障害と共に生きる

●脳卒中論文館

21.障害と共に生きる

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片マヒ自立研究会 主宰      森山志郎・・
介護を考える会アイリス泉前会長  森山晏子・・

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<目次>
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Ⅰ後遺症との格闘


障害と共に生きる人生:               片マヒ自立研究会   主宰 森山志郎.
1. 脳梗塞で入院
2. 二つの「出会い」に導かれたリハビリテーション
3. 積極的な訓練
4. リハビリ教室「ほのぼの会」と「泉睦会」の時代
5. 過去と決別して新しい指導者と「出会う」
6. 「歩けた!手が動いた」の出版記念会と片マヒ自立研究会の創設
7. 道元の思想と心理学の応援

Ⅱ新しい人生に取組む

1. 講演と執筆によるアドボカシー活動                            .
2. 片マヒ自立研究会の活動
3. 書道の研鑽
4. 地域社会の活動

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①. 病院での付き添い生活
②. 退院してから 地域でのリハビリ生活
③. 新しい生活への転換
④. 共に生きる事を考える
⑤. 片マヒ自立研究会のこと
⑥. 地域での活動(介護者の会アイリス泉)
⑦. 老い

自己紹介とあいさつ

  • 今、ご紹介をいただいた森山志郎です。
  • 自己紹介しますと、1929年昭和4年に生まれた82歳の老人です。
  • 皆さんの御両親の、そのご両親と同年配と思います。

1)障害と共に生きる人生

Ⅰ.後遺症と格闘A03.jpg

  • 「地域看護」と聞くと頭に浮かぶのは保健師さんの活動です。
  • 病院に勤める看護師さんは病院に自分でやってくる患者さんがお客様です。
  • でも保健師さんは援助が必要な人を探し訪ねて組織化して教育や治療をします。
  • 感染症などが発生したら、職権で入院させる権限もある、行政の責任を担っています。
  • 本日は私が脳梗塞で倒れ、右半身に大きな運動障害を残し、保健師さんや色々な方との「出会い」で、脳卒中になった私が、その犠牲者としてではなく、サバイバーとして生きてくることが出来た歴史をお話しします。

1.脳梗塞で入院

  • 昭和60年9月。入院して治療の結果、頑固な右半身の運動麻痺が残りました。A04.jpg
  • 健康に悪い生活習慣だったのでやむをえません。
  • 新聞紙を摘まんでも指の間をすり抜けて持つことが出来ません。
  •   右手を使う作業は不可能な、人生を絶望させる能力の削減でした
  • 歩くと股関節がすごく痛み歩くことが出来ません。
  •   仕方なく移動には車イスに頼るしかありません。
  • 話しても舌の「ろれつ」が回らず意味が通じません。
  •   コミュニケーションが取れなくなり社会生活から取り残される状態です。
  • A05.jpg○早く良くなりたいと焦りました。陰に隠れて無茶な運動をしたら肝臓が悪くなり絶対安静を命じられました。マヒのある体で絶対安静をすると手足はビクともしません。
  • そして4週間、良くなってベッドの横に立った私は、右側の筋肉が無くなり皮膚だけが袋になってぶらさがっている、異常な自分に気づきました。
  • 「私の人生はこれで終わった」と熱い涙が溢れて止まりませんでした。
  • 更に筋肉の中にあった神経が直接さわるようになったためか、少し動いても痛烈な痛みが襲うのでベッドの中で体を縮めて動くことが出来ませんでした。
  • 名実ともに、ただ静かに死を待つ状態でした。
  • ○ これだけの障害を受けてどう生きたらよいか。
  •   私の参考になる前例はありません。
  •   そこで再び新しい絶望に落ち込みました。

2..二つの「出会い」に導かれたリハビリテーション

①生きるとはどういうことかA06.jpg

  • 妻が疲れて倒れそうになり、ベテランの付き添いさんに昼間だけお願いしました。
  • A07.jpg彼女は動かそうとしない私を車イスに乗せて「植物状態の患者」のいる病棟に連れて行ったのです。
  • そこで私は意思を失い自力で何もできないが人工的に生かされている多くの患者さんがいることを知りました。
  • それを見て「生きるとはこんなものではない」と心が強くゆすぶられたのでした。

②高い目標を持つことの必要性。

  • 10月の日曜日、テレビで北京のマラソンが中継されていました。
  • そこには顔見知りの双子のランナー宗兄弟が先頭に立ちそのまま一緒にゴールインしたのです。ロサンゼルスのオリンピックに備えて二人は札幌で仕上げをしました。
  • 「オリンピックで金メダル」をとるため「練習は休まない」彼らの態度には感心していただけに、北京の優勝には感動しました。
  • 最近の「なでしこジャパン」の皆さんが、高い目標とそれを実現する日々の訓練を口にしていますが、私のリハビリテーションも まったく同感です。

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3.積極的な訓練の開始。

①歩行訓練A08.jpg

  • 私はどうしても自力で歩きたいと心にきめて、付き添いさんに私の硬くなって開かない股関節を広げてもらいました。その痛みは目から涙が流れ落ちる状態でした。そのお蔭で股関節は自由に動かせるようになりました。
  • それでも私は「尖足」と言ってマヒの足首は下に垂れ下がって歩くのは危険でした。
  • そこで包帯で足首をつり上げで、今日は3-メートル歩けた、明日は5メートルに挑戦しようと、少しずつ成果を上げて、車イスはきっぱり捨てました。
  • こうやって低いレベルでも何とか杖で歩く能力を取り戻すことに成功したのです。
  • 私には小さな成功の積重ねが必要と思いました。

②嘘も方便

  • A09.jpg医師から「森山さんの右手が回復するには5年はかかるのでその間、左手で字を書く練習を」ということで左手でノートに字を書きました。
  • 「右手は5年後には回復する」と信じながら左手の訓練をしました。
  • 「嘘も方便」とはお釈迦様の教えだそうですが、「希望」を見失うことなく「やる気」を維持してくれたことに感謝しています。
  • そのお蔭で私の左手のお習字が生まれたのです。

③再発の防止

  • 再発して再入院してくる患者は、一段と障害が重くなる実例を見聞きしました。
  • 再び生きる私は再発することは許されないことに思えました。
  • そのためには、私が抱える成人病のリスクを出来る限り軽減しなければなりません。
  • この「リスク軽減」の仕事は本人の「自覚」がなければ達成ができません。私には妻との人生を全うしたいという強い願望があったのでそれを実現するため実行しました。
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  • 具体的には、ストレスをため込むA型性格を矯正することや、毎日3箱から4箱の大量の喫煙をやめること、仕事の関係でビールやワイン、ウイスキー等の飲酒や休息の不足という生活習慣の是正、そして、92キロの肥満をコントロールして75キロの理想を維持しなければなりません。
  • 食生活の改善で体重の管理をしながら糖尿病の体質を改善することが今後の人生に必要と思い実行しました。まだ、こういった健康に対する理屈がわかった段階に過ぎず、これを実行して成果を維持するという長い努力が求められる時期でした。

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4.リハビリ教室「ほのぼの会」と「泉睦会」の時代-

  • A12.jpg61年3月退院しましたが62年のある日、保健師さんがやってきて「リハビリ教室」に熱心に誘ってくれました。この「出会い」はとても大事な出会いでした。
  • その後の私のリハビリテーションが一つの軌道に乗ったことを考えると、この保健師さんは天使だったかもしれないと思ったほどでした。
  • ○私たちが長い人生で作り上げた自分の生活態度を変えるには「自覚」するしかありません。
  • 外部からの強制は一時的なものに過ぎません。障害を持って生きるリハビリテーションに最も必要な態度を作り直すはこの「自覚」が土台になります。しかし「自覚」するためには「気づく」ことが必要です。気づけば自分で態度を変えていけるのです。
  • A13.jpg○この教室の最大の特色は、自分の障害を「あるがまま」に見つめることが出来たことです。それは多分、同じ「仲間」がいて反面教師や良い教師があり、ピアカウンセリングと言われる効果があったこと、特に意識を自分の障害に集中して、多くの克服すべき課題に「気づき」その解決を考える機会があったと考えています。
  • ○具体的には、所長のカウンセリングや担当した保健婦さんの体操の号令で首を回すと強い痛みがあります。「日頃は痛みなど感じないのにと、注意してみると必要なときには腰を回して首は回していなかったことを発見しました。
  • こんなにして気の付かなかった課題を自覚できたことに感謝します。
  • つまりここで私は、再び生きるために障害がもたらした問題を「自覚」できたことです。これはその後のリハビリテーションの基本になりました。
  • ○問題は知識として知った自分の課題を、実際の態度や行動の変化に実現するには繰り返しの訓練で身につけることです。
  • その繰り返し訓練をすることまでは役所のリハビリ教室にはありません。
  • 役所の教室は1年で終わりました。
  • A14.jpg教室のOBの皆さんと作った泉睦会の事務局長の仕事は、私が気付いた具体的な問題克服のために、実戦的な繰り返し訓練の場になりました。
  • 会報の編集からワープロで原稿を作り、リソグラフで印刷したり、体力の維持と向上のために安全な屋外運動を考えて実行したり、多様化する会員の関心の広がりに対応するため分科会の活動をはじめたり、予算制度や規約の整備をしました。
  • ○この活動を通じて衰退していた人間力―「気力・知力・体力・実践力・コミュニケーション力」―と言われるさまざまな活力が少しずつ回復し、自立に必要な能力が高くなりました。
  • ○こんな体験から反省してみますと、初期の役所のリハビリ教室の役割は、障害の自覚と、克服すべき低下した能力の自覚だったのとではなかったかと思います。
  • ○次の段階の泉睦会では、実践を通じてその不便を、回復してきた全人格的な人間力の活用で克服する「コーピングスキル」の充実に努めた時期だったと思っています。
  • A15.jpgこの問題にメゲズにうまくやくりする「コーピングスキル」の充実時期で具体的には、回復が期待できない右手の代替をどうするかという問題、コミュニケ―ションの回復をどうするか、幼児程度の移動能力の向上を更に高くする訓練計画等、取り組むテーマは沢山ありました。
  • このコーピングスキルの充実には本人の自覚が基本になります。
  • なぜなら、これは全人格的な人間力の活用なので、人間力それ自体が個人差も多く、人生観や成功体験の差、希望を捨てない楽観論にも個人差があるからです。

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5.過去と決別し新しい指導者と「出会う」

A16.jpg①学徒動員記録の「出発進行!閉塞注意」出版

  • 平成元年、中学時代の友人が元気な間に、学徒動員の「辛い体験の記憶」を歴史の一部として伝えるため、記録文集を作ることを決めました。幅広い皆さんの協力で「出発進行!閉塞注意」と題した本を上梓し、筑後川の畔にある田舎の温泉に集まり一夜を歓談したのです。夢中になって皆が思い出を話しました。
  • 不思議なことに、心に受けた傷跡がみんなに話を聞いてもらって癒されたのです。
  • ○これによって新しい私を作るための、古い物の見方から解放され、新しいものを手に入れる準備が出来たのかも知れません。新しい物を手に入れる時には、古いものを手から放さねばならないことに気づきました。

②生涯の指導を仰ぐ大田仁史先生との出会い

  • A17.jpg○その出版記念会の旅行から帰ると、リハビリテーションでは著名な大田仁史先生の講演があるので川崎まで出かけました。
  • きっと「今のように努力を続けれぱマヒはよくなる」こんな内容を期待していたのです。そして先生のお話を会報に乗せて会員に紹介しとようと思いました。
  • ところが左手でメモを取ってもリハビリテーションの考え方を勉強していない時代の私には、先生のお話は支離滅裂で原稿になりません。
  • そこで厚かましい話ですが原稿を先生に送り見て頂きました。
  • 三日目には真っ赤なインクで訂正された原稿が戻ってきました。
  • よく読むと「障害は治らないから障害と共に生きなければならない」これには驚きました。考えた末、私のリハビリ方針は転換する方向で検討をしました。
  • また、この出来事は、私の低下したコミュニケーション能力では昔のような方法では正しい情報が得られないことも納得しました。
  • それ以来、慎重にノートを取ったり、繰り返し読んで大切な部分はアンダーラインを引いています。
  • その後、大田先生とは長くご指導をいただき、特に「地域リハビリテーション」とか「集団のリハビリテーション」の指導を初めとして、私の人生の再建を見守ってくださる「菩薩様」の存在になられました。

A18.jpg③書道の土屋朱堂師匠との出会い

  • ○平成2年、出会いの不思議は、大田先生から受けた問題と取り組むために、土屋師匠の門を叩いて入門したことです。
  • 書道の世界では無名の師匠でしたが役所のリハビリ教室の指導で私に可能性があることを教えてくれた恩人で、私にとっては最良の指導者でした。
  • 右手の使えない私に水平な横線を書く隷書を選んでくれたのです。
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  • ○私も師匠の熱意に応えるために、入門500時間訓練という短期集中の練習を自分に課しました。これは工場の現場作業員の職場を変える時、短期間に集中して新しい技能の習得する訓練で、それの応用です。半年後、その成果を区民文化祭に出品しました。「弄花香満衣」です。
  • 障害があっても作品は一般の参加作品の中に混じって堂々と構えていました。

     「負けないぞ」という緊張が両肩から消えていきました。

  • ○「私は障害があるから、出来ないことは多い。しかし、能力は新しく獲得も出来るから、この能力を武器に社会に役立つ人生の再建をしよう」と決心しました。
  • 気持ちがとても楽になりました。

6.「歩けた!手が動いた」の出版記念会と片マヒ自立研究会の創設

  • 歩けた.jpg○平成3年になり、これで「障害の受容」が出来たと思い、リハビリの失敗や成功の体験を原稿にまとめて、大田先生に書評を書いていただき、出版しました。
  • 「歩けた!手が動いた」という本です。
  • 大田先生はその書評で「その前に心が動いた」と書いてくださいました。
  • その時に私は将来「心が動く」という本を書きたいと思いました。
  • ○盛大に出版記念会のお祭りをして、心配をかけた皆さんに「元気になりました」と、報告しました。ここに予期しない事件が起きました。それは司会を願いした方が海外視察旅行で多忙なため「出張報告書の翻訳を手伝う」ことを約束したことです。
  • 「イラワラ婦人センター年次報告書」という小さな報告書でしたが、その翻訳は障害者の仲間3人で取り組みました。最初は忘れた単語ばかりで作業は進みません。
  • ところが3週間もすると見違えるように思い出して、最初はぼんやりしていた頭の中も、次第に霞が晴れて、冴えてきたのです。
  • これは「脳卒中の後遺症には、まだ能力が失われたのでなく、雪の下で一時的に緑が見えなくなっている期間があるに違いない」のではないか。こんな仮説が生まれました。
  • ○調べてみると、「後遺症には未知の問題」が多いことも分かりました。これは障害に苦しむ自分たちの力で解決できるものがあるのではないか、確かめてみよう。
  • そこで「片マヒ自立研究会」の活動を立ち上げました。

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7.道元の思想と心理学の研究で応援

  • A22.jpg不自由な体で生きるには、少しの苦難で「諦めたり方針がぶれない心」が必要です。
  • それを私は宗教に求めました。
  • たまたま横浜のカルチャーセンターで鎌倉「松が丘文庫」の古田紹欽先生が道元の「正法眼蔵」を講義されていました。私たちは夫婦で受講したのです。
  • 講義をやめられた晩年には直接鎌倉の文庫に伺って教えを受けました。
  • A23.jpgここでは鈴木大拙先生の「禅の思想」に触れることが出来ました。
  • 禅では「人間の生き方」を問題とし、地獄とか極楽とかの死後の話題がなく現実の世界で生きる私には、素晴らしい指針を得たと思っています。
  • ○広島大学の心理学教授の岡本裕子先生の「人生の挫折研究」は、市立図書館の本で学びました。人生の途中で挫折しても、アイデンティティーを修復することで立ち上がるという理論は、悩んでいた私には大変貴重な援軍でした。
  • 色々とお手紙で直接教えを受けましたが、先生の本「アイデンティティーの研究」にその手紙が乗せられています。私も新しいアイデンティティーで生きていますが、本質的な人格部分は、変わっていないと言われます。

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Ⅱ.新しい人生に取り組む心が.jpg

1.講演と執筆による-アドボカシー活動

  • 平成5年、神奈川看護教育大学で地域看護の指導をされていた標先生の推薦で全国保健婦研修会・日本看護学会・神奈川看護教育大学で講義の機会が与えられたり、大田先生との対談でNHKの教育テレビ「シルバー介護講座」に夫婦で出演させていただきました。
  • その後、各地の看護大学、障害者・家族・ボランティア、など100回を超える講演の機会で、外から理解しにくいこの障害の理解を深めてもらっています。
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  • 雑誌の寄稿はたくさんありますが、その他に、平成13年には大田先生の監修で「心が動く」を出版し,その後も「地域リハビリテーションの源流」とか「集団リハビリテーションの実際」という本の寄稿もさせていただきました。
  • この活動は、社会との共生を目指す障害者の立場を理解してもらい、少しでも社会の理解を高めて、障害があっても堂々と生きるための「アドボカシー活動」の一つと考えています。

2.片マヒ自立研究会の足跡

  • ○初期は研究の成果を「元気シリーズ」として印刷して配布していました。
  • 「地域リハビリの道作り」「再発の防止」「言葉の壁を乗り越えるために」「心のリハビリ」「リハビリのキーワード」「復職・再就職の問題」「障害者の自立を考える」「障害の受容から役割の発見に」「自主グルプ活動の奨め」等、少しでも福祉活動に関心を持つところに配布しました。
  • ○次は分科会を作り「復職問題」と「地域の街づくり」そして「家庭内の自立」の問題を整理しました。
  • ○平成7年に起きた「阪神大震災」は、保健師の現地報告を聞き、障害者が障害者の中だけで仲良くしていては限度があることを教えてくれました。
  • 障害があっても、次第に活動の軸足を地域社会の活動に移すことの必要を覚え実行に移しました。こんな契機で私の活動に「社会性」を組み入れられたことに感謝しています。
  • ○「片マヒ自立研究会」の例会が100回になった記念に、新進気鋭の医療社会学の細田先生の研究成果を聞きました。

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  • 先生とは大田先生が主催された「障害受容シンポジュウム」の席でお逢いして、その後研究会超リハ.jpgに出席され研究成果を博士論文にまとめられました。
  • 社会学の立場では、これまでの手足の不具合を治すことに関心のあったリハビリテーションを、「障害と共に生きる」という、従来の枠組みから、考える範囲をの拡大を図っています。この考えは、目からうろこが取れた感じで居ます。
  • 「超リハ学」を世に問われた千葉大学の酒井先生の新しい視点もあります。
  • 一言で言うと脳卒中のリハビリテーションは手足の訓練から「如何に生きるか」と全人格的な取り組みが必要と考える方が次第に増えていると思います。

3.書道の研鑽―広瀬淡窓の詩

  • 平成4年から14年まで凌雲書展に参加して、3度の入賞を果たしました。
  • 1年に一つの作品に挑戦しますから、じっくりと勉強ができました。
  • 書道は単に字を書くのではなく内容の思想や精神の高さも勉強が出来る素晴らしい文化です。
  • 今日持参したのは広瀬淡窓の詩です。聞いてください。
  • 「言うを止めよ 他郷苦辛多しと 同胞友あり自ずから相親しむ 柴扉暁に出れば霜雪の如し 君は川流を汲め、我れ薪を拾わん」。
  • この教えは今日のエゴイズムに満ちた社会では更に必要になる教訓と思います。

4.地域社会の活動

  • ○阪神淡路大震災の教訓で、地域社会での活動で社会との交流に注意を払いました。
  • とりあえずは班長になり会議に出席しても自由に発言が出来ず、つらい思いをしました。
  • ○自治会の交通対策部長として、騒音に悩む道路問題を解決するために、公害を担当する部署に配属されていた保健係長さんの協力で、説得力のあるデーターも揃いました。
  • 最後は市の道路局が「コミュニティーゾーン計画」を適用してくれ、その計画を全市18区に広げることが出来、高齢社会の対策になりました。
  • 泉区民会議の委員に推薦され3期6年、福祉委員長を務め泉区の福祉行政の勉強をしました。
  • ○現在は地域の高齢者サロンや「体操教室」の充実を図っています。

む す び

  • A28.jpg障害を持って生きる新しい生き方は、妻の全面的な協力がなくては考えられないものです。特に体質の改善という根本的な課題は、妻の「管理栄養士」に勝る栄養管理がなければ実現は不可能な問題です。書道にしても私の努力を暖かく見る妻の目が必要でした。
  • 結婚しても前半の健康な時代は「仕事人間」で家を顧みる余裕のない生活でした。
  • 銀婚式は病院のベッドにバラを飾りました。
  • それでも金婚式はラスベガスとグランドキャニオンでお祝いが出来ました。
  • 妻と共に歩いた時代は厳しい世相の中でしたが、貧しくとも二人の信頼関係のお蔭で楽しい人生を送ることが出来ました。
  • 最後に、この脳卒中サバイバーとしての人生を、実り多い人生に育ててくれた標先生をはじめ多くの方々に心からの感謝を述べます。
  • 自分の健康管理とか人生に大切なものを見失うことなく82歳になれたことに感謝しています。
  • これらの感謝の言葉て110回目の私の話を終わらせていただきます。
  • 本当にありがとうございました。                  以上

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  • A31.jpg今から26年前、札幌で脳梗塞に倒れた当時の夫は、会社生活のなかで最も充実した日々を送っていた時だと思います。
  • 私も二人の子供が大学を卒業し、これからは少し自分がしたいと思っていた事が出来ると、東京に帰る日を楽しみにしていました。
  • ですから将に晴天の霹靂で、定年延長になった人生を、障害を負った夫と共に送ることになろうとは、夢にも思いませんでした。

①.病院での付き添い生活

  • 今は、あまり強い障害を残される方は少ないように感じられますが、当時は未だ血栓溶解剤も開発途上でしたので、強い麻痺に悩む方も多く、症状が落ち着くまで安静にさせられた方は、筋肉が失われてしまって立ち上がる事も出来ない状態に成る方も多かったのです。
  • A32.jpg私は少しでもよくなって欲しいと思い、付き添いました。
  • そしてリハビリはなるべく早いうちに始めた方が良いとお友達から聞くと、私も一緒になって始めました。
  • しかし無理をしすぎたからか、使われたお薬のせいか肝臓障害を起こして、絶対安静で1ヶ月過ごすうちに、麻痺のある右側の筋肉は、すっかり落ちてしまい、其れを見たときの驚きは今でも忘れないほど恐ろしいものでした。
  • 命が助かっただけで感謝しよう、一生車椅子を押して生活しようと思いました。

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②.退院してから 地域でのリハビリ生活

  • A34.jpg障害者と成った夫と共に横浜に帰ってからは、毎日が日曜日、新しい生活に慣れるようにと色々工夫しながら真剣な日をおくっていましたが、少し疲れ、何か変化が欲しいと思っていた頃、保健所から保健師さんが、訪ねてこられました。
  • 保健所とは、予防注射とか、母子手帳とかの用事しか知らなかった私は、夫に何を話しに来られたのかしら?といぶかる思いでお話を聞きました。
  • それは、リハビリ教室を開こうと思っているので、おいでになりませんか?と言うお誘いだったのです。しかし夫は、全然聞こうともしないのでお断りしました。
  • 其の後、3度目に来られた時、私は折角来ていただいたのに、申し訳なくて、「お話だけでも聞いてさし上げて・・・」と頼みました。
  • すると、夫は、詳しくお聞きする前に、「行くよ」とあっさり答えるので私は、拍子抜けしてしまいました。
  • でもこれが、今までの会社生活から、一般社会の中で生きる切っ掛けになったのです。
  • 今でも「この時の保健師さんは、天使だった、」と忘れません。

③.新しい生活への転換

  • A35.jpg一般社会の中で障害者として生きる事を考えている夫を、心配しながら見ているうちに、普通の一人の人間として扱われにくい障害者の立場が、見えてきました。
  • 当初の保健所長さんでさえ、そうでしたので、私は並大抵なことではない今後の生活を覚悟する必要を感じたのです。
  • 最初のうち夫は、リハビリ教室には時々参加していましたが、その中で、障害の違い、感じ方の違い、色々な気づきの異なることを発見して、自分の考えを次々に実行し始めたのです。
  • 保健所長さんが代わられてからは、(樋口良子女医さん)良くお話を聞いてくださったので、リハビリ教室にも積極的に参加して保健師さんたちとも、意見が言い合えるようになっていきました。
  • 私は、暫くは、一緒に出席しましたが、「家族が側にいると、色々と弊害があるし、お疲れも有ると思うので、2時間はお預かりしますから、家でお休み下さい、」といわれました。
  • A36.jpgこれは私にとってとてもありがたい時間でした。
  • 新しい生活になるとは思っていましたが障害とどう付き合っていけば良いのか分らないまま、暗中模索の毎日でしたから、他の家族の方とお茶を飲み、少しリラックスしてお話を聞き、今後のアドバイスを頂いたり、沢山の介護の知恵を教えて頂きました。
  • 1年経った頃、この保健所のリハビリ教室は卒業させられることになりましたので、仲間の方達と泉睦会という自主的な活動をする会を作って積極的に活動し始めました。
  • この会の中で、夫は、其の後、人生の岐路に立つ時、いつも道標のお地蔵様のように将来の展望を開いてくださった方々にめぐり合ったことは、本当に幸せでした。
  • リハビリ教室でお世話に成ったお習字の師匠土屋朱堂先生には、後に入門して指導を受け、平成2年には、作品を区の文化祭に出展して、障害を受容するほどの自信を得たと申しておりました。その後も作品を凌雲展に出展して受賞し、終生のライフワークにもなっています。
  • 又、友愛病院の柴田先生には、生きる事を根底にした工夫を、川崎の保健課長の長原慶子さんは、後にナイチンゲール賞を受けられた方ですが、社会の中で活動していく糸口ともなったあらゆる機会を開いて下さいました。
  • 又、長原さんから、是非にとお勧めいただいた当時のリハビリの第一人者、伊豆逓信病院の大田仁史先生の講演会に参りました時、夫は、講演内容を左手でメモ書きし、会報に載せたいと原稿にして、先生にお送りしました。
  • 私は、余りにも失礼な、と思い止めましたが、聞き入れてくれませんでした。
  • 歩けた.jpgすると、すぐに真っ赤に訂正された原稿が返送されてきたのです。このときは本当に驚きました。このように誠実な対応をして頂けるとは思っても居ませんでしたので、涙が出るほど嬉しく、心から感謝しました。
  • 平成3年に夫の友人に勧められて闘病記「歩けた!手が動いた」と言う本を出しました時、私も書くようにと勧められて、仕方なく書きました。
  • 最初は恥ずかしくて困りましたが、思いがけなく書評を大田仁史先生が書いて下さり、有り難く、私も確り(しっかり)しなくては申し訳ないと、強く思いました。
  • この歩けた!手が動いた」と言う第1作をだして以来、全国保健婦研修会、看護大学、保健諸関係の方々から問い合わせや、講演依頼、などが寄せられるようになって、とても忙しくなりました。
  • これだけ多くの方が望んでいらっしゃる事に、少しでもお役に立てるのならと、其の都度原稿を書き準備をする夫の側で、私もいつの間にか一緒に考えるようになっていました。 
  • 標先生にお目にかかったのもこの頃ですが、其れから今日までの長い年月、何かとお心に掛けていただき感謝しております。講演も今回で110回になります。

④.共に生きる事を考える 

  • 保健師さんに2時間の自由な時間を頂いた頃から、これからの事を少しずつ考える事が出来るようになりました。私で無ければ出来ない事を主体的に考えて、ゆとりの取れる生き方をしていかなければ私も倒れしまう。
  • 辛いと思う事が重なっていったら、お互いの関係もトゲトゲしたものになるような気がしたので、私の趣味もつづけ、少し自分を大事にしながら息長くこれからの生活を考えてゆこうと思いました。
  • A38.jpg先ず再発する事は出来ないので、掛かり付けのお医者様に健康管理をお願いしつつ、私は糖尿病の食事管理をいたしました。
  • そして、行動範囲が狭くならない為、本人は毎日歩行訓練をしましたが、私もペーパードライバーを返上して、中古車を求め教習を受けなおしました。
  • 50歳を過ぎてからの挑戦でしたから、少し大変でしたけど、積極的に動く事によって、「うつ」になりそうな時など、救われた点はとても大きかったと思います。
  • 神奈川県の名所100選も殆ど回りましたし、東名高速道路を使ってかなり遠くまで旅が出来るほど行動範囲を広げて楽しみ、私自身の世界が大きく広がったことも確かです。

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⑤.片マヒ自立研究会のこと

  • 夫は、区役所のリハビリ教室から独立した泉睦会の事務局を10年つづけ、地域での中途障害者の受け皿になる会に育てましたが、この活動を通じて、人生の中途で障害を受けた方が、諦めるのではなく、残された能力を使って、新しい人生を再構築し、一般社会の中で堂々と生きて欲しいとの思いから、片マヒ自立研究会を作ったのです。
  • 例会は平成17年には100回記念のお祝いを社会学者の細田満和子氏をお招きして行いましたが、今年10月には150回になりました。

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⑥.地域での活動(介護者の会アイリス泉)

  • 一方、私は、平成8年区役所の福祉課から介護者サポートネットワーク事業で、介護者の会を立ち上げるので協力して欲しいと依頼されました。
  • 私も長く介護をしながら健康に過ごすには、どのようにしたら良いかを皆様と共に考えて見たいと思ったので、お引き受けしました。
  • 当時はまだ介護保険も無く、介護者は苦しみを話すこともはばかられて、一人で思い悩んでいた方が多かったのです。また介護といってもいろいろの立場があり、感じ方があり、解決できる事は、少ないのですが、共に考えてくださる方があるという連帯感・安心感の効果は大きいと思いました。
  • この会は、当初から担当してくださった保健師さんが、代々引継ぎをして下さり、サポートしてくださったので、色々と介護者のニーズにあった問題解決の糸口を提供して行くことができ、介護保険の勉強会、施設見学に至るまで、いろいろの情報を皆様に伝える事が出来たことは本当にありがたかったと感謝しています。
  • 介護も、平成12年には、介護保険が施行され、介護を社会的にサポートしていくことになりましたので、一歩前に出る勇気を持てば、一人で抱え込まないで良いようになりました。
  • この介護サービスを自分らしく賢く利用して良い介護をして欲しいと思っています。
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  • しかし、一方で介護保険が利用できるようになった、まだ若い中途障害の方が、社会で再び生きる事を考える前に、老人と同じような生活をされているのを見るとき、色々な事情があってこの道を選ばれたのだとは思いますが、只一度だけの人生を本当に勿体無いと思わずには居られません。
  • リハビリは、時間を限ってするものでは無い、まして心の支えは、家族の中のみならず、社会の中にもあるのが望ましい。
  • 暖かい家族、社会の目の中で障害を負っても、自分らしい人生を送って欲しいと思います。その受け皿である地域リハビリが無くなりつつあるのを寂しいと思っています。
  • この会を通じて私の世界も広くなり、介護相談員や、キャラバンメイト活動と、忙しくなった平成15年頃には、夫は食事の後片付けなど、いつの間にか黙って引き受けてくれるようになっていました。

⑦.老い

  • A42.jpg二人とも元気に助け合いながら楽しく26年間過ごしてまいりましたが、老いは其の間にも静に近づいてきていたようです。平成21年頃から少し夫の体調が悪い事に気づき検査を受けましたら、前立腺がんと胆嚢癌が相次いで見つかりました。
  • 今は、転移癌予防の抗癌剤治療をしていますので、余り過激な活動は出来ませんが、地域のサロン活動には出席して、歌を歌ったり、体操をしたり、私と一緒に地域の方々と楽しんでおります。
  • 手術の前に訓練した呼吸訓練にヒントを得て80歳になってから始めたハーモニカは、どうにか皆様の歌にあわせられるようになり、サロンでは、一緒に歌っていただきました。これも素敵ですよ。
  • 今私は、介護者の会を、若い方に引き受けていただきましたので、これからは、今までの事を知識として持ちながら、自分の老いを考えてまいりたいと思っています。
  • きっと新しい発見と、楽しみが待っているでしょう。
  • お陰様で、困難に思えた私の人生も、夫と共に川流を汲み、薪を拾いながら、恙なく終盤を迎えようとしています。
  • どうぞ皆様も将来、どんな障害にあっても、諦めてしまわないで、立ち向かう勇気を持って下さい。そしてお仕事柄、私たちが出会った本当に有りがたいお地蔵様のような方になって頂きたい。
  • 誇りを持って志を遂げていただくことを念じています。
  • 以上

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Ⅰ後遺症との格闘


障害と共に生きる人生:               片マヒ自立研究会   主宰 森山志郎.
1. 脳梗塞で入院
2. 二つの「出会い」に導かれたリハビリテーション
3. 積極的な訓練
4. リハビリ教室「ほのぼの会」と「泉睦会」の時代
5. 過去と決別して新しい指導者と「出会う」
6. 「歩けた!手が動いた」の出版記念会と片マヒ自立研究会の創設
7. 道元の思想と心理学の応援

Ⅱ新しい人生に取組む

1. 講演と執筆によるアドボカシー活動                            .
2. 片マヒ自立研究会の活動
3. 書道の研鑽
4. 地域社会の活動

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①. 病院での付き添い生活
②. 退院してから 地域でのリハビリ生活
③. 新しい生活への転換
④. 共に生きる事を考える
⑤. 片マヒ自立研究会のこと
⑥. 地域での活動(介護者の会アイリス泉)
⑦. 老い

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