人権を考える

●人生そぞろ歩き

4.人権を考える

人権を考える
磯子区役所 人権啓発研修会

上大岡ウィリング横浜 
研修室・討議室
平成18年7月25日・26日

もくじ

 序 Ⅳ.片マヒ自立研究会の発足
Ⅰ 人権の歴史的概観  1. 発端と活動
 1. 日本の人権  2. 淡路阪神大震災の教訓
 2. アメリカ文化のショック  3. 細田さんとの出会い
Ⅱ.私の「人権」感覚 Ⅴ.地域社会への参加
 1. 体験した「人権」  1. 地域での活動
 2. 無用無価値の存在と「人権」  2. 自治会の活動―コミュニティーゾーン
Ⅲ.自助努力の必要性  3. 区民会議と行政事務事業の評価
 1. 日常生活の「工夫」―カメラ  4. 身の丈にあった活動
 2. 常識の壁を破る習字ー埋蔵資源の発掘 Ⅵ.人権を守る「バリアフリー社会の実現」
 3. 啐啄同時―大田先生との出会い Ⅶ.質疑
※班別討議「悲劇にしない老老介護を」
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←序→


今日は{人権}と云う重たいテーマですが、私が55歳で障害者になり感じたことと、金婚式の記念に短期間の米国に旅行した時に体験した文化ショックから、そこに含まれる多くの問題点を皆様と一緒に考える機会にしたいと思っています。よろしくお願いします。


←Ⅰ.「人権」の歴史的概観→

Ⅰ.「人権」の歴史的概観

  • ・ 1945年の戦争末期、「ポツダム宣言」で日本に示された降伏条件の10条には、
    • 「言論・宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」と明記されていました。当時の国民一般は知らされずきましたが、これが戦後日本の基本路線となりました。

  • ・ 1947年に「日本国憲法」が施行されました。

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    • 第11条は「国民は、すべての基本的人権は、侵すことの出来ない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と原則を示し、更に12条に「・・国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない・・」と、これらを単なる政治スローガンに終わらせないため不断の努力が必要であると、国民に呼びかけている点を見落としてはならないと思います。

  • ・ 1948年「世界人権宣言」が国連で採択され、かくてこの「人権尊重」は国際的な政治
    • スローガンになりました。
    • 第2条に「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位・・・による差別受けない ・・」


←1.日本の人権→

  • 1.日本の人権
    • ・ 日本の法律の体系を考えると、憲法の規定は政治スローガンとか原則的規範をの
      • べ、具体的に個別の権利を保障するためには法律の制定を必要とします。しかも,成文法の性格は施行の段階で「一罰百戒」或いは「恩情主義」という曖昧さが残されておるためにスローガンを実質的に保障する重責が行政の運用に任されている部分が多く、行政部門が重要な機能を担っています。

    • ・ 最近、話題になる人権問題は、親と子、夫婦の間に見られる殺人行為が強い印象
      • に残ります。戦後暫くは「同和問題」が報道されていましたが、これには複雑な政治問題が絡んでいるようなので、部外者の私は今回、取り上げないことにします。


←2.アメリカ文化のショック→

  • 2.アメリカ文化のショック
    • ① 政治スローガンが実現された社会。

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      • 金婚式記念旅行で着いたLA(ロスアンゼルス)の空港でびっくりしました。私が見たのは一緒に仕事をしている多くの民族があったことです。皮膚の色と人種の多様性が一見してわかります。

      • 黒いアフリカ系・口髯のメキシコ系・陽気な南ヨーロッパ系・中国や韓国インドのアジア東洋系・長身白人の北ヨーロッパ系の人々、男性も女性も、それぞれに、バスの運転、入国の審査、荷物の引渡し、場内の警備等、空港管理の仕事をしている光景は、政治スローガンに過ぎないと思っていた人権が実現されている社会であることを印象づけてくれました。

    • ② 労働に対する高い価値観を持つ社会
      • LA空港の長い通路を、杖をついて歩いていると、不意に電気自動車が横にとまり運転していた老人の女性が車に乗れと手振りで伝えます。驚いたのと感謝で車に乗せてもらいました。―胸を張って仕事している老人の勤労意欲―労働に対する高い価値観を持つ社会であることに驚嘆しました。

    • ③ 社会的弱者を守る社会
      • 空港で急いでトイレに行こうとしたら、マヒしている足が左足に絡まって、人権を考える迂闊にもドサリと倒れました。驚いたことに左右に居た見も知らぬ旅行者が、同時に両脇から助け起してくれたのです。
      • ―見知らぬ旅行者にでも困っていれば手を出して助ける動作が自然に行われた態度に驚きました。

    • ④ 公共の規則を守る社会
      • 交通規制や指導が厳しく一旦停止の場所では徐行でなく、必ず停止しています。
      • 15分間幼児を放置する両親には重罰が用意されているとのこと。
      • 市民の合意を守るための罰則との相乗作用が効果的に行われる社会に見えました。
      • ー公共は「お上」の押し付けでなく市民の合意のものと理解出来ました。―

    • ⑤ 日本に帰って早速図書館に行き、アメリカの歴史を改めて勉強しました。人権を考える
      • そして、「アメリカ独立宣言」と「フランス人権宣言」が共に、古い中世の封建体制からの自由、「抑圧された市民」の自由が共通の基盤であり、「人権」が認知されたことを知ったのです。

      • 社会が成熟するに従い、個人が自由を主張することが強くなり、「時代が求める人権の水準」は、成熟して行く性格があります。
      • アメリカ社会では、リンカーンの「南北戦争と奴隷解放」からケネディーの「公民権制定」に至る200年の歴史が参考になります。黒人が人権を持つと認められるには長い歴史がありました。

      • 日本の今後は、市民の一人一人が自分の人権を守る意識が強くなり、行政はその自助努力を保護する役割が増えていくのではと思います。


←Ⅱ私の「人権」感覚→

Ⅱ私の「人権」感覚


←1.体験した人権→

  • 1.体験した人権
    • ・ 私の少年時代は、「人権」の言葉はなく「一銭五厘の命」といわれていました。人権を考える
      • 郵便葉書の値段しかないとされていたのです。国民は戦後の憲法で初めて人権の言葉を知りましたが、当時は生活の水準は低く「衣・食・住」という生存権の確保が急務でした。職場の劣悪な労働条件は労働災害の悲劇や「人権闘争」を生んだり、一気に革命を指向する過激なリーダーも現われましたが、朝鮮戦争をきっかけに、国際政治の東西対立の構図がはっきりとなり、この環境の変化により過激な運動は収まりました。人権を考える
  • ・ やがて、大学を出た私は、夢中になって経済再建に邁進して30年、焼け跡の日本を再建し、平和と繁栄と、生活水準が向上しました。そこで55歳の定年を迎えましたが、定年を5年延長してもらって「ほっと」した時でした。
    • 新製品の展示会を企画したその会場で、不調を覚え、病院で検査の最中に足がマヒして来たのです。そのまま入院しましたが、55歳と11か月の秋でした。
    • 長年の生活習慣による「健康」の歪でしょう。
    • 左脳の運動野に脳梗塞を起こし、右半身に強いマヒが来ました。
  • ・ この時は、単に「健康」を失ったのみでなく同時に、これまで当然と思っていた
    • 「人権」も見失っていました。初めて真剣に「人権」に関心を持つようになったのです。
    • 最近では「老い」を重ねる時に同じように「人権」を考えるようになりました。

    • その私が「人権」を取り返すには、リハビリの努力が何よりも必要と考えました。
    • その努力が伴わないと一般の人々から「人権」を認めてもらえないからです。

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    • 「人権」とは、憲法の12条が規定するように「不断の努力」で保持なければならないことを実感しました。「人権を守る」とは、憲法上の「スローガン」だけでもなく、役所が準備する制度だけのものではないことを痛感しました。

  • ・ 実は入院中に無茶な訓練をして、絶対安静を言い渡
  • されたことがあります。人権を考える
    • その4週間の絶対安静で、麻痺側の手や足の筋肉がすべて消えうせてしまいました。
    • 初めて廃用症候群を知りました。これは「使わない機能は失われてくる」現象で、人間の肉体のみならず精神活動についても、この現象があることを知らされたのです。
    • この教訓より精神的に廃用症候群にならないよう気をつけています。


←2.無用無価値の存在と人権→

  • 2.無用無価値の存在と人権
  • 後遺症として、右半身にマヒが残り、利き手は使用不能になりました。
  • 右足は「尖足」で、安全な歩行が出来ません。言葉は構音障害で発語が旨く行かず「あのーあのー」となり話しだしても「ラリルレロ」が旨く出来ません。
  • 意味が通じないのです。
  • かくて障害者手帳2級を頂いて、杖をついて6ヶ月後に退院、全く「社会の無用なお荷物」になって子どもの暮らす横浜に帰ってきました。

  • 健康を、社会的地位を、家庭を支える収入を、コミュニケーションの能力も、移動の能力も、誇りも、社会に貢献できる有用性をも失ってしまいました。
  • ぼろくずの様に横たわっているのが私の現実でした。
  • 「人はどんなになっても人権がある」と本には書いてあっても、腕に止まる蝿や蚊も追えない現実を見ると、人間としての誇りも、人権も、どこかに消え去っていました。

    • ・ 横浜では、保健婦さんの努力で保健所のリハビリ教室に出席しましたが、この保人権を考える
      • 健婦さんには今でも感謝しています。そこでは血圧を測りましたが、入院以来、血圧を測るのに正常な左の腕を使っていたので習慣的に左を出したら、「右腕を出せ」と言われ「マヒしてますので」といったのが気に障ったのでしょうか。いきなり「お前はお上を侮辱するのか」と叱責されたときには本当に驚きました。
      • 少なくとも私の人生で、これまでにこれほどの、高圧的な態度と侮辱を受けたことはなかったので、これが「障害者に対する役所の態度なのか」と心の底で悲しく思いました。

    • ・ 日本の社会とは、企業戦士として社会的にも認められた人でも、一
      • 旦、病気をして障害を持ち、社会的な弱者になると、掌を返すように「人権」を無視した仕打ちや言動が許される社会なのかと深く心が傷つき、生まれて初めて私の誇り高い人格が侮辱されたと感じました。

    • ・ 幼児扱いに悲しむリハビリ教室の参加者

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      • リハビリ教室では、保健師さんは一生懸命に指導をしますが、まだ、機能回復の方法が確立されない時代でした。言語障害の方も多く、丁度幼児の言葉にしか聞こえない方もありました。でもこれは幼児並みの知能に低下したのではありません。

      • 患者の中には、過度に丁寧な言葉を使ったり、幼児言葉で話しかけられたり、童謡を歌わされると、自分が軽蔑されたと誤解される方もありました。 
      • 涙ぐみながら「何故こんなに私はバカにされるのか」と誤解して、悔しがっているのです。人間は自信を失っている時は、ひがみ安いものでしょう。
      • 傷つき安い時期には言動は注意しなければならないものだと自戒しております。     

←Ⅲ自助努力の必要性→

Ⅲ自助努力の必要性


←1. 日常生活の工夫―カメラ→

  • 1. 日常生活の工夫―カメラ
    • ・ 患者会があり北海道の支笏湖温泉に泊まりました。人権を考える
      • 朝、目の前の樽前山に初雪が純白に耀き、麓の湖畔では真っ赤な「七かまど」が燃えています。是非カメラに収めたい光景でしたから、急いで家内に三脚を持ってもらい、私はカメラを首にかけ靴を履きました。どれほど急いても、行動がのろいので家内を見失ってしまいました。強い旭の光が消えると白と赤のコントラストの強い写真は撮れません。いつ雲が出てくるか、気が気でありません。三脚がないと右手の使えない私にはシャッターを操作できません。焦りに焦りました。

    • ・ ふと、頭の中で「カメラの上下を逆に」と飛躍した考えが浮かび、「そんなこと
      • したら写真が上下逆に写る」「それを逆にしたら良いじゃないか」「そうかフィルムを反対にすれば解決できる!」そんな自問自答が続きました。

    • ・ カメラを逆にして見たら何と、左手の親指でシャッターが扱える位置に来まし
      • た。夢中になってシャッターを何度も押しました。その作品は写真集「愛しの大地」に載せました。この事件は、障害者が生きていくには生活に工夫が必要であることを教えてくれた出来事でした。

    • ・ 一つ一つの動作も工夫を重ね、左手に任せる範囲を広げたりして、日常生活がか
      • なりこなせるようになりました。一番切望したのは「移動能力」を確保することでした。
      • 歩いたり電車に乗ったりする能力さえ確保できれば最低限の家族の負担で家庭生活が送れるからです。私にとってこの家庭を維持することに勝る価値は見えなかったのでした。

←2. 常識の壁を破る習字ー埋蔵資源の発掘→

  • 2. 常識の壁を破る習字ー埋蔵資源の発掘
    • ・ 保健所の訓練にお習字がありました。「右手が使えないのにお習字だなんて」と不
      • 満に思いました。その習字の師匠は私に「両手で筆を持て」と指導してくれ、それがきっかけとなり自分の潜在能力を掘り起こすことが出来ました。

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    • ・ 平成2年4月、この師匠に正式入門し、右上がりではない
      • 隷書の勉強を始めました。その時に「入門500時間訓練」を行いました.これは配置転換したときに新しい技能を習得するには短期間に500時間の特訓をするという社員教育のシステムの応用でした。
      • 私は6ヶ月に500時間として1日3時間の練習をしました。その結果11月の区民文化祭には小さな「弄花香満衣」という作品を出すことができました。

    • ・ 展示された部屋に入り、怖々とてその前に立ったとき、
      • 心は感動で震えました。作品は堂々として作者が肩身の狭い思いなど、微塵も感じさせませんでした。
      • 私は手足に障害が残っても、作品には障害の影響はありません。
      • 「これで良いのだ」「これからも社会的に有用な能力は身につけていくことが出来る」「手足が不自由だからできないすことは多い、でも出来ることだってあるんだよ」。
      • これまで「健康な人に負けないぞ」と肩を怒らせ肘を張って虚勢を張っていた生きかたは無意味になったのです。

    • ・ 養老先生に「バカの壁」と云う本がありますが、私の「バカの壁」は、「お習字は右
      • 手で筆を持つこと」という思い込みでした。やがて私は左手で筆を持つ書き方に挑戦をして素晴らしい埋蔵資源を見つけることが出来たのです。この「埋蔵資源」という言葉は、社会学者:鶴見和子先生の造語ですが、免疫学の多田富雄先生は「新しい人の目覚め」と呼んでいます。私も、すべての人には未知の「埋蔵資源」があると信じています。

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    • ・ 常識の壁に包まれて、その「常識の枠組み」の
      • 外に出られない障害者は悩みます。障害を持って生きるためには、乗り越えなければならない「壁」が沢山あるからです。
      • コロンブスの卵ほど大袈裟な「壁」でなくても、小さくても低くても壁は壁になって邪魔をしているのです。

    • ・ 希望が大きく膨らみました。肩身の狭い思いは消え去ったのです。
      • これが障害の受容にいたる重要なステップのひとつだ思っています。

    • ・ そして「中年の人生挫折」から立ち直るために体験していた「モラトリアム」を
      • 卒業できる時期になっていたのです。この言葉は元来青年期の不安定な心理状態を説明するのに使われていましたが私のような中年で挫折した場合、再び立ち上がるまでにも、このモラトリアムという空白があることを知りました。

 序 Ⅳ.片マヒ自立研究会の発足
Ⅰ 人権の歴史的概観  1. 発端と活動
 1. 日本の人権  2. 淡路阪神大震災の教訓
 2. アメリカ文化のショック  3. 細田さんとの出会い
Ⅱ.私の「人権」感覚 Ⅴ.地域社会への参加
 1. 体験した「人権」  1. 地域での活動
 2. 無用無価値の存在と「人権」  2. 自治会の活動―コミュニティーゾーン
Ⅲ.自助努力の必要性  3. 区民会議と行政事務事業の評価
 1. 日常生活の「工夫」―カメラ  4. 身の丈にあった活動
 2. 常識の壁を破る習字ー埋蔵資源の発掘 Ⅵ.人権を守る「バリアフリー社会の実現」
 3. 啐啄同時―大田先生との出会い Ⅶ.質疑
※班別討議「悲劇にしない老老介護を」
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←3.啐啄同時―大田先生との出会い→

  • 3.啐啄同時―大田先生との出会い
    • ・ 人生には節目があるらしく、お習字に入門したのと同じ平成2年4月、誘われて大
      • 田仁史先生の講演会に行く機会がありました。人権を考える
      • そこで、福沢諭吉が晩年に「一身で二生を生きた思いがした」と述べたと聞いて「アッこれだ」と思ったのです。諭吉はご承知のように、若い時は幕臣として咸臨丸で渡米し、幕末には慶応義塾を作り文明の伝道師の役割を果した方です。

    • ・ それまでの私は、障害を持つ森山志郎は昔の企業戦士の森山志郎に戻ろうとして
      • いましたが、そうでなく、新しい自分の可能性に向けて人生を切り開いていけば良いのだと、気づいたのです。
      • 大田先生の言葉は私に、硬い殻を破って一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのです。
      • 啐啄同時という言葉を思い浮かべました。そしてお習字の訓練の成果で未知の潜在能力が見え、自信が生まれたのです。

    • ・ 言葉で道筋を教えていただき、書道で未知の能力に出会ったことは、霧に包まれ
      • て何も見えなかった世界に、その霧が晴れたのか、目をふさいでいた鱗が落ちたのか、晴れ晴れとした気持ちになり、喜びに溢れました。

    • ・ そこで社会復帰を目指す障害者の皆さんの参考にして欲しいと願って、平成3年9
      • 月、それまでの私たち夫婦の体験を「歩けた!手が動いた」として主婦の友から出版したのです。この本には章ごとに「その時妻は」という批判が書かれておりますから参考にして下さい。

←Ⅳ.片マヒ自立研究会の発足→

Ⅳ.片マヒ自立研究会の発足


←1.発端と活動→

  • 1.発端と活動
    • ・ 「歩けた!手が動いた」の出版記念会を開いたときに、多忙な方に無理に司会をお
      • 願いした替わりに、障害者の仲間と3人で、オーストラリアの文献を翻訳する取引をしました。

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    • ・ 初めは自信もなく恐々と辞書を開いてやるうちに、ドンドン記憶が戻ってくると
      • いう「奇跡的な回復」を体験しました。
      • これは「私たちの能力は雪に覆われて見えなくなっているが、一旦陽が照ると雪は溶けて、下から豊かな緑が出てくる」そんな実感を持ちました。

    • ・ こんな体験は、これまでに読んだ参考書には何も書かれていません。
      • この事実は、社会に知られていない回復のヒント、もっと良いリハビリの方法、豊かな可能性、学問の光がまだ届かない未知な分野が多いのではないかと思わせ、誰よりもその成果を切望している私たちの自助努力で研究をしたい、その成果を情報として発信したい、と考えが飛躍していきました。
      • かくて、片マヒ自立研究会を創設するに至ったのです。

    • ・ 今年の秋には100回の記念を迎えます。会員が皆で議論して「リハビリの道作り」
      • とか「再発の防止」とか「言葉の壁」とか「リハビリのキーワード」とか「障害者の自立とは」と、次々に「元気シリーズ」として発信してきました。

        人権を考える
    • ・ 最初は年間、数回の例会だったが次第に
      • 要望に応えて現在は毎月やっています。

      • 古参の会員は積極的に自分の体験記を出版しているまでに成長しています。
      • 私も最初の「歩けた!手が動いた」出版の後、10年の体験を整理して「心が動く」を出しました。

    • ・ 体験報告の講演会は年間十回程度、横浜市内では、看護教育大学、脳血管センタ
      • ー、市立大学・大学院とか、各区の障害者や一般の市民を対象としています。
      • 今年の秋は東京医療大学に行く予定です。

←2.淡路阪神大震災の教訓→

  • 2.淡路阪神大震災の教訓人権を考える
    • ・ 平成7年に淡路阪神大震災がありまし
      • た。障害者は災害時にどうすべきか、現地で救援活動をした保健師さんに災害と障害者について話して貰いました。
      • 「森山さん、一週間ぐらいは救出にいけないからその間は自分で頑張って」と云う、すぐにでも救出してくれると思っていただけに大きなショックでした。
      • これをきっかけに、障害者が生きるには、地域社会との強い関係を作っておかねばダメだと悟り、活動の主軸を「片マヒの自立研究」に加えて障害者の地域社会への参加という2つのメインテーマにすることにしました。


←3..細田さんとの出会い→

  • 3.細田さんとの出会い人権を考える
    • ・ 細田満和子さんは、新進の社会学者で
      • す。自立研究会の会員からヒヤリングを通じ東京大学の大学院の博士論文を書かれました。

    • ・ それは「病の経験と主体の変容」-再び
      • 生きるためにーという論文です。
      • 彼女は、私たちが再び生きるために課せられた課題を達成するために主体の変容が必要と結論しました。
      • 「生きる」ことを5つの問題に分けて解決するのにそこに「主体の変容」という明確な条件を見つけてくれたのです。
      • そしてこの「変容」には多くの出会いがきっかけになることも示してくれました。

    • ・ これはとても重要な概念の発見と思います。従来のリハビリテーションでは闇雲
      • に障害の受容が必要と云うだけで方法論が見えませんでした。

    • ・ 現在はコロンビア大学で研究されていますが、自立研究会の100回記念行事とし
      • て、11月5日に、このウィリング横浜で講演会を開く準備をしています。

←Ⅴ.地域社会への参加→

Ⅴ.地域社会への参加


←1.地域での活動→

  • 1.地域での活動
    • ・ 研究会の活動が理論面とすると、地域活動は実践になります。
      • 実際に生活を送る「場」が大事なのです。

    • ・ 障害者といっても若かった私も年齢も高くなり、万事老化の影響を強く受けてき
      • ました。そんな不自由な老人が地域の中で、どんなにすればよいのかと考えました。
      • 何よりもまず、「そんな老人がこの地域で一緒に生活している」と云う事実を地域社会の皆様に知っていただくことだと思いました。
      • 不自由でも努力しながら自立した姿を皆さんに見てもらうことが大事と思い、積極的に外出しました。はじめの頃は好奇心でジロジロ見られて不愉快な思いもありましたが、「共生」とか「バリアフリー」の考えが広がると共に次第にどこに行っても杖や車椅子が市民権を得ているように見えるようになりました。

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  • ・ しみじみ思ったのは、幾ら社会の受け入れ態勢が整備されても、どれほど人権が
    • 大事だと声を大にしても、肝心の本人がその人権を生かす行動をとらない限り、人権は絵に描いた餅にしか過ぎないということです。

  • ・ 私は初めて、憲法12条の規定をもっと注意深く読むべきと思いました。
    • 人権という権利が市民権を得るには、積極的に行動する個人の存在が必要なのです。 

←2.自治会の活動―コミュニティーゾーン→

  • 2.自治会の活動―コミュニティーゾーン
    • ・ 平成8年 最初は輪番制の「班長」の仕事でした。
      • 月に一度は自治会全体の会議に出るが障害のある爺なので顔は直ぐ覚えてくれました。その頃、住宅地の中を貫通している道路の速度制限が外され、大型ダンプが地響きを上げて疾駆するようになったのです。警察は「交通の円滑を図るため」と説明しましたが、沿線の家からは「何とかしてくれ」の悲鳴が上がり始めました。

    • ・ 平成9年、交通安全対策部が新設され、私は副部長になりました。
      • 道路沿線の世帯数は限られており、数人の住民の声では、行政は反応できません。
      • そこで自治会の全体に交通安全の問題をアンケートしたら、私の知らない危険な問題が沢山明るみに出て自治会の方々が困難を感じていることがわかったのです。
      • これを数項目に整理して、自治会全体の問題として行政に解決をお願いしました。

    • ・ 13年、解決の方向は地域の全体を国の「コミュニティーゾーン形成事業」に指定
      • することになりましたが、これは多くの自治会を巻き込んだ広域が対象になります。
      • 直接関心がない人、不便になるという人、賛成する人も反対する人もありました。反対する人には必死に説明して賛同を頂きました。

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    • ・ 14年にはようやく議論もまとまり、道路局は一方通行の指定や歩道の拡幅整備工
      • 事を、警察は速度制限の復活と、大型車の進入禁止など、自動車の無法に悩まされていた住民には安心して生活の出来る、バリアフリーの街に生まれ変わり、障害を持つ高齢者に優しい街になりました。横浜市としても各区で「コミュニティーゾーン」を作るようになったと聞いて喜びました。

←3.区民会議と行政事務事業の評価→

  • 3.区民会議と行政事務事業の評価
    • ・ 自治会の活動で街づくりが緒に就くと、12年暮れ、第8期泉区民会議に出ること
      • になりました。そして福祉委員長として2期4年間を過ごし、その間、大田仁史先生をお招きして介護予防の講演会を主宰して区民の皆さんに、高齢社会の老老介護に備えた、寝たきり予防の考えと体操の実技とを教えていただきました。ピンピンコロリと称される、寝たきりの日数が少ない人生の終わり方が出来れば良いがと念願しています。

    • ・ 泉区民会議では、9期までの役割を変更して、10期からは「行政事務事業の評価」
      • という意欲的な取り組みにいたしました。従来のように、実現の可能性の有無に関わらず、理想を追って自己陶酔するのも悪くありません。

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    • ・ しかし、私には、交流会の席で伺った中田市長の、「公共は市民が作るもの」という話が妙に頭の中に残っていたのです。アメリカの社会にある「自分たちで作る社会」という思想は、お上のお仕着せに慣らされて来た日本人には、時間のかかる意識変革の問題と思っていました。この市民意識の変革は「時間がかかる仕事」なので早く手をつける必要があります。
      • これは絶好のチャンスと思い、その実現に向けて最後の情熱を振り絞っています。福祉健康部会長にすぎませんが、不慣れなために沢山の問題を一つずつ潰しながら進めております。

    • ・ 泉区民会議の試みは、まさに、横浜市民が「公共を作ることに参画する」素晴らし
      • い試みなので、どんなことがあっても投げ出さずに成功させたいと念願しています。           

←4.身の丈にあった活動→

  • 4.身の丈にあった活動
    • ・ 自治会の中では「支えあい活動」が軌道に乗りつつあります。
      • 私も老人の混声合唱のグループでは数少ない男性として参加し、皆さんと一緒に楽しんだり、お手伝いをしています。又「お習字を楽しむ」活動では、左手のハンディがありますが、楽しく工夫したお習字をお年寄りや障害者に指導して、喜んで貰っております。

      • 3月のお習字では「今日は『愛』という字を書きましょう」と言ったら、70過ぎのお婆ちゃんが頬を紅潮させて、5枚も10枚も「愛」という字を書いていました。

      • 6月は色紙を半分に切って七夕飾りの願いごとを書きました。こんな自分の身の丈にあった活動で、小さな地域の活動を支えることも出来ることに感謝しています。

←Ⅵ.人権を守る「バリアフリー社会の実現」→

Ⅵ.人権を守る「バリアフリー社会の実現」

  • ・ 人権を守るためには、本人の自覚だけでなく、物理的・精神的な環境の条件整備
    • が必要になります。

  • ・ 高齢になっても障害を持っても、外出を実現するには、妨げる邪魔物がなくなる
    • ことです。これで「個人の選択」で人権が守られ生活の質は維持できる客観的な条件は整います。これらの条件整備は、近代市民社会では当然の前提条件でしょう。

  • ・ 平成9年に横浜市が「福祉の街づくり条例」を作り本格的にバリアフリー対策に取
    • り組み始めてから10年近くになります。お陰で鉄道の駅の「エスカレーター・エレベーター」は整備され、バスの高いステップも低くなり、私のような老人で障害を持つ者には大きな恩恵を受けています。この諸対策は、私が閉じこもりにならずに来られた、大きな理由になったと感謝しています。横浜の市民であることに素晴らしさが実感しています。

  • ・ 私の生活空間では「コミュニティーゾーン計画」が実施されましたが、まだ必要
    • な地域が放置されているのではないでしょうか。

  • ・ 高齢者は増え、サポートする年代の人口が減少するデーターを良く見ます。
    • 早めに「閉じこもり防止環境」の対策はドンドン進めると良いのではと思っています。

  • ・ 心のバリアフリーと言われる、「共生」面は、数々の「地域支えあい活動」を通
    • じて、顔見知りが増えて、次第に実現に向かっているのでないでしょうか。

  • ・ 今後、新しく「会社に忠誠」を尽くした方々が、これまで、ネグラとしか思って
    • いなかった「地域」社会の持つ価値観と、どう取り組むか、大きなエネルギーを地域の活性化に是非活用したいものです。

以上


←質疑→

  • 質 疑
    • ※班別討議のテーマ「悲劇的な老老介護をなくす為に」 
    • ※班別討議
    • ※討議の発表・講師講評
      • ―研修会終了― 

人権を考える

 序 Ⅳ.片マヒ自立研究会の発足
Ⅰ 人権の歴史的概観  1. 発端と活動
 1. 日本の人権  2. 淡路阪神大震災の教訓
 2. アメリカ文化のショック  3. 細田さんとの出会い
Ⅱ.私の「人権」感覚 Ⅴ.地域社会への参加
 1. 体験した「人権」  1. 地域での活動
 2. 無用無価値の存在と「人権」  2. 自治会の活動―コミュニティーゾーン
Ⅲ.自助努力の必要性  3. 区民会議と行政事務事業の評価
 1. 日常生活の「工夫」―カメラ  4. 身の丈にあった活動
 2. 常識の壁を破る習字ー埋蔵資源の発掘 Ⅵ.人権を守る「バリアフリー社会の実現」
 3. 啐啄同時―大田先生との出会い Ⅶ.質疑
※班別討議「悲劇にしない老老介護を」
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