吾れ、如何に生きるべきか

●論文館

10.吾れ、如何に生きるべきか

吾れ、如何に生きるべきか

-片マヒ自立研究会主宰 森山志郎
「大拙松が丘文庫仏教講座」の要録 平成20年10月10日

吾れ、如何に生きるべきか


<目 次>

 自己紹介と挨拶
1.私が人生に挫折して生き方の模索をするまで
 ①新製品の発表会
 ②廃用症候群の恐怖
 ③寝たきりになって堪るか
2.再び生きる「吾れ、如何に生きるべきか」
 ①知性の限界
 ②「念ずれば花ひらく」
 ③自然界の不思議
 ④リハビリ教室への誘い
3.古田先生や教室の皆様
 ①大きな「出会い」
 ②教室の皆様との「出会い」
4.大田先生との出会い、そして福沢諭吉の教え
 ①価値観の整備ー「うつ」との戦い
 ③「一身にニ生を生きる」福沢諭吉
5.土屋朱堂師匠との出会いと、書道に未知の能力を発見
 ①書道入門五百時間訓練
 ②文化祭に出展―自立精神の誕生
6.「歩けた、手が動いた!」とサバイバーを目指す活動
 ①闘病記の出版と全国講演会
 ②如黙雷―凌雲書展に参加
7.松ヶ岡文庫と大拙先生
 ①松が丘文庫
 ②自力と他力
8.翻って脳卒中のリハビリを考える
 ①自力で無限の可能性を開く
 ②価値観の入れ替え
 ③可能性の挑戦―「縁」―「他力」―「仏の方より行われる」
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自己紹介と挨拶

  • ただいま、御紹介を賜った森山でございます。吾れ、如何に生きるべきか
  • 本日は人生の中途で挫折した具体的な一人の個人の体験の報告です。

  • 私の話は形而上学ではありません。後遺症による構音障害のため言語に障害があり注意いたしますが語尾が乱れることはお許しください。
  • この20年間を、振り返って見て、全てのことが「仏の方より行われる」の言葉を実感しました。必要な都度、幾多の「出会い」を通じて教を受けました。

  • 云うならば私のリハビリテーションは、そんな数々の「気づき」の連続だったと言えます。

1.私が人生に挫折して生き方の模索をするまで

①新製品の発表会

  • 吾れ、如何に生きるべきか昭和4年に生まれた私は、旭化成と云う会社で管理・営業の経験を重ね、昭和56年、札幌の支社長になりました。紆余曲折はあってもサラリーマンとして順調に定年の延長を迎えたと思います。

  • その私が昭和60年9月11日、これは忘れることの出来ない日です。

  • 札幌のホテルで新しい人工皮革の製品展示会を催しました。
  • 多忙な初日の仕事を終えて、夕方、家に帰るときに、路面電車のレールに足が引っかかったのです。「変だな?こんなこと一度も無かったのに?」と思いつつ帰ると、その日は丁度、妻が横浜から来ていました。「きっと夏のゴルフが過ぎたのよ」と、話しながら一晩休みましたが、朝になると足首全体に鈍痛が広がっていたのです。
  • 徒歩で会場にいけなくなって、タクシーでようやく会場に行く状態でした。

  • 会場では招待客が次々に来るのでその応接に忙殺されていました。
  • そこに若いときに看護婦さんをしていた方のご夫妻が見えました。
  • 私を見るなり、「森山さん、大変だよ。直ぐ病院に行きましょう」「分かりました。来週にでも行きましょう」「とんでもない。命に関わります。時間との勝負ですよ」。

  • 慌てて会社の健康管理医の処に行くと、私を見るなり、「電話しておきますから直ぐ脳外科病院に行ってください」。脳外科病院で検査をする間に足が立てなくなり車椅子になり、その頃妻が駆けつけてくれ、そのまま入院しました。
  • 寝ている間にも、足の筋肉が拘縮を起して縮むのが分かりました。
  • 診断の結果は脳梗塞でした。

②廃用症候群の恐怖

  • しかし、早く元通りになりたいと焦り、人の見ていないところで無理な運動をしたことが裏目に出て、肝臓の障害を起こし、主治医から「絶対安静しか肝臓は治せない」と絶対安静を指示されました。吾れ、如何に生きるべきか
  • 麻痺のある体で絶対安静を守ると、本当に体はビクともしません。四週間経って漸く安静がとかれ、やれやれとベッドから降りましたが何か変なのです。

  • 手を回してみると右の胸とお尻の筋肉がなくなって大きな皮の袋が垂れ下がっているではないですか!
  • それを知ったとき「これで森山志郎の人生は終わった!」と、男泣きに泣き熱い涙が溢れてきました。

  • 実はこれは「廃用症候群」と言って「使わないとなくなる」現象で、筋肉でも精神的な能力でもそうです。特に私の場合、神経が通じていない右半身は、全く動かずその筋肉がなくなりました。これは恐ろしい現象で、皆様方も是非、覚えてください。

  • 使われない機能は低下する現象です。
  • そのためか、右肩は亜脱臼を起し、中の神経がむき出しになったのか、神経がびりびりと痛みます。すこし、触るだけでも「痛い! やめてくれ!」と、海老のように体を丸くして、ベッドの中でじっとしていました。
  • 「ああ、俺の現在は地獄から煉獄の道だな」と、思ったりしたものでした。
  • そんな

    私を看病していた妻は心身ともに疲れ果ててダウン寸前になりました。
  • そこで半日は家にかえって休むことになり、その時間は付き添いさんにお願いすることにしました。このことは私にとって素晴らしい出合になりました。

③寝たきりになって堪るかっ!

  • 吾れ、如何に生きるべきか付き添いさんは、動く意志の無い私を見て、私を車椅子に乗せて植物人間の病棟に連れて行ったのです。脳外科病院ですから植物状態の患者は大勢いました。

  • そして「森山さん、あんた、もう直ぐこうなるから良く見とけ!」。そこには材木に着物を着せたような、自分の意志もなく、ただ、人工的に栄養の補給がされて、生命が維持されている患者がいました。初めて「生きるとはどういうことか!」と、自らに問いかけたのです。こんなになりたくない!強いマイナスの願望が生まれました。

  • 時を同じくして北京国際マラソンで旭化成の宗兄弟が先頭を切り、驚くうちに二人そろって同時にゴールインしました。この二人は、その前年、ロサンゼルスオリンピックの仕上げ調整を札幌でやりましたから、いろんな努力も見たり聞いたりしていました。

  • その二人からは「為せばなる」との強烈なメッセージと「成功したい意欲」と「明確な目標」と「実現するための訓練」という三点を教えてくれたのです。このプラスとマイナスの二つの強い刺激で目が覚めて改めて再起に向けて心が活動し始めた。

  • こうして、付き添いさんに「頑張るから何とか歩けるようにしてくれ」と頼みました。

  • 歩くためには、固くなった股関節が開くようにする必要があります。
  • 「分かった。しかし、痛いよ」「構わないからやってくれ」。そして股関節を強引に開いていきました。その痛さは、苦痛に耐えても自然に涙が出るほどでした。
  • 吾れ、如何に生きるべきかでも、これをやらなければ歩けないと思うと耐えることが出来ました。
  • そして、腰に「命綱」を巻いて 一歩二歩と歩く練習を始め、同時に使い慣れた車椅子を捨てて杖に変えました。退院したら車椅子で生活するつもりだったのです。
  • 機能の回復は進みましたが、その回復も5~6ヶ月になると限界に近付きました。
  • これ以上の回復は気長に自宅でやってくれ、と61年3月、後任の人事発令に伴って、2級の「障害者手帳」とともに退院して横浜にある自宅に戻りました。

2.再び生きる「吾れ、如何に生きるべきか」

①知性の限界

  • 退院したとはいえ、右手は動かない、足は私を自由に移動させてくれない、旨く喋れない、これでは会社員としては使い物にならない障害者になってしまったのです。
  • 「如何に生きるべきか」、これまでの、会社員として蓄えた私の知識や価値観を中心にした知性では、適切な答えは得られなかったのです。

  • 知性の領域には解決の道は見つかりません。
  • それまでは「環境が変化すればそれに応戦する」と言う姿勢はできていましたが、自分自身の能力が低下した状態には、どうしたら良いか、呆然とするしかありませんでした。

  • 道を模索していた私に、今、考えると不思議でもあり、ありがたいとも思いますが、その都度、必要なテーマが次々と、色んな人々との「出会い」を通じて、私の進むべき方向を示してくださったのです。

②「念ずれば花ひらく」との出会い

  • 先ず最初に、私を訪れてくれたのは、仏教詩人の坂村真民さんの「詩集」でした。
  • ある日、九州の知己から「森山さん、読んでご覧」と頂いた「念ずれば花開く」と言う詩集を開くと、そこに著者が自分で書いた『念ずれば花開く』と言う文字がありました。
  • 声を出して読んでみます。

  • 吾れ、如何に生きるべきか念ずれば花ひらく  坂村真民
  • 『念ずれば 花ひらく
  • 苦しいとき 母がいつも口にしていた
  • このことばを
  • わたしもいつのころからか
  • となえるようになった
  • そうして そのたび 
  • わたしの花がふしぎと 
  • ひとつひとつひらいていった』

  • この短い詩を二度三度と口にする時、なにか不思議な感動が体の中をつき抜けた感じがしました。詩集を閉じて私は日課の歩行訓練のために外出に出かけたましが、その途中でも今読んだ詩が消えては浮かび、浮かんでは消えて頭の中を離れませんでした。

③自然界の不思議

  • 「念ずれば花開く」を口の中でつぶやきながら私は初夏の野道を歩き続けました。
  • 重たい足を引きずりながら「どんな花が咲くか」と希望が浮かぶ一方で、「人間が念じたって花が咲くものか」と理性はそんな私の希望を嘲笑し去ることもありました。
  • でも、次第に、知性や理性を超えた、未知の世界があるかもしれないと思うようになったのです。
  • 吾れ、如何に生きるべきかそんなことを思いながら歩くと、ふと、足元に小さな「犬ふぐり」が咲いているのに気づきました。近付いて望遠レンズを通して仔細に見ると驚いたことに、小さい花なのに色鮮やかな濃淡のブルーのストライプで装っています。

  • 思わず、この花に「誰のため装っているのか」と問いかけました。そして「人知を超えた大自然の計らい」そんな言葉が浮かんできました。
  • そうなると、金子みすずさんの詩も気になります。

  • 彼女は、日が暮れると、昼間見えなかった星のきらめきが見えてくると、うたっています。私たちが昼間見えないと言っても、天体の存在は疑いません。

  • つまり人間の五感は絶対と信じていましたが、私たちの五感は限定された範囲の世界しか感じ取ることは出来ない事をしみじみ思ったのです。
  • すると「念ずれば花ひらく」の詩が俄かに、自然界に満ちている不思議を詩人の感性が歌ったのだと「信じる」ことが出来るようになりました。

④リハビリ教室への誘い

  • 昭和62年、熱心な保健師さんが私を訪ねてきて、保健所の「リハビリ教室」への参加を誘ってくれました。この教室に行ってみると、私と同じ障害に悩み、社会復帰を目指す仲間が沢山いることを知りました。「私は孤独」でなくなったのです。

  • 多くの仲間と一緒に、社会復帰の挑戦を始めることが出来たのでした。私をスタートしさせたこの保健士さんは「私の天使」だった感謝しています。

  • その後、このリハビリ教室を終えた「同病の仲間」と自主グループ「泉睦会」を作り、その事務局長を10年務めました。

3.古田先生や教室の皆様

①大きな「出会い」

  • 吾れ、如何に生きるべきか同じ昭和62年、横浜の朝日カルチャーで、古田詔欽先生
  • (二代目松が丘文庫長)が「正法眼蔵」の講義をされていることを知りました。

  • 一人で行動する自信もなく、出席することは無理と思いましたが、妻の強い支えに尻押しをされて、妻に教室まで送迎して貰うことにして、教室の一員にさせていただきました。
  • 教室では、参加されていた方々は、非常に温かい眼差しの方が多くて励まされました。

  • 学期末の懇親会には妻も同伴して出席することをお許し願い、それ以来、妻も一緒に講義を聞くようになりましたので、妻の方が正法眼蔵の勉強は良くしたと思います。
  • この講義に参加したことは、私の人生に豊かな人間関係を作ってくれました。
  • この大きな「出会い」には、感謝するしかありません。
  • 古田先生は既にご高齢で足元が不自由な体でありながら、長い一本の杖を頼りに鎌倉のこの文庫から山道を横浜の教室までお見えになっていました。
  • 時には、足を滑らせて「山道で転んだよ」とこともなげに仰っていましたが、その意味で先生の講義は「命がけ」だったと思います。

  • そんな先生の後姿からは、私は、人が生きることの真剣さを無言のうちに教えられました。
  • 当時の私は、足を一歩踏み出すのにも大脳が一つ一つ指令をしていましたから、「わたし」の中で一番偉いのは「大脳」と思っていました。
  • ところが大脳が睡眠中にも、誰かが呼吸をしたり、心臓を動かしたり、体温を維持したり、様々に私の生命を維持する活動をしていることに気づきました。

  • 「わたし」は「誰かに」「活かされている存在」なのかも知れないと思ったのでした。
  • 正法眼蔵の講義は難解であったし、私にはテキストの文字を目で追いながら、「心」と漢字で表した文章と「こころ」とかな文字で表したところに気づきました。
  • 何か「心そのもの」と「心の働き」を使い分けたのか、心そのものと別に、心の働きがあるという見方は私に大きな教となりました。

②教室の皆様との「出会い」

  • 教室の方々は魅力的で、毎週お会いするのが楽しみになりました。
  • 皆様は雑談を通じて、様様の励ましを下さったのでした。
  • 吾れ、如何に生きるべきか当時、85才を過ぎた一人の老婦人は、10代の少女の時代、単身で、インド洋を渡り船旅でイギリスに留学した時や、帰国後の教鞭をとられていたときの想い出を話してくださったのです。
  • 私は戦前の日本女性の素晴らしい勇気と学問に対する情熱に心を打たれ、大変な励ましを頂きました。
  • ある方は私の誕生日に、「青春の詩」を送ってくださいました。その詩を朗読します。

  • サミュエル・ウルマン  作山宗久訳「青春」
  • 「青春とは 人生のある期間ではなく 心の持ち方をいう
  • バラの面差し 紅の唇 しなやかな肢体ではなく
  • たくましい意志 豊かな想像力 燃える情熱を指す
  • 青春とは 人生の深い泉の清新さを言う
  • 青春とは 怯惰を退ける勇気 
  • 安易を振り捨てる冒険心を意味する

  • 時には 20歳の青年よりも 60歳の人に青春がある
  • 年を重ねただけで 人は老いない
  • 理想を失うとき 初めて老いる

  • 歳月は 皮膚に皺を増すが 情熱を失えば心はしぼむ
  • 苦悩 恐怖 失望により 気力は地に這い 精神は芥になる

  • 60歳であろうと 16歳であろうと
  • 人の胸には 驚嘆に惹かれる心 幼児のような未知への探究心
  • 人生への 興味の歓喜がある

  • 君にも吾にも 見えざる駅逓が心にある
  • 人から 神から 美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り 君は若い

  • 霊感が絶え 精神が皮肉の雪に覆われ 
  • 悲嘆の氷に閉ざされる時 20歳であろうと人は老いる
  • 頭を高く上げ希望の波を捕らえる限り 
  • 80歳であろうと 人は青春にして止む」

  • 大脳の左半球は論理脳で、右半球は感覚や情緒を司るといわれます。
  • 詩人といわれる人は、この右半球が発達して、直観でズバリ本質を掴むの
  • でしょう。

  • 更に、晩年の古田先生を助けながらその薫陶を受け、先生の秘書役を務めた伴勝代先生は、先生の没後、その御遺志をついで、文庫の存続にかかわる幾多の難問を解決されてきました。

  • 更に活動の範囲を広げることに尽力されていますが、その当時の尊敬すべき同学の士の一人です。
  • 伴先生の努力で、最近では大拙先生の全集の再版も進み、未整理の原稿の出版とか、欧米での出版や中国との学術交流等、世界に松が丘文庫の存在を訴えているとは、私たちにとっても嬉しいことです。

4.大田先生との出会いと福沢諭吉の教え

①価値観の整備―「うつ」との戦い

  • 古田先生から強い影響を受けながら、自分の今後を考えました。
  • 突如として活動の前提となる五体の健全さを失った以上、どんな生き方をするのか決めねばならない、と言う問題です。
  • 吾れ、如何に生きるべきかそれまで会社員として生活した私には、企業の繁栄が私にも家族にも、最高の価値基準だったのです。
  • 戦後の混乱した時代には、企業の繁栄こそが一家の幸せにつながっていたからでしょう。
  • その企業を離れてみると、私の価値観自体も見えなくなることに気がつきました。

  • 不動の地盤と信じていた足元が突然、底なし沼に変わった感じです。
  • そして是までの危機は、全て企業の価値観に従って応戦をして来れば良かっただけに、企業の価値観が無関係になった現在になって、初めて私には、充分な自分の価値観を確立していなかったことに気がついたのです。
  • 手足の自由が利かなくなった私に、どんな人生があるのだろうか。「人はいかに生きるべきか」と言う壁が、目の前に立ちふさがって一歩も前に進めません。

  • とりあえず、「出来る仕事」として、障害者の自主グループの世話活動や、自分の写真集を作ったりしました。ひょっとして障害のある写真家になれる能力が残されているかもしれないとか、残された能力を調べました。

  • こんなことをして「これでいいのか?」と自己評価をすると、社会的に通用する基準と比べて、余りにも低い能力なのに吐息をつく日が続きました。

  • そして、不自由な肉体との付き合いにも疲れた私は、気分も落ち込み、悶々とする日が増え、まさに「うつ」状態に落ち込もうとしていました。
  • その「うつ」の危険を見た妻は、運転免許証の更新の講習を受けて、一台の中古自動車を買い、私を助手席に乗せ、連日のように神奈川県内の景勝地にドライブに連れ出して、私の気分の転換をしてくれました。

  • 妻は必死になって私が「うつ」に落ち込むのを防いでくれたのです。
  • 妻の、この献身的なサポートが無ければ、私の回復はもっと遅れたと思います。

②「一身を二生に生きた」福沢諭吉

  • 平成元年の秋、リハビリテーションの第一人者である大田仁史先生の講演会が川崎で開かれるのを聞き、縋る思いで話に聞きに参りました。
  • その頃の私は、まだ、障害を治せると信じていました。

  • そして「治して見せる」と思っていたのでした。
  • この大田先生との出会いは画期的でした。
  • 太田先生は、「障害は治らないよ」と、仰るのです。
  • 更に言葉をついで、福沢諭吉の話しをされたのです。

  • それは諭吉が、自分の人生は「一身に二生を生きた」思いがする、と述べた話しでした。
  • 吾れ、如何に生きるべきか福沢諭吉は私の出生地である中津の藩士で、その「独立自尊」と言う思想は小学生のノートにも印刷されて良く知られていました。
  • その福沢諭吉が「一身で」幕府の随臣として咸臨丸でアメリカにわたり、維新後は、慶応義塾を作り、西欧文化の導入に半生を捧げ「二生を生きた」と、語ったのです。

  • その話を伺って帰り、暫く考えました。直ぐに「ピン」とはきません。
  • やがて、先生の話は、手足が不自由になった今日、この心身を前提にした新しい価値観を求めること、社会の一員として生きる必要があることに気つきました。

  • 心身の状況が変化した事を前提に、環境の求める条件に適応する「生き方」に変えることが必要なのです。自分の持つ社会的な条件の変化を認めて「私の価値観を確立する」必要を自覚したのです。

  • やがて私は、人生とは人それぞれに与えられた環境条件の下、「与えられたいのち」を最高に生かすことしかない。

  • 私に与えられた「いのち」が「生きる」とはそんなことだと気がつきました。
  • 「そうか!そんなことか」目から鱗が落ち、当たり前のことが見えてきました。
  • 堅い殻を破るには、自分の努力のみで無く、大田先生のお話のような、外からの刺激が必要だったのです。私はこれを「啐啄(そったく)同時」と思っていました。

  • でも、より良く生きる為に戦うには、助けてくれる具体的な武器が欲しいと思いました。福沢諭吉は語学や西欧の文化を紹介すると云う武器をもっていましたが、障害を得た森山志郎には会社で学んだ工場の経営など、あったとしても私を支える武器らしいものは何も見えませんでした。

5.土屋朱堂師匠との出会いー書道に未知の能力を発見

①「書道入門500時間訓練」

  • 吾れ、如何に生きるべきか平成2年の正月、障害者の仲間と書初めをするうち、「お習字は右手で書く」と言う大前提を無言のうちに受け入れて、左手に持たせた右手で無理に書いても、弱々しく気に入る字は書けないことに気づきました。

  • 「お習字は左手では書いてはいけない」と言う無言の制約に従っていたのです。そこで左手に筆を持たせて書いた作品を持参して、書道の土屋師匠に弟子入りを願い出ました。師匠は、右手の使えない私をご覧になり、右手で書くという書道の前例を打ち破って、「隷書」の指導に踏み切ってくださったのです。

  • 「左手は右上がりの線が書きにくい。水平な線なら書ける」ことが隷書を選んだ理由でした。私がこの師匠と出会うことが出来たことは大きな幸運でした。
  • 早速、古典を手本に練習を始めました。

  • この練習には、「入門500時間訓練」と言う短期集中の訓練方法を利用しました。
  • これは新しい職場の技能をマスターするために、短期間に集中して訓練する方法です。
  • 毎日、隷書の手本を3時間は練習すると月に90時間、6ヶ月間続けると540時間になります。
  • 4月に入門して9月まで、来る日も来る日も、不器用な左手に筆を持たせる日がつづきました。ただひたすらに毎日毎日、左手に筆を握らせました。

  • 何も余分な考えが入らないまま無心になって毎日を過ごしたのです。
  • 真剣に毎日、お手本と取り組む私にとってこれは、「只管打坐」にも通じる素晴らしい精神的な修行になったと思います。

  • その頃のことです。練習が終わると筆を洗いますが、左手で筆を持って水道の蛇口に穂先を突き出して洗うに過ぎません。せめて穂先を手で洗いたいと思いましたが、右手の利かない私には所詮、無理な注文と諦めていました。2,3ヶ月もしてからでしょうか。

  • ある日気がつくと、持てない筈の右手が筆を握り、穂先を左手が洗っているではないですか。びっくりしました。

  • 何時から右手が筆を持てるようになったのか全く分かりません。

  • 人間には未知の能力が備わっていることを知らされて、大きく励まされた出来事でした。鶴見和子先生が指摘された「埋蔵資源」の発掘と言う言葉がずばりそのものでした。
  • 「埋蔵資源」ですから表面からは見えません。

②文化祭に出展―自立精神の誕生

  • 吾れ、如何に生きるべきか左手で6ヶ月練習した成果を「弄花香満衣」という五字の懐紙額に納めて、平成2年11月、泉区民文化祭に出しました。これがその作品です。
  • 搬入する日、大勢の方々が右手で書いた立派な作品を持参されて壁面を飾ります。私の作品を指定の場所に掛けてその前に立って眺めました。

  • すると不思議な感覚を覚えました。それまでは「健常者に負けないぞ」と言う肩の力が融けて流れ落ちたのです。障害者という自分に貼ったレッテルが剥がれ落ちたのです。

  • 「左手を訓練すれば、障害はあっても社会に有用な能力は作っていくことが出来る」と、言う自信が回復したのです。

  • それまでの、痛々しく皆さんの同情を誘う「脳卒中の犠牲者」から、障害によるハンディを克服して、自分なりに前向きに生きていく「サバイバー」を目指す自立精神の誕生でした。

6.「歩けた!手が動いた!」とサバイバーを目指す活動

① 闘病記の出版と全国講演会

  • 吾れ、如何に生きるべきかこれをきっかけにして、平成3年9月、主婦の友にいる友人の計らいで闘病記「歩けた!手が動いた」を出版し、全国の障害に悩む人々に人間復活の可能性がある事を報告し励ましました。同時に、私自身は「手足に障害は残り不自由だが健康なサバイバーを目指して、人生を再出発する「烽火」(のろし)になったのです。

  • この本の出版に当たり大田先生に書評をお願いしましたが、その中で先生は「手足が動いた、その前に心が動いた」と、リハビリテーションは肉体のみの問題でなく「心身一如」の問題でることを書いてくださったのです。

  • その時に私は次に作る本は「心が動く」にしようと思いました。
  • 当時の私は、必要以上に精神的な要素を無視しようとしていました。
  • だから先生が「心の問題」を指摘されたことで、「矢張り、そうなのか」と安堵しました。それ以来、遠慮せずに「リハビリテーションでは心の持ち方とか精神的なものが絶対無視できない」と、主張しています。この本は増し刷りを重ね全国に読者が増えました。

  • そして、この本の出版を機縁に、全国保健婦研修会にお招きいただき、それを口火として各地からの講演の依頼を頂きました。15年の間には北は北海道から南は四国・九州にいたる全国で100回を越え本日の講演は103回目になります。

  • この出版後に「片マヒ自立研究会」を立ち上げました。
  • この会は、障害者が社会復帰をする過程で、どんなことが問題になるのか、障害者の立場で調べて情報を発信することでした。
  • この研究活動も一昨年には100回の記念講演会には社会学の細田博士の話を伺い、社会学の幅の広い視野が手に入れることが出来ました。
  • 吾れ、如何に生きるべきか実は、その研究会の活動に際して平成7年、重要な事件がおきました。

  • それは「淡路・阪神大地震」の発生です。
  • こんな震災が起きたら、私のような障害者の救出はどうなりますかと、親しい保健師さんに聞きました。

  • 「森山さんを助けに行くには一週間かかるよ」 とのこと。
  • 地域社会で障害者もその一員として認知されていなければ災害は乗り越えられないから、地域社会での活動がとても重要だと気づきました。
  • 地域社会での活動は、自治会の班長から始まりました。

  • 次に、地域社会の交通問題解決のため、交通安全対策部長になり、地域の「コミュニティーゾーン計画」実施でバリアフリー化の実現をしました。
  • そして泉区民会議委員に推薦され、福祉委員長として少子高齢社会に備えた、区民に「介護予防」の講演会を大田先生にお願いして主催する等、今思うと私の「サバイバー」として創造活動が軌道に乗り、人生を豊かに形作ってくれました。

  • 一方、私の介護に苦労した妻は、役所に頼まれて「介護者を支える会アイリス泉」を主催して、最近は介護保険相談員等で活動の範囲を拡大しています。

②如黙雷―凌雲書展に参加

  • 平成4年に、師匠と伊豆の美術館を訪ねたとき、廣瀬淡窓が愛用した硯がありました。
  • 淡窓は大分県日田の人で、私が幼稚園のころ、近くに学塾の跡がありました。

  • その硯を眺める内、「障害を持ったことを言い訳にして怠けているのか」と叱られた思いがしたのです。「如黙雷」とはこのことかと愕きました。
  • 師匠にお願いして未熟ながら、所属する書道団体に入れて頂き、年に一度の展覧会に出品する挑戦を開始しました。「作品集」を持参したのでご覧になってください。

  • 吾れ、如何に生きるべきか平成6年には、甲府市で開かれた日本看護学会にパネラーとしてお招きを頂きました。その帰りに、郊外の恵林寺に立ち寄ったら、その山門に「心頭滅却火亦涼」の詩が掲げられていたのに感動しました。横浜に戻ると図書館で調べて、「夏日吾空上人の院に題す」と言う詩であると知り、思い切って大きな用紙と大きな書体に挑戦し作品にしました。

  • そして平成8年には、「曹全碑 部分」が「秀作賞」の栄誉に耀いたのです。
  • 受賞者の代表として名前が呼ばれましたが、広い会場の高い壇に登ったときには、手も足も緊張で固く強張っていました。

  • 片手で賞状を頂き、満場の会員の温かい拍手で祝福されました。
  • まさに「念じる」ことが新しい世界を開き「空即是色」の真理を見せてくれたのです。

  • 隷書は中国の古代文字であり必然的に中国の古典文化に接することが大きな影響を持ったと思います。

7. 松が丘文庫と大拙先生

①松が丘文庫

  • 吾れ、如何に生きるべきか私のリハビリテーションは、お習字と言う厳しい自己努力が中核となっていました。
  • この自己の努力を中心にした成功例を研究会の仲間に紹介しても、中々、真似をしてもらえない状況でした。多くの方は「そんなに努力することはできません」と中途で努力を放棄するのを淋しく見守るしかありませんでした。

  • そこで「障害があっても、何か他力本願でやれる良い方法、もっと容易に立ち直る方法はないものか」と、より多くの障害者が活用のできる、より容易な方法を模索していた頃でした。
  • その頃、カルチャー教室の受講生仲間では「自力本願か他力本願」かの議論がおこなわれていました。

  • その熱心な仲間の質問に答えて、古田先生は、「自力はとことん尽くして、最後に救うのは他力」、そして「自力を尽くさざるにおいて他力は現われず」と、自力と思っても最後は他力に救われる事、徹底した自力の努力を尽くすことが必要なのだと、私たちを諭されました。
  • 私は安易に他力に救いを求めてもリハビリは成功しないと知ったのでした。
  • 吾れ、如何に生きるべきか平成11年 私が13年通った教室は、古田先生がご高齢になったのに伴って廃止されました。その代わり、数人の受講生には、直接、松ヶ丘文庫に伺って古田先生のお話を聞く機会が訪れたのです。
  • 私は手摺りのある石段であれば安心して登ることが出来たので、東慶寺の境内を通らせていただき、妻に付き添われて、130段の石段を休み休み登りました。

  • そこで始めて、文庫の玄関に立ち、鈴木大拙先生のお写真に拝謁したのです。                   
  • 文庫に来て初めて文庫長として古田詔欽先生が、大拙先生の未整理原稿の整理と、海外での出版とか世界に向けた発信、中国での禅宗の足跡調査や中国大学との文化交流と言う地味な事業に、日夜心血を注がれていたことを知って感動したものでした。

②自力と他力

  • 兼ねて疑問を持っていた、自力本願と他力本願について、果たして大拙先生は、どう解釈されているだろうかと、先生の論文を探して次の文章を見つけたので朗読します。

  • 鈴木大拙
  • 「自力ではない、他力だと言っても、自力を尽くさぬ限りは、自力も他力も分からぬ。
  • 『あ、他力』とわかるとき、始めて『自力では』ないということが分かるのだ。

  • それをいい加減に、皆任せておけば良いのだと、自分勝手な振る舞いをしようなどといっていれば、そこには山ほどの自力が残っている。

  • この自力を尽くすということが大事なことなので、単に他力に任せるというようなわけにはいかないのだ。自力を尽くさねば本当の他力というものは出てこない。
  • その自力を尽くすとは、心を求むるに不可得なりというまでに、どの位の辛労を続けたか分からないのだ。
  • 不可得なりというときに、自力が尽きた。それと同時に、他力というものが出る。

  • 他力を向こうに置いて、そしてそれを頼むというのではなく、自力を尽くすと、おのずと、他力がそこに表れる。不可得ではいけない、可得にならなくてはと、もがくとき、それが自力である。不可得を不可得とみるとき、自力が他力になる。

  • 自力がそのまま他力で、『他力には、自力も他力もありません、いちめん他力』の絶対他力である。
  • 絶対他力は自力を尽くさなくては出てこない。
  • 自分に言わせると、他力を頼む、頼むというが、それよりも寧ろ『自力とは何か。自力の出所はどこか。自分は業が深いとか浅いとか云う、その自分とは何か』と、言いたい。」

8.翻って脳卒中のリハビリを考える

①自力で無限の可能性を開く

  • 私が達したリハビリ成功の要件は、先ず、抽象的な人間観でなく、個性のある実存的な人間という、人間観を前提として考える必要があることです。

  • つまり一般論ではなく、個人ごとに人生再建の処方が必要になります。
  • それには本人の意思と努力が必要になります。
  • その人が持つ、新しい能力を発掘することが大きな成果に繋がりますが、この発掘は、あくまで自分と周囲の「意志と努力」がないと成功しません。

  • 遥かな遠い目標に向けてひたすら進むうち、自分で「新しい能力を発見」できるのです。
  • それは人間には夥しい可能性が眠っているからです。
  • 吾れ、如何に生きるべきかその人が「ひたすらな努力」をするうちに、
  • 私に言わせると、「み仏の方より」行われる道しるべに
  • 「気づく」のです。
  • 「仏のいのち」と言う立場を前提にしないと見えないのかも知れません。
  • 「見えない手に導かれ」初めて「行き止まりでない細い道」が見つかるのでしょう。
  • 知性を超えた、つまり「自我を超越した」「大きないのち」を「信じる」ことが出来る人はフランクルと云う心理学者が主張する「信じることにより、それが客観的に実現される」という、トランス・パーソナル心理学の実践者かも知れないとも思います。

②価値観の入れ替え

  • 吾れ、如何に生きるべきか障害を持って生きることは、「古い価値観」を新しくして生きることであり、障害者になってみると、健康な時代に手にしていた現世的な価値は、外見の格好のように捨て去らなければならないものが多いことに気づきます。
  • 掌を見たければ手の甲は見えないのと同じです。
  • 障害を持ちながら生きることは、ふさわしい価値観に切り替えないと、昔の健康な時代と同じ価値観では、自分を許すことが出来ません。何をしても「IamOK!」と言えません。
  • 不満足で絶望的になり、多くのストレスに襲われ、新しい健康障害の被害に巻き込まれるからです。

③可能性に挑戦 「縁」―「他力」―「仏の方よりの行われる」

  • 吾れ、如何に生きるべきか障害者が再び立ち上がるとき、「自力を尽くして他力の支援を待つ」姿勢は、何よりも大切な姿勢と信じています。

  • 反対に消極的に「他力の救いを待つ」姿勢では、廃用症候群に犯されて、能力水準が低下して行きます。誰でも豊かな可能性は持っていますから、皆さんにはこの埋蔵資源を発掘することをお勧めしています。

  • この能力は、発掘の挑戦をしない限り、土に埋もれていて見えません。
  • 可能性を現実にするには、試行錯誤を繰り返さねばならなりません。
  • 色んな試行錯誤の中から初めて能力の確認が出来るのです。

  • そして、この自力の発動させる「縁」とか、「出会い」と言われる「他力の働き掛け」が重要である事を忘れてはなりません。私の左手で、どうしてこの「般若心経」を書くことが出来たか、「他力」しかないと思います。

  • 改めて大拙先生に「自力と他力」を教えていただきながら、私が多くの「縁」や「出会い」に支えられて、「仏の方より行われる」体験を重ねて、埋蔵資源を掘り出したことに感謝しています。

  • 最後になりますが 冬の木立は枯れた様相でありながら、春になると枝の先まで生気が戻り、やがて見事な花を咲かせ「色即是空 空即是色」の喜びを実感させてくれます。
  • マタイ福音書にも「狭き門より入れ。滅びにいたる門は広し、命にいたる門は狭し」とあります。キリスト教の「いのち」が、私の取り上げた「大いなるいのち」と同じものか、分かりません。
  • あるいは、フランクルは「生きる意味」を求めよと云う主張、これらは全て人類普遍の真理だと思います。
  • 本日は長時間のご静聴、有難うございました。

 自己紹介と挨拶
1.私が人生に挫折して生き方の模索をするまで
 ①新製品の発表会
 ②廃用症候群の恐怖
 ③寝たきりになって堪るか
2.再び生きる「吾れ、如何に生きるべきか」
 ①知性の限界
 ②「念ずれば花ひらく」
 ③自然界の不思議
 ④リハビリ教室への誘い
3.古田先生や教室の皆様
 ①大きな「出会い」
 ②教室の皆様との「出会い」
4.大田先生との出会い、そして福沢諭吉の教え
 ①価値観の整備ー「うつ」との戦い
 ③「一身にニ生を生きる」福沢諭吉
5.土屋朱堂師匠との出会いと、書道に未知の能力を発見
 ①書道入門五百時間訓練
 ②文化祭に出展―自立精神の誕生
6.「歩けた、手が動いた!」とサバイバーを目指す活動
 ①闘病記の出版と全国講演会
 ②如黙雷―凌雲書展に参加
7.松ヶ岡文庫と大拙先生
 ①松が丘文庫
 ②自力と他力
8.翻って脳卒中のリハビリを考える
 ①自力で無限の可能性を開く
 ②価値観の入れ替え
 ③可能性の挑戦―「縁」―「他力」―「仏の方より行われる」
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