リハビリテーションの戦い

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7.リハビリテーションの戦い

リハビリテーションの戦い

Ⅰ モラトリアムーその期間概念  ③自主グループの活動  63年―平成3年
 1.何と戦うか  5.障害受容の難所
 2.当面の目標の整理  ①大田先生の「啐啄同時」
 3.退院と日常生活の自立  ②生きる武器になった書道―埋蔵資源の発掘
 ①バリアーが一杯の街との戦い  ③出版とその記念会が生んだ新しい課題
 ②日常生活ーADL-自立の戦い  Ⅱその後の課題―モラトリアムの完了と再び生きる人生
 ③体質と習慣を改善する戦い  ①泉睦会の充実―地域の受け皿としての能力
 ④色んな工夫―洗面所と鏡の利用  ②講演会活動の充実―障害者と家族への理解を求める
 ⑤精神的廃用症を防ぐ戦い  ③障害の受容について説明可能な筋道を求めて
 ⑥咀嚼能力の確保する戦い   宗教的な立場や心理学的な立場を学ぶ
 4.仲間から学び試行錯誤を試みる  ④書道の研鑽をつづけ自己の研鑽を図る
 ①リハビリ教室  ⑤自立研究会の活動を軌道に乗せ、自立できる工夫を模索する
 ②試行錯誤の写真集  ⑥地域社会の一員として、障害者や高齢者の住みやすい街作りの実現
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Ⅰ モラトリアムの期間概念

  • 障害を得てからリハビリテーションの過程を通じ、「障害の受容」を経過して新しい生き方を手に入れるまでの期間を「モラトリアムの期間」とした。この言葉は心理学で青年期の模索の期間を示す言葉として使われている。しかし、人生の中途で「挫折」しても、新しい自分が成長して、「アイデンティティーの修正」を行って、社会活動に再び参加するまでの「猶予された期間」として私は前向きに、積極的な意味を与えたのである。
  • 当然、その後は障害を持ち、様々な生き方で第2の人生を歩くのである。

←1.何と戦うか→
  • 1. 何と戦うか
  • 人は何のために戦うことが出来るか。
  • それは周囲から、不当に自分の権利が侵害されたと自覚した時、大切にしている「価値」が失われるとき自然に生まれる、本能的な自衛の戦いであろう。

  • 高い目標に挑む「挑戦する」と言う言葉は世に好まれるが、突然、障害者になった時は、自分がこれまでに築き上げた社会的な役割や家庭を破壊する「敵」に対する「私の応戦」と言う消極的な自衛の「戦い」である。それを振り返ってみる。

  • 昭和60年9月11日、急遽入院した私は、事の重大さが理解されていなくて、「2.3週間もすれば退院できる」と、軽い気持ちだった。
  • しかし、楽観的な希望と異なり季節が移り変わっても回復が見えない状態に直面すると、如何に楽観的な私でもこの敵が非凡な能力の持ち主であると理解された。

  • とても、小手先で対応できる相手ではなく、対応を過てば廃用症候群を始め、次々に攻め込まれることが予測された。どんな手順で敵と対峙すれば良いか。

  • 単なる強さ以上に賢さを求められる敵なのである。
  • 敵の侵攻を見極めながら対策を考えることにした。

リハビリテーションの戦い

  • それまで意識に上ることのなかった、少年の日の記憶が突然蘇った。豊後水道に面した小さな海軍都市に住んでいた小学生の私が、湾内に浮かぶ軍艦の見学に行った時の話である。若い水兵さんが案内役だった。「魚雷があたって軍艦が傾いたら、その区画を密閉して被害が全体に広がらないようにするんだ」「中の人はどうするのですか」「仕方がない、戦死だ」。軍艦と言う大きな物を助けるには犠牲が必要と説明された。更に「軍艦が傾いて危険になったら反対の側に水を入れてバランスをとる。そうしたら軍艦は沈まずに安全に基地まで航海して修理が出来る」。全体の危険を救うには部分を切り捨てるという厳しい知恵や、バランスを回復した上で鈍足でも航海を続ける事は私の脳裏に焼き付けられていたのである。

  • 脳梗塞の一撃で右半身マヒになった私は、丁度魚雷を食らった軍艦に似ていた。被害の拡大を防ぎながら、傾いて航海不能になっている船のバランスを回復するには不用品を捨てる必要があった。そして、身軽になって、何とか自立した生活で、ゆっくりと体制を立て直して人生の航海を続ける必要があった。

  • 私のこの報告はリハビリテーションの一例にすぎず、例えば他人の旅行記を読んで「このルートにはこんな風景があったのか」と言う程度の感覚で見て欲しい。私の歩いたこのルートが正しいルートであるなど全く思わないし強要する気はない。「他山の石」としてみて欲しい。

←2.当面の目標整理→
  • 2.当面の目標整理リハビリテーションの戦い
  • 一つの敵は私の肥満と糖尿体質と、健康を過信した驕りが生活の習慣になっていたことが明白だった。入院中の食事管理と毎日の運動で体重の管理に目処は立った。さりとて50年の積み重ねた食事の習慣を直すのは、慣れてくるまでの数年は並々ならぬ妻の努力と私の克己心が求められた。次第に私が戦っている相手は私自身の「欲望」であることがはっきりしてきた。果たして自分の「欲望」と、どこまで戦うことが出来るのか。

  • 病院の生活はチェインスモーカーの私が禁煙を断行するのに良い機会であり環境だった。特に脳内の血管がタバコのニコチンによって収縮するというテレビ画像は強力に禁煙を訴えた。私が世界の各地で集めた灰皿のコレクションは娘の怒りを一身に浴びて、庭先で粉々に打ち割られた。家族は私の喫煙による受動的喫煙の被害者だったのでタバコに対して憎悪感を懐いていたのである。

  • 私のストレスに敏感な体質にも病気の原因が包まれていたと判断した。少年時代以来、戦争の影響で激しいストレスと付き合っていたので、仕事から受けるストレスには平静でおられたが、定年になり人生の黄昏を迎えると云う、未知の課題には精神的な準備ができていなかったことを反省する。

  • 有能な付き添いさんとの出会いがあり、その指導で、股関節の痛みに耐え歩行の機能を取り戻した。訓練の汗の賜物で退院するまでには、車椅子から杖を使って少し歩けるようになった。

  • 現在では、「自己の欲望との戦い」と「少欲知足」と言う二つの指導原理を得て、リハビリテーションー人生再建―と取り組むに至ったのである。その最終的な目標は、妻と二人で築き上げてきた家庭の平和―娘が二人―を取り戻すことであり、両親から伝えられた命をまっとうすることである。

←3.退院と日常生活の自立:61年―62年→
  • 3.退院と日常生活の自立:61年―62年
←①バリアーが一杯の街との戦い→
  • ①バリアーが一杯の街との戦い
    • 昭和61年3月、札幌の病院を退院して横浜に戻った。気がつくと、バリアの多い街から「締め出されている」感じだった。万里の長城が遊牧民の侵入を防いだように、道路の段差や駅の階段は私にとっては遊牧民に対する万里の長城に匹敵する要害に思えた。周囲の人の「好奇心の目」は、気の弱い障害者には辛くて鋭い鏃になって「グサリ」と胸に突き刺さった。左の腕に蚊が止まっても、動かない右手では追い払うことも出来ない。吹き払おうとしても平然として蚊は私の血を吸い続けるのである。「頭のハエを追う」と言う言葉があったが、頭のハエすら追えない情けない状態が今の私なのだ。「これで人間の誇りが保てるか」「人間としての誇りまで奪われたのか」悩みは深刻だった。しかし、これに負けて閉じ篭りになれば「廃用症候群」のためトコトン追い詰められる危険があった。

←②日常生活―ADL-自立の戦い→
  • ②日常生活―ADL-自立の戦い
    • 退院後の目標は、最低限の「日常生活―ADL」の自立に置いた。問題はそのための必要な左手の訓練に重点を置くべきか、それとも右手の回復に重点を置くか、どちらを選ぶべきだろうか? 私は迷った挙句、最終的に左手を訓練して基本的に、昔右手が果たしていた機能は全て左手に委ねることにした。強いマヒがとれない上に右肩の筋肉まで失われた私の右手の復権に貴重な時間を取られたくなかったので、右手の回復訓練は先送りにした。一日も早く自立した生活の見通しをたてたかったのである。

    • 移動する能力は、杖歩行が可能になってから退院したものの、歩くときには激しい痛みが襲って耐え難い思いをしていた。何とか歩行に必要な関節を広げないと歩幅が狭く、移動の自由は手に入らない状況だった。歩幅を広げると激痛が股関節の関節に発生するから「少し我慢」して歩く。その方法でいつの間にか大股で歩くことが可能になった。

    • 次第に「何かを捨て、生活の自立を取り戻すこと」の方針に従って、欲望を捨てて身軽になり、家族を私の介護から解放する方向に進んだ。

←③体質と習慣を改善する戦い→
  • ③体質と習慣を改善する戦い
    • 体質の改善をしなければ、再発は射程内にあることを前提に対処した。一番簡単な目安は体重の変化だった。三度の食事のメニューを作るために、妻は一生懸命に勉強したり食品の情報を集めてくれた。

リハビリテーションの戦い

  • 血圧の上昇を防ぐために塩分のコントロールや、糖尿体質の対策として、カロリーの制限や繊維質の摂取等に加え、規則正しい時間の食事や就眠前の飲食を避ける習慣を持ち込んだ。繊維質が増え脂肪や動物蛋白が減ったことや、健康体になった事を反映して毎日の排便にも効果が現れてきた。それは現役時代の研修会で聞いて羨ましく思った「糞一本」という爽快な宗教家の言われたものである。

  • 食卓で箸は左手に持てても茶碗は右手に持てない。仕方なく口を茶碗やお皿に近くに持っていくことで食事は「できる」のである。昔だったら、「そんな行儀が悪い食べ方」とお叱りを受けたであろう。とにかく「出来る」ことが目標なので、自力で出来ることは正しい方法と評価している。パンにバターをつける作業は色んな工夫をしたが、「できた」としてもとても疲労が残り、楽しい食事でなくなることに気づいた。食事は楽しくしなければならないという信念もあり、バターやジャムはお皿に出してそれにパンを押し付けて食べている。

  • 入浴時の脱衣や着衣はできたが浴室に「手摺り」をつけるまで不安だった。洗い場に座れない私には浴用の椅子は必需品だった。体を洗う工夫を重ね、今では浴用のタオルの端に孔を空けて右手の指を入れて背中を洗う。悔しい思いは右手の力では浴用のタオルを右に引っ張ることができないことである。何ヶ月かして、1センチほど右に動いてくれた。これが励みになり毎日の練習を続けた結果、右手で少しずつ背中のタオルを右に引くようになった。数年と言う歳月の果てに今では自由に背中が洗えるに至っている。
  • 着衣は今でも時々前後を取り違えるがやり直すことで解決できる。腕から遠いところにある靴下はかなり乱暴な履き方をしている。しかしこれらは全て、私の仕事であるから妻は手を出さない。こうして確実に私の仕事は拡大して家族が介助にかける手間は減すことが出来た。リハビリテーションの戦い

  • とにかく、さして頑健でない妻や二人の娘が介助にかかる負担を軽くしないと、私のリハビリテーションが成功しても、大きな喜びは得られない。私の場合、全てを捨て去っても最後に残るものは家族だからである。共に人生を紡いできた家族だから、特に妻とは苦しい時代を共に耐えてやってきた「連れ合」だからである。これからも共に人生を生きたい。

←④色んな工夫―洗面所・鏡・旅行の利用→
  • ④色んな工夫―洗面所・鏡・旅行の利用
    • 簡単に見えた「髭剃り」も試行錯誤を繰り返した。初めは左手の動かし方が旨くなく垂直に動かすべき剃刀の刃を水平に引いて皮膚を傷つけた。

    • そこで安全な電気剃刀を使った。一年くらい経って、今度は鏡に向かって剃刀を正しく垂直に動かして、その動かし方が筋肉にどんな風に感覚されたかを体得させた。筋肉が感覚として正しい動きを覚えてくれてからは安心して毎朝の髭剃りをしている。髭剃り後の顎を撫でることは気持ちの良い習慣である。

    • 鏡には、更に容姿のバランスを修正すると云う役割があった。強い麻痺のために右の肩は落ち込んで左右がアンバランスになっても本人の感覚は、その異状に慣れてしまって違和感を持たない。筋肉が落ちた右足も同じである。引き締める内腿の筋肉が低下しているので右足はだらしなく外に開く。この修正には洗面所にある鏡が役立った。鏡に映し出される私は別人の姿だった。何とかバランスの取れた位置に手足を戻すと、手足には凄い違和感が生まれてくる。少しずつ、その違和感が違和感でなくなるよう修正するには長い時間が必要だった。

    • 洗面台にある鏡に映しながら、タオル掛けを両腕に握り、腕の屈伸や下半身の屈伸運動をする。始めは少しの屈伸しかできなかったが、やがて深く膝を折り曲げて、蹲踞の姿勢にまで曲げることができた。

    • これらの根本にある運動の考え方は、横浜市大の大川先生に教えていただいた原則を踏襲したものである。それは、腕を動かすのに「朝、昼と夕刻の三度、痛くない範囲で15回、痛いのを少し我慢して5回、悪い手を良い手で持ち上げる」と言うものだった。初めはこれを実行するだけで一日が暮れるほど強い疲労が伴った。しかし1ヶ月もすると顕著な効果が自覚された。確実に回復する自覚は大きな励みだった。

    • 旅行は日常的に出会わない問題と遭遇するから、その意味で貴重な体験の宝庫である。慎重に考慮して自信のある範囲で「挑戦」して欲しい。失敗して蒙る被害の大きさは忘れないことである。

    • 昭和61年9月、義妹夫婦が転勤の前に遊びに来ないかと、山陰の鳥取から誘ってくれた。新横浜で新幹線に乗ったが、乗りなれた車も障害者となって初めてだったので、一つ一つ、慎重なチェックが必要だった。中でも走行中の車内でトイレを使うことには、予期していた「挑戦」だった。先ず、席を立って通路をトイレまで歩く時に、列車の振動に耐えて歩くことが問題と思った。思い切って、座席の背もたれの後ろを左手で触れながら、一歩一歩と慎重に足を運ぶ。「按ずるより生むが易し」で無事にトイレに着いた。次の問題は、用を足そうとするには姿勢を保つのに左手が使えないことである。左手は放水の照準を合せるために放せない。ようやく、背中を壁に押し付ければ姿勢を保てることが分かった。この方法は今日でも列車のトイレに活用している貴重な方法だ。

    • やがて宿につくと早速、温泉に入ることにした。一人で湯船に行くが、洗い場のタイルの表面が足の裏に痛い。何とか湯船の端にたどり着いたが、驚いたことに何も手摺りがない。湯船の端に座り込み考え込んだ。やがて両手で右足を抱えて湯船に「ドブン」と投げ入れ、後で左足を入れることで入浴に成功した。この湯船から出る時は、湯船の端に腰掛けて、再び両手で右足を抱えて湯船から引き揚げて90度方向の転換をさせた。その後は左手と左足の頑張りで立ち上がった。

      リハビリテーションの戦い
    • 61年10月、患者会があり札幌に出かけた。支笏湖温泉に泊まり、ボランティアさんの介添えで温泉に入れてもらった。一夜明けて雨戸を開けた途端、絶句した。

    • 眼前には夜来の新雪が樽前山を純白のベールで装っており麓の湖畔はまだ紅葉が盛りで真っ赤に彩っておりそれが強い朝の日差しに映えて、稀にしか見れない風景を見せてくれていた。「撮ろう!」と急いでカメラを首に三脚を妻に旅館を出かけて撮影のポイントを探した。

    • はぐれて三脚が使えない状況になった。「仕舞った!」と思ったが強い光がある間に撮らないと撮れない風景だ。焦りに焦った。

    • ふと「カメラを逆さまにしてみろ」とささやきが聞こえた。「逆さまに写るが」「だったら逆さまにして見れば」「そうか」。 カメラを逆さまにしたらシャッターが左下になり左手でカメラを持っても親指がシャッターに届く。夢中になってシャッターを次々に切っていった。「傷害者が生きるとは工が必要なのだ」と心に深く刻み込まれた出来事だった。

    • それにもまして「逆さまにしてみたら」とは昭和45年ごろ、工場の課長時代に職長の「創造性教育」のテキストを作ったときに使った言葉だった。必死になるとこんな古い記憶が蘇る人間の持つ偉大な能力に感心した。

←⑤精神的廃用症を防ぐ戦い→
  • ⑤精神的廃用症を防ぐ戦い
    • 62年には精神的な廃用を防ぐために、手当たり次第にカルチャー教室の講座を受講したり、パソコンの教室に顔を出してもがいた。鎌倉幕府の歴史書とされる「吾妻鏡」は、表舞台に出なかった武家政治の初期の模様を知る貴重な文献だが、末尾に記載されたはずの頼朝の最後の記録が破棄されていることを知り、愕然とした。血で血を洗った権力闘争だった。「俳句」も勉強には良いと思って顔を出したが、皆さんの投句を選んで選句することは限られた時間では不可能な作業だった。「謡曲」は父が親しんでいたし、独身時代に先輩から手ほどきを受けていたが、次第に狭い音域しか声が出ないことが分かり、練習の継続を放棄せざるを得なかった。「正法眼蔵」のみは充分な理解が出来なくても、「今、ここ、生きる」と言う実存的な試行態度が魅力的だった。私の世代は「地獄極楽」とか、「神学的論争」と言われる「検証不可」の領域には立ち入りたくなかったのである。

    • その他にも、ゴルフの練習場に出かけて、何とかボールを打つまでは出来たが、嘗ての爽快な汗を流した快感とは縁遠く、痛みを感じるもので、長年楽しんだゴルフとの関係は、当分、私には無縁の存在になったと感じた。

←⑥咀嚼能力の確保する戦い→
  • ⑥咀嚼能力の確保する戦い
    • 激しい円高の元、原料高の製品安の悪い環境だった。新米の販売部長は収益の確保に強いプレッシャーをかけられていたとき、突然の痛みと口中が腫れでビルの歯科医に飛び込んだ。「歯槽膿漏です。直ぐ治療します」と、歯茎を切除された。そして上下の歯と歯の噛みあわせはダメになっていた。

    • 障害者になり時間が出来たので懇意にして貰っている歯医者が高崎に引退したのを追いかけて治療と義歯を整備した。そして上下の歯が、しっかりと噛み合わせることが出来るようになった。これほど人間の生活に重要なテーマでありながら私たちの社会は「咀嚼間能力の確保」に無頓着ではないかと思う。

←4.仲間から学び試行錯誤を試みる 62年―63年→

4.仲間から学び試行錯誤を試みる 62年―63年

←①リハビリ教室→
  • ①リハビリ教室
    • 昭和62年、熱心な保健婦さんの情熱に負けて「リハビリ教室―ほのぼの会」に顔を出すことになった。そこでは、沢山の「気づき」が私の立ち直りの手助けをしてくれ、その自覚が心を励ましてくれた。他方で、幼児語を使われて哀しい思いをしたり、権威主義的な職員の言動に人権を無視された辛い思いもあった。

      リハビリテーションの戦い
    • でも、そこには「社会復帰」の希望が見えたから通うことができた。

    • 同じ脳卒中の後遺症といっても様々な障害や、目に見えない障害もあり、抱える悩やみも様々だった。

    • 私はそんな方たちが教師と反面教師の集団に見えた。

    • 私に「諦めずにコツコツとやれば必ず良くなるよ」と励ましてくれたのは八十に手の届くおばあさんからのメッセージだった。

    • 教室では毎回、順番に挨拶をしたが、障害を乗り越えてトツトツと話す方を見て、私も勇気を出して話した。

    • その結果、立ち上がるだけで足の指が「鷲指」になり、言葉も思うように話せない自分を見た。こんなに酷い構音障害に侵されていることに驚き、早速、毎晩大声で朗読する訓練を取り入れた。朗読すると語尾が曖昧に消える癖が分かり、注意して話す事にした。今日でも「ゆっくり話す」ことに注意している。

    • 保健師さんの号令で体操をする、首を横に向けたらびっくりするほど首筋が痛む。「なぜ?」日頃の生活では痛みを感じないのに、こんなに痛みを感じるとは? やがて首を回すと痛むので無意識で首を回さずに腰を回していた私に気がついた。新しい廃用症候群が忍び寄っていたことに気がつき愕然とした。それ以来、痛みは放置せず、積極的に動かすことにしている。

    • 一年間のリハビリ教室の成果として、移動とコミュニケーション能力の向上を土台に、全般的に人間的な活力が向上したと自覚された。それまでは一生懸命に話をしても相手に伝わらず、怪訝な顔をされて、哀しい思いをして孤立する傾向になっていた。構音障害の矯正と改善の結果は大きく、対人関係の恐怖が薄れ、社会性を取り戻す端緒となった。

      リハビリテーションの戦い
    • 習字の時間があった。「習字は右手で書くこと」が私の常識だった。だから右手の使えない私が習字の時間に出席することは無意味に思えた。ところが土屋朱堂先生は私をご覧になって「右麻痺だね。マヒの右手に筆を握らせて、それを左手で支えてご覧」。言われるままに私は筆を持ち、手の陰で見えない半紙に筆を下ろし微かな感覚を頼りにして手前に筆を引いた。

    • 見ると黒黒と一本の線が引けているではないか! 「書けたっ!」私は狂喜した。

    • 私が後半生の伴侶としている左手書道との出会いの瞬間だった。
    • それでも、左手で筆を持つことは邪道に思えて直ぐには取り組めず、本格的に書道を目ざすには全体的な回復が進む2年間が必用だった。

    • 新任の泉保健所の樋口所長からは、知らずにカウンセリングをして貰い、大きな成果を得た。それまで、仕事の中で「傾聴」を重視していたものの、実際に自分が傾聴をしてもらう立場に立つことは初めての体験だった。習字の時間には終生私の武器となった書道に道を開いて頂いた土屋師匠との出会いがあった。保健所にリハビリ指導に見えた友愛病院の柴田先生からは、懇切なお話と個別のご指導で多くのお手紙やハガキを頂き、リハビリテーションで進むべき方向を示してくださった。

    • 更に、ピアカウンセリングの持つ意味や、ウィルキー師の行動、そしてコーピングスキルと言う高度の概念を教えて頂いた。そのご推薦で上田敏先生の「リハビリテーションの思想」を手に入れたが、難解な文献だったので繰り返し読んで手探りで理解を深めた。主治医の塩田先生からは島崎先生の「生きるとは」を推薦され多くを学んだ。知識は充実して理性的には「分かった」が、残念なことに心が動き私の全体が新しい生き方を求める所に至らなかった。

←②試行錯誤の写真集―「心身一如」の体験と、豚を木に登らせた誉め言葉→
  • ②試行錯誤の写真集―「心身一如」の体験と、豚を木に登らせた誉め言葉
    • ―その向こうに「障害受容」の山脈

      リハビリテーションの戦い
    • 多少元気になった63年には、試行錯誤で色々とやってみることで、自分に残された可能性を探ることを試みた。「何かしなければ人間がダメになるのではないか」そんな恐怖心と、反面、「障害者になっても何か出来ることを発表したい」と言う欲望が湧き上がってきたからである。「何が出来るか」と自問自答の末、北海道で撮り溜めた大自然の素晴らしさを、写真集にして紹介する仕事に決めた。手持ちのポジフイルムを一枚ずつ点検して、妻と娘の積極的な支援で写真集「愛しの大地」が完成した。勿論、その中には記念すべき「樽前山の紅葉」も入れた。この作業は家族が一つの目標を持つことができるという素晴らしい体験にもなった。

    • 写真集を完成して得意になって天狗になった。「写真家になれるかもしれない」と、次に作る写真集は「鎌倉の花と寺」にしようかなど構想を考えたりしていた。

    • 鎌倉の辻に残る哀しい歴史を知り、それに花の美しい寺を組み合わせたいと考えていた。

    • 写真集を知人や友人に見てもらった。この写真集をご覧になった方から、「素晴らしい写真だから渋谷で個展をしましょう」と渋谷の電力館で個展を開く手筈を整えてくださった。初めての個展なので展示作品の準備や案内状の作成や発送に忙殺され舞い上がってしまった。

    • 会場にはとても行けないと思っていたが、せめて初日だけでも会場にいなければ失礼になると、電車を乗り継ぎ、妻の肩を借りて渋谷駅前の雑踏を渡って会場に行った。

    • 沢山の友人の激励を受けて疲れ切って家にった。
    • しかし精神的に高揚したのか、一夜明けると気力が盛り上がってくるのが感じられた。

    • 「大丈夫ですか?」妻の戸惑いに「大丈夫だ、行こう」。
    • そして驚いたことに会期の一週間を毎日会場に顔を出すことができたことである。

    • その事実が私に体力と運動能力が回復したと言う自信を高めてくれた。誉められて木に登るのは何も豚に限らない。萎えた心に自信を膨らませて元気の出る先輩や友人の「誉め言葉」は慎重に使えば万病の薬かも知れない。

    • 柴田先生の助手をして親しくなっていた市原さんは写真集を眺めながら「所で、森山さんは障害の受容はどうしましたか」と言う質問をしてきた。このテーマと向き合うことは恐ろしくて逃げていたので、この質問は冷水を浴びせられた感じだった。「逃げたらダメだよ」と言う厳しい宣告だった。強がりの自己満足に浸った生き方では早晩、行き詰まることが危惧されていたからである。天の配剤と観念して、その日以来、写真集は後回しにして本腰を入れて真剣に「障害受容」の研究に取り組むことになった。

←③自主グループ活動・障害受容の難関・闘病記の出版まで→
  • ③自主グループ活動・障害受容の難関・闘病記の出版まで 63年―平成3年

    リハビリテーションの戦い
    • リハビリ教室は1年で卒業したが、その仲間が中心になって、自主グループ「泉睦会」を作った。目的は地域での孤立を防ぎ、ようやく回復し始めた社会性を伸ばして確実にするためだった。これは行政の保護から独立した障害者によるグループだった。

    • その円滑な活動に向けて、財政的には基本的に会員の負担で自立した上に多少の補助金で運営する形になった。例会を企画したり、スポーツを開発したり、毎月会員が集る機会を設けた。皆さんの希望で会報を作ることになった。私の左手がワープロを操作して原紙を作ると云う仕事ができた。これをリソグラフで印刷し、製本して会員の情報誌になった。

    • ワープロによる文章作成の作業に慣れてくると、川崎市幸区の障害者グループ「さつき会」のお手伝いも出来たがそのご縁で、リハビリ指導の先駆者、川崎市の長原慶子保健課長とのお付き合いが始まった。

Ⅰ モラトリアムーその期間概念  ③自主グループの活動  63年―平成3年
 1.何と戦うか  5.障害受容の難所
 2.当面の目標の整理  ①大田先生の「啐啄同時」
 3.退院と日常生活の自立  ②生きる武器になった書道―埋蔵資源の発掘
 ①バリアーが一杯の街との戦い  ③出版とその記念会が生んだ新しい課題
 ②日常生活ーADL-自立の戦い  Ⅱその後の課題―モラトリアムの完了と再び生きる人生
 ③体質と習慣を改善する戦い  ①泉睦会の充実―地域の受け皿としての能力
 ④色んな工夫―洗面所と鏡の利用  ②講演会活動の充実―障害者と家族への理解を求める
 ⑤精神的廃用症を防ぐ戦い  ③障害の受容について説明可能な筋道を求めて
 ⑥咀嚼能力の確保する戦い   宗教的な立場や心理学的な立場を学ぶ
 4.仲間から学び試行錯誤を試みる  ④書道の研鑽をつづけ自己の研鑽を図る
 ①リハビリ教室  ⑤自立研究会の活動を軌道に乗せ、自立できる工夫を模索する
 ②試行錯誤の写真集  ⑥地域社会の一員として、障害者や高齢者の住みやすい街作りの実現
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←5.障害受容の難所→

5.障害受容の難所

←①大田先生の「啐啄同時」→
  • ①大田先生の「啐啄同時」
    • 平成元年秋、川崎市の菊間教室で大田先生の講演があり出かけた。続いて2年4月再び先生の講演があった。

    • 私は先生の講演を会報で会員に紹介しようと、必死になり片手でメモを取り、持ち帰ってワープロで原稿にしたが、どうしても先生の言葉や意味が繋がらない。そこで恥を忍んで先生に事情を説明する手紙に添えてこの原稿をお送りして校正をお願いした。

    • 驚いたことに多忙な先生から三日目にはご返事と共に、真っ赤に訂正された原稿が届いた。

    • その校正された原稿を見て、初めて私はリハビリテーションの道筋に無智だったことや理解力のレベルが低下していることを知ったのである。

    • 次の講演で先生は「障害は直らない」事を説明され、「福沢諭吉は、一身で二生を生きた気持ちがする、と語った」と話をされた。福沢諭吉は私の生地、大分県中津の人、私には身近に感じていた郷土の先輩である。先輩の意見は強く心に響いた。「うーん、そうだったのか」人生は一本道ではないし、時代が変わり環境が新しくなれば、自分を活かす道を探らねばならないのか。そういえば動植物にしたって、環境の変化に適応できて進化するものと、適応できずに姿を消す絶滅種があるではないか。

    • 絶滅種の仲間入りするか、環境の変化に適応して新しい私に成長するのか、その分かれ目に来た事を自覚した。

    • 先生のこの一言は私の硬い殻を破ってくれた。もがいていた私に対する適切な指導に出会ったのだった。私はこれを「啐啄同時」と喩えてよいと思う。直線的に問題の核心に迫った「頓悟」と言うべきである。一つ一つ筋道を立てて真理に到達する「漸悟」ではなかったので理論的な説明がしにくい飛躍に満ちた結論だった。

    • でも再び人生を生きる武器はどうすれば良いのか。何を武器に戦えば良いのか。新たな疑問の前に佇んだ。

←②生きる武器になった土屋先生の書道―埋蔵資源の発掘→
  • ②生きる武器になった土屋先生の書道―埋蔵資源の発掘
    • その同じ平成2年の春、左手の習字が持つ可能性を夢見て、リハビリ教室で指導をしていただいた土屋朱堂先生の日向山書道教室に入門を許されて、本格的に隷書を学ぶことにした。やるからには真剣に取り組みたいと「入門500時間訓練」として、「礼器碑」「曹全碑」と言う隷書の古典と取り組んだ。毎日3時間の練習と毎週3時間の教室での指導、月に一回の課題提出を続けた。この厳しさと温厚な人柄に加えて、私の兄と同年と云う年代が土屋先生を師匠として尊敬する以上に、兄のような厳しい愛情を感じた。この出会いは私にとって掛け替えのないめぐり合いだった。仏様が私を救済するために地上に遣 わされた菩薩様のお一人だったのかもしれないと感謝している。

    • 半年の後、その成果を区民文化祭に「弄花香満衣」と云う懐紙額の作品として出品した。

    • 小さいながらも堂々とした作品には微塵も卑屈さやおもねりがなかった。それを見て、私も自分に障害はあっても、こんな新しい能力を作り出せることで、胸を張ることが出来た。

    • 障害は個性の一部に過ぎないではないか。これからも社会に有用な必要な能力は身につけていく自信が生まれてきた。「負けないぞ」と言う気負いが消えて、両方の肩から何か重い物が下ろされて身軽になるのを感じた。「障害があるからできないこともある、しかし、出来ることもあるのだ」と思い「これからも出来ることをやっていこう」「これが障害の受容か」と気持ちも明るくなった。

リハビリテーションの戦い

←③出版とその記念会が生んだ新しい課題→
  • ③出版とその記念会が生んだ新しい課題―片マヒ自立研究会の誕生
    • その後、私の体験を多くの方々の参考にして欲しいと、原稿を書き溜めて平成3年、主婦の友に笠氏を訪ねて出版の相談をした。 

    • 8月に出版が決まり本の名前も「歩けた! 手が動いた」とつけてもらった。

    • 表紙を娘のイラストで飾った本が書店の店頭に並ぶ日が来た。
    • これは私の人間復活の宣言でもあり、脱皮した私は、手足が不自由だけれど堂々と胸を張って生きる一人の老人として誕生したのだった。

    • その出版祝賀会は、東京の旭化成の本社食堂で多くの先輩・同僚に囲まれて「お陰で元気になりました。有難う」とお礼を云う機会となった。弓倉社長は出張先の富山からまっすぐ会場に来てくださった。古い職場で苦楽を共にした懐かしい顔ぶれがあった。私の異状を見つけて強引に診察に連れて行ってくれた命の恩人とも云うべき、札幌の市川夫妻も姿を見せてくれた。在京の中学の同窓生も駆けつけてくれた。

    • 障害者仲間とのお祝いは横浜の健康福祉センターで行ったが、柴田先生とオーストラリヤ出張で報告書の作成に忙しい長原さんとに無理に司会をお願いした。長原さんには替わりに海外報告を翻訳しますという交換条件を持ち出して承知してもらったが、これが大きな課題発見の端緒となった。

    • さて、その翻訳作業は3人の仲間と一緒に、我が家で辞書を引きながら進めたが、短期間に目を見張るような知的回復力を見て、この作業は私に強烈なインパクトを与えた。それは、私たち障害のために現在の能力は、一時、雪の下に覆われているに過ぎなくて、日が射せば雪は溶け、その下に本来の能力が見えてくる、と言う私の仮説に繋がった。

      リハビリテーションの戦い
    • 勃然として、この仮説を検証したり、障害者の立場でリハビリテーションを研究する意欲が湧いてきた。その頃のリハビリでは参考にしたくても本は乏しく、川岸に立って溺れる障害者を観察して、その溺れる様を観察して記録を取り、統計をとるような専門書しかなかった。大田先生の話のように、障害者が生きていく勇気を持つよう、我々に直接働き掛け、勇気を与える、そんな研究が乏しかったのかも知れない。そこで長原さんに会場の確保をお願いして、第1回の「片マヒ自立研究会」を12月に行った。

←Ⅱ.モラトリアムの完了とその後の課題―再び生きる新しい人→

Ⅱ.モラトリアムの完了とその後の課題―再び生きる新しい人

  • 翌平成4年3月には、泉睦会の5週年記念行事として大田先生をお迎えすることになった。私は出版が終わると同時に、長いモラトリアムを完了したと思った。手足の不自由な健康な老人として相応しい方法で社会復帰を目指して行動するために5年間の事務局長の役割りを終えて、新設の自立研究会に専心するつもりだった。しかし、大田先生のお話は「地域社会には障害者の受け皿が必要なのだ」と言う趣旨だった。私は改めて「泉睦会」を、しっかりとした地域受け皿的な能力のあるグループに成長させたかった。そのため同時に並行して次の内容が私の仕事として、新しい人生の柱になってきた。

    • ①泉睦会の活動を充実して地域の受け皿として成長を目ざすこと
    • ②障害者と家族への理解を求める情報の発信としての講演活動の充実
    • ③障害の受容について説明可能な筋道を求めて宗教的な立場や心理学的な立場をも学ぶ
    • ④書道の研鑽―自己を磨く
    • ⑤自立研究会の活動充実―障害者の自立の工夫
    • ⑥地域社会の一員として、手足が不自由な老人として、地域活動を通じて、障害者や高齢者の住
      • みやすい街作りを実現して行く

←①泉睦会の充実-地域の受け皿としての能力→
  • ①泉睦会の充実 ―平成4-9年リハビリテーションの戦い
    • サークル活動の展開による活動の多様化計画 会員の増加に伴い、会員の能力や関心も多様化してきたが、これを吸収するために、全員が参加する例会に加えて自分で選び運営の出来るサークルを設けた。

    • 習字は私が通っている日向山教室で師範をしていた西村先生を、俳句は諸川先生に指導をお願いした。手芸では熱心な会員が先生に指導を受けては会員に伝える方法で「魔法の一本針」による編み物に挑戦していた。体操は生き生きヘルス体操を中心に、カラオケや歩こう会は同好の気楽な集りとした。

    • 平成5年までは区の主宰する障害者作品展に参加していたが、会場が手狭なのと参加作品が増えたので、6年9月には、初めてテアトルフォンテに会場を借りて、単独の文化祭を行うことにし、サークルでの研鑽を発表する場を作った。会員が日頃練習した作品は立派な額に収められ、その自分の作品を前に感動の余り涙を流す方もいた。「魔法の一本針」を使ったセーターには皆が目を見張った。つくづく、上田先生が「リハビリテーションの思想」の中で紹介された挿話、「悠生園でのベートーベンの『運命』演奏は、困難な課題に挑むという高い目標が高度のモチベーションを与える」と評した意見に心から賛同した。

    • 同時に「気晴らし的な物がいつも旨く行かないことへの回答を見出したと思った」とされる部分に、誇りを持つ人間理解の真理が潜んでいると思った。

    • 毎月一回の例会の行事も、書初め、春と秋のバスツァー、夏の仮装納涼大会、ゲートゴルフ大会、運動会、文化祭、クリスマス会等、定着してきた行事も増えた。小菅会長の本宅で関川・小菅・森山の三人で開発した、マヒ障害者にも安全なゲートボールは他の団体との交流にも好評な屋外でも楽しめるスポーツだった。

    • 平成9年、10周年を迎えるにあたり、泉睦会の中では既に充分に燃焼尽くしたことを感じた。私には新しい戦場が待っていた。

    • 「10年史笑顔のいずみ」の編集で、足跡の記録を整理して置き土産として引退した。

みやすい街作りを実現して行く

←② 講演会活動の充実-障害者と家族への理解を深める→
  • ② 講演会 平成5年―現在

    • 平成5年「歩けた!手が動いた」を出版した主婦の友社のある御茶ノ水で、始めて多くの方々に「障害の受容」を話す機会が生まれた。ついで平成5.6年には全国の保健婦研修会、平成6年の日本看護学会、平成7年には大田先生とNHK教育テレビで対談をさせていただいて、全国に映像が流れた。これらが機縁になり、北は岩手・北海道、南は高知・唐津と各地の講演によばれる機会が増えた。

    • 折角の機会なので会場に足を運んで貰った方々には、是非、お土産を持ち帰ってもらいたかった。そのメッセージには「感動」がなければ、伝わりもしないし、記憶にも残らないと思った。質問に対応しながら、対象が、医療・保健大学の学生、地域の保健師等の医療職、一般市民、障害者と家族等、聴衆が求める情報や、感動できる実技や作品の紹介、話題の整理をしてきた。

    • その積み重ねで、平成19年末には記念すべき第百回を東京医療保健大学の学生に、平成20年春には第101回の講演を世田谷の日産玉川病院の医療関係者に行うことが出来た。15年かかって達成した足跡を見つめて感慨に耽った。尚、平成6年には大田先生のお計らいで「心が動く」を上梓し、先生と私たち夫婦の対談も収めた。

←③ 障害の受容について説明可能な道筋を求めて→
  • ③ 障害の受容の研究
    • リハビリテーションの戦い障害を受けたとき、何を目標に戦うか、急性期の危機を乗り越えてからは、一応共通のリハビリ訓練に入るが、6ヶ月もすると急速な回復が見込めない慢性期になっている。この時期になると、麻痺の程度、障害の部位、サポートの得られる程度、自身の要求等、要素は複雑に絡まって、個人の目標はそれぞれに異なってくるものである。健康な青年が、様々な人生の選択を行ってきたように、障害を受けた人の進め方も個性的と思う。

    • 私の場合、障害者になって腕に止まった蚊も追い払えず、全くの無能力者になったと悲しみ、人間としての誇りすら維持することに悩みを懐いていた時だった。だから、他の人よりも上手に出来るという競争的な能力の高さを問うものでなく、自分の中に書道と言う新しい分野で未知の能力を見出したことに、心から喜び、人間としての誇りも取り戻すことが出来たのである。努力すれば、左手の人生でも有能な人格を作ることが出来る、希望が目覚めたのである。

    • たまたま、平成8年、末期がんの知人が示してくれた「死の受容」の実際は深く考えさせられるものがあり私の考えを大きく揺り動かした。それまではロス博士の「死の受容」に示した段階論を無批判に「障害の受容」に援用していたのであろうか。

    • 私の観察の結論は、リハビリテーションにおける障害の受容は、再び立ち上がってこの世界で「生きて戦う」ことが条件であり、死の受容とは、静かに死の来訪を待ち、異次元の世界に入ることで完了する基本的に「この世に生きる」ことをキーにした概念であると理解した。従って「生きる構え」を持たない人には、この戦う必要のあるリハビリテーションー再び生きることーは無関係かも知れないと思う。

    • 私は「生きる構え」「生きようとする姿勢」の中に、リハビリテーションが求める本質的な課題のヒントがあると感じて、研究の範囲は宗教の「自力本願と他力本願の思想」、そして発達心理学の「人格の発達」諸研究にも広げなければ納得の出来る回答に出会えないと感じた。

←③ 宗教的な立場や心理学的な立場を学ぶ→
  • ③-1心理学的模索

    • 平成9年、初期の研究会では興奮して議論が高まることがあった。それを見て中原カウンセリング研究会を主宰されていた篠沢先生から「アサーションの勉強が必要」とご指摘を頂いた。そこでこのカウンセリング研究会に入会して、数年間アサーション・カウンセリングの勉強に費やした。カウンセリングそのものは昭和28年当時、新しい対人技法として日本に紹介されたが、当時の私は「炭労」と言う戦闘的な労働組合と日常的に接触する職場にいたので「非指示的な傾聴」では効果が期待できないと思っていた。しかし、新しく社宅の管理業務をすることになると、知らず知らずに傾聴の姿勢が信頼を得て、住民とのコミュニケーションはうまく行った記憶があった。

    • 関連した勉強で、エリクソンや神谷恵美子先生の著作からは「人間発達」と言う視点が与えられ、老人の私にも尚、大きな発達課題が残されていることを知って感動した。

    • フランクルが絶望的なアウシュビッツ収容所の体験に基づく「希望を失った人は早くダメになる」と言う観察は、人間の行動の本質を突いた部分と思う。リハビリテーションの場合でも希望を失っては旨く行かないし「生きる構え」がなく自暴自棄になった人は論外と思った。

    • そして、発達課題の参考書を求めて、図書館のリストに「中年期からの心理学」を見つけ、早速取り寄せて貪り読んだ。そして「挫折を乗り越えるにはアイデンティティーの修正が有効」とする、広島大学大学院の岡本祐子先生の理論にたどり着いたのである。考えてみると、福沢諭吉もアメリカの文化に接したショックで新しく自分のアイデンティティーを修正している。明治維新の頃は、古いアイデンティティーを持ったまま幕府の歴史と共に舞台から姿を消した英雄も多い。時代が変化しても「生きる」ことは新しいアイデンティティーの修正が必要になるものである。

    • 私自身もアイデンティティーを探る旅をした。既に忘れたことも風景に張り付いた記憶が私の歴史を教えてくれたのだった。

    • 生まれ故郷の大分県中津や幼稚園に上がる頃に生活した日田を訪ねた。そこで私は、清貧を誇りにする英語教師と信仰の篤い母の末子4男として心の豊かな家庭に育ったことを改めて思い出した。福沢諭吉の「独立自尊の碑」は遊び場の公園にあった。日田では女学校長になり、一家は満ち足りた至福の時代だった。廣瀬淡窓の塾の跡は自宅の近くにあった。その淡窓に障害者になった私が教を請うことになるとは凡夫の想像だに出来ないことだった。

      リハビリテーションの戦い
    • 中学生時代は久留米にいたが、そこは戦争中の過酷な体験があった。中学生だった私は西日本鉄道の電車運転士として、福岡から大牟田に通じる郊外電車の運転をした。

    • 食い物も不足し、機銃掃射にあうなど、この験が10ヶ月間続いた。平成元年、その歴史的な事実が風化されないうちに記録に残したいと友人に声を掛けた。それに応じてくれた旧友と共に「出発進行! 閉塞注意」を作り上げた。

    • その刊行を記念して車掌をしていた久留米高等小学校の皆さんも集った。みんな頑張っていたが素晴らしい、たくましいお年寄りになっていた。その姿を見て「あんな厳しい状況を生き抜いたのだ。こんな障害に負けて堪るか」と思った。私は初めて過去の闇の中に大切な財宝が隠されていると知った。

    • 父の郷里の佐賀にある旧制の高等学校に進学した時、倫理の時間に、裁判官をしていた先輩が「闇米が口に出来るか」と、ソクラテスの遵奉精神に匹敵する強い精神を貫いて世を去ったことが教えられた。公務員とはこんな強い意識の持ち主かと信じてきた。学校長からは、広い視野を持つために「担板漢になるな」とか、暴走しかねない学生運動に「君達の教育費は国民の血税で負担していることを忘れるな」と教えられた。「葉隠れ」の著者山本重陽の旧宅も市内にあった。「命がけで事にあたるべし」の教訓は大きな指針になっていた。

  • ③-2宗教的な模索

    • 障害者になったばかりの頃、私は坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」に感動し、金子みすすさん「星の見えない昼の空」に感覚の限界を知り、路傍の草の装いに造物主の計り知れない世界を感嘆した。計り知れない偉大な力に感動し感嘆するだけだった。

リハビリテーションの戦い

    • 人智を超えた偉大な力を頼りに生きることは、「神風」を待ち望んだ苦しい記憶にも結びついた。それがリハビリに関係するとは思えない。

    • 死後の世界を論じる視点は不要なのである。
    • 欲しいのは「今の私の生き方」だったのである。

    • 昭和62年、旭カルチャーで「正法眼蔵」の講義があったので参加した。余り地獄や極楽のテーマがなく生きた人間の「心の問題」らしいと想像できたからである。その実存的な立場に共感を覚えた。

    • その教室では、古田先生と数人の熱心な方々との出会いが私の人生に大きな影響を与えた。

    • 道元のテキストは難解で、病後の私の理解を超えていた。そんな私に気がついたのか、先生は講義中にも時折、目を瞑って大切な言葉を口にされた。「捨てて捨てて最後にのこるもの」とか「自由とはフリーフロムである」とか「自力を尽くさざるに他力は見えない」という、禪の他力救済の思想などが、私の心を耕して珠玉の言葉が満ち満ちていった。私の子供の時の教科書には「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があったし、牧師さんで中学の恩師からは「Never give up!」のメッセージが届いたことも思い出した。

    • 平成9年4月、先生のお供をして永平寺にお参りをする機会があった。暁闇の中で、早朝のお勤めも拝観を許されたが、鐘の響きに応じて整然と進行される無言の行事の見事さに息を呑んだ。ご高齢に関わらず、矍鑠と励む宮崎管長からは、親しくお茶の接待を賜わり、古田先生とは談笑されたり、管長の車椅子を古田先生が押して移動されたりした。

    • 道元が開いた道場が今日も尚、生き続け修行の厳しさを伝えていることに感動した。そして私は、古田紹欽先生と云う良き師を得て、禅の世界から「生きる」ことの本質を学んだ。欲望を「捨て去ること」「少欲知足」も大きい教だったが、他力本願とは、鈴木大拙が喝破した如く「自力をつくさざるに他力の救いはでない」に尽きると思う。自分の努力なくして何か得られると思うことがなくなった。

←④ 書道の研鑽を続け自己の研鑽を図る→
  • ④ 書道の研鑽

    • 平成4年、師匠の叙勲記念で伊豆に小旅行をした。伊豆の美術館で廣瀬淡窓の小さな硯があった。それを見つめるうち、何時しか硯は私が障害を口実に怠惰な生活を貪っているのではないかと、叱りつける声に聞こえた。「如黙雷」とは、このことかもしれないと思った。

リハビリテーションの戦い

    • 私は師匠に、書道教室の先輩の皆さんと一緒に上部団体の「凌雲書展」に参加することを願い出て許された。作品の1号は廣瀬淡窓の詩「桂林荘雑詠」を半切に書いた。作品は師匠や先輩の見事な作品に混じって飾られていたので稚拙さが丸見えだった。「来年はもっと立派な作品を作ります」と心に誓った。

    • 平成5年は王維の「涼州詩―葡萄の美酒」を全紙に大きく書いた。大きな用紙に大きな筆で大きな字を書いた。弱い左手には重い仕事だった。気持ちを集中させるために深夜起き出して夜明けまで筆を握った。

    • 平成6年は、日本看護学会の成人病部会に招かれて甲府に行き2000人の看護師さんを前にパネラーを勤めた。その帰途、恵林寺に立ち寄り「心頭を滅却すれば」の山門の額に感動した。これこそ苦しいリハビリテーションの真髄に思えたからである。図書館でこの詩を調べて書きあげた。

      リハビリテーションの戦い
    • 平成7年は王維の「胃城の長雨」では更に大きい字で書くために、2枚セットの作品にした。この詩は日本人に好まれて口ずさまれる詩なので、後日、請われるままに書いて差し上げることもあった。

    • 平成8年は臨書に転じ、古典に忠実に書くことにした。「曹全碑-部分」は秀作賞に選ばれた。  受賞者を代表して登壇したが緊張で腕も足も硬直しながら、皆様の暖かい拍手に心が喜びに満たされた時を味わった。同時にこの頃から左手の負担から筋肉痛が発生したので左手を使う時間に制限を設けることにした。この制限は今日も続けている。

    • 平成9年は「西岳崋山廟碑」。この頃になると大きな作品の保管方法として、有効に教材として利用いただこうと、茨城医療大学、神奈川県立看護教育大学、横浜市間脳血管センター等に差し上げました。
    • 平成10年には新しく篆書にレパートリーを広げることとした。「宋武帝勅」は二度目の授賞作品になった。

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    • この夏は佐賀の田舎で暮らす義母に、デイサービスの出前と称して逗留して身の回りの些事を賄った。篆書独特の曲線が中々書けずに「失敗したかな」と諦めかけたとき、旨く書けるようになった。義母は好きな書を一緒に批評しながら練習する私を楽しそうに見ていてくれた。

      リハビリテーションの戦い
    • 平成11年には「篆書 白氏荘堂記」では篆書の面白さを満喫した。
    • 平成12年には「篆書 崔子玉座右の銘」を書きながら中国の思想史にも分け入った。仏教伝来前の、老子の道教思想が強く反映され、しかも日本の思想に大きな影響を手与えていることに驚きを禁じ得ませんでした。

    • 平成13年は「曹全碑全文」に挑戦して三度目の授賞を果たした。

    • この碑が作られた時代と地域を考えると、日本では弥生時代であり、場所は都を遠くはなれた西域である。
    • 当時、辺境と言われる地域に、こんな素晴らしい文化があったことを知ってショックを受けた。
    • 平成14年3月、土屋先生は不帰の旅に立たれた。
    • 弔意を込めて「篆書 般若心経」を書き上げた。
    • そして、教室も解散し、師をなくした後は独学で書を楽しんでいる。

←⑤ 片マヒ自立研究会の活動→
  • ⑤ 片マヒ自立研究会の活動

    • 平成3年12月、川崎の小杉で開いた座談会「心のリハビリ」を皮切りに、「元気シリーズ」の刊行を行った。蕨保健所長だった河内卓博士を招聘したお話で「一度脳卒中になった人は一番脳卒中になる確率が高い」と伺って、再発の危険性を取り除くために、品質管理の技法を取り入れた「再発の防止」を議論してまとめた。障害者が地域社会に出るときに出会うバリアを説明する「地域リハビリの道作り」は、各地で利用していただいた。「言語障害の問題」「障害者の自立」と、続いたが、「障害の受容」はできない人も多く、意見が離れすぎて消化が困難だったから「役割りの獲得」として、新しい役割りとの取り組みに焦点を置いた。そして横浜市にお願いして「バリアフリーの政策」を勉強して「やさしい街づくり」の課題を皆で考えた。

    • ある日の会合で議論が紛糾したのを見て「アサーションの勉強をしなさい」とご注意を受けて以来、「説得」でなく「気づき」に重点を置くようになった。そのほうが本人の「変容」に結びつき易いと考えたからである。

    • 「淡路・阪神大震災」の教訓を踏まえて、障害者が震災にあったとき、地域社会の一員として認められていることが大切であるとの認識から「地域の活動」により地域社会に密接に根付くことが重点として取り上げられた。

    • 元気になるに従い、社会復帰の目標が次第に分かれて、家庭復帰で満足する主婦と、職場に戻って収入を得たい男性、既に高齢のため知域の中で趣味を伸ばす方等、複雑になってきた。つまり、社会復帰と言うテーマは個人差の多い多様性の課題であることがはっきりしてきたのである。自ら生きる強さを回復した会員は次々に巣立っていく時代になった。

    • それでも、全員の協力で創元社から「脳卒中後の生活」を出したり、最近では個別の課題高次機能障害を取り上げて議論したりしている。
    • 自立研究会の活動も百回を迎えた記念に細田満和子社会学博士の講演をした。

リハビリテーションの戦い

    • 「障害を得て生きる意味」では、自明の世界が崩壊した人が、リハビリテーションによって「生きる」こと、つまり「生命」と「コミュニケーション」により他者と交わり、「身体」を動かし、「家庭生活」を守り、「社会生活」をつづけるが、この五つがばらばらになって「危機」が生まれている。これを試行錯誤のくり返しで、新しい自分に、新しい生活に、絶望から希望に進む。この時に「出会い」と「変容」そして、「障害の受容」が大きな要因となる、と説く。そして障害者には支えあいの仕組みを作る役割りがあると説く。そして我々に「脳卒中の犠牲者から脳卒中のサバイバー」たれと結んだ。

←⑥ 地域社会の活動→
  • ⑥ 地域社会の活動

    • 輪番制の町内会の仕事から始まった。月に一度の定例会に自治會舘に行く15分の夜道は辛い鍛錬だった。やがて我が家の前を貫通する道路の安全性が住民の関心になり、その議論に参加するうち、平成9年に、交通安全対策部長になった。私は全住民から道路の安全についてのアンケートをとった。皆さんの提起する問題点を大きく絞り込み、その改善を、沿道の限られた住民の要望としてではなく、自治会の全住民の要望として、早急な解決を求めて区役所に持ち込んだ。区役所との交渉は、やがて土木事務所との話になり、紆余曲折を経て道路局の所管する、国の「コミュニティーゾーン」計画に組み込まれることになった。平成13年から工事に着工し、歩道は拡幅され、一方通行になり、大型車の通行は規制され、高齢者時代のバリアフリーの地域道路に生まれ変わった。やがてこの「コミュニティーゾーン計画」は横浜市の全市計画になり各区ごとに1乃至2箇所づつ実施されることになり、地域のバリアフリー対策として大きな進歩が実現したのだった。

    • 平成12年、連合町内会から第8期区民会議の委員に推薦され、9期10期と3期、都合6年間、福祉分科会の委員長を務めた。委員会をすると発言が聞き取りにくいことがあり、思い切って補聴器を使うことにした。機能の低下を補う道具の開発は今後も積極的に利用したい。記憶に残るのは、大田先生にお願いした講演会である。「幾つになっても健康に生きる」というテーマだったが、分科会の委員の皆さんが総力を挙げて講演会を成功に導いてくれた。それと横浜市の区民会議が30年になるのを記念して「30周年記念誌」を発行することになり泉区を代表してこの編集に参加した。

    • 区長の移動で行政の方針が代わることは、市民にとって「梯子を外される」不安が伴うものだ。コストの計算に固定費を無視するような、民間事業では想像もできないギャップがあり、市民との意識に差があることは大きな危険を孕んでいると憂慮を覚えている。

    • 私の介護を通じて障害者そのもとのと介護者としての苦しみや悩みを学ぶことの多かった妻は、区の依頼で「介護者を支える会-アイリス泉」を主宰して活動を進めた。最近は、介護保険の相談員を委嘱されて、施設を訪問して利用者の意見を聞くカウンセリングをしていたが、認知症の問題が大きくなると、キャラバンメイトとしての啓蒙活動にも時間を割くようになった。役所の職員や地域のサロンで人を集めて認知症の話をしている。

    • 思えば結婚30年の祝いを病院のベッドで迎えた私たちだったが、50年の金婚式は娘のいるロスで迎えることができた。

    • 病気に倒れて重度の障害者になった頃には、夢にも予想出来なかった活動に毎日を充実させていることは私にとっても嬉しいことである。リハビリテーションとは本人だけの問題でなく、家族の問題であるとますます確信するものである。

リハビリテーションの戦い

Ⅰ モラトリアムーその期間概念  ③自主グループの活動  63年―平成3年
 1.何と戦うか  5.障害受容の難所
 2.当面の目標の整理  ①大田先生の「啐啄同時」
 3.退院と日常生活の自立  ②生きる武器になった書道―埋蔵資源の発掘
 ①バリアーが一杯の街との戦い  ③出版とその記念会が生んだ新しい課題
 ②日常生活ーADL-自立の戦い  Ⅱその後の課題―モラトリアムの完了と再び生きる人生
 ③体質と習慣を改善する戦い  ①泉睦会の充実―地域の受け皿としての能力
 ④色んな工夫―洗面所と鏡の利用  ②講演会活動の充実―障害者と家族への理解を求める
 ⑤精神的廃用症を防ぐ戦い  ③障害の受容について説明可能な筋道を求めて
 ⑥咀嚼能力の確保する戦い   宗教的な立場や心理学的な立場を学ぶ
 4.仲間から学び試行錯誤を試みる  ④書道の研鑽をつづけ自己の研鑽を図る
 ①リハビリ教室  ⑤自立研究会の活動を軌道に乗せ、自立できる工夫を模索する
 ②試行錯誤の写真集  ⑥地域社会の一員として、障害者や高齢者の住みやすい街作りの実現
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