リハビリ14年目の仮説

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リハビリ14年目の仮説

平成10年8月27日
片マヒ自立研究会 主宰 森山志朗

リハビリ14年目の仮説

リハビリ14年目の仮説


リハビリ14年目の仮説 1)問題の提起

  • 1.中途障害者の特質についての疑問

    • 今年の春、ある聴衆の方から「生まれながらの障害者から見ると、脳卒中の人も同じ障害者なのに、なぜ中途障害者として別に考えるのか」という率直な疑問が出された。
    • 取りあえずお答えはしたものの不完全な思いが残った。

  • 2.発達理論との出会い

    • リハビリ14年目の仮説年末に予定された講演準備のため、「人間の発達課題」について改めて勉強をした。
    • これらを読み進むうちに「自我の確立」とか「人格的活力」とか、「自我の同一性」とか、これまで疑問に思っていた私自身の心の動きが、エリクソンの学説で非常に上手に説明されている事に驚き、改めて丁寧に読むことにした。

    • 私が驚いた事の一つはエリクソンの言う「人格的活力」の中で「希望」(願望が実現されるに違いないという信念)は、乳幼児の時代に獲得するものとされていることだった。

    • 05.jpgそれにしても、救急救命期を乗り切って無事にリハビリに入ることが出来た時、私は動かぬ手足が再び訓練の成果で動き出すと期待して楽観的だった。

    • やがてこの障害とは末永く付き合うしかないと知った時、私は絶望のどん底に落ち込み、そこにどんな「希望」の可能性が許されるのか。
    • 手足の自由を失って「希望」を持つことは極めて難しい課題だった。

    • エリクソンによると、私は幼児期から段階的に「人格的活力」と言われるもろもろの能力を獲得して、積極的に人生を生きて来たのである。
    • しかし、障害者という立場になれば、改めて獲得し直す必要がある能力なのかも知れない、という疑問も生れた。

    • 丁度、何かの期限が切れたライセンスのように、改めて取り直さねばならない状況を感じたのである。現実の私はやがて、杖を突きながら歩きはじめ、電車に乗り外出することが出来るようになって、「人格的活力」のより高い段階である「自信」や「積極性」をもてるようになったことを考えると、この思いが更に強くなる。

    • 人間の成長過程で、青年期には発達上の危機として、「アイデンティティの危機が生ずる」と、エリクソンは指摘している。
    • しかし、人生の中途で大きな障害を得た私はまさにこのアイデンティティの危機に陥っていたのではなかっただろうか、と思った。
    • 人生の中で予想もしなかった状態の自分に出会い、それを受け止めるしかないと知っても、現実を否定したり現実に圧倒されたりして、取り扱いに混乱していた事を振り返り思う。

リハビリ14年目の仮説

  • そこで改めてこの発達理論を参考にして、私が中途障害者として自我の回復に悩みながら、解決しなければならなかった「障害の受容」と「価値観の転換」という心理的課題を説明出来ないか。

  • 肉体的な訓練と織り交じって、リハビリの中心にあるに関わらず、ともすると軽視されてきた、心理的な解決が実は重要な位置付けにあったことの理解を深められないか。
  • この問題を少しでも明らかにしたいからである。

2)障害の受容を可能とした条件

  • リハビリ14年目の仮説 1.障害を得た私の悩み

    • 私が障害を得た時、苦しんだのは手足が不自由であると言う事そのものよりも、蓄積してきた知識や経験、自分の有能さが失われるのではないかという恐怖、長い社会生活の結果、身についた自尊心や誇りが崩壊する恐怖、自己の同一性といわれるアイデンティティがぼろぼろに壊れ去るのではないかという恐怖ではなかっただろうか、と思う。

    • リハビリ14年目の仮説健康な時代には、多くの社員や顧客を前にして自信溢れる態度で、とうとうと演説し満幅の信頼感を得ていた。
    • その自分と、言葉を捜しながら一言一言もどかしく自信なげに喋らねばならない現在の自分が、本当に同一の人格なのか、とても同一人物とは思えない断絶感があった。

    • しかし同じ「私」なのだからと、その同一性を保とうと必死に方法を模索したのだった。長い人生は大きな社会的な信用と、それに伴なって生れた自尊心は私の数々の苦難を支えてくれた。
    • その大事な自尊心は、現実の無能力という暗雲に包まれて、視界からすっかり遠ざかっていた。

    • リハビリ14年目の仮説一部で「障害の受容」という言葉を未消化のままに理解して安直に「現実を直視してあるがままを受け入れなさい」と言われるが、そこに人格が崩壊する危険はないのだろうか。
    • 「私は何も出来ない無能力者です」と信じ込まされた人が再び立ち直るのは困難だろう。

    • 自分の発達課題には、誰しも自分に責任を持つものである。
    • それは人生の途中で障害者になろうが、なるまいが変わらない性質である。

    • 只、障害を得た場合には、通常の課題に加えて、その障害とどうやって折り合いを付けるかという課題が加わるのである。
    • つまり、発達課題として果たすべき責任は家庭に対するものであり、あるいは事業活動に伴うものでもある。障害を得た状況で、この責任をどのように全うするか。その解決を図るためには、まず、自分の身に起きた変化を受け止めなければならないのである。

  • 2.アイデンティティの統合を求め

    • 良く管理された病院を出て家庭に戻ると、余りの物理的・心理的バリアーの大きさに当惑して閉じこもりの傾向に陥る時期がある。
    • この時期を乗り越えた妙薬はリハビリ教室を通じた「人との交わり」から始まる「社会性の回復」だった。

    • リハビリ14年目の仮説この人との交わりが出来るようになると、仲間の一人一人の生き様を学びながら、自分の内心にある「自己」と対話を繰り返す。

    • そして「自己が満足できる方法」で自分の課題解決の方法を選ぶ。

    • これまでに培った人生が異る限り、そして皆が違った「自己」と対話する限り、すべての人で違った内容にならざるを得ない。

    • 中途障害者の特色は、一人一人の人間が、病気をする前までに確立した「自己」に忠実であろうとしてその解決の方法を見つけねばならない事である。
    • この努力目標は自分の確立した自己に「満足」を与える方向にしか見えないだろう。

    • その自分の心を満たせるような目的に向かうには、今持っている「何かを棄て」なければならない。

    • リハビリ14年目の仮説そして代わりに「何かを柱に」して人生の再建に乗り出すのである。

    • そして、この目的に向けて歩き始めると、中途障害者だった私の心から「障害者」のラベルは消え、そこには「手足が不自由だが目的に向けて歩き始めた初老の姿」が見えて来たのである。

3)私の体験

  • 1.私の人生評価

    • 障害者になって日も浅い頃、中学時代の友人が激励会をしてくれたが、発起人の一人が直後に急逝した。
    • 私たちの世代は、生きて来た時間よりも少ない時間しか残されていない事を知り、早くも人生の最終段階なのかと驚愕したのである。

    • 「であれば」と、まだ健在な旧友がいる内に戦時中の学徒動員の記録を整理する事になった。整理の成果を一冊の小冊子にして、それを手にした時、それまでは灰色に包まれて思い出す出すことすら嫌だった「自分の青春」は、素晴らしい青春だったことに気が付いた。

    • リハビリ14年目の仮説それは時代の荒波に揉まれながら、それを必死に全力で立ち向かった誇らしい人生だったと教えてくれたのである。
    • リハビリ14年目の仮説中学生の身で早朝から深夜に及ぶ毎日の労働、食べる物もない、身の安全も保障されない、希望もない日々、でも爆弾と機銃弾の下で生き延びてきた「私の命」には誇らしいものを感じた。
    • こんな青春を戦った男がこんな程度の障害に負けられるか、と心の底から思った。

    • 中学生時代の反省に続いて更に思い返すと、若い私は戦後日本の再建には石炭産業の発展が肝要だと信じて炭坑で働いたが、国のエネルギー政策が転換されて産業自体が消滅する時には、大勢の社員が無事に転職したのを見届けて後、二人の幼児を連れて悲壮な覚悟で化学繊維産業に転職した。

    • リハビリ14年目の仮説あたかも、沈み行く船から大勢の人を安全に脱出させ、最後に自分も家族を抱えて避難する船乗りの思いだった。新しい会社の企業文化に戸惑いながら、次々と新しいテーマがあった。競争の激しい産業で、国内他社のみならず世界市場の動向が問題になる仕事だったので、一つ一つが遣り甲斐のある仕事だった。

    • 古い化繊事業の合理化を進めて収益のある事業にするライフサイクルの延長にはじまり、外国企業との合弁事業の運営や、新しい石油化学事業への進出等に続き、円レートが急変したり、石油ショックの突発に出会ったりして乱気流の中で事業の再編成を行ったり、考えうる限りの英知と努力で切り抜けてきた。

    • 私はそんな自分の過去を振り返って、本当に素晴らしい経験を積み重ねていた事に改めて感謝した。

  • 2.習字との出会い

    • お習字との出会いは偶然だった。若しリハビリ教室で筆を握らせて貰わなかったら、若し左手で書いた書を「味がある」と師匠に見てもらわなかったら、若し師匠から隷書を勧められなかったら、若し区民文化祭に隷書で参加しなかったら、若し伊豆の博物館で広瀬淡窓の硯にリハビリ14年目の仮説出会わず凌雲書展に参加しなかったら、今の私を支える価値観の転換は行われず、今も悶悶として身の不運を嘆き、運命を呪い、家族に当たり散らし、世捨て人になったであろうと思う。

    • エリクソンが人間的な活力として上げた様々の能力はきっと回復していなかったに違いない。不思議としか言いようのない偶然の連続に「神の見えない手」を感じる。
    • これを通じて私は道元の「仏のかたより行われる」という言葉を体験したと信じたのである。

    • 長い社会生活を通じて、コツコツと築き上げた人間的な活力は、障害のために黒い雲に覆われていたが、習字を通じて少しずつ晴れてきた。
    • 平成8年には隷書「曹全碑」で秀作賞を頂き、更に平成10年は、「特選」を頂いた。

    • これは誰か他人に見せるためでなく、自分自身に対する挑戦を目標にし「納得の出来る作品を」として心血を注いで挑戦した作品だったから、その作品が「特選」の評価を頂いた事は素直に嬉しい事であった。

    • 晴れがましい表彰式で多くの方々に励ましの言葉を頂くと、心の中の雲はすっかり晴れ渡り、長い人生の産物である自信と誇りという活力が戻ってきた。
    • これまで心配をかけてきた皆様もこの受賞を喜んで下さった。
    • この増大した活力は私の新しい仕事を助けてくれるのである。

  • 3.多様な価値観

    • 障害者になるまでに「私」を作り上げていた自分の顔は様々だった。
    • 幼い日々には軍国日本の愛国少年に染められた。戦後は平和国家の再建が基軸だった。家にあっては二人の娘の甘い父親の顔だったし、娘が寝るとわがままな夫の顔になっていた。

    • リハビリ14年目の仮説朝、靴を履き電車に揺られている内に、厳しい会社員の顔に変わり、机に座ると部下の報告を聞く気難しい上司の顔になった。コンピューター付きブルドーザーというニックネームを気に入っていた。

    • 顧客には愛想の良い、ゴルフや麻雀と酒の席が好きな、笑顔の絶えない部長さんだった。もっと幾つもの顔を自分で使い分けていたのだろう。

    • 然し、突然やって来た右手と右足の障害とは、どんなに付き合えば良いのか。
    • まずこの障害が消える事を願った。
    • でもそれが駄目だと分かると、悩み、否定し、怒りそして悲しんだ。

    • 然し、お習字の世界に一歩一歩と入るに連れ、私を包んでいた黒雲が晴れて、これまで見たことも無かった価値観が見え始めた。
    • それは丁度、夜空を飾る星の煌きも、太陽の輝く昼間には見えないのと同じで、健康な間は見えなかった価値観が沢山ある事を始めて知った。

リハビリ14年目の仮説

  • そこにようやく私は、例え体は不自由でも命の火を燃やすのに適当な価値観を探しだしたのである。

  • リハビリ14年目の仮説こうして新しい価値観を手に入れた私は、気持ちも楽になり胸を張って歩けるようになった。
  • 杖を突いて電車に乗る。
  • 譲って下さる方があれば喜んでご厚意を受ける。
  • 行動に時間がかかっても「ごめんね」と済ます。
  • 障害がある事は何も恥ずかしい事では無くなった。

  • むしろ、人間は加齢と共に様々な障害と付き合わねばならない。
  • 障害を克服して社会生活を自立している私が気づく町のバリアー解決は、声を出せない高齢者に代わって発言もするのである。

  • 障害者として生きるには、何かを棄て何かを柱に生きる必要がある。
  • 何かを掴むためにも、今手にしているものを手から放さねばならにないのである。
  • 移動能力に制限があるので、移動が余り必要のない仕事をする。
  • 利き手である右手の自由を失った私が、今後左手の習字を通じてどこまで能力を引き出せるか。これは一つの限界挑戦であって、その成果はリハビリの可能性の中で議論して欲しいと思う。

  • 今回の書展では左手で書いた事を知った多くの方々が作品の前で首を傾げて、「右手でも書けないのに」と言う疑問ももらした。

  • 私はあるいは左手なるがゆえに書けた作品だったかも知れないとも思う。
  • 左手を使うしかなかったので右脳が異状に発達したのかもしれない。
  • 色んなことを考えながら、右手が不自由でも習字に挑戦できた私は、幸福だと思う。
  • 堂々と胸を張って歩く姿を、夢を奪われた方々に是非見て欲しいのである。
  • こんな素晴らしい人生を支えて下さった皆様に心から感謝する毎日である。
  • 以上

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