「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」

●家族館

6.「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」

三輪書店発行 編著 澤 俊二「地域リハビリテーションの源流」

-大田仁史と勇者たちの奇跡―より

「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」

1.左手の作品
2.脳卒中になってしまった
3.大田の話に心が動く
4.「片マヒ自立研究会」を作る
5.金婚式を迎え、これからしたいこと

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「編者: 澤 俊二氏の森山志郎・森山晏子 紹介」

森山志郎は1985年,脳卒中で倒れ右手の動きを失う。今まで会社人間として、がむしゃらに生き抜いてきた彼が,さて,どう生きるか。

社会復帰への確認の一つとして写真集を出す。さらに,左手での書道がこころに灯を灯す。 500時間練習法を考案する。
1991年,川崎市の保健師長原慶子に頼まれ,3人の脳卒中経験者で英語レポートの翻訳を行う。
この経験が自信になり,翌年「片マヒ自立研究会」が生まれる。
主宰者となった森山は,障害者の心を研究する。また,「歩けた!手が動いた」(主婦の友社, 1991)を出版,夫婦で発病前後のことを書く。大田に書評を依頼した。やがて,大田の監修で「心が動く」(荘道社, 2001)を書く。

今の目標は,地域を変えること。多くの役職を兼務して,地域のバリアフリー化のさらなる拡大をねらう。
夫婦は,それぞれ思うことを行い,お互いを支え合う。何かあると大田に伝え,相談をする,そんな森山の姿は,20代の青年のように生き生きしている。
人生の達人とも言うべきごく自然体の夫婦である。

森山志郎・森山晏子

森山志郎は能力再評価(Ability Reconfirmation Program)活動から片マヒ自立研究会を設立。他に自治会の交通安全対策部長,区民会議の福祉部会長などをつとめ,高齢化時代にふさわしい地域づくりを目指している。
夫の活動を蔭で支えてきた妻の晏子は介護者の立場から,
介護を考える会「アイリス泉」の代表をつとめる。

←1. 左手の作品→

1. 左手の作品 「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」

森山 僕はもともと文学肌なんですよ。父が教師だったが、あの時代、文学部へ行ったのでは飯が食えないと思って、仕方なしに法学部へ行きました。
だから時々芸術の心がうずくのでしょう。
小学校の先生は、君は芥川賞でも狙えばいいんだがな、くらい言ってくれていました。

晏子夫人 私は深刻になるより、いろんな問題にぶつかった時は真剣に考えるのですけど、できないものは仕方ないわっていうところがどこかにあるのです。だから、ちょっとそこへ置いといて,次のことをして,また考えようと思うのです。

森山 これが1990年に左手で書いた最初の作品です(森山岳堂作品集, 2004)。この作品は,今朝,書きました。隷書では水平に書くけれど,普通の楷書は右上がりに書くので,左手で書くと非常に無理をします。その点,隷「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」書は書きやすい書体です。
僕は小学生のころ相撲を取っていたので,四股を踏むという基礎訓練をやっています。
相撲の基礎訓練が今役に立ってるのです。足首も柔らかく,じっくり毎日運動を欠かしません。食後のお勝手の後片づけもしますが,これもリハビリです。家内を食後の家事から解放するということもありますけどね。
やっぱりきちんとやることが気持ちいいんです。
左手でもこれだけできるんだということです。

←2. 脳卒中になってしまった!→

2. 脳卒中になってしまった!

森山 1985年に脳卒中になりました。娘が2人横浜にいて,私は札幌で旭化成の支社長でした。 55歳で定年になって,定年を5年間延長してもらい,もうすぐ56歳になるという時でした。「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」
夕方帰ってきて,足がおかしいんだよと言ったら,家内は遊び過ぎだわって言います。

朝になっても痛みは取れません。かかとを着けられないくらい痛んだんです。ちょうど新製品の展示会をやっていまして,招待客の中に友人の奥さんがいました。その方が昔看護師をやっていまして,「森山さんおかしいよ,命にかかわるからすぐ病院に行きなさい」と。
会社の医師に診せると,すぐ脳外科に行ってくださいと。
それで,市内の脳外科病院に行って,そこでいろいろ検査しているうちに立っていられなくなり,そのまま入院しました。

家内はびっくりして飛んできました。夜中に体が硬直化するのが分かるんですね。何か足が曲がってきました。もう萎縮が始まっていました。
夜中に看護師が, 「 100から3引くといくら? きょうは何日? お名前は?」 って聞いてきますが,うるさいって怒鳴ったりしました。

晏子夫人 異状を感じたのが確か9月10日でした。痲痺が出てきたのは11日なんです。以後9月11日を命日と言うのですよ。
森山 ニューヨークと一緒だ。
晏子夫人 わが家もニューヨークと一緒で,テロにあったと思っています。

森山 ちょうどあの年の8月,日航機が御巣鷹山に落ちたんです。
僕はちょうど東京へ出張していて,羽田発6時半の札幌行きに乗りました。
搭乗口が隣同士だったのです。で,隣の搭乗口から6時発の大阪行きが出るのを見送ったのです。日航機墜落事故は毎年必ず報道されるので,報道を見るたびに,ああ,今年で何年目かと思います。

やっぱりちょっと疲れていたんだね。まあ,病気にはなるべくしてなったんでしょう。

なったおかげでというとおかしいけど,元気な時は,家に帰って家族と話し合うという時聞かありませんでした。病気したおかげで家族とゆっくり時間がもてる生活になりました。これだけ貴重なものを,本当に見失ったままの生活だったのです。だから,これを再発見できたことは大きいことでした。子どもたちも喜んだでしょうね。それまでは,うちのお父さんは何しているのという感じでしたから。

晏子夫人 石油ショックのころから,すごく忙しく,倒れるちょっと前ですと午前O時にならないと帰ってきませんでした。それでも朝は8時には出て行きます。そして頻繁に海外出張ですね。よく過労死しなかったと思います。糖尿があって,その養生をしていて,かなり厳しい体重管理をしていました。それでずっとよかったのですが,札幌に行って単身赴任になると、ノーコントロールになりました。みるみるうちに太って、86 Kg。普段は70 Kg 台なのに。

森山 生まれは大分県。小学校までは大分でした。中学校は福岡で,終戦になって父の本籍の佐賀県に帰って,佐賀で高校,大学はまた福岡。「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」
大学を出ると,筑豊の鉱山会社に入り,その時代に結婚しました。九州を離れませんでした。最後はもう全部閉山してしまって,それで旭化成に移って、今度は宮崎,それから三重県の鈴鹿工場に行きました。

そこで高度経済成長にぶつかったのです。それから営業に出て,途中で石油ショックにあい,事業のリストラ再編成で新会社をつくって,その営業責任者になりました。最後は札幌の支社に赴任しました。

旭化成は途中入社でしたが,僕はわりに発想が自由なんです。あんまり発想が自由なものだから,やっぱりちょっと目立つ存在になり,叩かれもしました。でもずいぶん楽しい仕事をさせてもらいました。
炭鉱で体験した,産業構造が変化すればどんな産業も維持できないという事実が,すごく強い意識の根になっていました。どんな産業でも,社会的に支えられなければ駄目なんだと確信しています。

それと同様に障害者も,障害者だ障害者だと言って,社会にあれしてくれ,これしてくれと言うだけでは,支える社会がパンクしたら支えられなくなる,だから自分で立って歩かなきゃいけないと信じていました。

病気をして思ったことは,幅の広い社会復帰,どういう形が考えられるかという課題への模索が強かったと思います。何かできるか分からないから,何かできるか1つずつ確認していくしかない。
僕の場合は写真が「気づき」のきっかけになりました。これは障害者になって最初の秋,患者会があって札幌に行った時に,朝目が覚めたら,正面は純白の初雪をかぶった火山,麓は深紅の紅葉です。撮りたいと思って,家内に三脚を持ってもらって,カメラをぶら下げて靴を履きました。すると,家内はずんずん先に行ってしまって,見失ったんですよ。早く撮らないと,朝陽が雲に入って光がなくなると撮れなくなる,と焦りました。 
ところがカメラは右にシャッターがあるし,片手ではどうしようもない。
じゃあ,カメラの天地を逆にしてみたら,驚いたことにシャッターが左下に来て,きっちり撮ることができました。やっぱり工夫しなきや障害者は駄目なんだよと思いました。

障害者になり退院して帰ってきて,あまりやることがないから,カルチャーセンターに行ってみました。
そこで,えらく難しそうだけど面白そうだと「正法眼蔵」の教室に顔を出しました。そこの講師をしていたのが古田紹欽先生でした。初代の松ケ岡文庫長の鈴木大拙先生の跡を継いで,2代目の文庫長という碩学でした。

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特に鈴木大拙先生は仏教哲学,特に禅を世界に広めた方でした。
その教室で話を聞いているうちに,道元の「正法眼蔵」には,心というのは仮名で書いてある部分と漢字で書いてある部分があることに気づいたのでした。

話を聞いて,一生懸命テキストを見ながらここは「心」と漢字で書いてあるし,ここは仮名で「こころ」と書いてあるし,これは一体何だろうかと。

心の働きの部分を「こころ」と書いて,心自体は漢字で「心」と書くのかなと。これは僕の勝手な解釈です。道元の仏教哲学は,人間の深層心理学の一番早いテキストじゃないかなと思いました。心理学というのも面白いなと興味をもって,心理学を求めだした。そこのグループはまた非常にいいメンバーがそろっていらっしゃいまして,結局家内もそこに仲間入りさせてもらいましたけれども,決して障害者という見方ではなくて,自分たちと一緒に仲間として扱ってくれました。心の通い合う仲間です。

←3. 大田の話に心が動く→

3. 大田の話に心が動く

森山 ちょうど「歩けた!手が動いた」(1991,主婦の友社)を書いている時,大田先生が川崎市に講演会に来られました。大田先生の講演を片手でメモを取って帰って,ここの自主グループの会報に紹介しようと思いました。
ところが,左手で取った講演のメモ原稿ですから,まともな原稿になっていません。それを大田先生に送って,「チェックしてください」と,頼みました。
すると,先生はちゃんと赤字を入れて返してくださったのです。

2回目の講演もそれをやりました。
そこでうかがった「福沢諭吉の考え」で私の固い殻が破れて,一気に原稿を作り上げたのです。これをお持ちして,「先生済みませんが書評をください」とお願いしました。その時の先生の書評が「歩けた,手が動いた,その前に心が動いた」だったのです。

「そうだ。この次つくる本は「心が動いた」にしよう」と決めました。
それで,「心が動く」(2001,荘道社)ができたんです。

晏子夫人 私は「そんな厚かましいお願いは,やめたほうがいいわ」と言いましたけれど聞きませんでした。
森山 いや,厚かましかろうが何だろうが,もうとにかく必死でした。ところが先生は全部それを几帳面に応えてくださった。

晏子夫人 ほんとうに感激しました,きれいに訂正して下さいました。

「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」森山 本(「歩けた!手が動いた」)を出したお陰で,いろいろなところに呼んでいただきました。東京セルフ研究会市民講座。「障害の受容と価値観の転換」は,日本看護学会基調講演。保健婦全国研修会,神奈川看護教育大学。
看護教育大学は10年間くらい毎年行きました。
他にもNHK教育テレビのシルバー介護講座,これには大田先生のお供を私ども夫婦がさせていただきました。
佐賀県唐津市のケアを考える会,旭リサーチセンター,地元金沢区の機能訓練教室。

話す前に原稿は作りますけど,話した後,言葉足らずなところとか補正して,自分自身の自己教育をしたり,ああやっぱりこうなんだなと再確認したりします。看護教育大学で毎年,話をすると,去年までこのテーマを話していたけど,今年はこのテーマを話したいというのがあるわけです。

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それは,がんで亡くなる方の死の受容の状況を拝見して,障害の受容とは全然違うと判断したからでした。死の受容は,もう黙っていれば過ぎ去るものだろうけども,障害の受容は,そこで踏ん張って,立ち止まって,もう一度,社会で闘うという局面があるのだから,やっぱりこれは基本的に違うということを話しました。

最近では, 2004年6月30日に,夫婦で「障害と共に生きるということ」のテーマでお話をしました。
こういう機会を与えられることによって,いろいろ問題を掘り下げて考えていくことができました。話す対象が違いますと,この人たちに何を聞いてほしいか,何を伝えればいいかということを考えます。看護学部の学生さんにはこういうメッセージを伝えようとか,町の障害者の集まりにはこういう話を中心にしようとか,やはり聴きたいものがないと,どんないい話でも受け容れてもらえないですからね。

←4. 「片マヒ自立研究会」を作る→

4. 「片マヒ自立研究会」を作る

森山 発病する前から1日1行,日記を書いています。
それによると、1991年10月に,「歩けた!手が動いた」の出版記念会の司会を川崎市の保健師の長原慶子さんに頼みました。
するとオーストラリア出張の報告書を書くので忙しいと断られたのです。
では,資料の翻訳を手伝ってあげるからと無理に司会をしてもらいました。

晏子夫人 それでその英文の資料を主人と木村吉太郎さんと青沼浄さんと3人で「イラワラ女性地域健康センター」の翻訳したのです。それが「片マヒ自立研究会」の始まりです。皆様,いろいろな能力が残されていることに気づかれて,それを大事にしようと,片マヒの方に呼びかけました。

森山 その翻訳作業を,「脳血管後遺症リハビリ能力再確認プログラム活動「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」作業グループ」と勝手に命名しました。やってみたら案外できるものがあるらしいと,感動したのでした。最初は忘れていた単語が1頁にいくつも出てきたけれど,2~3週間すると,不思議なことにもう大体分かったなんて言いだして,完成させました。長原さんがそれを出張報告書へ付けて提出するので,全部私かワープロで整理しましたから,ワープロの技術も急速的に伸びてきました。

3人集まれば,案外できることに気が付きました。それで,能力の再評価活動をやろうということになったのです。

Ability Reconfirmation Program (能力再評価)と勝手な造語をして,3人の小さなワークショップを始めました。

その延長で,長原さんに武蔵小杉婦人会館を借りてもらい、1991年12月12日に第1回研究会「心のリハビリつて何だ」を開きました。その後,正式に「片マヒ自立研究会」を立ち上げ,今に至るまで毎月1回やって, 2006年9月には100回を迎えます。

晏子夫人 長原さんとのご縁は,長原さんにお世話になった障害者の方が泉区に転居してこられ,一緒に「泉睦会」という会をつくったことがきっかけでした。その方を通じて長原さんとお知り合いになりました。
片マヒ自立研究会も,設立当初からずいぶんお世話になっています。神奈川県のナイチングール賞も受けられた,とても立派な保健師さんです。

森山 1992年6月29日,長原さんに来ていただいて,桜木町で「片マヒ自立研究会」の設立総会をしました。「本会はボランティア団体『片マヒ自立研究会』と称し,脳卒中のため治らない障害を得ても,人間として完成を目指すことが,この会の大きな目標である」としました。

しかし,片マヒ障害者が再び立ち上がるには,まず自分の心が自立しなければならないという私たちの素朴な体験に基づいて,障害をもち,生き方を自分で見つけることが非常に重要であり,その「工夫をどうやって多くの仲間に伝えたらいいのかという課題を研究し,実践するボランティアグループ」としたのです。片麻痺障害者でなければ気がつかない工夫や知恵を集めて,1人でも多くの仲間が立ち上がる手助けになればと思いました。これが設立の趣旨です。

「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」定期的に会報「元気」を発行することも決めました。活動として,能力再評価ワークショップ,ピアカウンセリング,ワークショップを行うことも話し合いました。長原さんには顧問になっていただきました。

片マヒ自立研究会は,大体は横浜中心で,遠い方は岐阜からもみえます。岐阜,東京,川崎,横浜,この範囲の人が月1回集まりますが,場所は横浜の県民センターです。とにかく障害を得て,一応社会復帰した方や目指す方が中心です。

僕らの研究会にはいろんな方が来てくださるんですけど,たまに障害者がしゃべると,非常に攻撃的な話し方になるケースがあります。

ある時参加された方がその光景をご覧になって,「森山さん,障害者のグループではアサーションのトレーニングをやるといいわね」と言われたのです。
アサーションというのは,人との付き合い方,対話の仕方で,要するに人の話はよく聞けということです。だから,障害者と付き合うときには,討論や説得よりも,もっぱら聞くようになりました。
そのため,アサーショッの勉強会に4~5年行ったと思います。

それで,エリクソンとかフランクルとかに出会うことができました。
広島大学の岡本祐子先生の『中年からのアイデンティティ発達の心理学』(ナカニシヤ出版, 1997)という本を読むと,要するにアイデンティティの修正という問題,今までは障害をおって,自分が自分でなくなっていたものが,アイデンティティを修正することによって,1つずつ問題が解決されるという考えです。
大田先生の講演で教えていただいた,福沢諭吉の「一身にして二生を経る」,その生き方を実践しています。今はわりに自由に生きています。
だから,2人ともそれぞれの活動計画があります。

「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」晏子夫人 ええ,路線は同じですが,私は介護者の立場の活動で,「介護者を支える会アイリス泉」の代表をしています。これは精神的なサポートが主体になります。今はもう老人介護が多く,終末期をどのように介護したらいいのかなど,色々と学ぶことが多いのです。
アサーショントレーニングを受けたことが,私にもすごく役に立ちました。まだ,不十分ですが。

例えば,会社の中にいる時は何か1つの共通の文化がありますでしょう。だから,そういう中で話ができます。だけど,その共通文化のない,一般社会の中に行きますと,いろんな方がいらっしゃるから,どうしても私の基準では追い付かないのです。それぞれの方の基準でお話をうかがうようになりますので,すごくお勉強になります。
とんでもない反応を示される時もありますので,とまどうこともありますけど。

森山 本当は世間にはいろいろな人がいても,今までの仕事上の付き合いというのは,大体似通った職責の人しか来ないし,非常に同質性の社会の中での人間関係になります。
それが障害をもった場合,障害があるというだけの事実で集まってきますから,さまざまなことが起こります。やっぱりその日が楽しければいいという人も結構多いわけです。こちらで「そんなことでは駄目だぞ」なんて言っても,通用しません。結局,まあ,それもいいかと,妥協してしまいます。
であれば,こちらはこちらで納得のいく人生を考えるしかないことになります。

←5. 金婚式を迎え,これからしたいこと→

5. 金婚式を迎え,これからしたいこと

森山 人生,いろいろと分かれ道には必ずお地蔵さんが立っていて,僕に道を示してくれます。不思議です。大田先生は,もうご本尊です。「障害者心理を探求」―「森山志郎・晏子対談」
大田先生に出会う前に写真集を作った時に,いい気になって,さあ障害があってもこれでやるぞといっていたら,病院のOTさんから,「森山さん,ところで障害の受容をどうやったの」と言われました。

うーん,内心実は困ったなと思いました。
それはちょっと,逃げていたからなのです。逃げていたのでは駄目だと思い,それから初めて真剣に取り組んだんです。
写真集を作る前には,もう闇雲に元気出せ,元気出せで,精神的にはその日暮らしの有様でした。

最初,長原さんとの出会いも,長原さんが川崎で,みんなに会報を作ってやりたいけど,誰か手伝ってくれないだろうかという話が僕のところに来たんです。そこで「いいよ,僕はワープロが使えるから,手伝ってあげるよ」と引き受けました。それで原稿が来て、うちでそれを作った。
それが長原さんとの長いお付き合いのきっかけになったのです。だから,左手でワープロを使えていたということが大きかったのでしょうね。

障害者にならなければ,やっぱり歩くことができなかった道なんですよね。
これで相変わらず元気よくて,昔のように仕事していたら,忙しい忙しいと言って,飛んで回って,今期いくら,利益いくらとかいうことばかりに関心が集まり,あそこの取引先が,あそこの銀行がどうも危ないみたいと,ストレスが溜まる生活が続いたでしょう。
だから,そういうところから解放されたのがありかたいことです。

90歳というのが1つの目標です。でももう75歳でしょう。
次の5ヵ年計画を考えています。1つ,この地域社会のバリアフリー化か進んだ。小学校区自治会の交通安全。それまで自動車主,人間従だったのが,それではいけないとなって,皆さん協力してくれています。
これがまだ泉区の中でここだけですから,これをもっと面として広げる仕事が残されています。そして,マンションだと1階の方でも車いすだとどうにもならない,やっぱり最低3段から8段の段差があります。時間はかかるけど,バリアフリー化を拡大したいと思っています。

すぐ金婚式を迎えます。 11月15日が結婚記念日です。そこで,2人で米国で休暇をとろうと考えています。今,娘がちょうどロサンゼルスにいるものですから,娘の監督を兼ねて行って,どこか自然公園でも見て,それを金婚式行事にしようと計画しています。

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後日談
11月10日から19日まで,金婚式を祝って老人夫婦でロサンゼルス・ラスベガス・グランドキャニオンに行きました。行く時は「納めの舞」のつもりで帰国後は一切の仕事から離れようと思っていたわけです。
しかし,「百聞は一見に如かず」の諺どおり,日本では知られていない文化に触れショックを受けました。
私か接触のできたごく限られた文化にうたれたのです。

帰国して「旅行記」を書き「アメリカ史」を調べ直しました結果,方針を変えることにしました。「私は,もう75歳ではなく,まだ75歳なのだ」。
そして「補聴器」を整えコミュニケーション能力を確保し,歯医者に頼んで入れ歯も強化しました。そして,趣味の習字を続ける一方,市民活動としての「区民会議」では次の世代のための活動を継続することにしました。
障害者グループ「片マヒ自立研究会」でも未整理の「片マヒ研究」の諸課題を整理することに目標を絞りました。
この2つの仕事は,許されるかぎり,続けて行きたいと思っています。

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