独立自尊と脳卒中のサバイバー

●脳卒中論文館

20.「独立自尊と脳卒中のサバイバー」「超リハビリ」について」考える

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慶応大学医療看護学部

2011年1月18日 藤沢教室 標先生

片マヒ自立研究会会長 森山志郎
介護を考える会元会長 森山晏子

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「独立自尊と脳卒中のサバイバー」:「超リハビリについて」考える「目次」


Ⅰ部 独立自尊と脳卒中のサバイバー B「歩けた!手が動いた」の出版以後
 ―新しいアイデンティティーの確立―
1.鳥瞰的(ちょうかんてき)自己紹介 ①平成3年12月―片マヒ自立研究会―
2.今後の課題―意味と役割り ②4年以降、凌雲書展で本格的な書道の研鑽
Ⅱ部 超リハビリについて ③5年以降アドボカシー活動 講演会等
A.闘病記を出版する前の模索期
 ―心理学的モラトリアム期間―
④7年阪神大震災の教訓で地域活動に発展
1.残存能力の開発 C:心理学・文学等-社会学・心理学等・文学・関連
ある部門を総合した「生き方の心構え」研究の必要-
2.どんな生き方が選べるか Ⅲ部 介護者として、妻としての立場で
①61年退院―62年保健師との出合い― 「介護を考える会 アイリス泉」元会長 森山晏子
②62年自主グループの結成 ① はじめに
3.価値観の転換 ② 新しい人生
①64年昭和天皇崩御 ③ 飛躍のきっかけ
②元年9月―学徒動員記録「出発進行!閉塞注意」― ④ 介護の体験を話す
③10月―大田先生と福沢諭吉に「出合う」―卒琢同時 ⑤ 社会的な役割
④平成2年3月―書道入門、師匠との「出合い」― ⑥ 介護保険
⑤11月―文化祭「弄花香満衣」― ⑦ 人生の出会い
⑥3年9月―体験記「歩けた!手が動いた」― ⑧ 老い
⑨ 希望の囁き

Ⅰ部「独立自尊と脳卒中のサバイバー」

森 山 志 郎

「独立自尊是修身」最初に、この掛け軸は慶応大学を創設された福沢諭の「独立自尊是修身」です。
「自分の人生に責任を持って生きろ」という教訓です。

最近の気になる日本のことを云うと、今や日本の社会保障制度は崩壊寸前、このままだったら日本の折角の制度は消えてしまいます。

私の世代はまだ支えてくださる世代がありますが皆さんのご両親が年を取ったときは支える世代が減っています。

自分で独立して人生に責任を持つ、という考え方が日本にないと大変な社会的混乱が生まれます。そこで年寄りが率先して「独立自尊」を実践し、社会はお年寄りにいろんな役割りを準備する、年寄りも社会の役割りを担って社会に貢献していく、こんな考えが大切になると思っています。

私自身の麻痺ですが機能回復は、時間がかかります。
幸運にも麻痺が取れたら、適切に対応すれば筋力を維持したり回復することも出来ます。

25年経った最近、理学療法士の運動指導で効果を挙げています。
私が麻痺に悩みながら25年の間、障害のある人間としての新しい人生を作る努力をしていたので、回復の成果も生まれていると思います。


1.鳥瞰的自己紹介をします。
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  • 私は1929年昭和4年に生まれました。81歳、妻は78歳になります。
  • 皆さんのご両親のご両親、つまり祖父母の世代です。2人の娘と3人の孫がありますが孫は皆さんと同級生です。
  • そして昨年エメラルド婚でした。
  • 結婚して55年になったのです。

006.jpg前半分は企業戦士として朝から晩まで働き尽くめの夫婦として56歳まで過ごし、その後は、「片マヒ自立研究会」の会長と、「介護を考える会・アイリス泉」の会長夫婦として、「一身で二生を経る」という2つの人生を経験しています。

56歳の時脳梗塞で右半身の運動機能を奪われました。
何とか杖に頼らず杖歩行が出来ましたが右手は一切実用的な水準に戻りません。

  • そこで残された能力を開発し「新しい人生」を切り開き「脳卒中サバイバー」としての人生を送ってきました。
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  • 79歳で一昨年「前立腺がん」になりました「おしっこ」の具合が悪くなり、血液検査を受けたら「腫瘍マーカー」が800と異常に高く、「森山さんガンらしいよ」と細胞を調べたら転移を起こす前に前立腺ガンを見つけました。
  • 直ぐ治療に入って今では0.7まで低下しています。
  • その治療方法には驚きました。「女性ホルモン」を注射し「男性ホルモン阻害剤」を服用するのです。つまり「男性」らしさを作る「男性ホルモン」は、ガンを成長させる「命の仇」に変化していたのです。

008.jpgホルモンは、ある時までは必要だけれどある時を越えると「命を滅ぼす働き」に役割りが変化するのです。

ホルモンの働きもその年代によって果たすべき役割りが変化するのです。

80歳になった昨年の一月「胆嚢(たんのう)がん」になりました。
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  • 胆石が暴れ是までに経験のない「七転八倒の苦しみ」になり急いで救急車に担架で運び込まれ、緊急入院をしました。
  • そして何も知らないうちに大きな「鶉(うずら)の卵」大の胆石を取り出す手術をしてもらい、「麻酔ガ覚めて」見せてもらい大きいのに驚きました。

1-1精神的な不安の克服

  • ところが取り出した胆嚢の細胞を調べたら「ガン」が見つかったので、今度は「肝臓の一部を切り取る」手術をすること宣告されたのです。
  • これには私も妻も驚き悩みました。もう直ぐ退院が出来ると気持ちが軽くなっていたときに、もう一度、お腹を開けることは大きなショックでした。
  • 縦に30cm位切っているのに又手術すれば傷だらけになる、嫌だなと思い「薬で治りませんか」と、申し上げましたが「責任持ってやるから心配するな」と、言われました。
  • 010.jpg折角「手術してくれると仰(おっしゃ)るのだから手術をお願いしよう」と、落胆する妻に「一緒に頑張って乗り切ろう」と手術をお願いしました。
  • そのお陰で転移もなく、術後の検査でも腫瘍マーカーの心配もなく幸運に恵まれて健康を取り戻しました。
  • この手術に当って何を考えたかというと「がん」は特別な病気ではなくて人間の60兆ある細胞が繰りかえし50回、60回と再生するうちに不具合の部分がで来たり、これ以上の再生は出来ない限界になったりで、「ガン」になっていく。
  • 人間は生まれたときから死ぬためのプログラムが用意されている、つまり死ぬためのプログラムが用意されているのが人生なのだと、考えました。ではその人生をどう生きたら良いかと、より深く人生と向き会うことが出来ました。

1-2廃用症候群を防ぐ 

  • 011.jpg今度入院して嬉しかったことの一つは、手術の翌日からトイレには自分で行くことが推奨されたことでした。
  • 何故かと言いますと、私が前に脳梗塞で入院していた時、4週間の絶対安静をしたために右側の筋肉がそっくりそぎ落とされた大失敗があったからです。回復が不能になるほど右半身の筋肉はなくなりました。
  • こんな「廃用症候群」には二度となりたくない、今回は「廃用症候群」だけには絶対なりたくない、必死になりました。

1-3色んな看護師さん

  • 012.jpgそんなことで夜間も看護師さんに付き添ってもらってトイレにいく。片道が20歩で往復で40歩は歩きます。
  • 看護師さんは忙しい仕事中に患者の私からコールで呼び出されると「忙しいのに」と思うこともあるのでしょう。口にはしませんが、顔も合せない人もありました。
  • 反対に、若い看護師さんが笑顔で、「今夜の当直のKです。気分はどうですか」と自己紹介しながら励ましてくれる方もありました。
  • 看護師さんは確かな技術だけでなく、人間的な温かみの両方が必要だとしみじみ思いました。
  • こんな温かい看護師さんは、地獄で出会った仏様に見えるものです。

1-4私が克服できた理由

  • 私が難局を乗り切ることが出来たのは、自分で治したいという強い希望、適切な医療者のチーム行動―お医者、看護師、薬剤師、栄養管理士―と、毎日一生懸命励ましてくれた妻の存在でした。
  • 013.jpg55年という長い人生を共に乗り切ってきた妻とは離れられない強い絆で結ばれていました。
  • そのため携帯電話を初めて使いました。
  • 朝6時に「お早う」とモーニングコールをします。そして夜の8時には「お休みコール」をしました。
  • それだけのことですが二人で難局を切り抜け、精神的に落ち着くことが出来ました。

2.今後の課題  意味と役割り

2-1生きる意味と果たすべき役割り
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  • 脳卒中を克服するときは、古い価値観の替わりに新しい価値観に取り替える作業がありました。
  • 新しい能力を手に入れて「アイデンティティーを修正」したのです。
  • 今度の「がん」の場合には、「命とは死ぬようにプログラムされている」ことを肌で知ったので、私が生きる「意味があること」そして「果たすべき役割り」も意識するようになりました。

2-2「心構え」の必要性と「超リハ」を広めること。「超リハ学」

  • リハに取り組む障害者に、これから私が申し上げないといけないのは、自立した人生を望むために「心構え」というものを大切にして欲しいことです。
  • 「心構え」が出来ると必要な情報が入るし、苦しい訓練にも耐えられます。そして自分の人生に何が必要か分かってくるのです。
  • 脳卒中のリハビリは「手足の回復」だけと思うのは、飛んでもない思い違いで、「再び立ち上がって生きる」「新しい自分を作る」という仕事があります。
  • 人生を再建する心構えを確立する、精神的な体制作りに必要な知識は、一般にリハビリと呼ばれる医学的療法の中に含まれていません。
  • それは「自立した人生に必要な学問の領域」であり、これを総合して障害者を助ける方向に動いて欲しいのです。
  • この「超リハ」と言う言葉は、「千葉大学大学院」の「酒井郁子教授」が作られた言葉、先生の「超リハ学」に共鳴して、私は障害者から見た「超リハビリ」として使うことをお願いしたものです。 
  • 従来のリハビリだけでは行き届かない領域が沢山あると云うことをこれから社会に訴えて行きたいと思っております。

2-3再び立ち上がろうとする時は先ず、「自分の障害を受容する」ところから始まります。

  • 皆さんはエリザベス・キューブラー・ロス博士が研究された「死の受容5段階説」を聞いたことがあると思います。死を目前にした場合、人はどんな反応をするかという研究です。
  • 「否認」し「怒り」、「取り引き」、「抑うつ」、そして「受容する」と解釈されました。
  • 016.jpgそれと同じ意味で障害者が自分の障害を「受容」すると考える方がいますがこれは大変な誤解です。
  • 「死の受容」は死がやってくるのをただ待つのですが、「障害の受容」は障害を背負ったまま、再び人生を戦い生きる必要があるのです。
  • 求めるものが違う「受容」なのです。
  • これが同じ「受容」でも根本的に意味が違うところです。
  • リハビリテーションで我々が何を求めるかというと、それは「失われた人間力の回復」だと思います。
  • 人間力という考え方は「知力」「体力」「気力」「実践力」「コミュニケーション」を総合したものですが、そのいずれもが障害により奪われているのです。
  • その回復の過程がリハビリテーションと思っています。

Ⅱ部.超リハビリについて

A闘病記を出版する前の模索期―心理学のモラトリアム期間―

1.残存能力の開発 017.jpg

  • 昭和60年、脳梗塞で入院して、61年には右マヒ2級障害者として退院しました。
  • 私は知力も気力も体力も実践力もコミュニケーション能力も多く奪われて、残された能力で生きることが求められたのです。
  • これはとても難しいテーマでした。

2.どんな生き方が選べるか

  • 62年、初めて保健師さんに出会いました。その保健師さんは私にとって天使でした。

①61年退院―62年保健師とお出合い―

  • 地獄で迷っている私を救い出してくれた仏様でした。そして地域のリハビリ教室で社会復帰の基礎的な訓練を受けるようになったのです。皆さんの中には将来、保健師さんになる方もあるでしょうが是非、こんなことも知っておいてください。

②62年自主グループの結成

  • 63年、同病の仲間と自主グループ「泉睦会」をつくりました。

3.価値観の転換

①64年昭和天皇崩御

  • 018.jpg64年は、昭和天皇が崩御されて、直ぐ平成元年になりました。
  • 天皇の大喪がありテレビで棺を見送りながら、何か重たい荷物が流れ落ち一つの時代が終ったのだと感じました。
  • 昭和の時代に生まれ育った私は、「国家のため」と言う価値観で固まっていたのでした。

②元年9月―学徒動員記録「出発進行!閉塞注意」―

  • その年の6月、中学時代の友人と一緒に、学徒動員時代の記録を歴史として後世に残すために文集を作ろうと、話し合いました。電車の運転士をしてその電車は敵機に機銃掃射を受け、中学生の命は危険に晒されていたのです。
  • 9月これは「出発進行、閉塞注意」の表題で出版されて、集った仲間と語りあいながら「凄い少年時代を生き抜いた私ではないか、こんな障害に負けてたまるか!」と。
  • 心を強くしました。これで私の戦争体験と昭和時代の清算が出来ました。
  • その帰りに、国東に立ち寄り摩崖佛を拝観をして帰りました。
  • スピリチュアルな角度のお話は割愛します。

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③10月―大田先生と福沢諭吉出合う―

  • 10月、伊豆の逓信病院の大田仁史先生と福沢諭吉に「出合う」事が出来ました。
  • その大田先生から「障害は治らないよ」と伺い、それまで「治す」事を目的にしていた私は驚きました。
  • 020.jpgつづいて福沢諭吉が晩年「一身で二生を経る思い」と、話したことを伺ったのです。
  • この「出会い」は私の大きな方向転換のきっかけになりました。
  • 模索してもがいているときの一言は「啐啄同時」の効果がありました。
  • でも、どうやって「新しい生き方」「新しい自分」を見つけたら良いか。
  • 福沢諭吉は語学力と日本の近代化という目標がありました。

4.さて、この森山志郎にとっての諭吉の語学力と近代化という目標に替わる武器と目標は何だろうか。

④平成2年3月―書道入門、師匠との「出合い」―

  • 平成2年1月、書初めをして、左手を使った字に何か不思議な印象がありました。
  • 早速、習字の師匠に「左手のお習字を教えてください」と、入門をお願いしました。
  • 「弄花香満衣」4月、弟子入りすると師匠は「隷書」の勉強を選んでくれました。
  • これは楷書と違って右上がりの線は使いません。
  • 左手では右上がりの線が書きにくいので、選んでくれたのです。
  • 私は「入門500時間訓練」という訓練を計画しました。
  • 私は期間を6ヵ月にして500時間の訓練を基本に計画したのです。
  • 1日3時間の練習で月に90時間、6ヵ月だと540時間になります。

⑤11月―文化祭「弄花香満衣」―

  • 11月、作品「弄(ろう)花(か)香(こう)満衣(まんい)」が完成しました。会場に掲げてみると、健常者といわれる方々の作品に混じって少しの引け目もなく、堂堂としていました。
  • その瞬間、私の肩の力が流れ落ち、それまでの「健常者に負けないぞ」と言う緊張から開放されました。
  • 「私は障害があるから出来ないことはいろいろとある。しかし、出来ることもあるのだ」
  • 「社会に必要な能力はこれからもつくることができる」。
  • そんな自信が溢れてきたのです。

⑥3年9月―体験記「歩けた!手が動いた」―

  • 022.jpg多分「障害の受容」ができたからでしょう、私の歩いたリハビリの、失敗や成功の紆余曲折した体験を世の中に伝えたいと、原稿を書きました。
  • 3年の9月、体験記録の「歩けた!手が動いた」を送りだすことが出来ました。
  • この出版で私のリハビリに一つの区切りが付いたと思っています。
  • 障害を拒否せず、抱え込んで一人の人間として生きる準備が出来たと思います。


Ⅰ部 独立自尊と脳卒中のサバイバー B「歩けた!手が動いた」の出版以後
 ―新しいアイデンティティーの確立―
1.鳥瞰的(ちょうかんてき)自己紹介 ①平成3年12月―片マヒ自立研究会―
2.今後の課題―意味と役割り ②4年以降、凌雲書展で本格的な書道の研鑽
Ⅱ部 超リハビリについて ③5年以降アドボカシー活動 講演会等
A.闘病記を出版する前の模索期
 ―心理学的モラトリアム期間―
④7年阪神大震災の教訓で地域活動に発展
1.残存能力の開発 C:心理学・文学等-社会学・心理学等・文学・関連
ある部門を総合した「生き方の心構え」研究の必要-
2.どんな生き方が選べるか Ⅲ部 介護者として、妻としての立場で
①61年退院―62年保健師との出合い― 「介護を考える会 アイリス泉」元会長 森山晏子
②62年自主グループの結成 ① はじめに
3.価値観の転換 ② 新しい人生
①64年昭和天皇崩御 ③ 飛躍のきっかけ
②元年9月―学徒動員記録「出発進行!閉塞注意」― ④ 介護の体験を話す
③10月―大田先生と福沢諭吉に「出合う」―卒琢同時 ⑤ 社会的な役割
④平成2年3月―書道入門、師匠との「出合い」― ⑥ 介護保険
⑤11月―文化祭「弄花香満衣」― ⑦ 人生の出会い
⑥3年9月―体験記「歩けた!手が動いた」― ⑧ 老い
⑨ 希望の囁き

B「歩けた!手が動いた」の出版以後―新しいアイデンティティーの確立―

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①平成3年12月―片マヒ自立研究会―

  • 1.平成3年12月「片マヒ自立研究会」を創立しました。
  • 「崔子玉座右の銘」この研究会を作ったのは出版記念会の司会をお願いした方が海外出張から帰国したばかりのため「出張報告の文献翻訳を手伝うことになったのからです。私は障害者の仲間と3人で一緒に「イラワラ女性地域健康センター年次報告書」の翻訳に掛かりました。
  • 3人とも現役時代には英語と親しんでいた方々でした。すると驚いたことに、最初は辞書ばかり引いていたのに、数週目には辞書も不要なになりました。
  • 「障害のために能力が失われたのではなく一次的に見えなくなっただけである。
  • 一面の雪も太陽が照ると消えて下から青々とした畑が見えるのに似ているのではないか」。
  • こんな「仮説」を抱いたのです。この不思議な「仮説」を障害者の目線」で取り組んでみようとして、「片マヒ自立研究会」を設立しました。

②4年以降、凌雲書展で本格的な書道の研鑽

  • 平成4年以来は「凌雲書展」にも参加しました。左手の書道は、凌雲書展に出展が認められると大きい作品に取り組み、賞もいただきました。左手の作品を見てください。
  • 隷書から篆書にも広げました。
  • 筆先に神経を集めて緊張したことは、リハビリの基盤を作ったと思います。

③5年以降アドボカシー活動 講演会等

  • 「アドボカシー活動」平成5年秋以来はアドボカシー活動も開始し、障害者に対する理解を深めて貰う講演等の活動を行いました。私の本を読んだ神奈川看護教育大学の標先生が私を「全国保健婦研修会」の席で講演をさせてくれました。
  • 更に6年になると「日本看護学会成人病部会」のパネラーとして指名されたお陰で、全国の保健婦さんや関係者の間で名前が知られるようになり、毎年10件ほどの講演会を重ねてきました。私が記録を整理している講演は今日は108回目になります。
  • 講演記録として整理されているのは一般の市民が32回、障害者が25回、行政専門職が17回、そして学生34回です。障害者が何を考え、何が欲しいか、そんな問題を訴えるアドボカシー活動だと思っています。

④7年阪神大震災の教訓で地域活動に発展

  • 2.平成7年、阪神淡路大震災がありました。
  • 026.jpg丁度16年前のことです。そのときに何を考えたかというと、「障害者である我々の救出は行政が直ぐしてくれる筈だが実態はどうだったのだろうか」と、現地でボランティア活動してきた保健師さんに話を聞きました。
  • その席で「私たち障害者は直ぐ救出してくれますか」と、聞くと「とんでもない、1週間か10日は必要」と教えられました。
  • 「障害者の仲間の中に止まって活動するのではなく積極的に地域社会の中に飛び込もう」と活動のスタンスを地域社会に広げることにしました。
  • その地域活動として、輪番制の班長の仕事をしました。
  • 毎月一回の会議に出席しても旨く発言が出来ませんでした。
  • 027.jpg平成9年、通り抜け道路の騒音が問題となり、自治会の交通安全対策部長となりました。単に通り抜け道路の問題でなく、自治会の全体が抱える交通騒音の問題を解決するため、住民のアンケート調査で問題をあきらかにして、公害研究所に騒音や排ガスの測定を頼み、具体的なお願いを行政といたしました。
  • 平成13年、この地域を「コミュニティーゾーン計画」に指定していただき、高齢者も安心して生活できるバリアフリーのまち作りに成功しました。
  • 平成12年、泉区民会議の委員になり、福祉委員長を3期6年間努めることができました。

C:心理学・文学等-社会学・心理学等・文学・関連ある部門を総合した「生き方の心構え」研究の必要-
C.最近の問題意識

  • 1.社会学、心理学等、関連ある学問領域の研究
  • 障害は元のように治りません。障害を持つ人の動きを助けてくれるロボットスーツの開発も期待外れの様子です。障害のある心身で、自立した生き方をするには、矢張り、「独立自尊の心構え」が必要になります。
  • この「心構え」を作り育てる働きこそ「超リハビリテーション」と名付ける多くの英知を集めた学問の役割りだと思います。
  • これ等の研究はまだ体系化されていないし、学会もありません。
  • しかし私たち障害者や老人が、生き生きと生きていくためには、「心構え」を作り育てる、こんな専門分野からの援助が欲しいのです。

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  • 2.社会学では「生きていく人間」が学問の対象にします。
  • 従って、不自由だけれど「生きていく」人が克服しなければならない課題が見えてきます。
  • ハーバード大学の細田満和子博士は「生命の危機」「身体の危機」「家族生 活の危機」「コミュニケーションの危機」「社会生活の危機」と五つの克復すべき課題をあげています。
  • そして再び生きる為には「出会い」による「変容」が「希望」 を生み「新しい人生」が開けると考えています。
  • 発達心理学では広島大学大学院の岡本祐子先生は、人生の中途における挫折は、「アイデンティティー修正」が必要と研究されています。
  • これは「障害の受容」を考える場合の大きなヒントになりました。

  • 3.哲学では、フランクルが「生きる意味は自分で探す」こととされますが、深く掘り下げると「スピリチュアルの領域」にまで入ることになります。
  • 仏教学者で禪を研究された鈴木大拙先生は、他力本願と自力本願を比較して論じながら「自分の努力が尽き果てたとき、他力の支援がある」と主張されています。
  • 最初から口をあけて待つ姿勢では成果は得られないと教えています。
  • とことん努力して初めて得られるとしています。

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  • その他、食事の改善には栄養学、適正な運動には運動生理学、再発防止には予防医学、不撓不屈精神を語る文学作品等もあります。
  • 最後に、皆さんの長い人生には色々と挫折することもありますが、「愛する」ことの出来る人は必ず立ち上がることが出来ます。
  • どんな難局でも乗り越えられることを信じてください。ありがとうございました。

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Ⅲ部 介護者として、妻としての立場で

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介護を考える会 アイリス泉   森山晏子

  • 障害者となった夫と共に札幌から横浜の自宅に戻ってきたのは1986年3月20日、大雪の日でした。
  • あれからもう25年を過ぎました。

① はじめに

  • 皆様の前でお話をするようになって良く質問されることの中に、どうして夫のリハビリにこれまで尽くそうと思ったのですか?と言う事をきかれます。
  • 032.jpgこれには、即答するのに一寸困るのですが、本当は“夫にそれだけの魅力があったから”と言いたいのです。
  • でもそれは少し控えておきまして、当時、社会の障害者の人権に対する偏見にどうしても受け入れられないものを感じたから、でもあるのです。
  • 1983年から日本でも始まっていた「国際障害者の10年」では障害者の人権に目を向けられていたはずでしたのに、当時それには程遠く、「障害者の自立などとんでもない」、障害者には、「恩恵を分け与える」という考えが主流でした。
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  • ですから「有り難く受けとるように」と言うのが福祉の本体だったのです。
  • 日頃のんきに夫の元で過ごしていた私も、これを知った時は急に頭をたたかれ、目を開かされた思いがしました。
  • 会社の中でも指導的立場で過ごしてきた夫が、これだけの事で、お恵みをいただきながら命永らえることなど、本人はもとより私にも不本意な生き方だったからです。

② 新しい人生

  • 横浜に帰ってからは、掛かり付けのお医者様に健康管理についてご指導いただいた折、新しくリハビリ専門のお医者様を紹介していただいて、機能回復訓練をしながら、新しい生活を暗中模索のうちに始めました。
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  • 大きな変化でしたから、家族全員が皆一緒になって真剣な日々をすごしました。
  • 家族みんなで、写真集を作ったり、二人で共に、カルチュアセンターに通って今まで出来なかった事を学んだり、私はペーパードライバーを返上して自動車の運転を再開し、兄、姉妹にさそわれての旅、新幹線での旅行、飛行機での国内旅行と、どれも半ば冒険でしたから細心の注意をしながら行動力の回復に努めました。
  • 一方で夫は、1人の熱心な保健師さんに誘われて、保健所のリハビリ教室に通い、障害者の方たちと自主的な活動団体泉睦会を作り、積極的な活動を始めるようになりました。
  • そしてこの6年の間に、長女は結婚し、次女は自立する方針を固めましたので、私は夫と共に新しく、障害はあるけれど出来る事を探しながら、積極的な人生を歩いて行きたいと思ったのです。

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③ 飛躍のきっかけ

  • 036.jpg平成3年に夫の友人に勧められて、私たちの第一作「歩けた手が動いた」という本を発行した時、これまでの活動でお知り合いになったリハビリの第一人者、当時伊豆逓信病院にいらした太田仁史先生が書評を書いて下さいました。
  • それ以来、全国保健婦研究会、看護大学、保健所関係の方々から問い合わせや、講演依頼、ご本人からの相談などがあり、全国的に、活動するようになりました。
  • 標先生とお知り合いになったのもこの頃ですが、それ以来、いろいろな所でお世話になっております。今回、皆様にお話しするのは、108回目になります。

④ 介護の体験を話す

  • 037.jpg私は夫の活動について歩いているうちに、介護者としての立場からお話しする機会が増えてきました。
  • 最初の頃のことです、「介護は、24時間毎日の事なのでとても疲れるのです。
  • 余り疲れすぎると優しくなれない時があります。もしボランティアの方にお願いできたら少し息抜きをして下さい。」と言いましたら、「とんでもない、ボランティアにいったらラケット持って遊びに行ってしまったよ、さぼる気なんだ」との返事が返ってきて、私はもう何にも言えませんでした。
  • 私が育った頃は、家族が病気になったとき、家族が介護をするのが当たり前でした。しかし大家族の場合と違って、核家族になると一人で介護と収入面の責任を背負うのはとても苦しい、夫が障害者になると離婚して生活保護を受け、妻が働きに出るというのが、一般的になって来ていたようです。
  • 038.jpgこれも一つの切り抜けるための方法だったのでしょうけど、辛い事でも二人だったら乗り越えられる、と思っていた私には、考えられない事でした。
  • 離れて暮らして心配ではないのかしら?
  • 障害を負った方には、側にいて支えてくれる人が必要なのにそれが叶わないなんて。
  • 元のようには戻らなくとも、社会の中で、家族の中で何かの役割を探して、その人らしく、生きていくことも出来るでしょうに、努力することは考えられなかったのかしら?と考えていました。

⑤ 社会的な役割

  • 平成8年泉区の保健所で、介護者サポートネットワーク事業が始まり、介護者の会を立ち上げて欲しいとの依頼がありました。
  • 長く介護をしながら健康に過ごせるにはどのようにしたら良いのかを皆様と共に考えていきたいと思い、お引き受けする事にしました。
  • しかし、身の回りの事しか知らない私は、ここで色々の介護者の立場、思いを聞き、それぞれに悩みの対象も種類も違い戸惑いました。かえって沢山の事を学ばせていただいたのです。狭い私の知識、経験の中では、解決に至ることは難しいと思いましたが、何か心のゆとりとなるものが少しでも生まれたらと思いつつ過ごしてまいりました。
  • この間、標先生のお書きになられた「健康マイノリティの発見」のご本を拝見し、先生の温かく確かな眼差しは、今後も何らかの手が差し伸べられなければ成らない多くの問題を指摘された物だと思いました。
  • 私の活動が少し広くなって忙しく、家事が滞りがちに成った時、夫はいつの間にか食事の後かたずけを、黙って引き受けてくれるようになっていました。
  • 始めは少し抵抗がありましたが、とても嬉しく、今は有り難くお願いしています。

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⑥ 介護保険

  • 040.jpg平成12年、介護保険が施行され、介護を社会的にサポートして行くことになりましたので、相談できる窓口もでき、1歩前に出る勇気をだせば、一人で抱え込まないで良いようにと、考えられてきています。広く知られて少しでも介護が楽になるようにして頂きたいものです。
  • しかし一方で、介護保険を利用できるようになった中途障害の方が、何するでもなく老人と同じような生活をされているのを見たとき、色々事情があってこの道を選ばざるを得ないのだとは思いますが、一度しかない人生を本当に勿体無いと思わずには居られません。
  • リハビリには期限を切ること等出来ないと思います。
  • まして心の支えは、家族の中のみならず、社会の中にもあるのが望ましいので、何か制度上でも考えて行かなくてはならない面だと思います。

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⑦ 人生の出会い

  • 夫は、一人の熱心な当時の保健婦さんに誘われてリハビリ教室に出席したのを皮切りに、「泉睦会」、「片マヒ自立研究会」を作りました。
  • そしてそこから、次々に色々な方にめぐり合い、学び、導かれながら、自分の世界を発展させ、生きる姿勢を確実なものとして参りました。今も、中途障害者が社会の中で人権を損なわれる事なく、いきいきと生きて欲しいと願い活動しております。
  • 私はそのそばに居てお手伝いをしながら、自分らしく生きてきたつもりでしたが、いつの間にか育てられていた思いがしています。
  • 今までに研究会を145回、講演会を108回行ってきましたが、それぞれに思い出があり、感動があり、時に思いがけない出会いがあって、楽しい日々でした。今では辛く悲しい出来事も人生の一こまとして懐かしく感じられ、只々感謝しています。

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  • そして「あの保健師さんが(小池さん)尋ねてくださらなかったら、私たちの人生も又変わった物になっていたかも知れない。本当に有り難たかったわね」と二人で話すのです。
  • 看護師のお仕事は、このように人の人生に良い転機を与えるお仕事でもあるのです。誇りに思い、何事にも挫けず諦めず、自分の描いた人生の望みを達成して頂きたいと思うのです。

⑧ 老い

  • 043.jpgこうしているうちに、いつの間にか25年の歳月を経、老いは自然に近づいておりました。
  • 2年前頃から、夫にも何となく不調の日が続き、検査すると前立腺癌が見つかり治療しました。
  • 安定しホッとしたのも束の間、昨年の1月末、激しい腹痛がして急に入院、手術になりました。其れが胆嚢癌であったことが分り、2月にまた手術する事になりました。私も付き添いながら2ヵ月間、毎日通いました。

⑨ 希望の囁き

  • 雪が降り出したその日、早めに帰った方が良いと思っていたのですが、再手術のあとの熱が出て帰りそびれ、夜8時過ぎになっていました。
  • でも明日の事を考えるとどうしても帰りたいと思ったので、雪の降りしきる中を帰ったのです。途中で吹き付ける雪にサイドの視界はとじられ、ウインカーをふるに動かしても、目を見開いても見えにくく、道が凍結する前に帰り着きたいと思うのであせり、必死になっていました。
  • そんなに真剣になっている時なのに、ふと 私の口からは歌が出てきたのです。
  • 044.jpg思いもかけず不思議な現象でした。

  • 「天つみ使いの 声もかくやと
  • 静かに囁く(ささやく) 望みの言葉
  • 闇あたりをこめ 嵐すさめど
  • やがて日照り出で 雲も拭われん
  •  囁く(ささやく)望みの言葉
  •  憂きにも喜びあり」

  • 随分昔、まだ高校の頃に歌った「希望の囁き」と言うホーソンの歌なのです。
  • 「私は何かに護られている」という思いが強くして、安心して家に帰り着くことが出来ました。
  • 退院してから夫にこの事を話しましたら、「パンドラの箱の底には、希望と言う言葉が秘められているのだよ。」と教えてくれました。
  • どうぞ皆様も、どんなに苦しい事があっても、めげずに乗り越えて下さい。
  • その後の経過はよく、間もなく一年になりますが無事に過ごすことが出来ました。
  • 感謝しながら健康に本来の命尽きるまで共に過ごしたいと思います。

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Ⅰ部 独立自尊と脳卒中のサバイバー B「歩けた!手が動いた」の出版以後
 ―新しいアイデンティティーの確立―
1.鳥瞰的(ちょうかんてき)自己紹介 ①平成3年12月―片マヒ自立研究会―
2.今後の課題―意味と役割り ②4年以降、凌雲書展で本格的な書道の研鑽
Ⅱ部 超リハビリについて ③5年以降アドボカシー活動 講演会等
A.闘病記を出版する前の模索期
 ―心理学的モラトリアム期間―
④7年阪神大震災の教訓で地域活動に発展
1.残存能力の開発 C:心理学・文学等-社会学・心理学等・文学・関連
ある部門を総合した「生き方の心構え」研究の必要-
2.どんな生き方が選べるか Ⅲ部 介護者として、妻としての立場で
①61年退院―62年保健師との出合い― 「介護を考える会 アイリス泉」元会長 森山晏子
②62年自主グループの結成 ① はじめに
3.価値観の転換 ② 新しい人生
①64年昭和天皇崩御 ③ 飛躍のきっかけ
②元年9月―学徒動員記録「出発進行!閉塞注意」― ④ 介護の体験を話す
③10月―大田先生と福沢諭吉に「出合う」―卒琢同時 ⑤ 社会的な役割
④平成2年3月―書道入門、師匠との「出合い」― ⑥ 介護保険
⑤11月―文化祭「弄花香満衣」― ⑦ 人生の出会い
⑥3年9月―体験記「歩けた!手が動いた」― ⑧ 老い
⑨ 希望の囁き