2.片マヒ自立研究会 機関誌創刊

●片マヒ自立研究会 機関紙・記念講演会

1号(創刊号)

片マヒ自立研究会 創刊

「創刊に当って」

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • これは脳血管障害の後遺症に苦しみ、それを克服して社会復帰を果たした、自立研究会の会員からの報告です。それを皆様にお届けして、一人でも多くの方に読んで力づけたいと思い会報を発刊することを決意しました。

  • 私たちは、片マヒの障害を持ちながら、自立した人生を歩くにはどうすれば良いか、皆で工夫しました。そして今では多くの会員が充実した人生を送ることが出来るようになりました。そこで、「私たちの体験を退院前の方々にお伝えして希望を持って欲しい」、様々な障害を持つ全員がこの会報に寄稿することにしました。これが皆様の心の琴線に触れて希望の響きを奏でることが出来ないか。こんな思いで、創刊号お手元にお届けします。

「生き生きて 今生命あり春や春」

森山志郎

  • この句は私が私淑していた古田先生が88才の時に詠まれた歌です。
  •  皆さんは、生命に関わる大変な病気を経験しても、幸にも無事に生命を維持できました。心から「今、生きておられて良かったですね」と申し上げます。この句のように、どうか「生き生きて」下さい。そこに始めて「生命」の尊さや大自然の喜びがやってくるでしょう。
  •  しかし、中には、「とんでもない、こんな体になって、どうやって生きていくのか」と嘆き悲しむ方もおられるでしょう。

  •  私たちのこの病気は、治らない障害が残ることに注意して下さい。この障害はとても辛く、他の人に分って貰えないほどの辛さなのです。後遺症は一人一人違います。56才の私は右マヒで、右手も右足、そして言葉も不自由でした。右利きの私は、たった一晩でこんな役立たずになったのです。そのショックで、惨めな自分を見て、これ以上生きて行く値打ちもなくなった、もう自殺するしかないと、思い詰めた事もありました。

  • 「さあ、新しい人生に出発しましょう。」
  •  そんな時、「おはよう!」という声に目覚めると、強い朝の光が一筋、部屋に射し込んでいました。その光を見て「ハッ」としました。「今、私は死の渕に立っていた」と目覚めたのです。その日から17年、仕事人間だった私は、地域社会の中で、次の世代が住み易い街にしようと夢と希望を持つ72歳の老人になりました。そして、社会復帰を果たした障害を持つ仲間と、自立研究会を作り、障害者がどうすれば社会復帰が出来るか、こんなテーマと取組んでいます。

  • 退院したら、本格的に社会復帰のリハビリになります。でも道が平坦でなかったり、動作のテンポがあわなかったり、次第に外出が嫌になる人が出てきます。そして、孤立すると機能が低下してしまいます。
  • 一人一人の個人差がありますから、専門家に判断をしてもらって下さい。右手が使えなくても、人生に残された時間が短いことに気が付いた私は、残っている左手を訓練して工夫をし、生活が出来るようになりました。勿論、妻の支えが大事です。
  • 移動する力も、足に簡易装具をつけ、今だと、2キロから3キロは歩けます。
  • 大きな声で朗読をしたり、積極的に人と話して、電話も出来るようになりました。

  • 退院後の生活には次を参考にして下さい。

    • 1.仲間を作るー地域の「リハビリ教室」で、仲間と励ましながら訓練して下さい。家族
      • の方はその努力を褒めて下さい。そして絶対に孤立しない、させないことです。
    • 2.焦らないー脳卒中になり易い習慣と体質の改善をして「リハビリ」を進めましょ
      • う。習慣と体質の改善には主治医に協力してもらって下さい。
    • 3.価値観ー世の中には経済的な価値観以外に多くの価値観があります。今後の人生に
      • ついて、ゆっくり考え、家族と良く話し合って下さい。
    • 4.出きることを見つけるー日記や手紙を勧めます。今日できなかったことは、来週も
      • う一度挑戦して下さい。できることを一つずつ見つけ出して大切な武器にして下さい。
    • 片マヒ自立研究会 創刊5.「リハビリ」は、手足の自由の他に、生き生きとした生き方を見つ
      • け出すことです。生活の質を高めることです。どうか、これを忘れずに。では幸運を祈ります。「さあー、新しい人生に出発ですよ!」

LinkIcon

「私は突然に」

平井咲恵子

  • 平成4年1月不意に脳梗塞に見舞われました。38歳の時です。明け方トイレに行こうと起き上がりかけたら動けないでいる私を友人が病院へ、移動中後頭部が痛かった記憶と、気付いた時にはベッドの上(この間1~2日ほど昏睡状態)、縛り付けられて、3度の食事を傍らの母に食べなさい食べなさいと叱咤激励?異常なまでの拷問であると感じられたことでしょうか・・・

  • 今回「入院当時の悩みとそれをどう克服していったか」「退院を不安に思っている患者さんに贈りたいこと」がテーマですが、私は1種2級の障害手帳を持つ身で、発病から11~12年たてども、いまだ障害の受容も克服もできておりませんが、笠井さんの「暮らしのハンドブック」で親切と同情の違い、脳血管障害者の先輩から後輩へ・・・とか読んでいるうちに不思議と元気が出てきて書いてみようと。
  • 入院時の悩みといえば、リハビリ、リハビリとリハビリ三昧の生活・・・
  • 入院中あるいはリハビリ中というのは格好の逃げ道になるし、希望にも繫がる。
  • それがなくなることが一番の不安だったのではないでしょうか。

  • 人間は希望をもつことが一番の生きる力となると思いますし、それと大切なのは自分の精神力そしてその希望はそのときそのときで自分で見つけるものであり、自然に与えられるもののようです。

  • 聖書かなんかの本でしたか『神は人に耐えられないほどの苦痛はお与えにならないと、必ずや耐えられるくらいの苦痛と試練をお与えになるとか』まさにそのとおりだと実感しています。
  • 私は間違ったダイエットでこのような病気になったのだと思っています。頃はバブル時、何でも手に入る、好景気、皆が浮かれ気分・・・我が家にいながらにしてサウナに入れる、私も頻繁に入りました。水をしっかり飲んでから入ると何ともないのでしょうが、睡眠不足、過労時はいけません。適度な疲労なら回復に繋がりますが・・・

片マヒ自立研究会 創刊

「娘の一言から」

野坂 允(まこと)

  •  平成11年8月14日(土)雨が強く降るむし暑い朝7時過ぎ、出勤途中ホームで崩れるように倒れる。担架に乗せられ救急車で病院へ行く。所持していた手帳で家に連絡され、妻がすぐ来てくれた。

  •  気がつくと、左半身が重く痛くて何としても動かない。体の各部に管が取り付けられている。一体どうなったのか。これまで一度も入院したことなく健康で過ごしてきた私にとって非常にショックであった。その夜は眠れずにいた。「ウーウー」と苦しそうに喉をならす音、「キッキッ」と計器類の音などが鳴り、重病の人と同じ部屋にいると気付いた。

  •  次の日、様子を見に来た二人の娘はマスクをし白衣姿である。
  • 「左半身が重くしびれていて動かない。無理して動かそうとすると痛くてどうにもならない。立つことなど、到底だめだ。とんでもないことになった」と嘆いたら、上の娘に、「お父さん、何言っているの、まだなったばかりじゃないの」と、慰められるどころか、バキッと言われてしまった。私は、いつも娘二人に「頑張らなければだめだ。すぐ諦めるな」と言っておきながら自分のことになったら、すぐ弱音を吐いてしまったことに気付いた。
  • 「よし、弱音を吐かないようにしよう」と心に決めた。

  •  続いていた腹痛や微熱が治まり病室も移され、入院して12日目に、リハビリ室に行く。平行棒につかまり支えてもらって立つ。台に座ることもした。もう体を動かしてもいいんだと思い、定時の点滴のない時間に、寝てばかりいないで何かしなければと、足元に畳んであった夏がけ布団をベットの端に押し下げて高くして、その上に右手で左足を持ち上げて乗せ、右足、左足を交互にベットの枠に足踏みするように足の裏を押しつけた。特に、左足は足の裏全体で押し付けるように心掛けた。疲れないようにして繰り返し行った。何日か経って、左足を手前に引いて前に出す足踏みのまねごとのようなことができるようになった。

  •  以前に発症し再入院された方が同じ病室にいた。その方は、悪い方の足をかなり振り回し、着地も斜めになっていて歩き方が不安定である。
  • 奥さんが私のやっているのを見て「そうやって動かすのがすごくいいんですよね。主人が前に入院した当時は、リハビリの施設が整っておらず、寝てばかりで動くことが少なかったんですよ」と言われた。私は意を強くして続けることにした。

  •  その効果があったのか、ベットの枠につかまり足の裏を床にしっかりと着けて立ち伝え歩きができるようになった。車椅子にも一人で乗れるようにもなった。看護師から勝手に動かないように言われたが、無理にお願いしてベットの右脇に車椅子を置いてもらう。それからは一人で車椅子に乗り右足で漕いで病院内を動いた。これが右足の運動になり、その後の立ち歩きにも役立ったようだ。車椅子で動いている様子を見ていた看護師から、左肩を脱臼しないように三角巾で左腕を吊るようにされた。

  •  自分勝手に足を動かしたり、車椅子に乗ったりしたことは、良かったのかどうか疑問だが、病院内をどこへでも行けるようになり、晴れやかな気分になった。リハビリ室にも進んで行き、リハビリにも励みが出たことは確かであったと、自負している。

(以下、次号)
片マヒ自立研究会 創刊
LinkIcon

「職場復帰に向けて」

今野修一

  • 発病は平成4年11月29日の午後5時ころ、単身赴任中の明石市でした。脳出血であり、即手術を神戸市で受けました。現在、その後約10年間を経過しております。
  • 病気にかかったとき、こんな体なら死んだ方が良いと思いました。しかし、3人の子供が小さいし、妻や母たちは生活に困ってしまうだろうと考えました。自分が頑張れば何とかなる。そう思って、絶対に職場復帰をしなければならないと考えました。

  • 上司は職場復帰をするようにと「お前なら必ずできるよ!」と言ってくれました。それからは、職場復帰に向けて行動を起こしました。復帰にあたって困ったことは何件か出てきました。

  • ① 話すこと、聞き取ること、相手と意思を通じさせること・・・医師は3ヶ月もすれば、
    • 話すことできるよ、と言って対策をとってくれなかった。実際には5~6ヶ月たってもだめであった。そこで言語療法士がいる病院を見つけて通った。職場復帰まで約1年間通い、以降は会社で実地で回復を図った。

  • ② 通勤すること・・・幸い車で通勤可能な鹿沼工場であったため、またそこの総務課長が
    • 同期の入社の人で復帰・転勤について骨を折っていただいた。しかし、左手・左足での運転であり、公園墓地を利用して運転の練習をし、運転免許所で最終に制限付きで許可が取れた。

  • ③ トイレ(大便)・・・会社で洋式のものを用意してもらった。

  • ④ 会社の事務棟と工場棟の行き来する階段が必要となった。・・・これは一人用のリフト
    • を用意してもらった。このようにして、なんとか障害を乗り越え、職場復帰を果しました。

片マヒ自立研究会 創刊



片マヒ自立研究会 創刊

「退院後はピア・カウンセリング」

笠井雅雄

  • 退院時に完全看護の病院から自宅へ帰るにあたり「もし何かあったらどうしよう」という恐怖が常にありました。特に私の場合は血圧恐怖症であり血圧が高くなったらどうしようという恐怖が常に頭を離れませんでした。もちろん、退院当初は精神安定剤を飲んでいましたが、それでも不安はぬぐえませんでした。毎日血圧を計測するたびに不安でドキドキします。ドキドキすると血圧が高くなり、血圧が高くなるとまたドキドキするという悪循環に陥ります。

  • また、暑い時にも、天気が悪くなっても、寒くなっても頭がポワーンとしました。そして頭がポワーンとするたびに再発するのではないかとの恐怖に駆られました。冬は寒さがこたえました。いくら厚着をしても震えがとまりません。特に寝るときいくら布団を着ても寒くて震えが止まらないのです。不眠症にも悩まされました。このような不安と恐怖の連続でした。

  • 脳血管障害は身体が麻痺するという機能障害だけでなく、体調不全や精神的障害(トラウマ)も過酷です。私の場合、発症して4年になる現在でもいまだにこれらの恐怖は克服できておりません。こういう体調不全や精神的後遺症(トラウマ)を医者に相談しても回答は帰ってきませんでした。
  • とはいえ、発症後1年経ち、2年経ち、年月が経つと少しずつ体調は改善してきます。また、周期的に襲ってくる体調不全に対しても「同じことが前にもあった。あのときも乗り越えられた」と自分に言い聞かせることにより恐怖が和らぎ自分の身体に対し自信が少しずつついてきます。しかし、これは1年経ち、2年経っていえることでありその時々の苦悩と恐怖はやはり深刻なものでした。

  • そこで知ってほしいのは、そういう不安を抱きながら生活しているのは自分だけではないということです。私の場合、障害者スポーツセンターで知り合った同病で1年先輩のMさんから「私も1年前はそうだった」という話を聞いた時「ああ自分だけではなかったのだ。Mさんも同じ経験をしているのだ」そして「自分も1年後にはきっとMさんのように少しずつ良くなるのだ」と恐怖心が和らいできました。

  • その後、多くの先輩や同輩の話を聞くと彼らもみんな同じような悩みや恐怖心と戦いながら生きているのだということがわかってきました。この「自分だけではない」ということを知ったことはずいぶん救いになっています。

  • そういう意味で病理学的治療やケアーはできないにしても精神的ケアーは同病の先輩に勝るものはありません。このように同病の仲間や先輩と相談し救いを得ることをピア・カウンセリングといいます。日本ではピア・カウンセリングはまだ普及していませんが片マヒ自立研究会の仲間とこれから普及させてゆきたいと思っています。

  • また、このピア・カウンセリングは後輩のためだけではありません。カウンセリングをする先輩にとっても自分の経験を話すことで人の役に立て社会参加できるという充実感が得られます。そして何より仲間の輪が広がることによってともすれば孤独になり引きこもりがちになる障害者の生活が豊かになるのです。

  • 「天は自ら助けるものを助ける」という言葉が好きです。
  • 自分だけが苦しんでいるだけではありません。お互いに助け合いこれからの人生を前向きに豊かにするべく勇気を出して一歩踏み出してください。

片マヒ自立研究会 創刊
LinkIcon

「ハーモニカを心の友にして」

山口正義

  • 私は還暦を迎えた頃、老後の趣味として、なにか一つの楽器を演奏できるようになりたいと、できればその音色からフルートでもと思っていました。
  • ところが63歳の時、不覚にも脳梗塞に倒れ左半身マヒのため両手を使ってなにをすることもできなくなってしまい、好きだったゴルフも諦めざるを得なくなり淋しい思いがいっぱいでした。

  • 2000年12月から1年1月にかけてNHK教育テレビの趣味悠々の番組で女性講師による「もう一度吹いてみようハーモニカ」が放送されたのを見て、昔、小学生時代に吹いていたなつかしいハーモニカの音色を思い出し、これなら右手一本でも演奏できると思って翌月からならうことにして、今も月に二回、教室に行って習っています。

  • 私のような戦中派の人間は楽譜は読めません。ハーモニカは数字譜なのでなんとか吹けるようになりました。
  • ハーモニカは少し進んでくると曲によっては二本以上持って吹くばあいもあるので、考えていたところ、クリスチャンで障害者に理解のある先生が二本のハーモニカを連結して細い鎖で首から吊るして吹けるように工夫してくれましたので、右手だけで楽に操作して吹けるようになりました。

  • 今のところまだ初心の域を出ませんので、主として童謡と叙情歌を練習し、同病者の会で、ソロで吹いたり、また、仲間と発表会に合奏出演したり老人会や介護施設へ訪問演奏に行ったりして楽しんでおります。

  • ハーモニカは心が躍り、痙性(けいせい)が強く左マヒに苦しむ不自由な体を持つ七十路の私を追い出して、気持はすっかり少年気分。不思議な、不思議な小さな楽器。まさにハーモニカはタイムカプセルだと思っています。

  • これからもこの小さな楽器を心の友として、元気に明るく楽しく生きる喜びと感謝の日々を送っていきたいと念願している次第です。

片マヒ自立研究会 創刊

「障害と昔の恋と愛妻と」

河野元一

  • 片麻痺は天の与えし我が個性
  • 仲良くありて人生ヨーソロ

  • 障害も天の恵みと受入れて
  • 老前の身を愉しく生きん

  • 空高く雲流れゆく琵琶の湖(うみ)
  • 若き日の恋人(ひと)思い出ずる日

  • やはらかに木の間抜けゆく京の風
  • 背に受けつつも妻と旅往く

片マヒ自立研究会 創刊

LinkIcon

「夫の介護手記」

家村富美子

  • 昨年のクリスマスには皆様と楽しいひとときを過させて戴き心より感謝申し上げます。主人を看病する事1年10ヶ月、その間10ヵ所病院を点々と移り、看病する私自身も過労で入院する日々もありましたが、やっとオルガンを弾いたり、読書のゆとりも少し出てまいりました。脳梗塞と心筋梗塞をかかえて主人は今も心臓の痛みや手足の痛みを持っておりますが、じっと耐えて「全ては運命だよ」と耐えている姿を見ているつらい日々でございます。

  • 私もこの現実を受容し「あるがまま」の自分を生きて行こうと思っております。

  • 先日は皆様のお元気な歌声をお聞かせ戴き又、私への助言等有難く感謝して帰ってまいりました。“持っていないものでなく持っているもので何が出来るかを考えよう”と言うヘミングウエイの言葉を主人に話し今残された動く右手で、いつか絵を書きましょうと希望を持つように進めています。又「人間の体は希望の方向に働く牽引に反応します。だから患者の希望こそが医者の秘密兵器なのです。すべての処方にふくまれている成分それは希望です」とノーマンカズンズも素晴らしい事を言っています。希望をもちましょう。そして今を生かされている事に感謝しましよう。

  • 病める夫を持ちながら、私は短歌をつくることでその時々の自分の心を正直に文字にする事によって常に自らの心の整理をし、又それをたのしみともしています。これは丁度夫が脳血管センターに入院していた頃、私は毎日かよい続けましたそのゆき帰りに作りました拙歌でございます。
  •  皆様の御健康とお幸せを心よりお祈りし、又いつかおめもじ出来る日を楽しみにしています。

  • 「短歌に思いを寄せる」

家村富美子

  • 未知数の明日は思はじ病夫を押す
  • 車椅子昨日より今日は重たし

  • 数知れぬ愛受けて我は生くる
  • 明日は知れぬ身に揺らぐにちにち

片マヒ自立研究会 創刊

【会の紹介】(あなたも参加しませんか?)

2号

片マヒ自立研究会 機関誌2号

目 次

「巻頭言」 「みんなの花」を! 

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • 気がついたら、右手は動かないし、寝返りをうつと体に敷きこんで「手がなくなった!」と大騒ぎもした。足はあっても自分の意思で動かないデクの棒だった。訓練が始まっても足は砂袋もまたげなかった。退院した私に友人が一冊の詩集を届けてくれた。
  • そこに「念ずれば花ひらく」という詩があった。

  • 体を電気がはしった。「念ずれば」「念ずれば」と口の中でつぶやきながら歩く訓練をした。「私でも花が咲くのか」「どんな花だろうか」一生懸命に汗をうかべて歩いた。今では、一人で外出ができる。そして私の失敗を教訓に、次の世代がすこしでも良くなるような活動をしている。本当に「念ずれば花ひらく」を実感している。さあ、皆さんも一緒に花を咲かせようではありませんか。

「転院とリハビリ」 (その2)

野坂 允

  • 救急病院に入院してから一ヶ月がたとうとした時、主治医から「ここは救急病院で病状が落ち着き、あとはリハビリが主になるので、その方の病院へ移って下さい」と、二つの病院を言われた。
  • 迷っていたところ娘がインタ-ネットで調べる。副院長が神経内科診療を担当されて、科の概要を紹介していたK病院に決めた。

  • 早速妻がK病院へ紹介状を持って行く。相談室で「インタ-ネットで調べて来た」と話したところ、幸いのことにその方が副院長だったので,発症時の入院でなくリハビリが主の患者は分院でそちらの担当医に伝えてくれた。分院で「患者を診察しないで入院させられない」と言われた。

  • 早速今までの診療資料を調えてもらい、妻の介添えでタクシ-でK病院へ行く。
  • 診察後ベットの空き次第転院できることが決った 。その間数日かかった。
  • 発症して約一ヶ月後転院、四階の一番奥の四人部屋、広くて入口の近くなのでベットの 脇に車椅子を置いてもらう。

  • いよいよリハビリと思い、6時の起床とと もに着替えをする。車椅子でトイレ・洗面へ行く。ここでも看護師から「勝手に一人で行かないように」注意される。二日後リハビリ室へ。主治医、理学療法士(女)看護師の見守る中、装具支柱付靴を履き平行棒の間を歩く。血圧、脈拍を側定。前の病院と違い何か本格的なリハビリが始まった気がした。
  • 数日後に手のリハビリも始まる。

  • 私も病院に慣れて、装具支柱付靴を履き車椅子で廊下に出て握り棒に掴まって立ちガラス越しにバス通りや来院の車や人の出入りを見たり、そこで背伸び、屈伸運動、手伸ばしをするようになった。

  • OTが終わるとその長身でがっしりした療法士(男)が続けて歩き方を見てくれた。鏡の衝立てを前方に置き、床に真直ぐに張られたビニルテ-プの上を杖をつき歩く姿を見て体を傾かせないよう歩くよう厳しく言われた。そして左側を支えてくれたときは杖をつかずに素足で歩かされた。

  • 数日後、リハビリ室を出て階段を上る。途中の踊り場に椅子を置き疲れると座らせ、上まで上らせる。下りは近くのエレべ-タ-で下りる。次に院内のエスカレ―タの乗り降りの特訓もしてくれた。病院の庭を歩くこともあった。課題が次々と行われた。

  • そのお陰で、杖をつき装具支柱付靴で積極的に院内を一人で歩いた。疲れた時だけベットに横になった.とうとう庭の噴水のある藤棚のベンチに良い空気を吸いに行く。

  • 約一ヶ月後外泊して家で生活できるかやってみた。まだ家の上り下りや風呂に入る などに 介護が必要であった。
  • 病院でリハビリが続く。風呂に一人で入れるようになった。庭もよく歩くようになった。

  • 転院して二ヶ月(発症して三ヶ月)して退院。地区の病院にリハビリ通院の紹介状をもらう。三つ目の病院で「こんな早く退院させてよいのか。しょうがないな」と言われたが渋々受け入れてもらう。
  • しばらくの間妻の付き添いで二つの病院へ通う。だがたいへんなので三つ目の病院だけにした。

(つづく)

片マヒ自立研究会 機関誌2号

LinkIcon

「コスモスの花は咲く」

佐藤万宜

  小さきは
      小さいなりに
  折れたるは
      折れたままに
  コスモスの
      花は咲く

   (しいのみ学園長 昇地三郎)

  •  平成7年11月脳内出血で倒れたときは、妻と下の娘がいたので助かりました。救急車のなかで、必死にとりすがっている娘を見たとき「この娘とバージンロードを歩くまでは、死ねないなあ」と思っているうち気を失いました。
  •  横浜栄共済病院で4ヶ月、七沢リハビリテーション病院脳血管センターで4ヶ月リハビリを行いました。
  •  まだ53才、家のローンもあり、学生の娘も居るのです。
  • こんな体ではたして復職できるのだろうか?
  •  悶々としているうちに、一時帰宅が許され、家に帰ってきました。
  •  ちょうどテッポウユリが咲いていて、いい香りを放っておりました。
  •  それを見て
  •  私がこんなに苦しんでいるのに、自然はなにも変わったことのないように悠々と流れている。私のことなど意にも止めていない、と感じました。
  •  そこでハッと
  •  小さいことに
  •      くよくよするな
  •  しょせん すべては
  •       小さなこと
  • と、気がついたのです。

  •  それから復職に向けていろいろ試みましたが、簡単に復職できるわけがありません。
  •  「元気かい」「横浜総合リハビリセンター」「片マヒ自立研究会」など多くの方々の支援と会社の上司のあたたかい受け入れによって、ようやく復職を果たすことが出来ました。
  •  倒れてから実に2年6ヶ月の月日が流れておりました。

  •  この不況で、定年までは勤める事は出来ませんでしたが、会社の計らいで失業保険から厚生年金につながるようにしていただき、何とか生活の維持を保っております。
  •  去年の夏、救急車のなかで必死にとりすがっていた娘も結婚し、念願のバージンロードも歩くことができ、感無量の想いをいたしました。

  •      「幸せ」
  •  あなたは だれの幸せですか
  •  あなたの笑顔 あなたの言葉
  •  なによりあなたが生きていること
  •  それだけで幸せと思ってくれる人のいる
  •  幸せ           (堤 江美)

片マヒ自立研究会 機関誌2号

「リハビリについて思うこと」

古川 猛(生涯学習2級インストラクター)

  • 私は5年前の62歳の時右脳梗塞で左片マヒの脳血管障害者となった。
  • 入院直後に胆嚢炎になり、急性期の脳梗塞リハビリができる状況でなく、胆嚢炎がほぼ治癒状態になってから急性期と中性期のリハビリを終え、軽度の痴呆を残して退院し、その後は通院と自宅療法で今日に至っている。
  • 障害の受容といえる時期は、退院してからの左半身の激しい疼きと合併症による排尿・排便障害の体内不調と体調不良による鬱状態で悩んだ時と言える。
  • 脳梗塞に倒れてから癒しつつすることで年ごとに回復に向かい、この間に併せてリハビリテーションの受容を身に染みるほど体験したものとして以下に纏めてみた。

  • 「障害・リハビリの受容(含む心のケア)」に関しては、医療関係者の説明では納得できず、先生方と意見衝突していた時期が1年から2年間続いていた。その後、自分でこの不治の病を治すことに挑戦し始めた。
  • 「障害の受容」に付いては、医療関係者が説明するにも難しさがあり説明側のレベルについても色々あり、医師も療法士も逃げ腰のように感じた事もある。

  • 障害についてはWHOで明確に定義されているが、「障害の受容」に付いては、明確な定義がなく、人間の尊厳をそこなう状況に追い込まれて、(医者からも廃用症候群・高次機能障害者としてその都度見捨てられ)、自然治癒力からも見放されたと感じたこともある。
  • 「リハビリ」の受容は後遺症脳血管障害者にとっては不治の病との闘いである。苦しいリハビリ道場も含めて、中性期から安定期のリハビリの関わり方に大きな疑問を感じている。

  • 第一ステップの急性期から中性期のリハビリはADL(日常生活活動)を機能訓練しながら人間としての尊厳を取り戻し、地域の人と共生していくことができるようになることである。

  • ステップ2ではADL重視のリハビリから脱皮しQOL(生活の質)を高めて自立できる準備のためのリハビリ教室でありたい。
  • 筋力とバランス感覚の復活を目指したストレッチとそれに関係する運動のリハビリ教室を目指すこと。

  • 最近特に言われるパワーリハビリや、横浜ラポールの機能訓練教室に相当するものだと思う。
  • ステップ3は自然治癒力を高めること。
  • ステップ4はストレスに強い・精神免疫力を高めながらステップ1とステップ2のリハビリを上手に組み合わせて、総合して機能訓練中心だけでなく、復職・心のケアも含めたピアー・カウンセリング的教室が必要だと思う。
  • これを自立支援のためのプロセス&システムリハビリ医療とよぶべきでしょう。急性期から回復期の自立支援のプロセス&システムリハビリ医療では本人が努力するための動機づけやそのプロセス&システムのリハビリ医療技術の改善などにつての研究が必要であると痛感している。

 (リハビリ医療の質を高めよ!)

                以上

  • [こころのうた]       
  • 人の心には
  • 優しい 暖かな心と
  •    いじわるな冷たい心が
  •    同居している
  •    暖かい心でみのりのある
  •    会を楽しもう

片マヒ自立研究会 機関誌2号

LinkIcon

「紀行文が取りなす出会いと永久の別れ」

三好 務

  • 片マヒ自立研究会 機関誌2号
  • 私が自立出来るようになってから、全国を旅しては紀行文を書くようになった。これを各地の知人や障害者施設に送っている。紀行文を通して多くの出会いが生まれ、その中に心に残る出会いがある。

  • いわき市のミッション系身体障害者療護施設『野の花ホーム』である。
  • この施設との出会いは、少年時代東京の会社の寮が空襲で焼け出された時、部屋の先輩と寮母さんの実家のいわき市に一時避難したことがある。
  • ご両親はわが子が帰ってきたように私達を迎えてくれ、銀シャリを腹一杯ご馳走してくれた。

  • これは一生忘れられない想い出である。その家が福島県の民俗学者和田文夫先生の家。その関係から紀行文を発行の都度送付している。この紀行文を野の花ホームへ回付しているとの案内が先生よりあった。

  • 平成9年の正月、施設の中途障害者の方から初めて賀状を戴いた。
  • それには『山茶花をほめて立ち去る車椅子』と印刷してあり、次にたどたどしい字で、ホームの岡部次長さんからご著書をお貸し戴き、現在読ませて戴いております。

  • 私も中途障害者で車椅子使用でも頑張ろうと努力してます。野の花ホーム:高萩ミツ子と明記。これを機会に短い間文通が交わされた。平成10年正月に賀状を差し上げたが何の返事も得られず心配していた。

  •  1月10日付、厚い封書を戴いた。彼女は、慢性リウマチと言う業病に、20代前半から取り付かれ、手術などの治療でも病状の進行は止める事は出来なく、全面介助付きで車椅子でのホームの移動がやっととのこと。

  •  高校時代は、ソフトボールの選手として活躍した。卒業後は常磐交通に就職したが数年後に発病その後は、病との闘いであった。途  中勤務先を変え病気治療と仕事の両立を試みたが、昭和63年、療養生活を余儀なくされた。

  •  そうした青春の苦しみの中、文学に活路を見出し日常の喜びや悲しみ不安など心の動きを作品を通して微妙に現れている。ご自分の障害になった経緯など5枚の便箋に事細かに書き添えられていた。私の紀行文に就いても率直に意見感想を述べられ、書く事が私のリハビリですと結んでいた。早速お礼の手紙を岡部次長さん経由で差し上げ、折り返し返事と施設で発行の冊子をご送付戴いた。

  •  一度直接、彼女に会って励ましの言葉を差し上げたく、施設に電話したがお盆休みで他の日にしたが、今度は大雨で駄目になり、中止した経緯がある。お兄さんから突然ハガキを戴き、1月19日に福島労災病院で永眠したと通知を受けた。彼女がくれた手紙の日付が1月10日、私の手元に届いたのが12日頃、彼女が私に宛てた手紙が最後の遺書のような気もする。願わくは安らかに眠り賜えと祈るばかり。その後「野の花ホーム」に突然お邪魔したが快く会って下され、施設の事など・・克明に説明し『高萩』さんの事も聞かせて貰った。

  • 彼女は、野の花ホーム文集ふれあいの編集長の責任を負い、その作品は、新聞の歌壇俳壇に再三掲載され、採択の常連となった。

  •  作品の多くは、ホームでの生活状況を読んだものが多く、その他、俳句短歌など幅広い文芸活動で活躍をしていた。残された彼女の遺品の中に数冊の大学ノートがあり、多くの文芸作品が見つかった。これを見て施設利用者の友人佐々木留美子さんが主体となってワープロを打ち始め『句集:さざんか』が出来上がった。私も形見に一冊頂戴した。

  •  施設の皆さん元気で亡き『高萩』さんのように自身の障害を通して、多くの障害を持つ人に、前向きに『踏まれても、野の花の如くに生きて下さい』と祈るばかり。

LinkIcon



「カナダ東部地方ツアーを終えて」
片マヒ自立研究会 機関誌2号

山本英雄

  •  平成11年4月脳出血で倒れ、4ヶ月入院した。退院2ヶ月経過した頃、リハビリ部の部長さんが診察の際、「海外旅行、どこでも行っていいですよ。高血圧と中性脂肪の管理が大切。これからいかに実行、継続するか。あなた次第です」と言われた。これをきっかけに、私はリハビリに専念すると共に体力アップを目指し、週2回、病院でのリハビリに励んだ。

  •  その実践として翌年秋、まず北陸ツアー(輪島、東尋坊、永平寺など)へ参加することを決めた。事前に旅行会社に足が悪い旨を伝えておいたが皆さんについて行けるか?階段は?夜行列車で大丈夫か?心配ごとは沢山あった。上野駅23時発特急北陸に乗り、翌朝金沢に到着、駅の階段を降りるとたちまちツアーの仲間との距離は30~40mと離れ、前途多難が予想された。とにかく足が遅すぎる。まず、輪島の朝市見物。朝市の出店までに50m以上離れた。次に東尋坊の観光、永平寺の見学等と続いたが、途中で帰ろうかと思ったほど仲間について行かれない事があり、記念撮影ではいつも遅れ迷惑をかけてしまった。惨敗の気分だった。

  •  その後、四国一周ツアー、沖縄ツアーに参加して、飛行機の搭乗、階段の昇降、屋形船の乗り降り、バイキング形式での食事等貴重な経験をした。そんな中で体力強化、とくに脚力をつけることで問題点を少しずつ解決して行きたいと強く思った。

  •  平成13年5月より横浜ラポールのフィットネス教室に入り、理学療法士にリハビリメニューを作ってもらい、トレーニングの種目、方法について指導を受けた。内容は準備体操(主にストレッチ)エアロバイク、手こぎ、腹・背・肩筋運動、バランス移動、スクワット、腿上げ、1000mウォーキング、プールの水中歩行等で週4日~5日通っている。

  •  平成14年10月念願のカナダ東部地方へのツアーに参加した。まだ心配な事として、トロント空港まで12時間の飛行と時差14時間の克服、国際空港からローカル線への乗り換えがあった。現地の気温は日本の1月中旬位でかなり寒いらしい。ナイアガラの滝は飛沫が凄いので傘と雨靴が必要と言っていた。

  •  荷物は最小限にした。搭乗手続、荷物検査、出国審査を経て飛行機までが長かった。どの人も急いで歩く。私をどんどん追い越す。やはり私の足は遅いようだ。それでも機内ではリュックを棚にあげた。飛行機は太平洋を横断、12時間後カナダ・トロント空港に着陸。

  •  ローカル線の別棟に移動するため500mは歩いたと思う。2時間で世界遺産都市ケベックに着く。この街はフランス人が開拓したヨーロッパ風の古い落ち着いた町であった。

  •  近くにはセントロレンス川が流れ広大な平原数々の樹木等、素晴らしい光景だった。夕方町のレストランで会食。ツアーならではの打ち解けた雰囲気の中で、気取らない会話を楽しんだ。

  •  ツアーの後半はナイアガラの滝の観光だった。滝の豊かな水量と轟音、降りかかる飛沫に圧倒され、仲間は走ったが、私は傘をすぼめて歩むのがやっとだった。

  •  妻は旅行中大半の荷物を引き受け、私の行動を楽にしてくれ、私は遅れず歩くことに専念した。今まで3年半、多くの方のご協力を得てここまで来られた事につくづく感謝した。

  •  目標を立て、身丈に合った小さな努力を続けるとかなりのことが出来ると実感した。
  • これからも頑張ろう。

LinkIcon



「初期の病」

城所佳夫

  •  今から16年前の事である。サラリーマンとして建設会社に勤務していました。当時千葉支店に単身赴任していました。習志野の社宅から千葉市内に通勤していました。
  •  世の中は好景気の波にのり、建設業界も大変忙しい時でした。ご多分に漏れず朝から晩まで働きづけました。
  •  会社の定期健康診断の時、血圧が240と診断されました。その時ドクターから要注意と警告を受け血圧低下剤をもらいました。

  •  たいした事はないと自分で決め、そのまま仕事を進めてきました。
  •  1年近くが経ち転勤命令あり。横浜支店に勤務地が変わり、自宅通勤になり家族の居る自宅からの通勤に変わり、少しは気持ちに余裕が持てるようになりました。

  • 仕事も楽しく出来るようになり、これでひと安心し、サラリーマンも順風満帆だと考えた時でした。そんな頃、1月の末に本社で役員会があり、これで今年度も先が見えたと気持ちを緩め帰宅した夜の出来事でした。

  • 浴室のできごとでした。
  •  浴槽の中で体が柔らかくなり、蛙のようにグニャグニャになり、やっとの思いでタイルの床をハイズルようにして入り口まで行き、ガラス戸をたたき、妻に知らせた事を最後に記憶が薄れていきました。(これで俺の人生も終わりかと思う)

  •  2日後(妻の話)会社の人と妻が話しているのをかすかに聞きました。
  •  その時かすかな記憶が戻りました。
  •  今思うと、ドクターから要注意を受けた時に、もっと考え、慎重に行動すべきでした。
  •  反省しています。 油断せず、素直に指導に従うべきでありました。

片マヒ自立研究会 機関誌2号

[情報コーナ]

  • 「看護の思いを短歌に!」

家村富美子 (横浜市家族)

  • 看護帰り夕月は金に光りいて
  • 明日への希望のステップとなす
    「障害と昔の恋と愛妻を短歌に!」

河野元一 (広島市、右マヒ2級)

  • 片マヒの友それぞれに憂愁や
  • 希望の海を泳ぎてあらむ
  • おだやかに老いて死語る友と在り
  • 夕映えの季節茜か茜かと映え
    「俳句」

前田菊子 (横浜市、右マヒ3級)

  • 息とめてとんぼ取りたる子がひとり
  • コスモスの乱れしままに無人駅
    [情報コーナ]
  • 読者の情報提供を歓迎します。会報は読者とともに歩む。身近な役立つ会報づくりを心がけています。近くに、すてきな役立つ情報があります。
    情報(1)
  • 横浜市脳血管医療センター・医療相談室では、仕事、生活費、福祉制度、自宅療養など親切に相談に乗ってくれます。ご利用ください。
  • 住所 横浜市磯子市区滝頭1-2-1
  • 電話 045-753-2500(代表)
  • http://www.city.yokohama.jp/me/eisei/nou
  • 情報(2)
  • 横浜市総合リハビリテーションセンター・福祉部・職能訓練課では、就職や復職を目指す方の確認・習得するカリキュラムを用意しています。ご相談、ご利用下さい。
  • 住所 横浜市港北区鳥山町1770
  • 電話 045-473-0666(代表)
  • http://www.city.yokohama.jp/me/fukushi/nou4_5.html
  • [会の紹介](あなたも参加しませんか?)
  • この会は、脳血管障害者の自主グループとして、片マヒ後遺症を持ちながらも、明るく楽しく地域の人たちと共生し、障害者がともに支え合うことを目的としています。
  •  主な活動は、月一回の会合で近況報告、講演会、楽しい行事、ピアカウンセリング、研究成果や情報を「会報」に発表などです。
  • [片マヒ自立研究会活動予定]
  • 場所:かながわ県民センター 横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2 ℡ 045-312-4810
  • 横浜駅西口徒歩5分、障害者無料駐車場あり
  • ・11月16日 13時30分~16時30分
  • ・12月14日 13 時30分~16時30分
  • 片マヒ自立研究会 機関誌2号
  • 「会員の著書の紹介」―(1)
  • 題名「歩けた!手が動いた」
  •     著者 森山志郎
  •     主婦の友出版サービスセンター制作
  • (あるビジネスマンの脳卒中リハビリ成功記)


片マヒ自立研究会 機関誌2号
片マヒ自立研究会 機関誌2号

3号

片マヒ自立研究会 機関誌3号

目 次

「巻頭言」

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • あけまして、おめでとうございます。これは1年にただ1度だけ許される挨拶なのです。昭和61年の正月は、病院から初めて外泊が許されて自宅に戻りました。右手が使えなくなって「どうするか」と、すっかり途方に暮れていました。「ひょっとしたら」と微かな希望を持って、愛用のワープロに向かい、おずおずと左手でキーを押してみました。

  • するとワープロは正直に文章を作ってくれたではありませんか。「これだっ!これが私の右手に替わって手紙や文章を書いてくれる!」正月の外泊は、一つの小さな希望の灯火を点けてくれました。

  • それ以来、今日まで、私の左手は右手に替わってワープロ・パソコンを使い、手紙を作ってくれます。皆さんも是非工夫して、小さな希望の灯火を見つけてください。

「失語症でも楽しい日々に努力を」

青沼 浄

  • 片マヒ自立研究会 機関誌3号当たり前のことですが自分が自分で自分を救わなければどうしようもないものだと自分が気付くまで、病気の救いはないのだと始めて知りました。それが私の場合病気の救いの神様だったのです。

  • 人の助けや科学の進歩は病気を治し解決してくれるでしょう。でも本当に自分を救うのは自分なのだと思いました。というわけで他人の状況はそれぞれ違うと思いますが、他人の経験の話をそれとして聞いておくことも悪くはないと思います。

  • ポイントは自分のことを考えるとまさか、と言うことがあるものなのですから。私の場合脳出血での発病とは、がそうでした。偶々当時タイ王国でのお仕事のお手伝いをし、それがちょうど終了してました。そして、その日本の貿易研修センターでの会議中に突然病気が起こったのです。今、私が現在当時を思いだしてみますとぞっとする自分に驚いています。

  • 昭和63年9月20日午前11時頃富士宮市上井出にある貿易研修センター本部で会議中私は意識不明となり発病、看護士の指示により救急車で富士宮市の富士脳障害研究所付属病院に入院しました。

  • 本人は意識不明でありましたがモヤモヤ病による脳内出血と及び脳梗塞と診断され、数日後の意識回復後直ちに失語症の後遺症のリハビリテーションに入りました。この時のリハビリは頭の中が半分意識がなく唯言語治療士等の言うとおりに従うだけでした。

  • 考えてみますと自ら死など考えずに「生きたい」と思う動物的状況に陥ることが結局自分自身を救うことになると始めて理解しました。その後、同年11月末に七沢リハビリ病院脳血管センターに転院し失語症ならびに右片麻痺のリハビリ訓練、主として言語と運動を受けました。

  • 平成元年8月中旬に退院し以後在宅で横浜市総合リハビリセンターに通い主に言語訓練を受けました。その後、センターに卒業生等を中心に<失語症を語る会>を作り、代表を拝命しています。同時にメンバーは全国失語症友の会連合会に加盟してそれぞれ活動をしております。

  • 言うまでもなく再発を起こさないことに注意しながらリハビリに頑張るわけですが、私の場合脳障害に関わる後遺症としては2つ、つまり失語症と右片マヒがありました。そこでこの2つの後遺症を少しでも良くするために何らかの方法つまり日常の健康法を努力しなければなりませんでした。

  • 右片マヒについては多くの方々が書いていらっしゃいますので、私は失語症の回復のためのリハビリ体験を書いてみようと思います。失語症とは、所謂マヒではなく、話したり、聞いたり、読んで理解したり、そして書くと言う4つのことがだめになることで、それらに関係する脳の部分が損傷を受けた結果その働きに支障又は破綻をきたした状態を言うのだと思います。私は全失語ではありませんが、特に話すことと聞くことの2つの機能を働かせるための回復に努力しなければなりませんでした。

  • 片マヒ自立研究会 機関誌3号

LinkIcon

「自然の食品に助けられて」

山田裕子

  • 復職ができて元の職場にもどったとき、友人が健康月刊誌の1年購読券をプレゼントしてくれました。そのお陰で、心身の健康に食生活がどれだけ大事で、食生活が人生をも変えることを知ったのでした。玄米、大豆、ゴマ、やさい、海草といった、自然の食品、そして、みそ、梅干、漬物等、自然の醗酵食品には、健康づくりや維持に、欠かせない大きな力がある、素晴らしい食品であることを学んだのです。今日、ものが豊かになり、食生活も手軽で便利になりましたが、表示にたくさんの添加物がしめされて、驚くと共に不安になります。どうしてもこんな添加物をとるので、便利さと背中合わせに、不健康の種があることに注意しています。

  •  障害を負い、輸血のためにC型肝炎ウィルスに感染し、慢性C型肝炎といわれている私が、元気に毎日を暮らしているのは、「玄米自然食」の効果に尽きると感謝しています。その思いで、長く玄米自然食を実行しているのです。そのせいか、夏の暑さにも負けず、体は軽々として動くことができるし、肝機能も正常値を保ち、肝炎にならず、「医食同源」という言葉を実感しています。玄米は、お米の「命」を宿す、栄養的に素晴らしい完全食品で、体にほしい物が多く含まれています。体を温め、細胞を活性化しますから、体が軽く動くのでしょう。玄米ご飯は、ぼそぼそしてまずいと、聞きますが、これは炊き方しだいなのです。私は小豆や黒豆を炊き込んだりしますが、とても美味しいご飯になります。ただし、玄米にはカルシュウムがありません。それを補うために「いりゴマ」を良く摺り、薄く塩味にして「ふりかけ」を作り、たっぷりとご飯にかけて、よくかんでいただきます。

  • 古来から日本の風土にあった玄米は、素晴らしい主食と実感しています。
  • 一方の副食には、必須アミノ酸を多く含み、たんぱく質が豊富で、栄養障害の心配がない、大豆、大豆製品や色んな野菜や海草をとりあわせ、バランスよい献立を作ります。また、みそ、梅干、漬物等の醗酵食品をとりいれ、動物性食品はひかえて、食べ過ぎないようにします。こうして、体調を見ながら玄米を中心にした自然食の生活をしていますが、体調がとてもよいので、これからもつづけるつもりです。食物繊維は、体内にはいった化学物質を排泄してくれますから、昔から繊維が多い伝統食も、食卓に欠かせません。

  •  今日では、「栄養」というとすぐ「肉」を連想するように、動物性の食品は簡単に手に入るようになりました。しかし、自然の良い食品は、努力しないと口には入りません。人間の体は、食べものの成分で作られているのです。良い食品を選んで食卓を作っていけば、体質も改善されていくことでしょう。再発を防いで健康な生活をしていくには、毎日の食卓がとても大きな力を持っています。どうか、一緒に「障害はあっても健康な生活」を目指していきましょう。片マヒ自立研究会 機関誌3号

「復職できました」

五十嵐忠治

  • 現在59歳!私の人生は病気との闘いと言っても過言ではない。昭和58年9月、37歳のとき腰部脊椎管狭窄症手術で6ヶ月入院。
  • さらに平成12年9月、56歳のとき同病気再手術で6ヶ月入院。おまけに平成13年9月、57歳のとき脳出血で5ヶ月入院。腰部脊椎管狭窄症も大きな障害で、現在背骨に約30cmチタン挿入、コルセットが必需品である。2度目の手術後会社に出たら『貴方の身体ではこの厳しい時代には耐えきれないので受け入れる事ができない』と退職金なしのクビ宣告。

    大いに悩み、苦しみながらも「まあいいや、なんとかなるだろう」と仲間に就職依頼した。退院1ヵ月後、ある会社の専務から話があり新事業の立ち上げに専門担当として採用決定。嬉しかった!平成13年4月、57歳で再就職。定年まで3年間頑張るぞ!

  • 会社にも慣れ、さらなる能力アップと思い、横浜市主催のパソコン研修に夫婦で参加した。平成13年9月22日、研修も終え、酒の肴も買い自宅近くで荷物を手にしたら左手、左足に力が入らない。今までに経験したことのない症状だ。息子の運転で関東労災病院に直行し、そこで初めて脳出血と知った。せっかく再就職できた会社も6ヶ月でリタイア。
  • 家のローン支払いもあり、もしかしたら私の人生、これで終わりかもしれない。会社から社長、専務が見舞いに来てくれた。『動けるようになったら仕事は相談に乗るから』との言葉を信じ、リハビリを積極的に開始した。
  • 平成14年2月退院。「復職の為」介護保険利用方法で作戦を立て、以下のリハビリを実施した。

    • 月曜日 横浜市・ラポールにて
      • ストレッチ、卓球、グランドゴルフ
    • 火、金 新吉田ウェルケアにて
      • 理学療法、言語療法、音楽療法
    • 水 AM 関東労災病院にて、理学療法、
    •   PM 高田地域ケアプラザにて横浜市主催障害者パソコン教室、
    • 木 ひまわりデイサービスにて、
      • 鍼灸
    • 土 高田地域ケアプラザにて
      • 将棋をメインのボランティア

  • 退院後、何度も会社を訪問した。この不景気、障害者ゆえ復職に不安だらけであった。しかし、リハビリだけは手を抜かなかった。
  • 後から聞いた話であるが、会社は私を受け入れるため準備中であった。右手1本で可能なパソコン利用の設定カード発行作業である。この仕事のために新たに機械導入された。

  • 14ヶ月再発しなかったことも復職の理由だそうだ。4月14日会社側と最終打ち合わせを行い、5月6日より、出社可能となった!今後の人生、泣くも笑うも一度限り、さらに会社に貢献できるよう努力したい。

  • 入院、リハビリ中の皆さまへ
  • 昔の自分を引きずっていてもしようがありません。今の自分でできる限りの行動をしてください。定年延長で65歳までは復職可能です。「絶対復職する!」との意気込みを持ってください。必ず言われることは『大会社は復職可能、小会社では?』私のいる会社は55名ですよ!片マヒ自立研究会 機関誌3号

LinkIcon

「病を越えて」

長山 弘

  • 平成14年6月27日、36年間の会社生活最後の日、私は「株主総会出席」への車の中で、脳梗塞で倒れた。車の中で左半身の痺れを感じたが、病院へは自分の足で入った。

  • MRI撮影を待つ時間、車椅子の中で動かなくなってゆく自分の身体を感じながらも、1週間や10日間で治る錯覚をしていた。
  • 左に倒れたら全く起き上がれない。1週間は点滴だけの生活であった。
  • 点滴期間中、何冊かの本が届けられた。
  • その中で「壊死した脳細胞が再生することはないが、働いている脳細胞は10%程度であり、リハビリによって周辺の脳細胞に代替機能を得させれば、ある程度までは代替機能をさせることができる。」ということを知った。

  • 辛いリハビリを通してしか、代替機能を覚えさせることはできない。脳の代替機能という人間の生命の限りない可能性と共に、人は結局、自らの力でしか人生を切り開けない峻厳な事実を知った。私は点滴の治療を終え、リハビリを開始した。身体の左半身は、全く力が入らず、左腕はただのぶら下がった物体になり下がっていた。平行棒に右手と右足で立ち、左足は引きずられる肉片でしかなかった。全身の痺れと今までに経験のない汗が全身から流れた。1週間を過ぎた頃、動かない足を見つめながら、ぶら下がった左腕を右手で握りしめ、妻の来院を待っていた。

  • 急に再起不能と未来への不安が急激な形で押し寄せてきた。深呼吸ができない!
  • それは自分の存在全てに対する自信の喪失感であった。感情障害がこのような形で押し寄せてくるとは思わなかった。過去の私には、数え切れないほどの苦難が降りかかっていた。

  • あの時も、あの時もと自分が耐えて来た過去を思った。しかし、心にこだまする言葉は〈あの時は五体満足だった!〉という言葉ばかりであった。妻は黙って側に座り続けていた。妻は長い沈黙のあと、静かに言った。
  • 「あなたは絶対やれるわ。大丈夫!一緒にリハビリしましょう。」
  • 「あなたは、あなたの人生を必ず感動するものに変える人と信じているの。」

  • 私は、その言葉によって立ち上がろうと思った。激しいリハビリの開始であった。
  • けれど感情障害は、時を置かず押し寄せてくる。
  • 「人生に無駄なものは、なにひとつもない!」という私の今まで学んできた言葉が、私に迫ってきた。私は思索を続け、この病と闘った多くの人々の書を求め続けた。

  • 私は立上リ、少しずつ歩けるようになった。この病は1年の時を経て、様々な思いを経験しながらも、必ず精神的にも立ち直る時がくることを知った。人間というものの尊厳さは、この障害によって決して失われることはない。新たな生き方を見つけ、自分というものの誇りを取り戻され、素晴らしい新しい人生を生きる多くの人々との出会いは、この病から始まったのであった。片マヒ自立研究会 機関誌3号

「リハビリには目標が大切だ」

江嵜 昭

  • ビクトル・フランクルは、その著書「夜と霧」の中でこう言っている。
  • 「あの絶望のアウシュビッツ収容所の中で、生き延びてこられたのは、将来に対する具体的な希望を持ちつづけた人間だけである」
  • 「希望」という言葉使っている「思い」を具体的行動結び付ける「目標」の二文字が好き

  • 私はコンピューターの技術者であった。お客様との商談中に脳卒中で倒れ51歳で右マヒ・身体障害者2級の身なってしまった
  • 倒れたとき、もう開発現場のリーダーとしては使い物にならないと観念した。とは言うものの、まだ老け込む年ではない。妻も子供たちもいる。仕事に自分燃焼させたい。

  • リハビリ初めて1ヶ月くらい、とにかく「歩けるようになりたい歩けるようになりたい」の一心であった。ツエを突いて少しずつ歩けるようになる「これからどうするんだ」ということを考えずにはおれなかった。答え「復職したい」であるでは、一体「どうやって復職する」である

  • 何を諦め、何を身につけるか。
  • 私は早い段階で右手文字書くことを諦めた。その代わり左手に利き手交換し、懸命になってペン習字を習い、退院するまでに何とか文章書けるようになった。もし、右手にこだわっていたならばそのためにエネルギーを使い左手への利き手交換も不十分のまま終わってしまったに違いない。

  • 復職にはまず「私はどんな仕事したいか?」である。考える条件は、仕事の経験と人脈を生かしてチャレンジしたい仕事、片マヒでも可能な仕事、会社に貢献できる仕事、である。そこで私は、技術調査スタッフに思い定めた。

  • つぎに通勤できるようにすることあるそこで、復職したい事業所を想定し、通勤訓練始めた安全通勤、ラシュアワー克服対策など目標立て、訓練重ねていった

  • もう一つ仕事能力のリハビリある。脳卒中で身体がこれほどのダメージを受けているのであるから、仕事能力(知的能力)も多かれ少なかれダメージを受けているのではないかと私は考えた。仕事能力リハビリ、病院は教えてもらっていない。やむを得ず、自己流で始めた仕事能力を、読む、考える、書く、話す、聞くの5つからなるとし、それぞれに具体的な目標設定、リハビリを進めた

  • 幸い8ヶ月間(病院6ヶ月+自宅2ヶ月)の療養ほぼ希望する仕事に復職することできた
  • この様に書けばリハビリ復職向けて順風満帆よう聞こえる決してそんなことない事実失敗次ぐ失敗連続あった復職してから通勤仕方仕事仕方生活仕方ついて修正次ぐ修正あったような凡人には目標を立て、実行し、失敗から学んでやり直す、という取り組み最善の方法のようだ

  • 最後に、目標に向かって私を後押ししてくれた妻に心より感謝する。
  • 片マヒ自立研究会 機関誌3号

LinkIcon

笠井雅雄

  • 片マヒ自立研究会 機関誌3号昨年9月20日(土)西金沢地域ケアプラザで「林家かん平落語会」をピア・カウンセリング・イベントのひとつとして開催しました。出演者は右マヒで失語症と闘っている林家かん平師匠に落語を、片マヒ自立研究会メンバーの小林隆さんに腹話術を山田裕子さんにいきいきヘルス体操を、高橋良三さんに音楽をお願いしました。

  • 雨天にもかかわらず100人を超える観客が入場してくれ、その大半は中途障害者でした。また、このイベントを企画推進している実行委員のメンバーも大半が中途障害者で、文字通り「障害者ための障害者による障害者の落語会」となりました。
  • 「高次脳機能障害」勉強会を開く

山本秀雄

  • 片マヒ自立研究会 機関誌3号昨年11月8日(土)片マヒ自立研究会では横浜市総合リハビリテーションセンターのソーシャルワーカー成田すみれ氏をお迎えして勉強会を開いた。この高次脳機能障害は脳卒中、脳外傷、脳炎のために引き起こされる症状で、状況に適した行動がとれなく、旨く社会生活ができない。例えば簡単な計算ができない、行き先が解らなくなる等本人や家族の方の悩みも深刻である。

  • ここで問題は、この「高次脳機能障害だけは障害者手帳が交付されていない」ことで福祉の谷間になっていることが多い。最近、精神科の医者の協力で交付されるケースもある。目に見えない障害について複雑な問題がからんでいる。この勉強会に参加された方々の多くは、症状が一部思い当たる所があると話していた。

    「障害受容」シンポジウムに参加

古川 猛

  • 昨年11月29日、臨床リハビリテーション心理研究会の主催による「障害受容」シンポジウムが東京・日本青年会館でおこなわれた。
  • 後遺症の「障害」は治療で元にもどらない。その認めたくない現実を認めて、代替機能や残存能力を活用しながら「不便を克服」して新しい人生を切り開き、「役割」を得て貴重な人生を再建して行く。全人格的な復権を目指すリハビリテーションでは「障害受容」は大きな屈折点である。これを廻って多くの専門家の討議であった。この研究はその緒に就いたばかりなので、それらの意見を参考にしながら、私達のリハビリテーションを進めたい。
    【活動予定】
  • シンポジウム:「共に考えるリハビリテーション」
  • 基調講演:片マヒ自立研究会長 森山志郎
  • 日時:2月5日(木)午後1時30分~3時30分
  • 場所:横浜市金沢区能見台地区センター
  • 問合せ:金沢区福祉保健センター サービス課、045-786-8872
    【短歌】

河野元一

  • 凛々と心に迫る思いあり
    • 障害あればこそこの思い
  • 日本中を旅せむと思い買いし地図
    • 半身麻痺となりて捨てしか
  • 来世に在りても今の我妻を
    • 伴侶になさむ堅き思いよ

家村富美子

  • たよりなきこのわれの為死ねないと
    • 病夫黙々と飯食む夕べ
  • 人の愛神仏の愛に生かされて
    • ひぐらしの声深々と聞く
  • 梅雨ぐもる病室に病夫と二人いて
    • 日がな交わせる言葉なく過ぐ
  • 「会員の著書の紹介」- ⑵
  • 題名「心が動く」
  • 監修 大田仁史、著者 森山志郎 発行 荘道社
  • 前作の「歩けた!手が動いた」は「障害を持つあるがままの自分」と共に新しい人生をスタートするまでの経過でした。これは、夢中で乗り切った「障害の受容」を、少しでも理解して貰えるように工夫して紹介しました。一人でも多くの方が、自分の障害にあった工夫で、生き生きと楽しく生きて欲しいと願っています。
  • 【俳句】

前田菊子

  • まゝごとの思ひ出多き赤のまゝ
  • 花の下まゝごとの子の客となり
  • 【会の紹介】(あなたも参加しませんか?)
  • この会は、脳血管障害者の自主グループとして、片マヒ後遺症を持ちながらも、明るく楽しく地域の人たちと共生し、障害者がともに支え合うことを目的としています。
  • 主な活動は、月一回の会合で近況報告、講演会、楽しい行事、ピアカウンセリング、研究成果や情報を「会報」に発表などです。
  • 【片マヒ自立研究会活動予定】
  • 場所:かながわ県民センター横浜市神奈川区
  • 鶴屋町2-24-2 ℡ 045-312-4810
  • 横浜駅西口徒歩5分、障害者無料駐車場あり
  • ・2月21日 13時30分~16時30分 
  • ・3月20日 13 時30分~16時30分
  • 【編集後記】
  • 論語の中に「近き者説(よろこ)べば、遠き者来る」
  • という一章がある。葉県の長官が政治の心得を尋ねた時の孔子の答えだという。現代語訳はこうだ。「近所の人が喜ぶようなら、遠方の人も自然に集まって来る」
  • 大きくは一国の政治についてであろうし、小さくは家庭、地域社会の運営に通ずる。理想を追いつつも現実を見据えていた孔子の言葉である。(E)
  • 片マヒ自立研究会 機関誌3号発行日 2004年1月18日
  • 片マヒ自立研究会 編集部 会長(題字とも) 森山志郎
  • 編集委員 城所佳夫、古川 猛、佐藤万宜、平井咲恵子
  • (連絡)江嵜 昭  eメール VEB00662@nifty.ne.jp

4号

片マヒ自立研究会 機関誌4号
4号発行・2004年5月16日
片マヒ自立研究会 機関誌4号

目 次

「巻頭言」 「花を咲かせよう!」

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • 季節が移り、冬眠していた桜も蕾が膨らみ美しい花を咲かせます。
  • これは見るだけでも気持ちが明るくなる光景です。
  • さて、退院した後に、本格的な機能回復リハビリテーションに取り組む時、大切なことは「焦らない・諦めない・怠らない・孤立しない・心に思う」ことです。
  • 障害は、一人一人違いますから、自分の後遺症について正しい知識がないと旨く行きません。私の右手は殆ど実用には使えませんが、仲間と励まし合い、生活に必要な仕事は左手を訓練して、自立した生活が出来るようになりました。
  • 何よりも大切なことは、手足が不自由でも自分らしい生き方を目標にすることです。
  • そこに、初めて、あなただけが見ることの出来る、見事な「あなたの花」が咲き誇るのです。

ベニスに伏す

  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号

高橋 良三

  • 1990年3月30日、出張先のイタリアのベニスで、サラリーマンという平々凡々の企業戦士であった私を突然として病魔(脳溢血)が襲い、私を絶望のどん底に追い込みました。

  • 倒れてから自分に何が起こったのか、認識が出来てからどれだけ後悔したかわかりません。
  •  それはドイツのフランクフルトでの世界の楽器の見本市で、すでに兆候があったからです。このショーには責任者として参加していました。
  •  ショーが始まる前から左目の白い部分に針で刺したような深紅の斑点状のものが出ていました。目薬をつけて様子を見たら、少し色が一時的に薄くなったようでした。
  •  しかしながら、ショーが始まってから目薬の効果も全くなくなり、ますます深紅の度合いが深まっていきました。

  • また、異常な程の肩こりになり、ショーが終わるとマッサージの上手な女性スタッフがいたので、毎晩彼女にマッサージをしてもらい、何とかショーの期間中を切り抜けました。
  •  今思うと、忙しいショーの期間中には緊張していたせいか発病せず、半分遊びでのんびりしていたベニスで倒れてしまうというのは、皮肉です。
  •  倒れた日の午後から猛烈な肩こりと疲労でショッピングの最中たえず椅子をさがして腰掛けていたほどでした。
  •  どれだけフランクフルトで、なぜ病院に行かなかったのかと後悔して、眠れない夜を幾晩過ごしたかわかりません。
  •  睡眠剤なしで眠れるようになったのは、ずーっと、ずっと何ヶ月もあとの事でした。
  •  私は、本態性高血圧症と診断されておりましたが、私の主治医も私も、私が倒れるとは全く考えられなかったようです。
  •  そんなわけで降圧剤も飲んでいませんでした。状況しだいで血圧は、70~80も変化するものだと驚きます。
  • かくして私は脳内出血で倒れ、救急車すなわちベニスでは交通は水路なのでモーターボートで病院へ運ばれました。幸運にもこの病院は北イタリア1,2の脳神経専門病院でした。

  • 社会復帰できた今、当時のベニスに於ける生活を振り返ってみたいと思います。
  •  家内が10日ほど付き添っていてくれましたが、その後はイタリアの取引先の人たち、病室の患者さんの家族の人たち、多くの友人たちに、代わる代わるお世話になり、また私のくじけそうな気持ちを、多くの仕事を通して、世界中の友人たちに励まされました。
  •  私は欧米人はドライなので、仕事から離れてしまうと、音信はなくなるのでは、と思っていましたが、親身の励ましが連日のように、花、手紙、カードと共に届きました。
  •  同室の患者さんたちもあまりにも多くの花が次から次へと届くので驚いていました。

  • こういった励ましがあったからこそ、日本へ帰ってから“人生はなるようにしかならないんだから、いつまでもくよくよしたって仕方ない、どこまで回復するかわからないがリハビリに全力を尽くそう”という気になれたのだと思います。 (つづく)

LinkIcon



「リハビリと家族の係わり」

野坂 允

  •  リハビリを始めるには、先ず服装からとすでにあるのに「着易そうだから」とトレーニングウエアを妻が、そして「お父さん、これ着てリハビリに励んで」と娘がシャツをそろえてくれる。その後、勤めから帰ると「もう着た?散歩したか?」と圧力をかけてくる。
  •  季節の変わり目になるとセーター、カーデガン、マフラー、手袋と次々に揃えてくれる。
  •  土曜日の休みには特にうるさい。「散歩の時間ですよ」散歩から帰ってくると「どこまで歩いて来たの」と早く帰って来たのをとがめるように聞く。
  •  時には「一緒に買い物に行こう」と誘ってくれる。人ごみに行くときは、娘二人が私の前後に、妻が麻痺している左側をガードして歩いてくれる。
  •  そうしているうちに「旅行ぐらい行けるでしょう」「荷物は持つから、体だけ動かせばいいんだから」と、とうとう海外旅行にも行って来た。
  •  風呂も一人で入るように、座椅子を用意され、洗うのも自分でと長柄のブラシを揃える。
  •  寝るときは、今まで畳に布団を敷いて寝ていたが、病院で寝起きしていたのだからと、ベッドに代え「一人で寝起きしなさい」とつきはなされる。
  •  生活もリハビリと、掃除機を両手で持ってやったらと指示する。ほこりを拭き取るブラシを用意し、麻痺の左手で握って動かしたら、とやって見せる。
  •  食器をテーブルに並べる。食べ終わった食器を下げるときは、つまずかないように通路をあける。隅に落して割ることもあるが「何もしなければ失敗もしない」と平気なものである。
  •  時には、洗濯物の取り込みもする。下に落とさないように取り込む。
  •  このように、身体によいと思われることはやるように言われる。
  •  こんなこともある。妻の知人でやはり脳梗塞になった方が、退院後も歩いていたのに、最近ご主人が車椅子に乗せて外出しているとのこと。大事をとってご主人が進んで動き、知人はリハビリに積極的でなかったようだ。ご主人は退職されて知人の車椅子生活をサポートされているとのことだという。だから、自分でできることは動きなさいと手厳しい。また、朝、家の前を娘さんと一緒に歩いている年配の方がいる。左半身が不自由のようだ。「いつも見かける。今日も歩いていた」と散歩を促すように言う。そして、私の機嫌が良いときに「私より若い左麻痺の男性が、ビニル袋を下げ、体を傾けて頑張って歩いている姿を見かけるが、奥さんいないのかしら」と、お使いを促すと共に自分の存在を示すように話す。

  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号また、一人で機能回復の行動していては引きこもりになってしまう、人と交わりの中で頭を使い、心をなごますことも大切と、妻の知人の話から片マヒ自立研究会に参加するようになった。
  •  おかげで、新しいことを知り、行動範囲も広まった。
  •  いずれにせよ、家族がよりよいリハビリをするよう常に心掛けてくれることに、感謝している次第である。

片マヒ自立研究会 機関誌4号 「長引く療養と復帰後のトレーニング」 不安感から回復の手ごたえまで

糟谷正義

  • 55歳にあと3日の平成14年10月、朝トイレに入り、寒気を感じ急いで寝室に戻ろうとしました。その際に体の右半分が水のように体から流れ出ていくのを感じました。
  • 大変なことになった、直ぐに救急車を呼ばなくては…。

  • 奇妙な安堵感から底知れぬ不安感
  • 2つの病院で入院を断られ、3つ目の病院では寝かしておくだけといわれ、ようやく4つ目の川崎N病院に入院できました。
  • 「これで安心して治療に専念できる」と実のところ安堵感を覚えました。そしてリハビリ三昧となり、必死に努力しました。これくらいがんばっているのだから、明日目を覚ますともっとよくなるだろう、と最初は楽観的に構えていたくらいです。でも、2ヶ月をたっても目に見えた回復の実感がなく、これからの生活について不安感が次々に襲ってきました。

  • ほのかな希望のきざし
  • 平成15年1月に横浜市N医療センターに転院し、再びリハビリに精励する生活に入りました。ここでは主治医、PT、OT、患者さん、看護婦、薬剤師、ボランティアなどの方々とできるだけ話しかけ療養に関する示唆をいただきました。
  • 「なるべくしてこの病気にかかったのだから、失った機能を嘆くことなくリハビリにより機能回復に努めるべきだ」また「この病気にかかったからといって人生の落伍者ではない、会社を辞める必要はない、この病院としてもできるだけのことはする」等など。
  • 「できるだけ病室内を歩くように、10mを10秒台で歩けないと横断歩道を渡れませんよ」「もっと右手をつかいなさい!できるじゃないの!」「こんな人は直してあげたいわねえ」等など。こうした周囲の方のパワーに後押しされるように、3ヶ月のN医療センターでのリハビリでは回復を日々感じ取ることできるようになりました。しかし、嬉しいという気持ちの底に退院後の生活について不安が残っていました。

  • 現実の重みと新たな生活への気構え
  • 平成15年4月、職場に戻り、トップから「体調回復を最優先に、当面は遅く来て早く帰っていいから」といわれ、また従来の職位は退任し、将来の事業調査という時間的制約の少ない仕事に就きました。週一回新横浜でリハビリを継続し、川崎N病院で知り合った方の紹介でK体操に行くことにして、職場では暫らくは「国内留学」と割り切りました。
  • しかし、毎日の通勤、特に朝のバス停までの距離が長く感じ、バスの乗り降り、JRから地下鉄への階段の乗降、靴の着脱、パソコンのキーボード操作等は、相当に辛いものがありました。新横浜からは、杖を使わない、坂道、階段を極力歩くようにといわれて、エスカレータ、エレベータは使わないようにしました。毎朝1時間は新横浜から推奨されたリハビリを続けていき、K体操の宿題も毎日30分こなしていきました。

  • 12月になると、再び機能回復の実感が得られるようになりました。実に長い時間がかかりましたが、このなかで多くの方から「糟谷さん、がんばってね」といっていただきました。実にうれしく心の支えになりました。この病気をしても立派に社会に貢献できる証左になるよう、これからもくじけずに努力しようと思います。

LinkIcon



片マヒ自立研究会 機関誌4号 「いきいき友の会のご紹介」 (交流会で元気を貰う!)

山口正義

  • 私は高槻市の住民であります。JR東海道線の大阪と京都の中間に位置する高槻市(人口36万人)(平成15年4月から中核都市に移行)には機能訓練教室はあるが自主的に活動している同病者の会がないところから隣接市である脳卒中後遺症者の会である「いきいき友の会」に越境入会しています。
  • 同会は平成8年の発足で会長は薬品メーカーである藤沢薬品の元役員で同病者(右マヒ)であります。同会の発足にあたっては高名な大田仁史先生にアドバイスを戴いたとの事を聞いてます。会報である友の会ニュースは14年12月現在で104号になります。この会の会員は25名で殆どの人が車椅子利用者で歩行しているのは私を含めて3名にすぎない。従って介助する家族も会員に入れている。この会は市の保健センターと保健所の支援を受けており更には地域の福祉の方や地域ボランティアのお世話になっております。
  • この会は月に2回茨木市の東地区公民館で会合しているが第二木曜日は保健センター主導で第四木曜日が例会となっておりニュースが配布される。残念ながら研究発表や意見交換などはない。

  • しかし、この会では春秋の2回日帰りバスツアーを実施している。バスは車椅子利用者が多いのでリフト付バスを利用しています。
  • 春は琵琶湖畔の近江八幡市のスポーツセンターに行きました。秋は大阪天保山にある海遊館に行きました。
  • この会ではミュージックベルを練習しており地域の敬老会に出演して地域交流に勤めています。
  • また、14年10月には茨木市内にある7機能訓練室の交流会に参加してミュージックベルを演奏しました。よく出演依頼があります。
  • また、10月22日には第7回大阪府国民健康保健団体連合会主催による地域リハビリテーション交流会が泉北ニュータウンにある国際障害者交流センター(ビックアイ)であり参加しました。参加は大阪府下11自治体でした。この交流会でミュージックベルを披露しました。曲目はサッカーW杯に因んでアリランとガイセンでした。大変好評を戴きました。午後は各グループに分かれてのグループワークがありそれぞれ苦労と体験を発表しました。毎年この交流会に元気に参加できることは大きな喜びであります。♪
  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号
  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号

片マヒ自立研究会 機関誌4号 「歩けるようになりたい!」

邑上 晃

  • 私は平成7年12月に倒れ、羽沢の脳神経外科東横浜病院へ入院しました。横浜高島屋で委託の中華料理店に勤務していました。ちょうど暮れの忙しい時でした。品物を取りに行き、調理場へ帰ってきたとたん身体がふるえてきて右手がガクとなりました。意識がもうろうとし、目が覚めたときは2週間後でした。その後、七沢脳血管リハビリテーションへ転院し、そこで言語の訓練が始まりました。

  • 装具を作ることになり、私のは長い装具です。「なぜ、私だけ長い装具ですか?」と聞きますと「かかとが付いていないのと足が横に曲がっているので長い装具をつける」のだそうです。「じゃあ、これで治るのですか?」と聞きましたら「何とも言えない」と答えが返ってきました。装具をつけて歩く訓練をして2、3分で終わりです。後は車いすで移動するしかありません。

  • 理学の先生が「足の手術をしよう」と言い、主治医が「しなくても良い」と言い、そのままになりました。しばらくして、理学の先生から「神経ブロック注射をするといいけど、どうする?」と聞かれ、お願いしました。歩く訓練は5分間だけ、後は平行棒で立ったり座ったりするだけでした。

  • 6月に入り「もう退院をさせて下さい」とお願いし、理学の先生に家まで来て貰いベッドの置き方、ふろ場などの助言を貰いました。

  • 退院後、区役所の人から「機能訓練教室をしていますから、ボランティアさんに送り迎えしてもらって、みんなで話したりゲームをしたりしましょう」と話しがありました。船員病院での治療提案も受けました。船員病院で3ヵ月がんばったけれど、完全には治りませんでした。そこで、厚木の神奈川リハビリで手術をしてもらい、3ヶ月入院しました。その後、船員病院にもどりリハビリをして歩けるようにはなりました。けれど、右足の爪先と右足が内側に曲がっているので、もう一度、厚木の神奈川リハビリへ行って診てもらいました。「手術はできるが足がぶらぶらになる可能性がある」と言われてやめました。船員病院に行ってリハビリの先生にこのことを話しますと「そうか」で終わりでした。リハビリをしましたが、難しいのか治せませんでした。曲がったままで生活しています。

  • 素足で家の中は歩けず、室内用の装具でいます。もう入院はしたくない、と思っていたら3年くらい経ったころ、右足の親指がぐらぐらしているのでリハビリの先生に言ったら「手術をして治そう」と言われ、また3カ月入院です。今度は、かかとが完全につくようになりました。近所のスーパーや公園まで行き、回りの環境に慣れるようにし、バスに乗る訓練を何回かしました。

  • 歩けるようになったことで、新横浜のラポールまで行って、フィットネス、陶芸、ボッチャなどをしています。マグカップ、湯飲みなどを作りました。今度、レモンしぼりを作りたいと思っています。みなさんも陶芸してみませんか。世界にひとつ、自分の作品です。楽しいですよ!気持ちが集中できます。

陶芸作品
片マヒ自立研究会 機関誌4号

LinkIcon



活動報告、風物詩

  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号

  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号防波堤で二人の老人が釣をしていた。魚篭を覗いて見ると、数センチの小魚が50匹はいる。海タナゴだ。 煮付けにすると良いとのこと。料理の仕方は、鍋に水を引き、醤油と砂糖で味付けする。骨が硬い魚なのでコトコト煮ると良いそうだ。
  • 住まいは川崎市だそうだ。電車とバスを乗り継いで来る。仲の良い友達らしく、餌も共用である。午後2時ころ「餌もなくなってきたのでこれで帰ろう」と糸を巻きに掛る。「こんなに釣って帰ると、ばあさんが嫌な顔をするんだよ」と一人が笑う。
  • 釣った魚と酒を前にして、二人の老人は顔を火照らせる。
  • 想像であるが、良い情景だ。

(江嵜 昭)

【共に考えるリハビリテーション】基調講演とシンポジュウム

(森山志郎)

  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号平成16年2月5日、金沢区能見台地区センターの体育室で、区役所と区社協の共催で中途障害者地域支援事業がありました。森山が基調講演の後、地元の障害者を交えたシンポジュウムを開きました。
  • 会場の椅子席は満員で、リハビリテーションが、手足の機能回復だけでなく、もっともっと、幅広い人間としての「生き方である」という主張に、聴衆の皆さんは熱心に聞き入ってくれました。  
  • 金沢区の皆さんが本当に前向きに生きていることに感激しました。
  • 当日の要録は、返信用切手100円で希望者にはお分けします。

LinkIcon

短歌、俳句、著書の紹介等

  • 【会の紹介】(あなたも参加しませんか?)
  • この会は、脳血管障害者の自主グループとして、片マヒ後遺症を持ちながらも、明るく楽しく地域の人たちと共生し、障害者がともに支え合うことを目的としています。
  • 主な活動は、月一回の会合で近況報告、講演会、楽しい行事、ピアカウンセリング、研究成果や情報を「会報」に発表、などです。
  • 【片マヒ自立研究会活動予定】
  • 場所:かながわ県民センター:横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2 ℡ 045-312-4810
  • 横浜駅西口徒歩5分、障害者無料駐車場あり
  • ・6月13日(日) 13時30分~16時30分
  • ・7月19日(月) 13時30分~16時30分
  • 「会員の著書の紹介」- (3)
  • 題名「暮らしのハンドブック」
    • 脳血管障害の先輩から後輩へ、
  • 著者 笠井雅雄
  • 発行 グループ・ピアズ事務局
  • 多くの脳血管障害者は退院時「一生車椅子の生活です」とか「発症後6ヶ月経ったら回復の見込みはありません」とか言われて暗たんたる気持ちでいるようである。

  • 「そんなことはない! 1年目より2年目、2年目より3年目のほうが良くなることをみんなに知らせなければ!」と仲間とこの本を出版した。
  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号【短歌】

河野元一

  • 障害の我が身に在れば歩み遅く
  • 草花の色も鮮やかに美(み)ゆ
  • 病まざれば我壮々の老いなるを
  • 悔いはなけれど思いは残りけり

  • 片マヒ自立研究会 機関誌4号【俳句】

前田菊子

  • 婚の日や壷にあふれしかすみ草

家村富美子

  • 朝の陽を浴びて光れる豆の芽は
  • 皆疑問符の象なしをり

  • ゆるき冬陽背に受けて立つわが影の
  • 胸のあたりに光る草の芽

  • 可も不可もなき日常に埋没せるわれに
  • 草の芽の光眩しき
  • 【編集後記】
  • 今号、編集長2度目歴任の古川さんの突然の病気入院で、創刊号から表紙と、イラスト挿入のみが主だった私が急きょ、構成からレイアウトまでの担当と代役をひき受けざるをえなくなりました。
  • 見た目よく読みやすい紙面を心がけ、今やっと肩の荷が下りたところです。
  • 良いもものに出会えた!
  • 生きていて良かった!
  • と思えるような、そんな会報作りに、老いに負けずに、これからもお手伝いできたらと思っております。(平井)

  • 発行日 2004年5月16日
  • 片マヒ自立研究会 会長(題字とも) 森山志郎
  • 編集委員
  • 城所佳夫
  • 古川 猛
  • 佐藤万宜
  • 平井咲恵子
  • 江嵜 昭  (連絡)

eメール VEB00662@nifty.ne.jp

6号

片マヒ自立研究会 機関誌6号

目 次

「巻頭言」

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • 片マヒ自立研究会会長 森山志郎
  • リハビリは、新しい自分を作ることです。
  • それも、決して古い自分を捨てることではなく、これまでの自分を土台に、新しく「障害と共に生きる」部分を加えて、それが一体となった「新しい自分」を作ることです。
  • まず、行動の不自由さを取り戻す必要があります。右手を使えない私は訓練したら、自分も知らなかった能力が見つかりました。
  • 鶴見和子先生は脳卒中のリハビリは、「埋蔵資源の発掘だ」と、たとえ話をされましたが、全くその通りです。でも、掘り起こさないと何が埋まっているのか、誰も知りません。慌てずに友人や専門家の話を参考にして、発掘の目標を決めてください。心に決めたことは、必ず実現できるものです。
  • ドアは叩かないと、開けてもれえないものなのです。

LinkIcon

「戦略的に進める私のリハ(2)」

森山 志郎

  • 1,「戦略的」の意味
  •  脳卒中になって、リハビリをするときに、ぜひ、「戦略的」に目標をきめてください。
  •  それは「賢い」リハビリをして、どんな生活を目指すか、ということです。
  •  手足が不自由でも、家の中であれば生活の自立を求められます。自分の家業であれば、気兼ねなく続けられます。
  •  昔の勤め先で元通りの仕事をするには、通勤をしたり、職場の受け入れが問題になります。その他、どんな社会的な活動をしたいのか、目標を決めて下さい。それを心の中にしっかりと持つことは、リハビリではとても大事なことです。
  •  そのために、主として次の三つの視点から考えると良いと思います。
  • 第一は、歳によって回復のペースが違うこと。第二には、みなさんは違う障害をかかえているので、異なった対策が必要なこと。第三には、これまでの挫折や挑戦、そして成功した体験に個人差があること。
  • この三つの視点で考えて、あなたにふさわしい目標を作ってください。

  • 2,歳にふさわしいテーマ
  •  人が生きるには「人生周期」という見方があります。人間は生まれて死ぬまで、一般的には、共通した通過点があるからです。
  •  人は成長すると、仕事を身につけ独り立ちをします。つぎに「つれあい」と共に家庭を作り、次の世代である子供を育てます。
  •  やがて定年になると引退し、人生の老後を過ごした後、最後に死を迎えます。最近では長命化のために「たそがれの時間」が長くなりました。そこに老後の生き方という新しい課題も生まれています。私は56歳で不自由な状態になりましたが、今では76歳になっています。
  •  人には、この人生のテーマをやり遂げられるよう、歳が若いほど肉体の回復力は強いのですが、一方で、子育てのすんだ老人になると骨はもろくなり、筋肉も弱くなって強い運動はできにくくなります。つまり歳によって体力に差があることを承知してください。
  •  65歳を過ぎた老人と、50歳の働き盛りとでは、回復力も筋肉の力も新しいテーマに立ち向かう能力も違いがあります。
  •  自分の歳に見合った、ふさわしい目標を見つけることが「賢い」方法です。

  • 3,後遺症―障害の問題
  •  脳卒中の後は、手足のマヒに加えて、外からは見えない、他人にわからない「痛み」や「不便」に苦しむ人も多いようです。
  •  足にマヒがあっても、「装具」を使えば、自由に歩けるようになります。自分で動き回ることが出来ることは、大きな生活スタイルの分かれ目になります。バリアフリーが進みましたが、日本の道路や建築ではなるべく車椅子は使わずに生きたいものです。
  •  できるだけ自分で動けることが望ましいですね。右手が使えなくて、字の書けない人は、ぜひ、左手で字を書く訓練をして下さい。すべての生活で左手が主役になるのですから、しばらくは時間はかかります。
  •  最近ではパソコンを活用して、文章をつくったり、手紙を書く人が増えました。手紙を書くことは、押さえつけられた不満を解消できる良い方法と思います。
  •  現在のあなたには、どんな訓練が可能なのか、対応できるものや、できないものがありますから、身近な医療関係者とよく相談して、その意見を聞いてください。
  •  そして、「昔の私」に戻るのでなく、新しくハンディのある「私」が、どんな新しい生き方に挑戦できるのか、考えましょう。

(つづく)
LinkIcon

「自然の食品に助けられて」

山田 裕子

  • 復職ができて元の職場にもどったとき、友人が健康月刊誌の1年購読券をプレゼントしてくれました。そのお陰で、心身の健康に食生活がどれだけ大事で、食生活が人生をも変えることを知ったのでした。

  •  玄米、大豆、ゴマ、やさい、海草といった自然の食品、そして、みそ、梅干、漬物等、自然の発酵食品には、健康づくりや維持に欠かせない大きな力がある、素晴らしい食品であることを学んだのです。
  •  今日、ものが豊かになり、食生活も手軽で便利になりましたが、表示にたくさんの添加物が示されて、驚くとともに不安になります。どうしてもこんな添加物をとるので、便利さと背中合わせに、不健康の種があることに注意しています。

  •  障害を負い、輸血のためにC型肝炎ウイルスに感染し、慢性C型肝炎といわれている私が、元気に毎日を暮らしているのは、「玄米自然食」の効果に尽きると感謝しています。

  •  その思いで、長く玄米自然食を実行しているのです。そのせいか、夏の暑さにも負けず、身体は軽々として動くことができるし、肝機能も正常値を保ち、肝炎にならず「医食同源」という言葉を実感しています。
  •  玄米は、お米の「命」を宿す、食養的に素晴らしい完全食品で、体にほしいものが多く含まれています。

  •  体を温め、細胞を活性化しますから、体が軽く動くのでしょう。
  •  玄米ご飯は、ぼそぼそしてまずいと、聞きますが、これは炊き方しだいなのです。

  •  私は小豆や黒豆を炊き込んだりしますが、とても美味しいご飯になります。ただし、玄米にはカルシュウムがありません。
  •  それを補うために「いりゴマ」をよく擂(す)り、軽く塩味にして「ふりかけ」を作り、たっぷりとご飯にかけて、よく噛んでいただきます。
  •  古来から日本の風土にあった玄米は、素晴らしい主食と実感しています。

  •  一方の副食には、必須アミノ酸を多く含み、たんぱく質が豊富で、栄養障害の心配がない、大豆、大豆製品やいろんな野菜や海草をとりあわせ、バランスよい献立を作ります。また、みそ、梅干、漬物等の発酵食品をとりいれ、動物性食品はひかえて、食べ過ぎないようにします。

  •  こうして、体調を見ながら玄米を中心にした自然食の生活をしていますが、体調がとてもよいので、これからもつづけるつもりです。
  •  食物繊維は、体内に入った化学物質を排泄してくれますから、昔から繊維が多い伝統食品も、食卓に欠かせません。

  •  今日では「栄養」というとすぐ「肉」を連想するように、動物性の食品は簡単に手に入るようになりました。しかし、自然の良い食品は、努力しないと口には入りません。人間の体は、食べものの成分で作られているのです。良い食品を選んで食卓を作っていけば、体質も改善されていくことでしょう。再発を防いで健康な生活をしていくには、毎日の食卓がとても大きな力を持っています。どうか、一緒に「障害はあっても健康な生活」を目指していきましょう。

片マヒ自立研究会 機関誌6号
玄米ご飯

  • 陰陽のバランスに立ち
  • 自由自在にかたよりがたき
  • 日々でありたい

家村 富美子

LinkIcon

「落書き!?」

三好  務

  • 老境に至って、やっと自分の辿ってきた長い人生を振り返ることができる。若い時に見えなかったものが、見えるようになり、また、忘れかけていたものが思い起こされる。
  • 自分の一生は、起伏の多い人生だった。少年の頃、北海道大学のプール、16歳の時、東京多摩川の急流で溺れかけた。成人して北海道の化学肥料工場に就職し、21歳の時、業務災害で右手五指の機能障害者となった。以後、酷寒の北海道で、人には察しきれない左手一本の涙の出るような、苦しく辛い生活を踏み出した。この事で私が描いていた人生の夢も、全く消え去った。昭和44年に大阪に転勤、ついで、46年東京に転勤、好きな山登りを始めた。冬の魔の山、谷川岳で滑落、谷に落ちる所を、一本の細い木が一命を取り留めてくれた。また、正月の八ケ岳で道に迷い遭難寸前、北岳に息子と二人で登山、下山して身延駅にバスで移動中、100メートルに及ぶ山崩れに遭遇、バスは10メートル手前で急停車して、危うく難を免れた。
  •  昭和51年、新年早々、舌癌で入院、苦しい人生の悲哀を味わった。切除検査の結果、幸い良性の腫瘍だった。60歳の時、脳梗塞で倒れ、何人の医師からは再起不能と宣告され、リハビリ施設を紹介もされず、「いざり」同様の生活が始まった。以後、自宅で家内が用意したリハビリ器具を使い、家内の叱咤と励ましの元に、負けん気の強い本人の前向きの意思が、必死のリハビリを耐え忍び、何とか歩けるようになった。今は杖をただ一人の友として全国を旅して紀行文を書いている。医者からも見離され自力でここまで回復した。この陰には家内は勿論、大勢の人々の力添えがあってのこと。

  • 精神対話士の資格の取得 長山 弘

  •  私の「片マヒ自立研究会」への出席への動機は「真の障害受容」を求めてのことであった。平成15年6月、発症後一年を迎える頃に初めて「片マヒ自立研究会」へ出席した。
  •  「過去との決別、自分の信じられない心の弱さ、これからの生き方などの課題」を誰にも言えずにいた。
  •  「傾聴」「共感」「受容」の精神で片マヒになった私を包んで下さった。
  •  「人間としての誇りを取り戻したら、手足の不自由なことは、個性の一部として考えられるようになる。」との森山会長の指導を得て、心から納得出来た。
  •  私は、傷ついているもの同士が「相手を癒してくれる立場がある」ことを知った。そのことによって、これからの生き方の指針の一つとして、「メンタルケアの専門職」としての「精神対話士」があることを知り挑戦した。
  • ①加齢に伴う孤独感や喪失感で苦しんでいる人 ②長期入院や療養生活で不安や恐怖を感じている人 ③引きこもりなどで孤独感や挫折感を持っている青少年 ④介護で疲れと孤独感を感じている家族などを対話によって、「癒し」を齎(もたら)す仕事である。

LinkIcon

「可能性と限界を求めて」

篠原順子

  • え、なに、これ・・・?
  • 仕事から帰って赤ワインをいっぱい。一休みしてお風呂に。いつものパターンだ。シャンプーをしていたときに左手中指に痺れが走った。え、なに、これ? シャンプーを流し、湯船に入る。ところが出ようとしても手に力が入らず立てない。これが障害者としての人生の始まりだとは考えも及ばなかった。病気に対してまったく無知だった。風邪もひかないくらい元気だった。救急車で運ばれながら、翌日のことが気になって友達に連絡するように頼む。自分では意識があったように思っているがこの後の記憶はあいまいだ。眠ったり目覚めたりの軽眠状態だったようだ。3日間集中治療室にいてその後一般病棟に移ったそうだ。

  • リハビリ開始
  • 発症後3週間でリハビリ病院に転院。寝たままの車での移動だった。翌日から朝の着替え、車椅子での移動、などリハビリが始まった。知能テストのような脳の検査をいろいろされた。顔は左半分が重苦しい。口も左が動かしにくい。音が鮮明に出てこないような感じ。左手は肩からぶら下がっているだけ。左足の付け根が痛い。

  • 最初は、装具。石膏で型をとって出来上がるまで約1週間。試着して少し修正を加えてマイ装具が出来上がった。それまでも病院の装具を使って、リハビリはしていた。床へ降りての膝立ち、片足を前に出して脚をたて、また戻す。腕の力に頼らないとまったく足が出ない。寝た状態でのヒップアップ。それらが何を意味しているのか、何の役に立つのかもわからない。ただただ言われるがまま、取り組んだ。

  • 可能性と限界を知りたい
  • 作業療法もケースの中の小豆やお米に両手で触れて健常の手で感じている感覚を麻痺側の手でも感じていると思って覚えこませるようなこともしたが何も感じない。無駄なことをしているように思った。療法士に「あなたと一緒でないとできないことをやってほしい」と言ったことがある。医師に「あなたは重度の感覚障害です」と言われた。言葉上の意味はなんとなくわかるがそれがなにを意味しているのか具体的にはわからなかった。脳出血とか脳梗塞と言っても症状は脳のどの細胞が侵されたかによって千差万別、人それぞれなのだとだんだん理解するようになった。それなら同じように重度の感覚障害の人がどのようなことができるようになっているか、自分の可能性と限界を知って可能性のあるものに全力投球をしたいと思った。

  • 片マヒ自立研究会との出合い
  • 『脳卒中後の生活』という本に出合い、執筆した患者グループ「片マヒ自立研究会」を主宰している森山さんにメールしたところ早速お返事をいただいた。さらには12月の会合へのお誘いもあった。まだ車以外での外出はしたことがなかったが、療法士さんに相談すると、バスと電車に乗る練習を一度してくれた。しかし、横浜まで行くのは大いに不安だった。でも助言がほしかった。夫の援助もあってどうにかたどり着いた。先輩方の体験談を聞いているうちにわかってきた。だれも可能性や限界はわかっていない。医師たちも。やってみなければできるようにはならない。あきらめてはいけないのだ。これからはNever give up! の気持ちでなんでもやってみよう。あせらずに、のんびりゆっくり、しかし着実に。これがこの会の方々から学んだことだ。

LinkIcon

「本の紹介」

  • 『歩けた!手が動いた』
  •  主婦の友社
  •  著者:片マヒ自立研究会会長

森山 志郎

  • 紹介文:著者本人
  •  私は発病して、回復に焦って肝臓を痛めました。絶対安静を守ったため、廃用症候群により筋肉が拘縮して、どん底の絶望状態に陥りました。
  •  どうやって立ち上がり回復の道を辿ったか。そして、右半身マヒと云う、治らない障害を抱えているのに何故、新しい自分と出会えたか、各章に「そのとき妻は」というページを設け、私の状態に合わせた妻の意見を入れました。発病して6年目の平成3年に書いたものです。
  •  絶版ですが、横浜市立図書館にはありますから取り寄せてお読み下さい。

  • 『心が動いた』
  •  莊道社   定価 1,785円
  •  著者:片マヒ自立研究会会長

森山 志郎

  • 紹介文:著者本人
  •  前の本を出版して10年後、私は障害を持ったまま、講演活動で全国を飛び回りました。どうしたら立ち直れるか、深く複雑な問題ですが、より一歩踏み込んだ「障害受容」とかのテーマにも取り組みました。
  •  大田仁史先生を囲んで私と妻の鼎談記事も載せ、本人や家族の心の動きを説明しました。これは出版社に在庫もありますからお読み下さい。

  • 上記の本を読まれて、片マヒ自立研究会に入会された方が大勢いらっしゃいます。

  • 『あなたへの応援歌』
  •  文藝社   定価 1,575円
  •  著者:片マヒ自立研究会 
  •  長山 弘
  • 紹介文:著者本人
  •  平成14年6月27日、会社生活36年の最後の日、株主総会へ向かう車の中で、「脳梗塞」を発症し倒れた。
  •  今まで経験したことのない精神的、肉体的苦しみが、私に容赦なく襲いかかり、57年間築き上げてきた私という人間の精神的土台を、根底から破壊していった。
  •  リハビリによる身体の回復への挑戦に加え、「障害受容」という私にとっての大課題が生じていた。
  •  そして、人生の全ての体験は、どんなに過酷なものに見えようと、人を苦しめる為にだけあるのではなく、全てが、教訓的なものであることを心に刻むことが出来るまでの体験記である。

片マヒ自立研究会 機関誌6号
インターネット書店
24時間営業中!
www.yurindo.co.jp/

「本の紹介」

  • 「脳卒中からの復職」
  • 著者:江嵜 昭
  • 発行:荘道社   定価:1,000円

片マヒ自立研究会 機関誌6号

  • 第1章 リハビリテーション
    • ・自立へ向けての第一歩
  • 第2章 自宅でリハビリ
    • ・復職までの課題
  • 第3章 いざ復職!
    • ・仕事上の工夫
  • 第4章 生き方を考える
    • ・人生の再構築
  • リハビリには目標が大切だ!
  • 51歳の働き盛りで脳卒中を患った。なってしまった以上、それをとやかく言っていても仕方がない。これからどうしようか。「復職したい!」そこで復職への「目標」を立て、リハビリに邁進した。私と同じように脳卒中になった人で「復職したい」と切望している人たちの参考になればと思い、筆をとった。
  • (江嵜)

  • 「脳卒中後の生活」
  • 監修:大田仁史  編集:橋本三鈴
  • 発行:創元社   定価:1,470円

片マヒ自立研究会 機関誌6号

  • 第1章 脳卒中の知識と入院から退院まで
  • 第2章  後遺症とのつきあいとリハビリ
  • 第3章  再発予防と元気に暮らすために
  • 第4章  脳卒中後の日常生活の工夫
  • 第5章  経済面や生活を支えるサービス
    • 片マヒ自立研究会と出会って10年以上になります。私自身も会員の方たちの前向きに生きる姿に励まされ、さまざまな暮らしの工夫に感服しましたが、全国の同病の方たちにもぜひ伝えたいと思ってきました。会員の方たちの「少しでも同病の後輩に役に立つことがあれば」というご好意で、いろいろお話をうかがってまとめることができました。「とても参考になり助かりました」という読者の反応もあり、うれしい限りです。ご協力ありがとうございました。
    • (橋本)

LinkIcon

100回記念、会の紹介、後記

  • 【100回記念行事のお知らせ】
    • おかげさまで、片マヒ自立研究会は今年100回目を迎えます。
    • 100回を記念致しまして、ふさわしい記念行事を計画しております。
    • 100回の歩みの記念号の発行、今後の会の方向を示唆する講演会などを計画しています。
    • ご期待ください。

  • 【会の紹介】
    • あなたも参加してみませんか?
    • この会は、脳血管障害者の自主グループとして、片マヒ後遺症を持ちながらも、明るく楽しく地域の人たちと共生し、障害者が共に支え合うことを目標としています。
    • 主な活動は、月一回の会合で近況報告、講演会、楽しい行事、ピアカウンセリング、研究成果や情報を「会報」に発表、などです。

  • 【活動予定】
    • 場所:かながわ県民センター
  •    横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
  •    電話 045-312-1121
  •    障害者無料駐車場あり
  •    横浜駅西口下車徒歩5分
    • 5月14日(日)13時30分~16時30分
    • 6月11日(日)13時30分~16時30分
    • 7月09日(日)13時30分~16時30分
    • 9月10日(日)13時30分~16時30分
    • 会費は一回500円です。
    • 皆様の参加をお待ちしおります。

    • 執着なく無限の中にありて
    • 梅はらはらと散るを眺めつ

家村 富美子

  • 【快適な生活のための】か・き・く・け・こ
  • か・感動
  •  「感動とは感じてうごくこと」感動は脳を刺激して次の新しい行動の呼び水のなります。
    • 一日に一回は小さな感動を味わいましょう。
  • き・興味
    •  絶えず新しいことに興味をもち「60歳、70歳からのチャレンジ」でどんどん新しいテーマに挑戦しましょう。
  • く・工夫
    • 問題が起きた時に様々な角度から解決策を考え、一つ一つ乗り越えていきましょう。
    • 工夫すること、創造的に考えることは脳の良い刺激になります。
  • け・健康
    • 健康であれば、脳の刺激もパワーアップします。今更言うまでもないですね。
  • こ・恋心
    • いくつになっても異性に興味を持つのは自然の摂理。心のふれあいも含めた上手なつきあい方を考えましょう。
    • 恋心は若返りの特効薬です。

提供・三好さん

【編集後記】

  • 急きょ編集のまとめをおおせつかり6号を完成させました。楽しい会報にしようと思ったのですが、堅さがどうしても出てしまいました。100回を期にほのぼのとした会報にしたいと思います。

佐藤

  • 発行日 2006年(平成18年)4月9日
  • 片マヒ自立研究会編集部
  • 会長  :森山 志郎(題字)
  • 編集委員:城所 佳夫    長山  弘 
  •      江嵜  昭    井本  健  
  •      篠原 順子    佐藤 万宜
  • 連絡:佐藤万宜kazuyosi-satou@mail.goo.ne.jp

5号

片マヒ自立研究会 5号


片マヒ自立研究会 5号

目 次

「巻頭言」

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • 2004年は台風、水害、地震に加え、津波の襲来など、自然の猛威が多くの人命を奪いました。私の心に強く残った教訓は、世の中には、いかに「生きたい」と願っても、許されない人々が沢山いらっしゃることでした。
  •  私の病気も、突然襲った災害と思っていましたが、幸いなことに、右半身の手足に麻痺が残り、病気の前と比べると、運動機能は低下しましたが、未知の能力を開発することにより、退院して20回目の正月を、家族と一緒に元気で祝うことができました。
  •  今年も、この大事な「命」を大切にして、自分も未知の能力を手探りで開発します。そして、多くの障害と向き合う仲間に、将来の希望や、未知の能力があることを伝え、許された人生を、悔いなく、精一杯の挑戦を続ける舞台にする覚悟です。


「戦略的に進める『私の』リハ」

  • 森山志郎
  •  病気が急性期を過ぎた頃、何故、脳梗塞になったのか勉強し、自分の生活を振り返って見ました。周囲には、再発して障害が重くなった方もいました。折角のリハビリも再発しては意味がありません。どうすれば再発を起さずに再び立ち上がることかできるか、戦略的に考えなければなりません。そして私の体質と性格と生活習慣に発病の原因があることを突き止めました。

  • 1. 体質の改善対策

  • 肥満体質の私は、体重は86キロ前後あり、仕事をしても頼りにされました。発病の数年前には、境界型の糖尿病と診断され、一生懸命、減量の努力をしていたのに、札幌に転勤して以来、その努力を忘れていたのでした。
  • そこで減量は、昔の「減量方法」を思い出し、毎日のカロリーを制限することを基本にしたほか、今度は「何故太るか」を調べて対策にしました。教訓は力士が体重を増やすため、一日に食事の回数は2回に減らし、その代わり腹一杯に食べ、食後は必ず昼寝することでした。
  • 私は反対に、必ず、3回の食事回数を守り、食事も、玄米食にしましたが、歯の「噛みあわせ」が悪く、歯医者さんで「噛み合せ」を矯正しました。そして一口の玄米を50回は噛めるようになったのです。ゆっくり食べると神経中枢が満腹の信号を伝える余裕が生まれ、少量でも満腹感を得られました。動物性の脂肪は扱いに気をつけます。
  • 寝る3時間以内には何も食べないことも大事です。寝る前の食事は、エネルギーとして消費されず脂肪になり、体重を増やす結果になるからでした。
  •  もう一つは、脂肪を燃焼させる運動の必要性です。連続して20分過ぎないと、脂肪をエネルギーに変換しませんから、1時間以上の散歩をします。

  • 2.  イライラした性格

  • 次は、私の、いらいら性格でした。入社以来、産業構造の変化に晒される、時代遅れの産業部門にいましたから、激しい合理化の大波が次々にやってきて、神経をすり減らす毎日でした。夜も頭の中で仕事のことが渦巻いていて中々寝付けませんでした。
  • これには毎日歩くこと、全く違った生活に切り替えたことで対応が出来るようになりました。左手で始めた習字も、立派な雅号を頂いて、筆を持つことも性格を直すのに良いようです。特に、感謝しながら生きることが出来たことが一番大きな成果だったかも知れません。

  • 3. 生活習慣

  • 大量のタバコを吸って、酷い頃は一日に4箱80本も、煙にしていました。先ず、煙草を完全にやめましたが、これには決断する「意思」が大事です。自分が決めたことは実行がし易いものです。タバコが欲しくなったら、ニコチンが血管を縮めて、血液が流れなくなるイメージを頭に描いて工夫しました。
  •  そして、夜の食事では、妻と少量のお酒で楽しい団欒の時間を作ります。缶ビールだと1本、お酒なら1合を、二人で嗜むのです。入浴は欠かせません。これで全身の血行を回復し、12時前には必ず寝るこにしました。睡眠中に脳神経を修復して貰うために、良い睡眠を心がけています。手足を伸ばし、数回の腹式呼吸で気持ちの良い睡眠に入れます。
  •  再発しない体制をとりながら、機能の回復にかかりましょう。
  • (つづく)
  • LinkIcon

「リハビリ通院」

野坂 允(まこと)

  • 退院後、三つの病院でリハビリと診察を続ける。
  •  病院への道順は、自宅から駅まで坂道を上り下りして約10分、次の駅で降りて鉄橋を下ってバスに乗り停留所二つ目。自宅を8時に出て9時前に病院へ。通院しはじめは、妻に車で病院まで送ってもらう。

  •  手続きを済まして9時からリハビリ室でPT約1時間半、担当の理学療法士が付き切りで見てくれる。麻ひの左足に3kg、右足に5kgの重りを付けて、片足ずつ膝を伸ばして前に上げる。曲げたままで膝まで上げる。

  •  ベッド上でうつ伏せになって足の屈伸、開き、重りをはずし支持脚に掴まり足首の上げ下げ、つま先立ち、屈伸、平行棒間を歩く、片足立ち、階段昇降、斜め版でストレッチ。
  •  ОTでは、円盤に立てた棒を掴み肘伸ばし、空気の入ったチューブに腕を入れ伸ばす。

  •  横の椅子に掌をつき腕を伸ばして体重を支える。麻ひの左手首を右手で掴み、立ち並ぶ積木をつかんで入物へ移す。棒を両手で掴み上げ下げする。麻ひの左手をストレッチしてくれる。
  •  通院最初の頃の帰りは、先ず駅の近くまで歩き、迎えの車で家へ。次に電車に乗り次の駅で迎えてもらう。そして送り迎えはなくし全道程を一人で往復するようになった。
  •  また、リハビリも療法士が付きっ切りでなく他の患者を見ながら、見守ってくれているようになり、自主的なリハビリになる。また、ペタル漕ぎが加わる。筋力や歩く早さなどの検査も行なうようになった。ОTの方は、チューブでの腕伸ばしはやらないようになったが、改善がはかばかしくなく同じようなことをしている。

  •  リハビリ室では、たくさんの仲間と会える。
  •  80歳を超えた方もいれば30歳代もいる。
  •  都合で休むと、次に会ったとき「どうしたのか、淋しかったよ」と声を掛けてくれる。
  •  交通事故で片足を切断された70過ぎの男性は、特に上体を鍛え、障害者水泳で最高の記録を出し表彰された。

  •  また、40代と思われる男性は肘から切断されている。真新しい包帯の先が半袖から見え、左手のリハビリに励んでいる。初めは奥さんも来られていて、悲歎にくれずに介添えされていて、ご夫婦の前向きな態度は、爽やかで色々と考えさせられた。
  •  人からいただく感動は、自分への反省と励みになる。
  •  “自他共により良く生きる”ように心掛けたい。
  • メモ
  •  電車から降りるときは、まず降りる一つ手前の駅で、ドアーの近くまで行ってすぐ降りられる体制にしておくこと。
  •  ドアーが開いたら杖を先に出し、「片マヒの人が降ります」と暗黙のうちに乗り込んでくる人にわかってもらうようにする。
  •  こうすることで、降りる際乗り込んでくる人に押し戻されたり、人をかき分けて降りなければならない危険を避けることができる。

片マヒ自立研究会 5号

LinkIcon

私の発症記録

前田菊子

  • それは、昭和61年2月24日突然やってきました。
  • 車中では昨日主人の一回忌に来てくださった方々のお顔をあれこれ思い出していました。
  • 役所の持ち場へ着き、突然、胸から頭が痛くなり、これは 「尋常ではない」と思わず廊下に有る椅子にくずれるように腰を下してしまいました。
  • そばにある売店の人に早く知らせたい、足を一歩出したけれど力がはいりません。
  • 廊下にまるで蛙の様に平べったくなった時、不審な物音に人が駆けつけてくれ、医務室に運ばれました。

  • 先生から脳梗塞と聞いた時、思わず手足を動かして見て大丈夫と、一安心して居ました。通院先の病院名・ドクターの名前・息子の連絡先等をお話して、救急車の来る迄、目をつぶっていました。

  • 間もなく息子も来て病院につくと、本宮先生も看護師さんもいつもの顔ではなく心配そうでした。私は済生会に着いて一安心しました。
  • 4人の姉弟たち、その連れ合いの嫁が心配そうにして居り、私か手足が動く事を伝えようにも、タダ静かにと『シイー』と口を押さえていました。
  • 2日目、眠りがさめると右側に「マヒ」がきていました。
  • やはり脳梗塞かと涙がとめどもなく流れ布団をかぶって暫くは泣いていました。
  • 1週間後、リハビリが始まりました。

  • 本宮先生の外、神経内科からも先生が脳のテストをしてくださり、緊張し疲れました。
  • 病院に居る間に少しは字でもと、昨日の記憶などノートとエンピツで、右手で書こうとしても駄目で、左手で献立とかを書けたのは1ヶ月目の事です。
  • 始めはリハビリの部屋へ行くのも抱えられる様でした。5月の半ばには箸で豆をすくい別の器にと。ベッドに戻るとクタクタでした。

  • 階段の上がり下りも、先生に手を持ってもらい行っていたのが、ゆっくりでしたが先生の手を持たなくても出来る様になって、110日間の入院は終わりました。
  • 6月7日退院。この日はなんと晴れ晴れしかったでしょう。杖をついて多少ゆっくり歩く事は、覚悟していた事であったけれど、1週間は寝たり起きたりの生活で病院とは大ちがい。何も出来ず、本当に半分ウツ状態、けれど歩く事はしようと思い、マンションの駐車場へ皆が出てから行きました。洗濯バサミを持って、1回ずつ置いて来るのです。そうすれば距離もはかれます。

  • そんな事をして3ヶ月位はアッという間でした。
  • 頭はいぜん空っぽです。 
  • 10月に竹の塚リハビリセンターに行き、主に体の訓練。
  • でも、ここで良い事が起きました。
  • マヒの右手の熱湯による訓練で今の様になりました。
  • 翌年3月横浜に転居し、紹介を頂き県民センターの福祉センターで2コース受けました。片マヒ自立研究会 5号
  • その頃からIO年間は仕事もし、新聞で知った、ちぎり絵・マクラメ・折り紙・水引き・牛乳パック・押し花・スピーチ等続けています。
  • 皆様のお陰様と思っています。少しづつ良くなっていくか、悪くなっていくかは神様のみが知るとの思いです。
  • 今は大勢のお友達に巡り合い大変嬉しい日々を送っています。
  •  作品の一部を次に紹介させていただきましたのでご覧下さい。

  • 前田菊子さんの作品
  • 片マヒ自立研究会 5号片マヒ自立研究会 5号

  • 片マヒ自立研究会 5号片マヒ自立研究会 5号

  • 片マヒ自立研究会 5号片マヒ自立研究会 5号

  • 片マヒ自立研究会 5号
  • LinkIcon

「アマチュア無線があった!」

近藤 勲

  • 今から約8年前、脳内出血を患って、その後、養生が見え始めたとき、一体、これから何をしたらいいのかなと迷いました。

  • いろいろ考えた末、これからも続けて楽しめて、家族その他の人の労力を患わせない、アマチュア無線を続けることにしました。最近は「定年退職近くになって、これからどうして時間を過ごそうか」と、考える人が多いそうですね。無趣味に近い私も、ただ一つ、若い時から続けていたのが、アマチュア無線です。

  • 私は、右マヒで、うまく話せないので、無線電話の送受信は、出来ないものと諦めました。無線電信については、半年間くらい復習をすれば、元に戻るだろうと思っていました。実際に復習してみて、毎分20文字位が限界で、とても使い物にならないことが分かってきました(英文、毎分60字、目標)。
  • さて、それでは結局、アマチュア無線も、出来ないのでは?2~3冊の関係書籍を調べたところ、「ここ、10年位前に開発された『文字通信法』という方法があり、日本ではこれからの通信方法になる」という事が書いてありました。実際のやり方は、コンピュータと無線機を結んでおき、キーボードから文字で言葉を入れてやり、受信の時には、相手の言うことを画面に、文字で描かせるという方法です。チャットという、コンピュータの話し方によく似ています。このために、私は、左手でキーボードが使えるように訓練し(右手使えず)、その上、打込み時間が短くなるように、平仮名(ローマ字入力は使わない)入力にしました。この「文字通信方法」は、言葉でしゃべるよりは、ずっと、ゆっくりの通信で、初める前に「早くて、ついてゆけないのでは」と、心配したのが、嘘のように、ゆっくりでした。

  • アマチュア無線には、アンテナが付物です。私自身の体が不自由ですので、地域のハムの仲間が、我が家のべランダに、約4メートル(高さ)X 14メートル(長さ)の、極く小さな物を建ててくれました(雨、風、雪の心配をしなでいいようにという、配慮が伝わってきます)。私の役割?は、このアンテナを用いて、出来るだけ遠くの、しかも多くの方と交信することです。まずは、日本国内を目途にして、最初10エリァの中の1局ずつと交信すること。次は、日本の都道府県と1局ずつ交信すること。これは、北海道から沖縄まで1局ずつ、計47局と交信をするのです。3年間がんばり、今年の7月に念願のWAJAを達成しました!
  • この次の段階へと考え、米国アマチュア無線ライセンスも取得しました。これからは、世界各国のハムの仲間を相手にしたいと考えています。

片マヒ自立研究会 5号
(WAJAの賞状)

LinkIcon

「それからの日々」

  • 井本 健
  • 平成14年5月、会社からの帰宅の途中で俄かに足のふらつきを覚えた。翌日、市立病院での検査の結果、なんと即入院という。夜、点滴を受けながらベッドに横たわっているとき、左半身がボロボロに壊れて、流れていくような不安感が怒涛のように押し寄せ、「何故だ、どうしたのだ?」と泣き叫んで、まんじりともしない一夜を過ごした。翌朝、起き上がれないのだ。左手足に全然力が入らない。茶碗が持てない。脳梗塞になって左半身がやられたと解る。脳天を貫くような衝撃だった。最悪の事態は免れたらしいが、これからどうなるのか。妻子の顔が浮かんだ。4、5日で点滴の管が外され、リハビリが始まった。
  • 妻は車椅子に乗った私の動かない左手をさすりながら、「きっと、いつか、私がこの手を動かしてみせるわ」と泪目で私に言い聞かせるように言った。長女も「お父さん、ゆっくり休んで。これからは選手交代よ。
  • 妹とお母さんを盛り立てて、がんばるわ。
  • 安心して!」と、きっぱり言い放った。
  • 2ヵ月後、リハビリ専門の厚木の脳血管リハビリセンターに転院する。直後の恐怖と不安は消えたが新しい壁が。わずか3段の階段の登り降りの訓練が冬山登山のように辛い。平行棒の間を行ったりきたり、数歩の距離が千里の道のりにも感じた。リハビリは毎日毎日1枚ずつ薄皮を剥がすようなもの。耐えるしかない。単調で孤独な5カ月余。幸いなことに、30分程度なら杖をついて歩けるようになる。半年ぶりに我が家に帰った。
  • 退院後、在宅介護生活に入る。社会的弱者になってはじめて介護保険のありがたさが解る。無理に再就職もせず、年金だけの身の丈に合った暮らしをすることにした。
  • これを機に、一戸建から海辺の中古のマンションに移った。これが思わぬ効果を生む。ライフスタイルが変り、時間がゆっくり流れ始めた。何故こんな病気になったのかわからないが、これを現実として受け止めて、新しい道を探すしかないのだと自分に言い聞かせる。これからの人生は「おまけ」でいい。杖をついて一歩一歩、歩いてゆこう。
  • あせることはない。「日暮れの道はなかなか暮れないもの」と、昔、母がよく言っていたのを思い出す。こんな心境になるまでに、2年の歳月がかかっていた。
  • そして、今年の春。おまけの人生には「楽園」も必要だと思い始めた。ケアマネの勧めもあって、地元の障害者の親睦団体に入った。バス旅行、カラオケ、いろいろなスポーツなど盛り沢山の楽しい時間を送れるようになった。しかし、楽しいのだが何か物足りない感じがしていた。そんな折、縁あって、横浜の「片マヒ自立研究会」を知った。月1回の会合で、同じ悩みを共有し、お互いの自立を手助けするグループである。
  • そこで、多くの先輩たちから元気の出るパワーをいただけるようになった。
  • あの暗黒の刻から2年余、今、私はハッキリと新しい人生の夜明けを感じ始めている。こんなすばらしいお仲間と出会えたお陰で。
  • 片マヒ自立研究会 5号
  • LinkIcon

「なでてあげると喜ぶんですよ」

佐藤万宜

  •  「あ!やっぱり。この子、今私に`水が欲しい`と言ったんですよ。」
  •  ある午後のひととき、仕事も一段落して、ホットひといきしてソファーで社長とコーヒーを飲んでいた時のことである。
  •  コーヒーカップに水を汲んで、3杯ほど観葉植物の幸福の木の鉢の中に入れてあげた。
  •  大きくなった葉をなでて「なでてあげると喜ぶんですよ。」「こっちの子はまだ水はいらないね。」もうひとつあるトラノオに向かって言った。社長は不思議そうな顔をしてニコニコしている。
  •  復職して3ヶ月が経った。
  •  前の会社の上司だった現在の社長が「ベンチャー会社を立ち上げるので手伝ってくれないか?」と声をかけていただいたので(家でぶらぶらしていたので)願ってもないことと即決してしまった。(これが後で損になった。ハローワークを通さないで雇うと、障害者雇用援護資金支給の対象外になる。)
  •  こんな体の私を雇ってくれる社長の人柄にほれて、つい「私の能力のすべてを使ってください。」などと言ってしまった。
  •  会社と言ってもふだんは社長と二人きりの小さな会社である。
  • 社長が出かけた後は電話番ぐらいの仕事なので、「創業祝」にいただいた観葉植物の手入れなどして一日を過ごすので、水の切れる時期はだいたい把握しているのである。
  •  ここ2,3日水をやっていなかったので、葉の大きい幸福の木はカラカラになっていたのだ。
  •  それはさておき、片マヒ自立研究会の編集委員になってパソコンの使い方を教えてもらったのが、今の仕事にずいぶん役立っている。
  •  特に、画像の扱い方は名刺に、取扱説明書に、会社案内にと素晴らしい活躍をしている。
  •  これからも、会社と片マヒ自立研究会とが両立できるように、頑張っていきたいと思っている。

片マヒ自立研究会 5号
幸福の木とトラノオ



片マヒ自立研究会 5号


青沼さんを偲んで

10号

片マヒ自立研究会 10号

目 次

特集 資格に挑戦

「巻頭言」

片マヒ自立研究会 会長 森山志郎

  • 最近の技術革新は素晴らしい。
  • 特に人体の内部の細部の様子まで画像としてみることが出来るので、リハビリテーションの世界にも大きな影響を与えようとしている。
  • これまでは、脳神経の細胞は「再生」は出来ないと諦めていたが、条件が整うと「再生」されたり、細胞の組み合わせた新しい回路が構築されることが映像で確認されている。
  • このことから神経細胞の回復を目指す「ニューロリハビリテーション」という概念が生まれてきている。
  • この考え方は私たちのリハビリテーションにも大きな影響を与えると思う。
  • 技術開発の進歩を期待すると共に、私たちが出来ることを再検討してみたい。

LinkIcon

80歳の私の「挑戦」

森山志郎

  • 1. 定説が覆せるか「ニューロリハビリ」
  • 最近の脳科学の進歩は、脳細胞の復活や死滅した脳細胞の回路が修復されることが報告され「ニューロリハビリ」と言う考え方が生まれました。日本でも「ロボスーツHAL」とか「電気刺激リハ」等の実証研究が、脳の回復を信じて「挑戦」を始めています。
  • 2. 私の挑戦
  • 私もこの「ニューロリハ」の「挑戦」に刺激され、麻痺している手足を運動させて脳の機能回復への新しい挑戦を始めることにしました。これは高い目標に向けた努力なのです。これまでの私は「残存機能」を生かして、日常生活の確立と社会性の復活、そして「人間らしく生き生きした人生」を目標にやってきました。今度の「挑戦」は、これまでに残された「麻痺の手足」を復活させる探索を行うものです。
  • 3. 挑戦の内容
  • 「挑戦」は「ニューロリハ」で観察された「単純動作のくり返しは脳に変化を与えない」。と「高い目標に立ち向かうとき変化の可能性がある」と言う仮説を実証することです。
  • ①1.右手のお習字
    • 私の右手の人差し指と中指の間に筆を挟ませると、筆先は横向きになるので左手で右手の手首を押さえて筆先が下に向くようにして筆を持ちます。これは「習熟」が必要なので、毎日、少しだけですが継続してやります。疲れたら休みます。
    • 始めは弱い不安定な線でしたが、それでも夜、寝るときには「明日は真っ直ぐな線を引きたい」と思って寝ます。この「無意識」の作用が回復にどんな効果を齎(もたら)すか。
  • ②.歩行機能の改善
    • 脳に対する影響が薄い「ぶらぶら歩き」ではなく、毎日の「目標」を具体的に決めます。今は「歩幅と『ぶん回し』の癖」を直すので、実験的に良い方法と思った歩き方を徹底的に筋肉に覚えさせる「習熟訓練」をします。毎日のトレーニングは「習熟」が目的ですから、大体、1千歩を基準にします。そして歩く時に「意識」を「右足の筋肉や関節」と「足指の蹴り」に集めます。これは効果を高めると信じています。但し「絶対」転ばないよう注意します。これこそ「自己責任」と言うリハビリの本質なのです。飽くまでも自信のある範囲の慎重な動作を守るようにしています。
  • 4.挑戦を通じてスマートな障害者に
  • 「挑戦」と言えば「資格試験」には沢山の挑戦があります。資格試験を通片マヒ自立研究会 10号じて自分の可能性を高めることは素晴らしいリハビリになります。それは「高い目標に挑む」という姿勢が手順に従った具体的な課題の解決を通じて精神力も高め、半睡状態の精神力を覚醒させて、これまでに知られていない能力を引きだしてくれるからなのです。
  • 上手に自分の挑戦テーマを作ることはきっと私たちを「スマートな障害者」にすることでしょう。皆さんの「挑戦テーマ」も是非紹介してください。私の挑戦結果は後日報告します。

LinkIcon

資格に挑戦

吉野 栄一

  • 2002(平成15年)8月、52歳のとき、突然、脳出血で倒れ、右片マヒになりました。まだ娘は中学校2年生、息子は小学校6年生、ゆっくり休める状態ではありません。仕事は、電気工事士、20年務めていましたが、体が資本の一介の勤め人にすぎませんでした。
  • 12月に退院しましたが、常に頭がぼんやりの状態で、障害者手帳2級を受けました。翌年2月、勤務先から解雇されました。
  • 理由を尋ねましたが、答えてもらえませんでした。理由は本人である私が一番わかっております。
  • 収入の道を閉ざされ、路頭に迷ってしまいました。あせってS社入社したものの、わずか2か月で「やめてほしい」の一言で解雇される状態です。
  • 体が動かないなら、頭でできる仕事がないか? しかし、事務の仕事はしたことがありません。
  • いろいろ探した結果、新横浜に横浜リハビリテーションセンターで職能訓練をしていることがわかり、そこの職能科に入所して、パソコンを習いながら、ネームプレートのピン通しなどの単純作業をしました。
  • ここでの仕事は、障害者用に設備も整っていてよいのですが、あくまでも訓練なので、工賃は月2,3,000円にしかなりません。
  • しかし、ここでの訓練期間中に就職するためには、「資格」が大きな武器になることを、痛切に感じました。
  • このころから、私の資格に挑戦がはじまったように思います。
  • 平成17年6月、職能科修了、すぐにT社に障害枠のパート社員として入社、夜間の時間を利用して、職能訓練学校夜間クラスの「高齢者、障害者のための住まいの改築・改造の設計・行政への書類作成、受験講座」に入学、平成18年11月に東京商工会議所 福祉住環境コーデネーター2級に合格しましたが、図面が必要。右マヒのため製図ができません。パソコンで図面を書くCADを習い、全国建築連盟の建築CAD3級に挑戦しましたが、不合格、このころ、娘が川崎市内の高校に進学しました。
  • まだまだ気を抜くことはできません。
  • こんどは厚生労働省のCADトレースに挑戦するも、パソコンの実技不合格でおしくも不合格でした。
  • それから8か月勉強をして、コンピューターソフトウエアー協会のCAD2級に挑戦してようやく合格することができました。
  • 平成20年4月、このころになって頭の中がすっきりしてきました。自信回復とまではいかないが、80パーセントの回復である。
  • 58歳で正社員になるが、障害者ということで、給料は2割減、息子が高校に入学しました。
  •  資格への挑戦は
  • ・冷凍機3種・建築物ビル管理
  • ・防災センター要員・消防庁自衛消防
  • と続きました。
  • なぜ、資格に挑戦するかというと、過去に脳卒中になったため、ふたつの会社からリストラされるという苦い経験から、資格を身につけておけば、リストラ防止になるのでは、との考えがあるからです。
  •  娘も大学に進学できて、もう少しです。いまだに言語に多少の難はありますが、障害に負けずに家族のため、自分のため、がんばっていこうと思います。

LinkIcon

資格に挑戦

  • 「片マヒ自立研究会員が所持している資格」
  • ・1級建築士
  • ・ 調理師
  • ・1級陸上無線
  • ・1種伝送交換主任
  • ・1級アマチュア無線
  • ・ AA3GM Extra 米国ハム
  • ・精神対話士
  • ・社会保険労務士
  • ・普通自動車運転
  • ・高等学校教諭
  • ・電検3種
  • ・アセチレンガス溶接
  • ・電気溶接
  • ・作業主任乙種機械
  • ・配管設備士
  • ・フォークリフト運転
  • ・建築物ビル管理
  • ・福祉住環境コーデネーター2級
  • ・中学校教諭
  • ・鉄道運転士
  • ・CAD2級
  • ・宅地建物取引主任
  • ・防災管理
  • ・冷凍機3種
  • ・防災センター要員
  • ・消防庁自衛消防
  • 「俳句」
  • ・兄と行きし 阿蘇の棚田の 彼岸花
  •  優しかった兄が記念にと、掘ってくれた彼岸花が今年も美しく庭に咲きました。

森山 晏子

  • ・夜泣く子を 負うて眺めし 銀河かな
  •  夜 泣きやまず困った子を負うて、あやした若き日を思い出しました。
  •  唐津の浜辺で美しい銀河を見て。

森山 晏子

  • ・散歩道 まだ付いてくる 藪蚊かな

佐藤 万宜

  • 「会の紹介」あなたも参加しませんか?
  • この会は、脳血管障害者の自主グループとして、片マヒ後遺症を持ちながらも、明るく、楽しく、地域の人たちと共生し、障害者が共に支えあうことを、目的としています。
  • ・会費:参加の都度,1家族500円
  • ・会長:森山 志郎(題字とも)
  • 電話:045-804-0488
  • 「活動予定」
  • 10月11日(日)、11月15日(日)
  • 12月6日(日)クリスマス会
  • 2010(平成22年)1月11日(月)
  • 場所:かながわ県民センター703号室
  • 「ボストン旅日記」の紹介
  • 高橋 良三さんが会員の作品の展示を視察して来られました。
  • [saiken]-「脳卒中を生きる」-「ここに人あり」-「高橋良三さん」-「ボストン旅日記」で検索してみてください。

佐藤

  • 片マヒ自立研究会 会報
  • 第10号発行:2009(平成21年)9月20日

LinkIcon

巻頭言                 森山 志郎(横浜市、右マヒ2級)
80歳の私の挑戦             森山 志郎(横浜市、右マヒ2級)
資格に挑戦               吉野 栄一