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①「これからの生き方を決める」 ②「絶望から希望に」 ③「工夫」が「自信」を回復させる ④「リハビリ教室」 ⑤「自主グループ」での実戦的訓練 ⑥「精神活動の裾野を拡大する」 ⑦「一生を2生に生きた福沢諭吉」 ⑧「悟後の悟」
リハビリは能力を得る通過点 TOP
1)リハビリでは能力を得る通過点を沢山持つこと
←①「これからの生き方を決める」→
- ①「これからの生き方を決める」
- リハビリとは、病気になるまでに歩いて来た「私の人生の旅路」という、代え難い歴史的事実に立って、今度は後遺症の障害を伴う心身で、どのような人生の旅路を重ねるか、それを選択する過程でもある。
- 障害という大きな荷重を担う現在の状況のままで、人生の旅を続けるには無理だと思えば、更に数多くの能力の獲得という通過点を通って自分の目指す人生の道に辿りつかねばならない。自分の歩くべき道は遠くないと思えば、新しい能力を獲得する訓練は軽くて済む。
- 自分が負う障害の種類と、自分の期待する人生の道との、開きが大きいかどうか、なかなか外部の目には伺い知ることは出来ない。
- 自分にしか分からない痛みがあったり、人生に対する期待度の個人差が大きいからである。同じ言葉を使っても、その内容とする意味には非常に大きい個人差の多い旅路でもあるからである。
- 私の場合、会社定年を過ぎていた事情から、社会的な活動よりも個人的な生活を中心において考えた。そして、一次的に、自分の人生を賭けて生涯を伴侶として支えてくれた妻の人生に責任を持つこと。次に、私たちの子供としてこの世に生を受けた二人の子供を成人させ社会に送り出すこと、更には嫁いだ娘が儲けた孫の世代に対する責任を果たすことである。
- そんな課題を果しつつ、二次的な目標として、両親に受けた私の人生を、あたうる限り最大限に燃焼し個人に課せられた発達課題とも言うべき人生の統合を満たすことであった。それらの活動を通じて、地域社会、障害者社会、次世代の社会に好ましい影響力を残すことができれば望ましいことに思った。

←②「絶望から希望に」→
- ② 「絶望から希望」に
- それらの目標を見据えて見ると、幾多の能力を獲得するために、数多くの通過点を通り過ぎる必要があった。私の場合、それは先ず、絶望から生れる自殺願望との戦いから始まった。曙の光と若い看護婦の明るい声に「はっ」と気がつき死の渕に立っていることに気がついた。次に基本的な手足を動かす訓練手足の運動機能が最大の障害と思ったので夢中に取組み熱中した結果、過労から肝臓障害を来し、絶対安静を申し渡されてその結果、大きな筋肉はすっかり流れてしまい手足は全く役たたなくなった。
- 私は男泣きに熱い涙を流した。そこで再び絶望の渕に沈んだ私を奮い立たせたのは、「生ける屍」を直視させられ、私が廃人になりかかっていることを自覚させられたことであった。それ以来慎重に、しかし必死の訓練を再開した。これは筋肉痛と関節痛の痛みが伴ったが、偶然に固い拳が動いたと錯覚、驚喜したものの、改めて確認しようとするとびくともしない。そんな私を婦長は「動いたと思ったなら実現するよ」と「希望」をつないでくれた。後遺症を伴って杖に縋って61年3月、退院した。
←③「工夫」が「自信」を回復させる→
- ③ 「工夫」が「自信」を回復させる
- 退院した後は、市大のリハビリ科で安全な装具を作ったが、復職の願は虚しく、本社と話す度に日一日と夢は遠ざかり、障害者としての生き方の定まらない私は深刻な「うつ」になって、家に引き篭もることの多い生活になっていた。
- 所が患者会の旅行で、樽前山の新雪と紅葉のシーンに遭遇し、この写真を撮るためにカメラを逆転させて成功した体験から、障害を持っていきるには「工夫」が必要であることを深く心に刻み付けた。記念に写真集「愛しの大地」を自費出版したが、この作業の過程で、娘も妻も一緒になってこの共同の「目標」に向かうことが出来たのが嬉しかった。
- 私としては、一連のプロジェクト管理が出来たことに、一種の自信が戻った。
- この写真集が引き金になり、渋谷の電力館で個展を一週間開いた。雑踏の中を会場に行くのは無理に思えたが、初日には何としても出かけ飾りつけを済ませて、来場の皆様にご挨拶を申し上げた。翌朝の目覚めに体力も気力も充実してくるのが自分でも分かった。
- そして会期中、休まずに会場に行くことが出来て、不安な体力にすっかり自信が戻り妻と祝杯をあげた。
←④「リハビリ教室」→
- ④ 「リハビリ教室」
- 62年になると、積極的な保健婦のご縁で保健所におけるリハビリ教室に出席し、社会復帰を目指した訓練指導の中で、さまざまな「気づき」をしたが中でも特筆すべきは、全く倣岸無礼な所長が転勤して、女性の樋口所長に変わったお陰で私は充分な訓練を受けることが出来た。
- 所長室に入り込み、心の鬱積した思いを樋口所長に訴えながら自分で色々納得していったことだった。今考えると所長からカウンセリングを受けていたのである。
- こんな優しい所長はやがて退職され間もなくガンで亡くなった。
- こんな方がたまたま勤務されていたこと、これは有り難いと同時に、「仏のかたより行われる」ことの実感でもあった。
- 更に、お習字を通じて、適当なサポートがあれば私の右手でも仕事が出来ることを確信したこと、多くの同病者と心を開いて話しが出来ることである。
←⑤「自主グループ」での実戦的訓練→
- ⑤ 「自主グループ」での実戦的訓練
- 前年の修了者が自主グループ「泉睦会」を作ったので参加して会報の製作を手伝った。
- そして教室が修了すると、泉睦会の事務局長になり脆弱な土台を支えた。
- 社会復帰のためには、繰り返しの習熟と応用問題に対する適応訓練が必要だった。
- 「会報」の編集、ワープロを使って原紙造り、リソグラフによる印刷までは殆ど独力で行った。事務局長の仕事として、会の規約を整備し、活動計画をまとめ、資金計画に合わせて予算を編成した。
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←⑥「精神活動の裾野を拡大する」→
- ⑥ 「精神活動の裾野を拡大する」
- その間に、カルチャーセンターで「俳句」を勉強し、自然を観照する態度と制約された条件における文学表現の深さと広がりを学んだことは、障害を持って生きる私に大きな示唆を与えてくれた。
- 自然を観察すること、制約された条件で豊かな詩情を表現することは素晴らしい。
- 1日10句の連作を1年間、続けたお陰で季語を隅々まで読んだ。
- 「吾妻鏡」の勉強を通じては鎌倉に残された悲劇の内実を知ることが出来、カメラのレンズを通した目にもう一つの歴史眼を与えてくれた。この鎌倉の悲劇と裏腹に悲しい美しさをテーマに、写真集を作り「障害を持つ写真家」に将来を夢見て、随分鎌倉に通った。
- 結論を告白すると、これは道楽なら許されるが経営的に成り立たないビジネスなので、バブル経済と共に消滅した。
- 古田老師の指導による「正法眼蔵」の講義では、道元のもつ恐ろしいほどの厳しく透徹した世界観、生命観、人生観に過去の学問を根底から見なおす必要を学び取った。
←⑦「一生を2生に生きた福沢諭吉」→
- ⑦ 「一生を二生に生きた福沢諭吉」
- 友愛病院の柴田先生は大学の先輩だが、鯨のインシュリンを分離生成するという面白い経歴をお持ちの医師だった。
- その人柄に甘えて、遠慮なく疑問とする所を手紙で訴え教えを乞うた。
- 先生は一つ一つ丁寧に私の疑問に答えてくれた。
- その過程で「障害の受容」とか上田敏先生の著書とか、ウィルキー師のコーピングスキルを知って、一段とより深い所にある問題を見詰めて取組むことが出来た。
- たまたまの機会に大田先生の講演を聞き、福沢諭吉が「一生を二生に生きた心地」と言う所で、心の中に「ストン」と落ちるものがあった。
- 「なるほど、そうか、そんなものか」、と疑問が解け始めた。
- しかし私には福沢諭吉が新しい時代に備えて持っていた語学力とか時代の先見性という武器に匹敵するものが見つからなかった。

- たまたま私は、習字の師匠の指導で、私は六ヶ月間に五百時間の隷書習字の集中訓練をしていた。そしてその結果、左手の作品を掲額してその作品の前に立った時、肩の力が抜け、心がぽっかりと明るくなり、「良く出来た!これで良い!」と「障害の受容」が出来たと思った。
- 福沢諭吉における語学力や先見性という武器は、私の場合には左手能力の開発と、障害者の立場で物事を見て判断できることが生きて行く上での武器になると思った。ここでリハビリは終了したと判断して、平成4年に「歩けた!手が動いた」を旧友の笠君の好意で主婦の友社から上梓、同時に自主グループも卒業する方針だった。
←⑧「悟後の悟」→
- ⑧ 「悟後の悟」
- その笠君が世話人をしているお茶の水での「セルフ研究会」での勉強では、私が挫折した所から立ちあがるについて、特に無意識の領域についての研究に関心があった。
- 一つには「念ずれば花ひらく」という詩人の心境が学問的に説明が出来ないものか、どうすれば一般の障害者に紹介できるだろうか、と思ったからである。無意識の領域についての考察はヨーロッパ文化よりも仏教が非常に早くから問題の中核に到達していたことを知って驚いた。
- 仲間と始めた自立研究会で、障害者が自己主張する時に、ややもすると攻撃的になることを篠沢先生に指摘されて「アサーション」を勉強することになり「なかはらカウンセリング研究会」の一人として勉強している。
- これはカウンセリングの勉強が基本であったが、そこから勝手にエリクソンの発達課題論、フランクルの意味論と範囲を拡大して、私の思想的基盤を強化してくれている。
- 更に大田先生の諸著作からは先生の持たれる「眼差し」の背後にあるものに迫りたいと思う。そして先生が実現したいことを一つでも実現できればと願っている。
- 昔の会社の後輩の好意により「旭リサーチセンター」の例会に丸の内に出かけて様々な時代潮流に接するが、その仲間と「バリアフリー」展示会を国際展示場で行ったが、このことは私の狭い視野を拡大してくれ、ややもすれば陥りがちな独善的な自己中心の障害者論から抜け出すことができたと感謝している。
- 習字の世界は私の第二の世界になってしまった。
- 温かい師匠の指導と優しい教室の皆様のサポートを頂いて、毎月の競書では、隷書の部で五段になった。
- 伊豆の書道美術館で拝見した、広瀬淡窓の遺品の硯に出会った。
- 硯は言葉を発しないが心の中には「何をしとるのか」と叱正の声が聞こえた。師匠に手本を書いてもらって「桂林荘雑詠」を半切に書いて凌雲書展に出して以来、今年で9回目の出品になる。隷書と篆書の作品であるが、過去に2回まで賞を頂いた。
- 正法眼蔵の講義は、古田先生が高齢のゆえに教室の幕が下ろされたが、「悟後の悟」のたとえになぞらえ数人の有志と月に一度、150段の石段を登り、鎌倉の松が丘文庫にご機嫌伺いに参上、小人数で先生を囲み、和気あいあいのうちに弁当を食べて一時の楽しみを共有する。
- 以上 平成12年7月20日

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