーカーの代理店と会い、皆が食事会を開いてくれました。
- 京都の私の好きな岡里栄子さんに言われました。
- “高橋さんは本当に運が強いと。”
- あれだけ出張して、世界中を飛び回り、中国にいる時も宴会の連続でも、一過性の軽い発作で済み、左腕はまっすぐ上に上がらず、転倒もしたけれど、それ以上の大事には至らず、日常生活が維持出来たのは、本当に運がよかったと思います。
③ 帰国後の充電の日々とリハビリ
ソウルから帰ってから、W杯のコンサート。
- 続いて、福島、山形、新潟、富山へドライブ。
- 東京ジャズフェスティバルにも出かけ、ハービーハンコックのキーボードを堪能し、そして、Jリーグに移籍した韓国のスタープレーヤー安貞恒の試合を観戦。幸運なことに彼のゴールシュートも見る事が出来ました。
- また、ポールマッカートニーのコンサートにも行き、久し振りに心の洗濯に専念しました。
福島に行った時のスナップを2枚紹介します。
- 2枚とも深圳にいた時に知り合った方々です。
- 1枚は佐伯多門さん。郡山にお住まいで、五色沼、猪苗代湖,会津を案内して頂きました。佐伯さんは三菱のダイアトーンの設計者で、日本のスピーカー設計者の第一人者で世界的にも有名です。
もう1枚の写真は、仕事仲間のJoachim Kluten(ドイツ人)と彼のきれいな日本人の奥さん明美さん、子供達、義理のおかあさんです。一緒に昼食をして私はJoachimと日本酒を飲みました。
- 彼の優しい思いやりが伝わってきて、涙が出たのを思い出します。
- リハビリも初心に帰り、歩く事を中心に1日の多くの時間を使いました。列島縦断した時の様な気持ちが持てるようになるまであせらず、あきらめず前進を続けようと思いました。
2)生活の課題と母の認知症の発症
① 生活の課題
- いきなり、今までの収入がなくなるので、母に経済的には、「大変になるので、今まで通リお金は使えない」と協力を頼みました。
- 一気に生活の質を落とすのは大変でした。
- 3男の大学の学費もあり、しばらく子供達にはうるさくは言いましたが、なかなか理解してくれませんでした。
- こいつら馬鹿じゃないかと思う程、今までと同じ調子でお金を使われました。
- とりあえず、ローンは抱えてなかったので、食費と光熱費と雑費だけでした。3男の大学の費用も独立してから7年間で蓄えができたので、身の丈に合った事をしていれば、一応、問題はないと中国を去るときは計算していました。
② 母の認知症の気配と介護という新たなる課題の発生
帰って来て、側にいると母の行動が気になり始めました。
- 以前とは、明らかに違っている母の様子が現れ始めていました。
- 料理をしていて、鍋を焦がすような事が起きるようになりました。
- 「ガスを付けたらその場から離れるな」と注意すると、てんぷらなどの揚げ物のときはしっかり守ってくれていました。
- しかし、冷凍庫の中にステーキ用の肉を沢山買い置きして、賞味期限が過ぎてしまい、捨てるようなことも起き始めて、その度に無駄はしないでと注意していました。
- しかし、それも、82歳の高齢なので忘れてしまうのも仕方ない事かとも思っていました。
- 食事を作ってもらい、親不孝しているなとは思いましたが、これも長生きをしてもらえる秘訣であると都合の良いように考えていました。
③ リハビリとケアマネージャーへの挑戦
- 翌年は、久し振りに日本にやってきた“ローリングストーンズ”の公演にエキサイティングしたうえキーボードの“チャック・リーベル”と食事をしたり、レコーディングを見学させてもらったりと旧交を暖めました。銀座の天ぷら“大坪”と赤坂のCBSソニーのスタジオでのスナップです。天ぷら“大坪”のホームページです。
http://aloha-hawaiian.blog.so-net.ne.jp/2008-12-22_7

- 新型肺炎の大流行で海外での行動はあきらめて、多摩川沿いを毎日歩く等、日本でのリハビリに専念しました。

- その際、鯉の産卵の現場に出くわしたり、多くの野鳥を見つけたり、汚染されていた多摩川に自然が戻ってきているとうれしく感じました。
- 6月には高尾まで蛍を見に行き、幻想的な光の響宴に魅了されました。


- 6月から7月に掛けて、ホームヘルパーの資格を取得し、ケアマネージャーを目指しました。
- 介護実習で特別養護老人ホームで、入浴介助をしましたが、授業では“人間の尊厳”と教えられたが、現場では次から次にいろいろなことが起こり、そんなこと言っていられないすごい現場だと思いました。
- 結局、私は左手が利かないので、力仕事が出来ず、ケアマネージャーになる為の実働経験が出来ず、あきらめざるを得ませんでした。
④ 自主グループへの参加
- 脳卒中仲間の平井咲恵子さんの紹介で横浜の「片マヒ自立研究会」に参加する事になりました。
平井さんは資生堂で元ビューティ−コンサルタントをしていた人でとてもきれいな方です。
- 彼女が脳梗塞になる前に会った事もあり、その時はあまりの綺麗さに息をのんだ事を憶えています。
- 病気になってからは、彼女の友人に依頼され、経験者として元気付けてやってくれと頼まれ色々お話しさせて頂いていました。
- 片マヒ自立研究会には笠井雅雄さんという方も参加されていて、金沢文庫の方で、“ピアーズ金沢という会”を立ち上げており、私はこちらの会にも参加するようになりました。双方とも月に1度の例会で、車で行っていました。
- 「ハンズ世田谷」の障害者の介助の仕事を、再開しました。
⑤ 人々との交流を求めて
- 7月後半に、久し振りに新幹線で京都と大阪の友人を訪ねました。
- 8月は山形、新潟へ車で出かけたり、リハビリでは、8.7キロを休みなしで、2時間30分で歩き切りました。

- 10月の半ばから年末に掛けて、京都、広島、島根、鳥取、奈良、名古屋、秋田,青森、宮城、福島を車で回り、7,000キロを一人で運転。体力も大分回復したようです。


- ’03年は、日本に落ちついていろいろな所に行き、日本は緑が多く、美しい国である事を再認識した年になりました。
⑥ 母の認知症の症状が進んでいく
- 母親が、頻繁にお金がなくなるという様な事を言い出しました。
- その度に次男に訴えたり、私の携帯に電話があったりしました。
- また、同時に、かかりつけの医者から薬を何回も取りにくる様なことを言われました。鍋を焦がすのも半端でなくなりました。
- 母の様子を注視することにしました。24時間見ているのは困難でした。
3)新たな仕事への挑戦と多くの人々との出会い
① 画期的なスピーカーとの出合い
- ‘04年は奈良の小さなベンチャー企業「タイムドメインのスピーカー」の売り込みから始まりました。
- 前年京都を訪れた際に、友人の息子が働いている会社のスピーカーを紹介され興味を持ちました。私は画期的に音の性能が良いスピーカーだと思い販売を手伝わせて頂く事になりました。
初めに36ペアー仕入れて友人に紹介したら即完売しました。
- 海外への販売も依頼され早速1月にラスベガスの展示会に行きました。
- 価格が海外卸をするには高く、会社の態勢も海外の安全規格などをクリアーするまでになっていませんでした。
- 香港のJohn Lee が一番乗り気になってくれ、展示会の後、奈良に来てくれ大きい円筒形のスピーカー3セットとPC用のスピーカーを200セット注文してくれました。
- ドイツ、スペイン、シンガポール、韓国、フィリピンヘサンプル出荷はしたものの、価格と安全規格の問題で話が断ち切れてしまい、国内に集中することにしました。
- 国内でも卸が出来る価格設定が出来ず、口コミの1馬力販売なので限界がありました。
- それでも音の良さで日本全国デモしながら販売して廻り、楽しみました。
② 素晴らしい人々との新たな出会い
- 日曜日に食事会をしている工藤さんが飯田の友人から花見の招待を受け、4月に私が運転して飯田に行きました。
- 竹田扇之助記念国際糸操り人形館の竹田扇之助さんがニューヨークにいたときに、工藤さんにお世話になったということで、花見の招待になったらしい。
- 飯田城趾の三宜亭本館に泊めて頂き美味しい食事を頂きました。
- 「人形館」のパンフレットを添付します。

- 「しだれ桜」が見事でした。
- 竹田扇之さんのお宅で頂いた「弁当」は絶品でした。
- それにスコッチもすばらしかったです。
- 正直、あんなにうまい弁当とスコッチは初めてでした。

- 2日目は竹田さんの計らいで飯田在住の方の案内役を付けて頂きました。
- これが現在懇意にして頂いている久保田さんとの運命的な出会いでした。
- 久保田さんが「屯」という南アルプスの眺望のすばらしいおそば屋さんに連れて行ってくれました。
- その時のスナップに久保田さん、桜井民子さん(通称民ちゃん)と工藤さんが写っています。民ちゃんが竹田さん宅で頂いたお弁当を作った人です。

南アルプスも見えます。
- 飯田での他の写真も紹介します。
- 三宜亭の“温泉井戸”の前で工藤さんと,飯田美術館での工藤さん、そして、「屯」のパンフレット。

- おそばを食べて何気なく話をしていると、久保田さんが、私が扱っているスピーカーを持っている事が分かり、すっかり意気投合しました。
- スピーカーの縁ですっかり久保田さんと仲良くなって、疲れると今では飯田の久保田さんに会いに行くようになっています。
- 久保田さんはどんな事でもストレートに言ってくれるので、一緒にいて全く疲れず、久保田さんご夫妻にはすっかり甘えさせて頂いています。

- 久保田さんは商業デザイナーで、地元の老舗のパッケージ等をデザインして、作品も「デザイン年鑑」の最初の方のページに紹介されています。
- 弟さんも商業デザイナーで、あの有名な新潟の酒“久保田”のラベルのデザイナーです。
- 仕事柄かもしれませんが、顔がひろく、飯田では、みんなが久保田さんを知っている様な気がする時があります。
- 奥さんの睦さんも人柄がとても良くて、夫婦で犬のように人なつっこいです。久保田夫妻と「タイムドメインのスピーカー」と久保田さん宅で頂いたヘルシーでおいしい食事の写真です。
- 甲州街道の初台辺りを走っている時、私の大好きな池田美子ちゃんから電話があり、私が奈良のスピーカーの話をしたら、彼女が以前、試作段階のスピーカーをアメリカ人がチェックをしたいというので通訳で行った事があると聞き、その偶然に驚きました。
- その後、美子ちゃんにも大きいスピーカーを買ってもらったり、友達にもプレゼントしてくれたり、友達にも紹介してくれたり、協力してもらい大いに助かりました。また、京都の私の好きな岡里栄子さんにも大きなスピーカーを買ってもらったり、お友達を紹介してもらったり協力してもらいました。
- 日本各地に大きな被害をもたらした台風の合間を縫って、飯田、南木曽、広島、鳥取、京都、石川、新潟、千葉を何度となく行き来している間に、「糸操り人形、木工工芸、陶芸、油絵、水墨画、香道」など、今までの人生とはまったく縁のなかった世界の方々との出会いがありました。

- 広島”の私の常宿の”MGユースホステル。”出会いを宝にする人”として有名な森岡まさ子ママが始めた有名なユースホステルです。

- 自由にならない体に時として沈みがちな私に、様々な人生、様々な生き方がある事を教えてくれた気がします。
- 生活出来る程の収入には成りませんでしたが、「タイムドメインのスピーカー」は、いろいろなすばらしい縁をもたらしてくれました。

- 新潟から石川県に行く時に撮った「立山の景色」です。
- 南青山の広告代理店の猪俣さんがスピーカーの販促に良いからと段取りしてくれ、千葉のギャラリー”閑”でのやじろべえ作家の上田一明さんの個展でのBGMとして「タイムドメイン」のスピーピーカーが使用されました。
- ”閑”のオーナー小野満夫妻、個展に訪れた川俣おりえさん、上田一明さんとの縁が出来ました。
- 写真は”閑”の中庭で上田さんと、2枚目の左側に「円筒形のスピーカー」が見えます。

- 3枚目が”閑”の全景、4枚目に私と本州中を走った私の車。
- 5枚目が上田さんの工房の大きなやじろべえと上田さん、川俣おりえさん。

- 猪俣さんにはスピーカー販売では多くの方々を紹介して頂きました。
4)母の認知症の進行と母の転倒と怪我
- ‘05年は正月2日に墓参りで、母が私の制止を無視して 雪の上で転倒する事から始まりました。
- 母の様子も、鍋を焦がしても部屋中が煙で充満するまで、気がついてない事が分かりました。火事にならなくて良かったです。
- 通帳、印鑑等の出金に必要な物がすべて盗まれたと大騒ぎ。
- 結局はタンスの中にしまったのを忘れてしまい、タンスの鍵まで紛失してしまっており弟にタンスをこじ開けてもらい全て見つかりました。
- 通帳の残高を見ると、16,000円しかなく驚きました。
- 使いもしないシーメンスの70万円もする高価な補聴器を短期間で買い替える等々問題だらけで、とてもこのままにはしておけないので、世田谷区役所に行って相談して、ヘルパーやデイサービスをお願いする事にしました。
5)「脳内出血3回目の発症」と「2回目の入院」
① 3回目の脳内出血の発症時の状況
- そんな母の心配をしている矢先、2月22日の午前中、車で仕事場から出かけ様として駐車場に向かうところを、マンションの管理人さんがふらついている私を呼び止め,私の異常に気付き椅子を用意してくれ座りました。
- 私はまだ自分の身に大変なことが起こっている認識はありませんでした。ところが椅子に座ってしばらくすると声が出ないのに気が付きました。
管理人さんが慌てて救急車を呼んでくれました。
- 救急車に運ばれて隊員の方が慈恵医大に問い合わせているのが分かりました。
- 私は上を見て、眼を見開いたままで、すごいいびきをかいていました。
- そのうち意識がなくなって死んでしまうのかなとも思いました。
- 慈恵医大が駄目だったらしく、車は反対の方向に進んでいるのが分かりました。
声が出なくなった以外は、眼もしっかり覚めていて、意識もしっかりしていたけれど、何が起きているのか分かりませんでした。
- 慈恵医大に比べると小さな規模の病院に搬送された事が分かりました。そこは、調布病院でした。
② 3回目の脳内出血と後遺症
- 厳密には、イタリアで発症し入院、中国での小さい発症に次いで、3回目の発症ですが、入院は、2度目という事になります。
病院に着いてから何度かMRIを撮り、左脳内出血を起こした事が分かりました。
- 定期検診では、血圧も低く安定していて、降圧剤も不要かなと主治医の先生と話していた矢先でしたので驚きです。
- 幸いにも右半身の運動神経は無事でしたが、失語症と嚥下障害が加わりました。
- 子供達が病院に来て、声のでない私に戸惑っていました。
- 一応、次男が連絡係になりました。
③ 入院生活と課題
- 簡易集中治療室の様な部屋に収容されました。
- 鼻から胃に管が通され、尿道にも管が付きました。
- いびきはまだ続いていました。
- 最初の夜は眠れませんでした。理由は落ち込んだのでなく、相部屋で隣のベッドの患者さんが夜中大暴れをする様なイベントがあったからです。
- 私はまったく落ち込む事はなく、「俺の人生こんなもんだ」と思い、「なるようにしかならない」と思いました。
- 誘眠剤も頼みませんでした。隣の騒ぎがなければ問題なく眠れました。
- 隣のベッドの患者さんは点滴の管等全て外してしまい、血だらけでした。後で、ベッドに縛り付けられていました。
次男の飼っていたウサギが、私が入院した日に死んだ報告を受けました。
- 私もよく世話をしていたので、私の身代わりになってくれたのかと複雑な気持でした。
- 内出血もすぐに治まったようで、入院後、5日目くらいには一般病棟に変わりました。
④ リハビリ開始
- 簡易集中治療室の最後の日にはPTでのリハビリを始めました。
- 遅いけど問題なく杖をついて歩けました。
- しかし、左足の足首のコントロールが難しくなりました。
- 左脳出血なのに、何故左足に影響がでるのか不思議でした。
- 尿の袋が着いていたので歩きにくかったです。
- ベッドの上では左足も速く動いていましたが、実際の歩行時には遅かったです。それでも雑務を担当している女性が、こんなに早く歩けるようになったのは見た事がないと驚いていました。
- 部屋に戻って尿の袋を取り外してもらいました。
- 落ち込みはありませんでしたが、診断書には失語症と嚥下障害とあり、言葉が発せないというのは本当に大変でイライラでした。
- 簡易ボードを買ってきてもらい全て筆談です。
- 嚥下障害も頸管食で鼻から管で胃に直結なので、味も満腹感もありません。
- また、痰がたまり吸引してもらうのが大変でした。苦しかったです。
- あんなにも沢山痰が、溜まるとは驚きでした。
- 当初、吸引されている時は苦しくて、ベッドで、のたうち回っていました。呑み込みが出来ないのでよだれが止めどなく出ました。
- 麻生さんというきれいな看護士さんがよだれが出ても問題ないので気にしないでどんどん出しなさいと言ってティシューをくれました。
- よだれで眠れない私には麻生さんの優しさは嬉しかったです。
- 次男がこの病院は言語の訓練が出来ないので,転院先をすぐに申し込んでくれました。虎ノ門病院の分院でしたが空き待ちでした。
- 頸管食も2週間くらいでゼリー食に変わりましたが、食べるのがすごく難しかったです。ゼリー食を口にいれ、仰向けに体を反らし、危険ですが喉に落として食べていました。これが難しく、食事に時間がかかりました。
⑤ 入院日記
- 3週間くらい経過して、声が少し出るようになりました。
- 3月17日のことです。“あいうえお”から“おはよう”の程度です。
- 3月18日からは“おかゆ食”に変わりました。3食完食しました。
- 水は飲めませんでした。ゼリー状の水を飲みました。
- 量が入らないので、喉が渇きました。
3月22日に虎ノ門病院分院に転院しました。
- 弟が送ってくれました。
- 相部屋の空きがなく個室に入りました。
- あんまり役には立ちませんでしたが電話もついていました。
- 問診で失語症でなく構音障害だと分かりました。
- 転院した日の夕食の時、言語のきれいな土橋先生が立ち会ってくれましたが、うまく食べられず、ものすごく時間がかかりました。
- 3月23日からPTのリハビリが始まりました。
- 24日からは、PT, OT, STと言語まで含めた訓練が全て始まりました。
- 桜の開花も近くなってきて、虎ノ門に移って希望がわいてきました。
- この季節が特に入院生活を体験してからは好きです。
- 静から動への移行時期で何か始まりそうで、わくわくします。
- 毎食前に冷凍庫で冷やした綿棒で喉をマッサージしました。
- 以前なら、グェーとなったのに、麻痺のせいか喉に触れてもそういう事はありませんでした。
- 3月の後半からよだれの量が減ってきました。
- 10日くらい個室にいて4人部屋に移動。
- 4月3日には桜も咲き始めました。
- 4月5日から“きざみ食”が始まりました。
- 虎ノ門の入院生活も海外生活をされたことがある看護士の吉田さんとか何時も元気な袋地さんとかがいて、病院仲間の友人も出来て楽しんでいました。
- その中で永塚さんというおしゃべりな人がいて困りました。
- 私は、嚥下障害があるので食事に時間がかかりました。
- まだ、食事中なのに話しかけてきて食事に集中出来ない。
- 当時の私の食事は、誤嚥は絶対に避けなければならず、真剣勝負でしたので、非常に迷惑でした。
- 当事者でないとそういう事は分からない。
- また、発声練習をしている時にも遊びにきて随分邪魔されました。
「良ちゃん、良ちゃん」と親ってくれてありがたかったが、永塚さんは、寂しがりやさんの愛すべき人間で、悪気はないのだけれど、リハビリ、食事の際には困った事もあったのは事実です。
- 今では笑い話です。
- 桜が満開の4月8日に3男に迎えにきてもらい、週末初めての外泊をしました。
- それ以来退院するまで週末は家に帰っていました。“とろみ剤”と綿棒は必要でした。
- 4月12日OTでシチューを作りました。
- 同室の人にも食べてもらいました。
- 料理が出来る時は、いつでもさせてもらいました。
- 同じ日にPTでは、杖付いて歩いていましたが初めて装具を着けて歩きました。歩きやすく、装具をあつらえる事にしました。
- なんで左脳出血なのに左足に悪い影響が出るのか不思議でした。
- PTの先生に聞いてみましたが分かりませんでした。
- 4月15日から隣の病棟の廊下(60メートルくらいある)の往復を始めました。まず、6回。翌日は10往復。翌々日は20往復。
- 装具あり杖なしです。
- 4月19日は朝から調子が良く、左腕と左手の指がまっすぐになりました。歩行時も、左腕が振れました。OTの先生も驚いていました。
- 私はこのままこの状態が続くように祈りましたが残念ながら、後にも先にもこの日だけの事でした。
- 4月19日からは、病院の庭を起床してから朝食前に1周まわることにしました。
早朝ウォ−クで他の病棟の人たちとも、親しくなりました。
- 気合いの入った人はどこにでもいるんだなと思いました。
- みんなちょっとでも良くなりたいから。
- そういう人達と会うと自然と力が湧いてくるから不思議です。
- 楽しみもありました。看護士長の三谷さんの私服で出勤してくる姿に時たま遭遇してほれぼれして見とれていました。
- 4月25日には福知山線の脱線事故が起き、107人も亡くなる大惨事が起きた。人命を無視して1秒を争うなんて馬鹿げている。
⑥ 退院へ向けて
- 母の状態は、4月からベネッセの介護、スマイル経堂のデイサービスが始まっていました。これらの手続は総て弟が私に変わって代行してくれました。これで食事の支度で火を使う事もなくなり一安心でした。
- 5月11日に装具が出来て来ました。
- 非常に限られた人にのみ入院の事は知らせましたので、「90年の入院の時」のようにお見舞いや激励はありませんでした。
- それでも、家族以外では、南雲君夫妻、宇都宮さん、西島君、池田美子ちゃん夫妻、平井咲恵子さん、失語症患者に尽力されている代官山の荒井さんが見舞ってくれました。
私自身、悲壮感はまったくありませんでした。
- 前記しましたが、倒れたその日から病気の受容ができていて、経験上どの程度の回復が身体的には出来るのか想像出来ました。
- 日常生活がそこそこ出来れば良いとハードルは1回目と違って低かったです。自分の足で歩け、公共の乗り物で行きたい所に行ければ、それでとりあえず良いと思っていました。
- 車の運転はあきらめねばなりませんでした。
- 時々、動きの速い物に対しては焦点が合わせにくいことがあったからです。しかしながら、言語障害と嚥下障害は未知数でしたが、ゆっくりではあったが、発声も嚥下も改善して行きました。
- 6月4日に退院しました。退院する時に主治医の井出先生に発症の原因を伺いました。多分、実験が出来ないので確かではないかもしれないが、先天的に血管がもろいのではないかと伝えられました。
- 退院の日に撮ったスナップです。

- 退院の日に南雲夫妻が招待してくれ退院祝いをしてくれました。
6)退院後の生活と「真の願い」の醸成
① 退院直後の身体状況
- 退院後、日常生活も思ったより大変だと思い知らされました。
- 初めは500メートル進むのも大変でした。
- 体が大きく右に傾きバランスを取るのが大変でした。
- 家まで後50メートルという所で行き倒れたり、壁の伝い歩きになった事もありました。それで全体のパワーもかなり落ちた事と体幹を維持する事が大変になったことを知りました。
- 病院の中では何でもなかったのに娑婆では障害物やちょっとの道の傾斜にも大きな影響を受けるようになりました。
- 1回目の時はこういう事はありませんでした。しばらくは悪戦苦闘でした。
- それでもめげずに毎日歩きました。
- ちょうど母の介護のこと、特別養護老人ホームの入所の手続(500人待ちでびっくりでしたが、とりあえず申し込みだけしました。)や自分の障害年金の手続で世田谷区役所に行く事が多く、遠くなくバスや電車も使うし良いリハビリになりました。

- 行きはバスで、「世田谷通り」で下車して区役所へ。
- 帰りは梅が丘まで歩いて小田急で帰りました。
- 8月頃には連続で2キロくらいは歩けるようになっていました。
- 知っている道を距離長く歩くことに努めました。
- 例えば千歳船橋まで行かず、1駅手前の経堂で下車して経堂5丁目の担当医の所に行ったりしました。
- 電車からホームに降りるのがすごく怖かったです。
- 右手で手すりにつかまらないと危なかった事が多々ありました。
- 退院から年内は何が出来て何が出来ないかを把握する事に努めました。
- 11月のある日、仕事場の近くのマンションの谷間の道で、強いビル風でバランスを崩し、初めて転倒してしまいました。
- ズボンは破けましたが、怪我は、膝を擦りむいただけで済みました。
- 以前に比べ、左足がまったく咄嗟の事に反応できず動きがなく、右足も強さを失ったようです。
② 心に残る「真の願い」の醸成
- 10年前社会復帰とリハビリを兼ねた北海道の宗谷岬から九州の佐田岬まで自転車走破した日本縦断の旅は一度失った命を粗末にする無謀な挑戦だったかもしれませんが、それは、命を確かめる旅でもありました。
- 旅先の一期一会の出会いは、生きる大きな支えにもなりました。
- 今回の悪夢は,自転車に乗る事さえも、諦めさせましたが、退院後の6ヶ月のリハビリで体力回復が出来て先の縦断の旅で残した四国を歩いてみたいと年の終わりには思うようになっていました。
- 年が明けて‘06年、順調と思われた体調に内視鏡検査で出血性胃炎や大腸ポリープが見つかり、半年後の経過待ちを余儀なくさせられました。
- そろそろ桜の便りが聞こえ始める頃、‘03年に続き、ローリングストーンズの来日があり、チャック・リーベルと再会し食事をする事が出来ました。
- 銀座の天ぷら大坪で食事をした時に、チャックから、"東京に来る前に、ホワイトハウスの晩餐会に夫婦で招待された事を話してくれました。
- その席に英国のチャールズ皇太子夫妻も同席されていたそうです。
- 私は楽器業界からは完全に離れてしまっていて、仕事的には何の関係もありませんが、それでも以前同様に付き合ってくれ、忙しい時間を調整して食事をする時間も取ってくれて、本当にありがたいです。
桜が満開の多摩川の土手を歩きました。
- その再会は、体調も気分も上々にしてくれ、計画を延期した四国の旅のテンションをキープするのに役立ちました。
- 夏には,3年ぶりに会ったジョー・ザビヌルもブルーノート東京のステージから、熱いエールを送ってくれました。
- 楽屋でバンドのメンバーにこの男がコルグと自分を結びつけてくれたんだと紹介してくれました。
- 私にとってもジョーは初めてのメジャーミュージシャンでしたので、思い出深い人です。
③ 母の入院と介護
- 9月23日に母と墓参りに行きました。
- 母の姉の墓に参る時、また、母が私の言う事を聞かずに、勝手に墓に上がり、バランスを崩し、縁石に頭を強打して、入院する事故を起こしました。
- すごい音がしたので、助からないと思いましたが、近くの登戸病院に救急車で運ばれ、前頭葉出血と診断されましたが、一命は取り留めました。
- わずか10日間の入院で済み、家に戻りました。
- 母の生命力の強さにも脱帽でした。
- 情緒が不安定でしたので、トイレ等では力仕事が必要な事もあったので、最初の2日間、私の子供達3人が交代で、徹夜で介護してくれました。
- その後は私と弟夫婦が交代でしばらく介護してからは、私が年明けまで3ヶ月間、隣の部屋で寝起きして母の面倒を見ました。
- ヘルパーの来る昼間だけ時間が出来ました。
- 初めの内は母の情緒が不安定で、夜中に突然起きて家中の戸を“ビシャーン”とものすごい音で開ける様な事がしばしばありました。
- 意に添わない事があると、暴力的になり、頭の上から食事中にソースをかけられたり、水をかけられたりした事もあります。
- 母が朝起きて、開いたページに依って、私が母の亭主になったり、小さかった時の母の弟になったりしました。息子になる事はなかったです。
- ほとんどが50年以上前の事を思い出していたようです。母のあまりの変貌に悲しくもなりますが、誰も通る道だから仕方ないと思いました。
- 私の介護の甲斐があり、年末には情緒が安定してきましたが、認知症が一気に加速して近い過去の記憶は5分も立つと忘れるようになりました。
- 電話もかけられなくなりました。
- 運良く日常の事、食事、入浴、トイレは自立出来ていました。
- 五感が機能してないのでこちらが注意を配らないと危ない事が多くありました。

7)「四国横断400キロの旅」への決意固まる
- 振り返ると、この年は内視鏡検査の異常発見から始まり予定していた事が何も出来なかった辛抱の1年でした。
- 耳にしたニュースも北朝鮮の核開発やいじめによる子供の自殺など。
- かつてなかった日本の格差社会が顕著になる等,嬉しくないものばかりでした。
- ‘07年に入り、母の状態も安定して昨年辛抱してきた分をしっかり取り戻そうと、四国の旅を実行出来るように計画しました。
- 春からトレーニングを開始して、9月中旬には出発するぞと決めました。
- “神様は、過って二度目の試練をくれた。
- 誰もが二度と立ち上がれないと思った。
- 言葉も半分失ったけれど、いま、私は歩きたいと思う。
- 12年前に残した四国を「歩破」したいと思っている。
- もう一度、新しい未来を見つけるために… “

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