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小田原シルバー人材センター
H13年5月30日
<目 次>
自己紹介
- 森山志郎と申します。
- 小田原のシルバーの皆様方はお元気そうですね。
ご覧のように右半身が麻痺する障害を持っています。仕事人間として人生の大半を過ごしたのに、突然障害者になり、いろいろと辛いことがありましたが、手や足が動かないこと以上に、自分のやるべき仕事がないことが大変、辛いことでした。
- 私が倒れたのは、働くことが生き甲斐だった55才の時でした。
1. 病気になった頃
55才の時、定年を迎えましたが、丁度、札幌に勤務していました。
- 定年の延長をお願いして、5年間の延長手続きを済ませ、56才の誕生日を目前にした頃、夏の無理が続き、新製品の展示会の会場で体の不調を感じ、急いで病院に行き、脳梗塞と診断されました。
- これまでに聞いた事のない病名に戸惑いました。「一体、この病気は何なのだ?」。調べて、これは脳の血管が詰まり、必要な血液が補給されないために、その部分の神経細胞が死滅して、その担当する心身の機能が制御不能になることと知りました。
- 現代の医学では、この神経細胞は一度死ぬと、二度と生き返らないとされています。血液の供給が止まるとわずか3分位で死ぬのだそうです。
- その、死んだ神経細胞が、司る仕事によって、手足を動かす運動機能に始まり、様々な精神活動に至る範囲に様々な障害が現れてくのです。
私の場合は、丁度、右手、右足の、運動神経がやられていました。
- それでも車椅子での移動から、何とか杖を使って歩く所まで回復できました。右手は実用にはなりません。そんな状態で退院しました。
- 退院する時、障害者手帳を頂きましたが、それには「2級」となっていました。もう、“労働なんか出来ないんだよ”、という、お墨付きみたいなものです。
仕事人間から仕事が奪われ、こんな体では誰も雇ってくれないし、もう、どうにもならない状況でした。
- 仕事をしたいと思っても言葉が旨く出ない、自由に移動が出来ない、右手が使えない。
- 会社は、表面は温かいものです。
- 「まぁ、ゆっくり自宅で静養してくれ」、と、職場の扉は締められたままでした。その時に、「仕事って、一体、何だろう?」と思ったのです。
2. 私の仕事が持つ意味
私にとって仕事とは一体、どんな意味があったのか、振り返って見ました。
- 戦後の貧しい時代だった昭和28年に学校を出ましたが、就職したお陰で、毎日、白いご飯が腹いっぱいに食べられることがトテモ魅力でした。
- お陰で病弱だった体も健康になり、結婚できましたが直ぐ子供が生れます。
今度は子育てということが人生の大きな目標が生まれてきます。とにかく子育てのために一生懸命に働いて月給を持って帰らねば子供のミルクが買えません。
- こうして見ると、若い時には「働く」ことは子供を育てあげるのが目前の目的てした。
時代が移り、壮年時代になると、生活も豊かになり「三種の神器」と言われた「電気釜―洗濯機―冷蔵庫」を取り揃えることが生きる励みになりました。
- やがて、激しい産業の興亡に晒されて、会社の仕事と心中する位に仕事が生活を支配するようになってきます。
- そして次は「持ち家」が必要になる年代になると、マイホームを求めて、大きな借金を背負い込みながら、毎月の月給は貰ってきては銀行の口座に返却してしまいます。その借金の返済が終わったときに定年を迎え、その延長期間に病気をしたのでした。
- こうしてみると、仕事をする「意味」は時代と共に変わることがはっきりしています。単に食うために仕事をした時代に始まり、子供のミルク代、繁栄と成長を追っかけた時代、そしてマイホームを手に入れる借金の返済時代と、私の成長に伴って変化して行きました。
- 「仕事」は成長する私と共に変化しながら共にあったのです。
3. 障害者に仕事があるか
- 右半身麻痺の私にも「仕事」がないものだろうか。
- 私と社会とを結びつける「仕事」を何とかして見つけたいと思いました。
- そして、試行錯誤の日々がつづきました。
① 最初に見つけた仕事
- ① 最初に見つけた仕事 :「写真集の制作-何か出来るか」
- することがないので、私が写した写真を整理して写真集を作り、同時に素晴らしい北海道の大自然の魅力を紹介したいと思いました。
- そこで、数千枚あったフイルムを整理して北海道の自然を写真集にしました。一緒に関わってくれるのは妻と娘しかいません。
- 妻は私が選んだ写真を更に精選し、二人の娘は全体のレイアウトや表紙のデザインを考えてくれました。予期しなかったことですが、家族の心が一つにまとまる事は、とても素晴らしい体験であり大きな成果でした。
- 「森山志郎記念館」;写真館「愛しの大地」
- アドレス http://www.saiken.jp/mshiro/album/pg64.html
- この写真集の評判が良いので、次は、障害者の写真家になったらと夢を見ました。手始めに鎌倉には花の美しい古いお寺もあるし、湘南の海岸や、富士山の周辺と良い場所に恵まれていました。
- しかし、気にいった一枚を撮るためには、何十枚も写さねばなりません。フイルムを現像したり、印画紙に引き伸ばして焼付けたりすると、莫大な費用が必要になることが分かってきました。これでは金持ちの道楽にしかなりません。あっさり諦めました。
② 第2の仕事
- ② 第2の仕事:「学徒動員の記録」-事実を後世に伝える仕事ー
- 私の中学時代の友人が、障害者になった私を励ましくれる会をしてくれました。「頑張れよ」と励ましてくれたその友人が、急病で亡くなりました。
- もう私の年代はそんな年代か、これまで生きた時間はとても生きることは出来ないのだ、若くないことに気がつきました。
- 私には元気な内にやらなければならない仕事があることに気がつきました。
- それは私たちが戦時中の学徒動員の記録を整理して後世に伝えることでした。15歳16歳の中学生が高速電車の運転をしていたことなど、教科書にも書いてないし、歴史の中に埋もれています。
早速、九州にいる中学時代の友人に手紙を書きました。「戦争中の学徒動員の記録を書き残そう」。
- 動員先がいくつか有りました。
- 「もう忘れたい」と言うグループもありました。
- しかし、「残したい!」という西鉄の運転士グループだった私たちは一冊の記録「出発進行!閉塞注意」という本を作ることが出来ました。
- 素晴らしい中学生の苦闘の記録が生れ、図書館にも収蔵されて後世の参考になると思います。同時に私があの厳しい時代に耐え生き伸びたこと、少年でも自分に与えられた社会的な使命を果していた、こんな凄い体験をしてきた私が、半身不随に負けて人生を諦めて堪るか、と心に刻み込んだのでした。
③ 第3の仕事
- ③ 第3の仕事:「障害者グループのマネージメント」
- やがて、リハビリ教室で知りあった障害者が、集まりました。
- 自主的に自分たちの会を作り、リハビリを進め、自分たちの会報を作る事になりました。
たまたま、冬の札幌でワープロの指導を受けていたので、この能力を使って皆さんの原稿で会報を作る事をしました。
- さらに、企業の管理者としての経験を生かして、会の事務局長になり、会の運営や管理の基準を作り、規約を決めたり、名簿を作ったり、毎月の行事を考えたり、年間の予算を組んで不足する資金は補助金を貰ったりしました。
- 左手しか使えなくても、友好団体の記念誌を作るのにもワープロでお手伝いも出来ました。更に、日ごろの努力を発表する場として、中途障害者の文化祭を立ち上げました。
- その時に自覚したのは、障害があっても何か社会の役に立つ仕事はあることに気が付いたことです。そして「金銭の報酬はないが大切な仕事がある」という事でした。今で言うボランティア活動の先取りだったのでしょう。
④ 第4の仕事
- ④ 第4の仕事:「お習字」-「未知の能力を開発する仕事
次に、お習字との出会いがありました。右手に筆をもたせて、左手に添えて書きますと力が足りないので弱々しい字しか書けません。思い切って左手に筆をもたせたら楽しい線が引けました。
- 師匠に見せたら、じゃあ、隷書という書体があるから、それを勉強しなさい、と、隷書を勉強するようになりました。
- これは今から2000年くらい前に、秦の始皇帝が中国を統一した時、それまで秦の国で使われていた字を基に作らせた文字と言われています。
ここに作品の「弄花香満衣」をみていただきますが、「入門五百時間訓練」を自分でやって生まれた作品です。
- この理論は、新しい技能は短期間に集中して練習すると、ある程度の水準になるという技能訓練の方式なのです。1日3時間の練習を、毎日続けて6カ月すると丁度良いのです。
- 特に平成8年に凌雲書展で「秀作賞」を頂いて以来、お習字を通じて多くの方々に希望と勇気を差し上げることが出来ました。
- 最初は単純に左手で未知の能力を開発したいとの思いでしたが、人間の持つ可能性を示してくれて、とても素晴らしい仕事でした。
⑤ 第5の仕事
- ⑤ 第5の仕事:「片マヒ自立研究会」
- -情報の整理と発信-出版と講演活動―
すっかり自信を回復してリハビリの体験を「歩けた! 手が動いた」として出版しながら、片マヒ自立研究会を作り、障害者の目線で感じる問題を中心に、情報の整理と発信を始めました。
- 片マヒの障害者が悩む問題を取り上げ、議論し、整理して、それを一冊の研究レポートにまとめて配付する仕事です。定期的に例会を催しています。

- 更に各地での講演活動も年間に、10回以上あります。これは意義のある仕事だ、と思いました。
- 今の社会では中々手に入らない情報を発信できる意義深い仕事です。
⑥ 第6の仕事
- ⑥ 第6の仕事:「地域の自治会・区民会議」
- ―社会での「共存」範囲の拡大
淡路・阪神大震災の教訓として、障害者は近隣の地域社会の皆さんに認められていないと、壊れた家の下から救出されるのに時間がかかる事を知りました。
- そこで自治会の活動に積極的に参入しました。
- はじめは、班長の仕事でした。その内、住宅地内を貫通する道路の騒音問題の解決が問題になりました。
- 私は道路交通安全対策部長になり、行政に大型車輌の乗り入れ制限とか速度制限、歩道のバリアフリー対策等の改善の申し入れをして、粘り強く交渉しました。
- 遂に「コミュニティゾーン計画」を適用して実施することになり、少子・高齢社会の「バリアフリー地域」を作ることに成功しました。
- これにより社会の「共生」できる範囲が、車椅子や杖歩行と言う重度の障害者や、敏速な運動能力を失った後期高齢者と言われる老人にも、よちよち歩きの幼児にも、生活の空間を広げることができたのです。
4.「私にとって仕事とは」
- ―報酬は金銭で計算できない
こんな体験を通じて、金銭の報酬が伴わなくても大切な仕事があることが明瞭になりました。これらの仕事では、金銭の報酬に代えて、私自身に活力を注入して自信を取り戻してくれたのです。
- 報酬は金銭の代わりに、「人間としての活力」だったのです。
- 金銭面の話しになると、定年後の老人らしく、収入は貯金の取り崩しと、僅かな年金しかありませんから、介護保険が新しくできると保険料を新しく払うために、支出を減らす為に新聞を止めねばなりません。
- 食事の内容をもう一段質素にしましたが、これは私の肥満・糖尿病体質には良いことになり、益々健康な毎日に恵まれてきました。
どうも人間が真剣に生きようと自分の努力を尽くすときには、全て必要なものは、「仏様の方より」やってくれるようです。
- 色んな不自由があっても、いつも障害者・高齢者という視点で物を考えることができるのです。高齢者問題、障害者の福祉問題など、「こんな実状を知ってください」と、外から見えにくい情報を社会に発信することが出来ます。
これらは、私たちの社会が、少子・高齢社会を乗り切るための課題を明らかにすることになります。
- 身を持って体験した不便が、それを取り除くことで住み良い社会を作るのです。こんな処が私の存在する理由ではないでしょうか。
- いつも、自分で人生に「意味」を見つけて来たと思います。
5. 「健やかに老いるために」
人間は生れてから、教育と成長を通じて職業を確立します。
- 配偶者を得て家庭を作り、次の世代である子供を養育する一方、職業や市民活動を通じて社会に貢献しながら定年を迎えます。
- 今度は人生に残された大きなテーマである、老化を乗り越え、避けることの出来ない「死」をどう迎えるか。
- 人生の晩年の生き方が万人の共通問題となって浮かび上がります。
- 従って、人生の発達課題と言われる節目に応じた新しい価値観に従って自分の生き方を律していく必要が有ります。
- 特に変動の激しい現代に生きた私たちは、生活環境や職業環境の絶え間ない変化に、どう適応させて行くか、努力の連続でした。
- 物や食べ物が乏しい時代から、物が余って、無駄遣いと飽食の時代もありました。しかし、老年になると若い時にはなかった課題が浮かび上がります。
- それは、一言で云うと、「自己の完成」とか「自我の統合」という「人の生き方」に関する問題です。
- 現代社会では若さに価値を置いていますが、私たちは「老いの楽しみ」を知って欲しいと思います。ただ、長生きするだけと違って、真に人生を味あうためにも、自分の志を遂げるためにも、長生きは必要になります。これを妨げる一番の大敵は「生活習慣病」と言われる、体の「ひずみ」を予防することが大事になります。
- そのために大切か事を説明します。
1)ボケの予防
- 健やかな老人になる前提は「ぼけ」の予防が必要と言われています。
- 杏林大学の石川先生の説によると、ボケやすい人と対策は次の通りです。
- ① 読書をしない人―知的興味・知的好奇心を持ち続けること
- ② 散歩をしない人―適度の運動を絶やさないこと
- ③ 近所付合いをしない人―地域社会でも仲間を作り孤立しないこと
- ④ 頭部外傷を受けた人―頭に外傷を受けないこと
- ⑤ 自分の歯が半分以下の人―咀嚼の力が衰えないよう入れ歯の手入れをすること
- この他に、私は「休息」の大切さを強調しておきたいのです。
- 短時間の昼寝は夜の睡眠同様、疲労の回復に大切になります。
- 又、栄養は摂り過ぎになりがちなのでバランスに注意する事が良いようです。一日に三度の規則正しい食事は、健康を維持することに必要で、豊かな老年を迎えたい人には必要な条件になります。
2)積極的に楽しみの種を撒きましょう。
自分の足元に楽しい種を撒いてください。
- 諺にも「撒かぬ種は生えぬ」とあります。昔撒いた種の芽が出て、綺麗な花を咲かせて目を楽しませ、やがて美味しい果実を生みます。
- 「幸せは山のあなたの空遠く」ではなく、幸せは足元にあることに気づく人は幸せなのです。
米寿を迎えたある老夫婦が、「今でも妻と出合った20才時代の、瑞々しい喜びを思い出しては噛み締める」と、言っていました。
- 「連れ合い」との出会いを、大事な宝物として扱う人は、幾つになっても、果てしない喜びが配当として受け取れる。
3)幸福の原点は健康
人生の楽しみは全て、健康である事が前提にあることを忘れてはなりません。
- 私の若い頃には、健康は自然から与えられていると思い違いをしていました。
- それも病気をして始めて健康管理に失敗したことを痛感したのです。
- 私は先ず、健康に生活できる事を取り戻す必要があったのです。
- 原則は、健康は自分で養うべきもので、金で買えないこと、自分で予防することが最善であること、を忘れないでください。
4)気侭に生きるー感動する生活
- 朝起きて雨戸を開けると、旭が澄み切った空気の中を、美しい斜めの光を投げています。この光を見て思わず「美しい」と思います。
- 庭を見ると雀が植え込みを出たり入ったりして何か一生懸命に呼びかけ、囀っています。雀も一生懸命に生きている、「いのち」を私と共有しているのだと思うと感動します。
- 人生を楽しむ方法として、旅行をしたり、芝居を見たり、外の刺激を受けて、「楽しい」と感動を受けることがあります。それは、きっと、心が活性化するからでしょう。
- 「感動する」ことは、障害者になったばかりの頃は、出来がたいことでした。
- 皆さんは何でもいいので、感動したら、その感動を噛み締めて、今度はその感動を他の人に伝えてください。俳句や短歌・絵手紙・紀行文・写真と自分の得意な方法で、自分の受けた感動を伝える工夫をして下さい。
- そうすると感動が「梃子」になって、自分の中にあるエンジンがもう一度動くようになるのです。
- 昔から「すまじきものは宮仕え」こんな諺があります。
- 何も宮仕えに限らず、組織の中で仕事をする立場では、すべて「人間関係」の軋轢に悩み、強いストレスを受けます。
- 利益を追求する企業の価値観と自分の、自分らしい価値観とが矛盾する時には、その狭間に立って悩みます。
- このストレスの積み重ねは心身の健康を損なうのです。
- それでも、子育てが終わるまでは、何とか頑張ってやりますが、定年後の仕事の基本は、もっと自分らしい価値観が活かされる立場が欲しいことです。昔の聖人は「心に従いて規を越えず」と教えてくれました。ただ、「心のままに」仕事をすることは、高い金銭的報酬とは無関係になるのです。
5)意味のある人生
シルバー世代の合唱団の方が聴衆に励まされて、「来年も頑張りたいと思う」と、励ましを受けて来年が目標になり、その実現のために、健康に毎日を送る努力していると伺いました。
- 自分の存在が、誰か他の人にとって意味があると思う時、生甲斐を感じます。他の人ではなくても自分自身の完成にとっても、それが意味を持つ時、いきいきとした時間になります。輝くような目標が見える時、その目標に辿り着くまで頑張りたいと思います。
- 私のことですが、今年の夏に出版する「心が動く」のこととか、8月の凌雲社書展に出品すると通算、10回の出展になり、記念貧が貰える楽しみもあります。
- 区民会議では福祉分科会の委員長として、来年は講演会を主宰して区民に提供したいと思っています。
- 自治会の役員として地域のバリアフリー計画を推進して、少子・高齢社会に対応できる、地域のバリアフリー化の実現を、ワクワクして工事の完成を待っています。
毎年、10回以上の講演会で日本の各地に新しい人との出会いがあります。
- 来年は孫が中学生になり、再来年には金婚式を迎えます。
- 貧しくて、ダイヤの指輪も買ってやる事は出来ませんでしたが、精一杯に共に愛しあえた結婚生活を祝いたいと思っています。
6)自分史のお勧め
もし、皆さんの歩いて行く道の前に、しっかりした目標が見えないとしたら、一度、ゆっくり立ち止まってください。
- そして、少年時代の戦争の最中に、何を思って過ごしたか、その時の友人の消息を尋ね、思いに残る所を尋ねてください。
- そしてご自分が辿った人生―自分史―を書いてください。
- 忘れてしまって空白の部分は調べてください。
- そこに「貴方」の実像が見つかる筈です。
- 私が障害者になって何も出来なかった時、中学生時代の動員の手記「出発進行! 閉塞注意」を仲間と一緒に作りました。
- 何ども読み返し、忘れた記憶を呼び起こし、凄い時代を生き抜いた自分に改めて気がついたのです。
- 「こんな凄い時代を生き抜いたのに、こんな障害に負けたら勿体無い」。
- それを皮切りにして、これまで語られなかった「自分の歴史」を書いてみました。私ですら、数々の難局をどうやって乗り切ったか。
- 改めて私自身の生き方に感動したのです。
- それで、その体験を整理してみました。
- これはきっと素晴らしいヒントを生み出すと思いますから試してください。
7) 「趣味の入門」
これまで忙しくて「趣味は仕事」だった方は、思い切って「好きな教室」の門を叩きましょう。
- カルチャーセンターには積極的な方が沢山おられ、色々と機会は沢山ありますから「自分の好きなこと」を選んでください。
- これは「求めよ、さらば与えられん」で、求めないと得られないのです。
- 丁度、日本の介護保険制度のように、黙っていては何もしてくれません。
- 自分で申し込み、自分で稽古することが必要なのです。
「元来、不器用なんだ」と消極的になる方は、私の「隷書」「篆書」を見てください。
- 56才になるまで使った事のない左手に筆を持たせたのです。右手の使えない私には、左手か口しか使うしかなかったのです。
- 人間には誰にでも、未知の能力が埋まっています。掘り出してあげないと、折角の才能が日の目を見ません。
- 大方の男性は仕事が忙しくて、趣味の分野には開発してなかった能力が沢山あるのだと信じてください。出来れば仲間が出来ると励みになりますし、下手でも良いから発表する事です。
- 私の場合、左手の能力開発は師匠との「出会い」が必要でした。
- やって見ようと言う決意が必要でしたー入門500時間の集中訓練ーそしてこれを支える家庭の理解と愛が必要なのです。
- 右半身の運動が出来ない状態でも、最低限、自分でトイレに行きたいのです。そのために「歩く」練習をしました。その時に体験したことは、大脳が命令しないと筋肉は動かない事、それも「歩け」と言う、包括的な行動の指示ではなく、「足をあげなさい」「前に出して」と言う個別の動作に命令が必要でした。ですから人体を支配しているのは大脳だと思っていました。
- やがて、寝ている間は、どうなっているのか、疑問になりました。
- 大脳が寝ている間に、私の心臓を動かしたり呼吸をしたりしているのは誰なのか。誰か知らない支配者がいる!
- つくづく人間は傲慢になってはいけないと思いました。
6.「挫折と再起の歴史」
- 人生とは「挫折と再起」のくり返しの歴史です。時代の求める価値の実現が急がれるために私たちは困惑することがあります。
- しかし、池の表面は風のために波立っても、その深いところでは、静かなのです。人間は古来、「いのち」を受け継ぐと言う、不変の歴史を重ねているのです。ここに「先人に学ぶ」必要が生まれていると思います。

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