森山志郎氏の想い出

追悼誌:森山 志郎氏の想い出


森山志郎氏の想い出




  • 巻 頭 言

片マヒ自立研究会 長山 弘

  • このたび、「片マヒ自立研究会」の創設者である「森山志郎会長」を偲ぶ追悼誌が完成しました。多数の皆様からご寄稿をお寄せいただき、誠にありがとうございました。

  • 「これからの社会と看護・医療の関係を考える」というテーマの中で「病を得て再び生きるということ」というタイトルの文章である。
  • これは私の絶筆である。生前大変ありがとうございました。

  • 森山志郎会長は、平成24年3月17日、皆さまへの今生のお別れの上記のご挨拶から書き始められている原稿を書き終えて1時間後に息を引き取られたとのことでした。

  • 享年82歳。人生の課題を全て受けきり、挑戦し、思索し、ご夫妻で多くの人々へ「光」を与え続けられた「見事なご生涯」でございました

  • 1.森山会長は、昭和60年9月。脳梗塞を発症し、頑固な右半身の運動麻痺が残りました。
  •  1種2級の右マヒ者になってどう生きたらよいのか。
  •  当時は、参考になる前例もなく、そこで再び新しい絶望に落ち込まれたと述べられていました。

  • 2.二つの「出会い」に導かれたリハビリテーション
  • ①生きるとはどういうことか
    • 奥様が疲れて倒れそうになり、ベテランの付き添いさんに昼間だけお願いした時、彼女は動こうとしない会長を車イスに乗せて「植物状態の患者」のいる病棟に連れて行ったのです。
    • そこで会長は意思を失い自力で何もできないが人工的に生かされている多くの患者さんがいることを知りました。
    • それを見て「生きるとはこんなものではない」と心が強くゆさぶれたのでした。

  • ②高い目標を持つことの必要性
    • 当時の福祉の現実は、「どの様な障害でも一律に考えられ」障害者の意見を聞くのではなく、「健康な人が管理して与える制度である」といわれていた時代でした。
    • 当時の10月の日曜日、テレビで北京のマラソンが中継されていました。そこには顔見知りの双子のランナー宗兄弟が先頭に立ちそのまま一緒にゴールインしたのです。
    • 高い目標とそれを実現するための宗兄弟の「日々の訓練の姿」を思い出されます。「私のリハビリテーションへの動機付けになっていった」と述べられています。
    • 「森山志郎記念館」論文集の中に「障害と共に生きる人生」があります。
    • 2011年13月31日講演の為に書き下ろされたものです。
    • 26年間の障害者の生き方を思想に高め切られた「人生への挑戦と、人格の深みへの求道」であったと思います。

「森山志郎記念館」掲載
http://www.saiken.jp/mshiro/pg203.html

  • その、論文の「目次は次のような項目になっています。

  • 1.後遺症と格闘
    • ① 脳梗塞で入院
    • ② 二つの「出会い」に導かれたリハビリテーション
    • ③ 積極的な訓練
    • ④ リハビリ教室「ほのぼの会」と「泉睦会」の時代
    • ⑤ 過去と決別して新しい指導者と「出会う」
    • ⑥ 『歩けた!手が動いた』の出版記念会と片マヒ自立研究会の創設
    • ⑦ 道元の思想と心理学の応援

  • 2.新しい人生に取り組む
    • ① 講演と執筆によるアドボカシー活動
    • ② 片マヒ自立研究会の活動
    • ③ 書道の研鑽
    • ④ 地域社会の活動
      • 森山志郎会長は最後の最後まで「片マヒ自立研究会」そのものでありご自分の生きた姿勢を通して見せ続けてくださったお手本でした。
      • 会長に万感の思いを込め、ご指導に深い感謝を捧げ、心からのご冥福をお祈りいたします。

合 掌


森山志郎氏の想い出



■森山会長に「奉謝」の思いを捧げます

戦略社長塾・主宰 長山 弘

  • 10年前、平成14年脳梗塞で倒れ1種2級の左マヒ障害者になりました。「退職」と「脳梗塞」という課題に出合ったとき、今まで経験したことのない精神的、肉体的な苦しみが、容赦なく襲いかかり57年間築き上げてきた精神的土台を、根底から破壊されて行きました。

  • 1)苦悩の種類―次々に押し寄せて来た
    • 主な苦悩は、次のようなものでした。

    • イ)健康な身体の喪失 
    • ロ)過去への悔恨
    • ハ)目標の喪失と将来へ様々な不安の発生
    • ニ)自信喪失と「深い孤独感」
    • ホ)家族への存在の喪失感と深い申し訳なさの思い

  • 2)私は「障害受容」という解決しなければならない課題に出合いました。
    • 会長の著書『心が動く-脳卒中片マヒ者、心とからだ十五年-』と出合ったのです。その著書の中に『「障害の受容」は、「もう一度この姿勢で戦うぞ」と立ち上がらなければならないのだということ。もう一度、自信を取り戻し、何かの武器を手に入れ、再び立ち上がって闘う力を身姿勢がもとめられる。一日も早く残された機能を基本にして、新しい能につける工夫をする方向に、切り替えねばならない。人間としての誇りを取り戻したら、手足の不自由なことは、個性の一部として考えられるようになる。』という、当時の私には厳しすぎるけれど、信じることのできる「障害受容」への道を示唆してくださったのです。私は、障害を受けて、1年が経過していたころでした。丸10年前のことです。
    • そこには、障害と共に生きて来られた現実と越えて来られた多くの課題と努力の道程が、丁寧に、正直に語られ、加えて「障害と人生」に深い考察がなされていました。

  • 3)私は「障害者を生きる意味」を教えていただいたのです。
    • 私は、病気の不安、過去の清算、自分の弱さ、悩み全般のことを誰にも言えず、耐えていました。どれほどの種類の本を手にしたかわからないほどです。
    • 『心が動く』の森山会長のご体験は、私の感じている苦悩そのものであり、私の心の苦悩を聞いて下さって、そのひとつひとつに回答して頂いているような気持ちになりました。“やっと巡り合えた!”そんな思いが、この書を手にした瞬間にこみ上げてきました。
    • 私は、何度も、何度も読み返し、必死に、手紙を書き、感謝と森山会長が主宰する自主グループ「片マヒ自立研究会」への参加をお願いしました。私は、正直に、素直に自分の現状と悩みを、「手紙」で訴えることが出来ました。会長からの返事の手紙の中には、ご自分の体験を通した私の悩みに対する深い理解の言葉に満ち溢れていました。
    • 私は、そのことで「深く癒されて行く自分」を見つめていたのです。

  • 4)会長への「感謝と生きる決意」:
    • 『心が動く』の最後の章に、「今まで述べてきたことは、私一人の体験でしかありません。
    • 文化的な観点も違うかもしれませんが、こんな体験を経て人間としての誇りを取り戻した、人間の道筋です。私たちは、昔の自分に戻ることはできませんが、全然知らなかった未知の自分に出会える機会は、誰にでもあることを皆さんにお伝えしたかったのです。」どれほどの人が、会長ご夫妻に救われ、導かれたことでしょうか。
    • 私にとっての会長は、「人生の師」であり、「目標」であり、「憧れの方」でした。
    • 「人間の尊厳と誇り」を生き抜かれた会長に心から尊敬と感謝の想いを捧げます。私たちはよき師を得て、まことに幸運でした。今、会長は永遠の眠りにつかれましたが、会長の行動と教えは多くの仲間の中に生き続けるでしょう。深く深く会長の御霊に「奉謝の思い」を捧げます。


■心から、感謝の思いでいっぱいです

弘氏の妻 長山律子

  • 平成14年に主人が脳梗塞で倒れ、今年で10年になります。思えば昨日の事のように、はっきりと覚えています。
  • 病院のベットに何でもないような顔をして横になり、笑っていました。
  • 私もこれから起こる事の不安を考えまいと、そして病人に不安を持たさぬようにと、笑顔で明るく振舞っていました。
  • しかし、片マヒの状態はそう簡単に治るものではないと、日を追って本人も私も気付いて行きました。
  • 「不安…」この文字に沢山の思いが込められた生活は、経験のないストレスとなって行きました。
  • それでも、主人は病を治すことと納得の行く生活を求め、多くの書を求め続けました。
  • 私も一緒に探し続けました。なかなか、主人にとって納得できる書に出会うことができませんでした。
  • そして、東京から岐阜に居を移し、名古屋でいつもの様にいろいろな書店を巡っていました。
  • 難しい医学書のコーナーで、主人は導かれるように、森山志郎著『心が動く』を手にしたのです。
  • 主人が「これは凄い本だ!」と言って私に見せてくれました。
  • 本当に何行も読まない内に、主人がすっかり著書のとりこになっている姿を今も覚えています。
  • 私も、その書をその場で少し読ませていただけで、「私達の求めていた方にお会いできた!」と思いました。
  • そう、目の前がパッと開けた瞬間でした。
  • その時の感動は、暗い暗いトンネルから抜け出た時の様に、歓喜そのものでした。
  • さっそく主人と「片マヒ自立研究会」に参加しました。
  • 初めてお会いしたご夫婦は、にこにこと私達を迎え入れて下さいました。その自然な雰囲気と暖かさは、確かな信頼と尊敬に変わって行きました。
  • それからは、月に1度の例会に出席し、いつも帰路に向かう車中では幸せな一時を過ごす事が出来ました。
  • 後にホームページ「森山志郎記念館」のお手伝いをさせていただいた時も、私達にとって初めての挑戦でしたが、とても楽しみなことでした。
  • 森山会長ご夫妻のそれまでの体験記は、心の葛藤やご苦労話しも、自ら挑戦をされて来た患者の立場と介護する側との研究課題として貴重な資料となっていました。
  • 左手で書かれた書道には本当に驚くばかりで、きっとこの方は、神様から選ばれて、この場にいらっしゃるのだと思いました。
  • 私はそれまでの「障害者」と考えていた固定観念は何だったのか、全く知らずにいた社会、真剣に人生を見つめられている世界に驚くばかりでした。
  • 一人の人間として、障害者として、社会に真正面から生きられた森山会長ご夫妻のそのお姿に、崇高なものを感じずにはいられません。
  • 私達は最高の方を師にいただき、本当に幸せでした。
  • その思いはいつまでも変わりません。
  • 貴重な学びと、何かコトバでは言い表わすことの出来ない、大切な大切なものをいただきました。
  • 心から、感謝の思いでいっぱいです。森山会長、そして奥様 本当にありがとうございました。


■出あい・ふれあい・仲間づくり

ナイチンゲール賞受賞 長原慶子

  • 「あなたにめぐりあえて、本当によかった。心からそう言って呉れる人があれば、幸せである」この言葉は『あゆみ』50号記念誌の扉を飾ってくださった95歳の塩川宋一様からの寄稿文です。
  • 森山志郎御夫妻にお逢い出来て本当によかった。いろいろ多くの事を学び、知恵、勇気、生きる力など、生活の工夫を通して教えていただき本当にありがとうございました。

  • 森山さんとの出会い
  • 25年前、私は川崎幸保健所で保健婦をしておりました。高齢社会に向けての仕事のあり方などのリーダー研修があり、その時に大田仁史先生の人を支える心得、真髄を教えていただき、リハビリの極意にふれました。
  • 月一回のリハビリ教室、に仲間を求めて参加してくる人の中から、教室とは別にお喋り会をやりたいと話が出て、土曜日の午後有志で夢見ケ崎公園に集う事にしました。
  • 呼びかけや、菓子、飲み物など持参で、保健婦はボランティアとして、家族含めて23名集まりました。生活の場で家族や当事者の方とのお話、悩み、希望、夢、どうしたい、どうにもならない苦しみとの闘いなど沢山話し合ったあと、動物公園を散歩しました。車椅子にしがみつき歩行練習をしない池田さんにみんなで車椅子から離れて歩く事をすすめました。その場の勢いに押され、車椅子から離れて歩きはじめ、汗と涙を流しながら最後まで歩き通しました。「やった!!」と大きな叫び声、感動でした。
  • この事をリハビリに来ている仲間に知らせようと云う事になり、毎日の出来事、思っていること、初体験などを伝え合うと云うことで「あゆみ」が生まれ、4年2カ月(50号)となり、記念誌を作ることになりました。
  • 幸保健所のリハビリ、さつき会、などに参加しながら横浜泉区の「泉睦会」に参加していた「故」中田庸子さんの紹介で森山さんと出会いました。
  • ワープロで原稿の整理のお手伝いをひきうけてくださいました。
  • 幾度も森山さんの自宅をお訪ねし、いろいろ注文、ついにワープロの達人になられましたが一台機能不全になったとの事を伺いました。
  • 森山さんは寸時も休まず、ご自身の右の手のリハビリを、サランラップの芯を使い訓練したり、右の手のマッサージ、手の平を押したり、外出時の歩行での足の運び方など、今、自分が取り組んでいる様子を教えてくださいました。私は、手元にあるリハビリの文献や、大田仁史先生の講演会のお知らせなどしました。
  • 森山さんが脳卒中で倒れてから回復するまで記録を『歩けた!手が動いた』の奮戦記、これは本当にすごいなあと思いました。
  • その時妻は・・・。いつも森山さんのそばでニコニコしながら見守っている姿は、太陽のように明るく暖かい、「その時妻は」の妻があって森山さん御夫妻はお互いに尊重しあって、気の合った二人三脚で前へ前へと進んでいる、いいなあ~。

  • 片マヒ自立研究会のこと
  • 平成3年5月、川崎市の婦人の団体の人達10名でオーストラリアに視察出張がありました。
  • 教育、子育て、介護、女性問題など、通訳つきでお話は伺いましたが「イラワラ女性地域健康センターの報告書」英文のを渡され、私がその報告書の取りまとめをする事になり、森山さんに相談、3人の方の努力で報告書は完成しました。その時、森山さんは病気の時のショックで英語を忘れていた。
  • 最初は辞書と首っ引きで能率も上がらなかったそうですが、三週間もすぎると記憶が蘇り、辞書は使わなくてもすむようになったと聞きました。
  • この後遺症の不思議な状況は、「雪に覆われた麦畑」を彷彿とさせ、白一面の畑は日の出とともに雪がとけ、青々とした麦が見える。
  • 発病と共に大切な能力が眠っている潜在能力の発掘、脳卒中の後遺症について障害者の立場から発信、これが片マヒ自立研究会の活動となりました。
  • 森山さんの着眼点と発想は多くの人を励まし、生きる力を与え、若い人を育てられました。
  • 森山さんは、毎回講演録や文献を送ってくださいました。
  • 昨年9月、慶応大学の看護学生にお話しされた内容は心に浸みました。
  • 何か卒業論文のような気にもなりました。その頃森山さんが、ガンとの闘いをされていたなど考えにもおよびませんでした。
  • でも私の心の中には、いつもニコニコの笑顔の森山さんのお顔が生き生きと生きています。
  • 本当に「貴方にあえてよかった」ありがとうございました。

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■森山会長の作品

  • 森山会長の精神(こころ)に触れて

さしかた中小企業応援事務所所長 中小企業診断士 指方順一

  • 私はH22年12月65歳の時に脳内出血で入院しました。救急車の中でも救急病院でも意識はしっかりしておりました。
  • 主治医からは、手術はしない、運動機能は傷つけられていない、ただ感覚障害があるということを聞かされました。だから入院中、感覚さえ蘇ればすべて元に戻れると信じていました。爪楊枝を束にして左半身の色々な部位に刺激を与えてみました。
  • ところが感覚さえ戻れば全て発症前の自分に戻れるという楽観的な考えと逆行する様に、周囲から入ってくる情報は自分を段々落ち込ませていきました。
  • 1ヶ月間の救急病院からリハビリ専門病院に転院するころから、この左片マヒという中途障害を背負い、一生車椅子生活も止むなしと思い、65年間の生き様が全て否定された気分になりました。仕事はもう出来ないし、故郷長崎帰省も無理であろうし、更にゴルフも諦めることになり、これからどんな生活を送ることになるのかを考えると、前向きになれることなど何もありませんでした。それに反発する様に、転院したリハビリ病院では歩けさえすれば、何とかなるとの気持ちから、理学療法士の先生と目標を共有し、必死にリハビリに励みました。転院時は一歩も歩けませんでしたが、転院1ヶ月後4人病室内フリー、更に1ヶ月後病棟内フリーになった感激を今でも鮮明に覚えております。
  • しかし、その感激は瞬間的なものでしかなく、入院中の殆どは落ち込むことばかりで、スマホによるインターネット検索で気を紛らわす毎日でした。脳卒中、リハビリ、片マヒ等のキーワードから森山会長の著書「歩けた、手が動いた」とホームページ「森山記念館」に出会いました。森山会長は、50歳代の現役ビジネスマンでの発症で、しかも右片マヒ、言語障害も合わせての症状ということで、定年後発症の私と比べ物にならないくらい無念さがあり、苦労されたことが想像できました。
  • 入院中に希望を持てない毎日を過ごしている私にとって、とにかく退院したら、森山さんにお会いしたい、森山さんの指導を仰がねば、森山さんに助けてもらわなければ、・・・ということで連絡を取らせて頂きました。
  • 平成23年4月末退院して早速例会に参加させて頂くことに致しました。
  • 毎月例会には10名位参加すると聞いておりました。色んな障害の方が、どんな会話をしているのだろうというのが参加する前の思いでした。ところが、参加してそのイメージとは真逆ということにすぐ気付きました。先ず第一に驚いたことは、暗い顔をしているのは私だけで、皆さんの近況報告をお聞きすると、森山会長始め会員全ての方が前向きな行動力を発揮されていることでした。森山会長及び奥様から、「中途障害になったことで、人生を2回送るのですよ」という言葉を頂き、私達夫婦にとって何より有益なアドバイスでした。初めてお会いした時から、故郷九州、特に福岡、大分、佐賀、長崎等の縁を感じ、青春時代からの知己を得ていたような御指導・御交誼を頂きました。
  • 私は趣味の一つとして詩吟を続けておりました。森山会長が発症後でも歴史研究、カメラ、書道及びハーモニカと続けられ、その道を究められたことは、著書、展覧会及び講演会で知っておりました。今度は詩吟を始めたいと仰ったことは、森山会長らしいと思い感激し嬉しく思いました。私の詩吟の師匠のテープを聞いて頂きました。これからご一緒に詩吟の勉強が出来る日を心待ちにしていた矢先の御不幸でした。
  • 私は短いお付き合いでしたので、もっともっと教えてもらうことがありましたが「新しいステージに上ってきなさい」と言われた言葉を忘れず、第二の人生を築き上げていきたいと思います。
  • 森山会長の口から何度も発せられた広瀬淡窓作「桂林荘雑詠(書生に示す)」
  • 道休他郷多苦辛 (いうをやめよ たきょう くしんおおしと)
  • 同胞有友自相親 (どうほう ともあり おのずから あいしたしむ)
  • 柴扉暁出霜如雪 (さいひ あかつきにいずれば しもゆきのごとし)
  • 君川流汲我薪拾 (きみはせんりゅうをくめ われはたきぎをひろわん)
  • の七言絶句を書道作品で頂戴致しました。この詩の心は、広瀬淡窓が豊後の国日田に建てた塾舎で、広く各地より集まった塾生達に対し、郷愁を癒し、勉学に励みを持たせようとして作った詩です。ここから有能の士が輩出しました。森山会長が常にお側で激励して頂いているという気持ちです。
  • 心を籠めて本宮三香作「哀悼の詞」を吟じたいと思います。
  • 百歳人生寛不全 (ひゃくさいのじんせい ついに まったからず)
  • 哀君客為到黄泉 (かなしむきみが きゃくとなりて こうせんにいたるを)
  • 墓前呑涙祈冥福 (ぼぜん なみだをのんで めいふくをいのる) 
  • 断腸薫香一片煙 (はらわたはだんず くんこう いっぺんのけむり)
  • 一年弱の御厚誼でしたが、森山会長からの貴重な言葉の数々を胸にこれからの日々を生きていきたいと思います。感謝しつくすことが出来ませんが、本当にありがとうございました。(合掌)

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■出会えてよかった 豊かな片マヒ人生 にできました。

いきいきヘルス体操指導者 山田裕子

  • 長いこと会の主宰お疲れ様でした。ありがとうございました。
  • 友人が講演を聴いて感動し、出会いのきっかけを作ってくれたことに、先ず感謝です。前向きに考え行動できたこと、優しく誘って頂いたことで出会え、片マヒ人生豊かなものに出来たことを思うと、感謝で一杯です。泉睦会の事務局長をしていらして、会に誘って下さり、横浜の多くの人達と出会え嬉しかったです。
  • 何事にも前向きに、大変な努力をして達成し、その上沢山の講演をする。大変なご活躍には、いつも励まされているようでした。
  • お宅に伺った折「こうするといいよ」とビンを片手に、そば打ちをしておられて、工夫して生活を楽しんでいらっしゃることを知りました。
  • 出来上がったそばは、奥様が作って下さった美味しいおつゆで御馳走になりましたがとても美味しい手打ちそばで、話が弾み、思いがけない楽しい思い出となっています。
  • ご活躍という無言の励ましを受け、及ばずながら私も頑張って、好きな合唱を楽しみたいと思い、地域の混声合唱団でアルトを歌わせて頂きました。
  • 健常者の中のことなので、迷惑はかけられませんので、一所懸命練習、頑張りました。パートリーダーの方が、ちゃんと歌えているから大丈夫、と言って下さったので、ほっとしました。
  • 団員の皆様にも良くして頂き、演奏会のステージに立つことができ、ご夫妻には遠くからおいで下さり、見て頂けて、とても嬉しかったです。
  • ありがとうございました。
  • 片マヒ人生、想いもしなかった体験に、心豊かな気分になり、頑張り甲斐がありました。
  • こんなことが出来たのも無言の励ましがあったからだと思っています。
  • 頂いた絵のような書体の「楽」という字の小さな色紙、見ていると、心うきうき、楽しい気分になるので、机の上に飾っています。机に向かう度に目に入ります。これからも元気に、楽しく頑張りなさいと励まされているようです。
  • 「片マヒ」と「老い」と共の高齢期、ゆっくりと前向きに、元気に楽しく頑張ろうと思う日々です。

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■森山さんの書は青海社の宝

青海社・社長 工藤良治

  • 「萬歳長楽未央」「照一隅」事務所の壁にかけられている力強い筆による書。事務所を訪れる年配の多くの方は、書に目をとめて「誰が書かれたんですか?」と尋ねる。
  • 森山志郎さんに初めてお会いしたのは2006年11月5日、京浜急行「上大岡ウィリング横浜」で片マヒ自立研究会100回記念講演会が開かれた時だった。その1週間ほど前に細田満和子さんが弊社より『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』を出された。コロンビア大学に行かれていた細田さんが帰国して、その日に講演かたがた出版の報告をされることになって、私は会に参加した。
  • 実は、森山さんのお名前は以前からお聞きしていた。私が医療系の出版社である㈱情報開発研究所に新人として1982年に入社し、同じ会社に以前より勤められていた佐藤荘介さんがリハビリ・救急医療を中心とした出版社・荘道社を1986年に立ち上げられた。そして、森山さんが『心が動く―脳卒中片マヒ者、心とからだ15年』を2001年に荘道社より出版された。何か不思議な巡り合わせを感じた。
  • 上大岡での研究会では、柔和な表情で主催者挨拶をする森山さんに障害とともに歩んで来た方の横顔を、凡才な私は見出せなかった。とても明るいお顔で話されていて、豊かな包容力を感じた。その会では、講演者の挨拶、片マヒ研究会の小史報告、千葉大学の酒井助教授の座長による細田さんの講演、大田仁史先生ご考案の生き生きヘルス体操の実演など多彩なプログラムが用意されていた。心をこめて、入念な準備をされて、多くの方の協力のもとに実現された大切な会に参加できたことをありがたく思う。
  • 2007年5月28日、横浜みなとみらい・コンチネンタルホテルの喫茶「マリンブルー」で森山さんとお会いした。森山さんが『心が動く』以降のご経験や心情を原稿にされ、佐藤荘介さんを介して私どもの青海社に声がかかり、一度お会いしてお話をお伺いしようということになった。事前に原稿を読ませていただいたのだが、大変困難な状況に常に立ち向かわれていることが穏やかな表情の下に隠されていることを知った。
  • また、障害とともに歩みながら前向きな姿勢でおられることに感動を覚えた。
  • ただ、商業的には採算が厳しい現実を感じた。そのあたりのことや目下書籍制作に手がつけられない状況についてもお話ししたが、今思えば、森山さんは温かい気持ちで包んでくれていたにちがいない。
  • 2011年12月、森山さんが命を脅かす「ガン」との闘いに向けて梶を切りなおされたことをメールで知った。「副作用が尋常でなく、毎週1回の点滴を受けるのが精いっぱいです」。驚くほどの精神力で病と対峙している森山さんの姿が想像されたが、私にできることがないことが悔やまれた。
  • 書は、動かない右手を固定して、体を動かして筆をふるったものである。気迫が字から浮き出ている。本当は、森山さんの書を額に入れるか、掛け軸にするべきなのかもしれない。いいや、素朴に壁に貼っているからこそ、十分に書は輝き続けている、とも思う。
  • 今頃、森山さんは不自由であった体を離れて解放され、困難に直面している人々を見守ってくれていることだろう。
  • 森山さんの書は、青海社の宝である。

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■森山志郎さんとの出会い

港北区しらゆり会会長 山本秀雄

  • 森山さんが逝去されたことを知り残念であり、心より哀悼の意を表します。
  • 森山さんと私の出会いは平成12年の夏、偶々リハビリを兼ねて、横浜市の戸塚図書館に行った際、書棚に森山さんの著書『心が動いた』を発見し、借り出しを受け、一気に読み終えた。その本の内容は、森山さんが北海道で脳梗塞で倒れ、猛烈なリハビリと生活での創意工夫、例えば写真を撮る際の工夫等、横浜へ帰宅後、渋谷で写真展を開催され、その間の苦闘、努力が書かれていました。
  • その当時しらゆり会では、講演会の講師を探したおりました。
  • 先程の森山さんの著書の最後に森山さんの住所、電話番号が書いてありましたので、会長の岸川さんと相談し、会長から森山さんに電話を入れてもらった。二人は佐賀県人であり、話はトントンと進み、講師を受諾して頂きました。
  • その際、森山さんが書道展に隷書で出展しますので、もしご都合がよろしければ会場の横浜市教育文化センターまでお出かけ下さいとの事でした。二人は一緒に会場に行き、初めて私は森山さんに会いました。
  • 会場では森山さんに案内され、ご自分の隷書の作品を説明されました。
  • その後、会場近くの喫茶店で講師依頼とリハビリと書道について話され、その中で忘れられない言葉として「リハビリでも何事も限界を突き破ることが大切ね」と言いました。この一言は忘れない言葉でした。その翌年1月に講演会が開かれ、今までの体験、書道、人生、リハビリなど具体的な話をされ、出席者は大きな感銘を受けました。
  • この障害者による講演会は、今も続いておりますが、この種の講演会は森山さんが最初です。
  • その後、自立研究会から、野坂さん、小林 隆さん、江嵜さん、五十嵐さんにも講演していただきました。私は、しらゆり会の会長に平成15年4月になりましたので、片マヒ自立研究会には欠席が多くなりましたが、会の運営、会員の目標、社会貢献、人生の考え等が自立研究会での体験が参考になっています。
  • お陰様で、しらゆり会は地域で活動し、且つ障害者自主団体と認められ、平成22年秋、港北区社会協議会より団体及び個人(山本)自立功労賞、横浜市より自立団体賞を頂きましたことを報告させていただきます。よく、森山さんが目標としていられた自立は、しらゆり会では、いつも明るく、前向き、自分のことは自分でする、成るべく家族及び他の人にも迷惑を掛けない事として実行しております。これらは研究会で得たことです。人生を強く生きる、よりよく日々生きることを誓います。
  • 最後に成りましたが、色々教えていただき有難う御座いました。
  • 森山さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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■森山さんからの贈りもの

井本 健

  • 平成16年、62歳の時、私は梗塞に倒れ、半年の入院を経て家で、モンモンと過ごしていたとき、森山さんの近所に住んでいた従兄弟の紹介で、「片マヒ自立研究会」に入会した。
  • はじめの頃は、妻の同行の電車で、会場の横浜県民会館へ行った。
  • 例会で語られる、深い内容についていけないことも多かったが、そのうち、一人で会に出席して、私の体験を多少なりとも話せるようになった。心身ともに回復するにつれ、自宅の地域の障害者団体に入会して、バス旅行やお楽しみ会、デイサービスなどに出かけるようになった。それにつれて、研究会の例会へはご無沙汰してしまっていた。
  • ところが、昨年、発症9年目にして、不覚にも脳梗塞を再発してしまった。幸い、前回の経験が生きて、治療が早かったので、一週間の入院で梗塞が消え、退院できた。マヒの広がりもなかった。
  • ちょうどそのころ、森山さんが突然、亡くなられたという悲報を受けたが、自宅療養中で、ご葬儀にも参列出来ず、書中でのお別れを余儀なくされた。あのときほど、驚き、世の無常、儚さを感じたことはなかった。
  • 今、思い出しても、出会いから、森山さんから沢山のものを頂いた。人生の意義、リハビリのやる気、生きがいなどについてお話を研究会、講演、著書、パソコン通信の添え書きでさえも、無形の教えを随分頂いた。と同時に、有形の宝物といえるものも頂いた。
  • それは、森山さん自身が後遺症を克服して、書かれた毛筆の書である。
  • ひとつは、掛け軸大に書かれた「過則勿改」の書。
  • 二つ目は、傘寿のお祝いに岳堂(森山さんの号)が自ら書かれた「吾唯知足」の色紙である。
  • 二つとも有名な言葉であるが、あえて、補足すれば、書は『論語』から採った言葉で、「過ちは改めるにはばかることなかれ」と読み、私にとっては発病前の悪しき生活習慣への猛反省の戒めとなった。
  • 色紙は京都の竜安寺の蹲(つくばい:手洗い)に彫られた図案化した四文字で、「われ、ただ足るを知る」と読み、人間の欲深さに警鐘を鳴らした教訓である。
  • これらは、私にとって、森山さんから貰った形見であると思っている。
  • 自慢のお宝でもある。再発後は、この書を座右に置いて、尚一層、シンプルに生きていこうと覚悟を決めている。

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■森山会長を偲んで

佐藤 万宜

  • 片マヒ自立研究会に入会したのは、今にも雪が降りそうな1997年12月である。脳出血で倒れ、左片マヒになっても、まだ働かねばならない、54歳の時だった。
  • どうしても復職しなければと、片マヒ自立研究会に復職分科会があると聞いて入会しました。
  • 会に参加した日は、寒い日であったが、会長の温かいまなざしに迎えられ、心が温まる思いがしたことを覚えています。
  • 片マヒになっても、まだ有能な能力は失われていない。
  • ひとつのことに500時間練習すれば、なんとか使えるようになる、と教えられ、自信を取り戻して、無事、復職することが出来ました。
  • 会社で嫌なことがあっても、片マヒ自立研究会で会長にお会いすると、そんな小さなことに、くよくよするな、と教えられたような気になり、元気を取り戻してがんばることが出来ました。
  • 会長の並大抵でない努力に刺激され、リハビリにも精を出すようになりました。一度しかない人生を、片マヒになったことにより、二度生きることができました。世の中に甘えることなく、自立した生活が保てるように、と会長から教えられ、教えられたことを無駄にしないようにこれからも精進しようと思っております。

森山志郎氏の想い出



■森山さんとの出会いは6年のお付き合いでした

邑上 晃

  • 森山さんとの出会いは6年になります。何年かたって横浜の美術館に行くことになりました。参加された人は森山さんご夫妻、山本さん、佐藤さん、邑上夫婦、あとは3人だと思います。レストランで食事をして、山本さんと森山さんがいろいろと話していました。帰る時間が来ましたので、森山さんと佐藤さんは一緒でした。
  • 私達二人はタクシーで帰りました。そして、数ケ月経って森山さんが80歳のお祝いに、「足るをしる」(ろんごの字でかいてありました)。私は、高島屋へ行って、筆を森山さんに贈りました。そしてまた数年経って、片マヒ自立研究会が100回を迎えました。上大岡のオフィスタワー12階で行われました。私は受付にいました。何百人といらしたみたいです。受付が終わって、細田さんのお話を聞いて終わりました。
  • また、数ヶ月後、私が鯉の滝登りを森山さんに贈りました。また数年たって「フォトボイス」の展示場所をラポールで申し込んだらことわられたので、佐藤さんが踊り場地域ケアプラザを1週間借りました。それから数ケ月経って森山さんがラポールの美術館に習字を出しました。これも論語の字で書いてありましたので、私は写真を撮りました。その写真は森山さんの習字だけハサミで切って、飾ってあります。そして、忘年会の時期になりました。岡田屋の8階でしました。
  • 食事が終わった後、奥さんが、森山さんの習字を皆さんに配りました。私は「食は人を良くすると書く」のを頂きました。
  • その後に1週間たったかな、3月のある日の夜、森山さんと奥さんが立っている夢をみました。あくる日、森山さんの訃報が伝えて来ました。
  • そく、電報を打ちました。後から森山さんにお悔やみの手紙を出しました。兄以来の訃報です。本当に残念です。


■森山さんありがとうございました

フリー編集者 橋本三鈴

  • 森山さんとの出会いは、処女作『歩けた! 手が動いた』の出版(平成3年9月)からまもなくでした。当時私は婦人生活社の介護雑誌『やさしい手』の編集部にいました。
  • 本を読んで興味を持ち、森山さんの書が出品されている作品展に行き、そこで初めてお目にかかりました。その縁で平成5年3月号の特集「脳卒中後の家庭生活」に森山さんをはじめ、片マヒ自立研究会の初期のメンバーの方々のリハビリ体験談を掲載させていただきました。
  • 和泉町の自宅にお邪魔し、奥様も一緒に暗くなるまで貴重なお話をうかがったことがなつかしく思い出されます。
  • その後も研究会の例会や泉区の文化祭、講演会などにお邪魔させていただくなかで、出版人として、心と体のリハビリの大切さや皆様の悩み苦しみながら前向きに生きていく姿、さまざまな生活の工夫や自己管理法、家族のあり方、地域社会での活動などをもっと広く、多くの同病の方やそのご家族、医療・福祉職、行政の人たちに伝えたいという思いを強くしていきました。
  • というのも、皆様の活躍や実際に年とともに回復していく姿を目の当たりにし、「もし私が同じ病気になったら(または困難にあったら)、誰よりも早く立ち直れる、そうでなければ出会った意味がない」と確信したからです。私自身勇気をいただいたからです。
  • そして、平成7年1月に自立研究会の方々や長原慶子さんの全面協力を得て、婦人生活社から太田仁史先生監修で単行本『脳卒中後の生活とリハビリ』を発行しました。
  • いただき『同病の先輩から後輩へ…脳卒中後の生活 元気が出る暮らしのヒント』を、研究会の方々や泉区の全面協力を得て発行することができました。本書は今も全国の書店に並んでいます。このように森山さんを頼り、お世話になりながら本を出してきました。
  • 長いお付き合いのなかで、森山さんの尽きぬ知識欲や探究心、強い精神力、克己心を敬服するとともに、なにより人との出会いやつながりを大事にする暖かい包容力がありがたく、森山さんを通じて多くの大切な方たちとの出会いがありました。また、自然への眼差し、みずみずしい感性に心打たれました。
  • 私はよく、暗がりの中、明かりを照らして私たちの前を行く森山さんの姿を想像します。手探りで厳しいリハビリの道、新しい自分探しの道を行く大先輩の姿です。障害をもつ当事者として、これほど多くの情報を発信し続けたのは森山さんのほかにいないと思います。これからも森山さんが残してくれたものが、後の方々の道を照らしてくれるでしょう。森山志郎記念館が今後も充実していくことを願ってやみません。私も微力ながら研究会の活動を伝えていきたいと思います。
  • 森山さんの活躍も奥様とご家族の支えがあってこそ。理想とするご夫婦の姿がありました。森山さん、奥様ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
  • 「剛にして柔。わが道を突き進む九州男児ここにあり」。
  • 同じ九州人として森山さんの存在が誇らしいです。

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■森山さんのおかげでできた患者会

篠原 順子

  • 私は1945年生まれで、2005年に還暦を迎えて2週間余りで脳出血で左半身マヒ、重度の感覚障害の後遺症を抱える身になりました。退院したとき、これまでの延長線上には私の将来はない、同じような状態になった人たちがどのように生活を組み立てているのかを知りたいと思いました。担当ソーシャルワーカーに患者の集まりを紹介して欲しいと相談しましたが、情報は得られませんでした。そこで茨城県水戸に大田仁史先生を訪ねました。そして先生が下さったのが出版されたばかりの『脳卒中後の生活』で、この本に寄稿した「片マヒ自立研究会」をご紹介いただきました。
  • 主宰者の森山志郎氏の連絡先が印刷されていましたのでさっそくメールしましたら「人生にはいろんな障害がありますね。この病気もその一つですが、幸いなことに篠原様は意欲も十分にあるし、パソコンも操作できるし、杖で歩ける、これはとてもありがたいことです。車椅子だと今の日本ではバリアだらけです。どんなお悩みでも一緒に考えて経験と知恵と自覚で解決していきましょう。
  • そのお陰で自分の人生や世の中のことがよく見えてくることもあります。転んだなら石ころでも拾って立ち上がりましょう。存外、素晴らしい鉱石かもしれません。自分の中にある資源を開発するという比喩もあります。慌てずにゆっくり考えましょう。いつでもなんでも、どうぞ」と連絡を頂きました。そして12月のクリスマス会にいらっしゃいませんかとご案内いただいたのです。
  • まだ公共交通機関に乗って出かけた事はありませんでしたが、訪問リハビリの方にバスと電車の訓練を一度体験させてもらい、例会場は横浜でしたが、夫に車椅子を押してもらってさっそくでかけました。
  • この会に参加したことがきっかけになって、私は自分の身近にこういう集まりが欲しいと強く思うようになりました。そして同月に通院していた病院で開催された餅つき大会でお会いした年配の頼りがいのありそうな方に「患者会を作ってください」と声掛けしたのです。あれから7年私たちの患者会は続いています。
  • 森山さんは56歳で脳梗塞を発症して2011年には82歳。ここ数年はがん治療をなさりながら研究会を続けてこられました。そして2011年暮れに、森山さんは、この研究会に終止符を打って治療に専念することにされました。私は森山さんあっての研究会だったことを痛感しました。
  • 研究会はユニークな集まりで、周りにある患者会は食事会や旅行会などが中心で親睦会のイメージが強いのですが、このグループは障害者であっても自分の回復レベルに見合った社会的家庭的役割を手に入れる、何ができるか、できることをやっていこう、とお互いを高める会でした。参加した当初はもっとリハビリに力点をおいた会を求めていましたが、いま振り返ると森山さんが下さったメールやレポートにはきら星のような言葉が並んでいます。私は忙しく毎日を過ごしてきてしまいましたが、頂いた資料をゆっくり読んでみると含蓄のあるものばかりです。森山塾生のひとりとしてこれからをじっくり考えたいと思いました。こんな事を感じていた矢先の3月18日、私たちの友の会の月例会を終えて帰宅すると悲しいニュースが待っていたのです。森山さんの訃報でした。翌日も森山さんへの思い、感謝の気持ちが沸き起こって他のことに手がつきません。
  • 信じられない思いのまま、思い出が心に次々とよみがえります。私にしては本当にめずらしいことですが、その日は夜なかなか寝付けませんでした。そして自分では気づいていませんでしたが、障害者となった後の私にこれほど大きな影響を与えてくださっていたのだといまさらながら思わずにはいられません。
  • 障害者として、そして一人の人間として凛と生きることを私に教えてくださった森山さん、2011年暮れに森山さんを囲んで開催した食事会、これが森山さんにお会いした最後でした。お亡くなりになって実感した森山さんとの出会いの意味。人間は浅はかないものです。一期一会と言いながらいつまでも続くと錯覚する。森山さんの生き方に対して私のように今思っている人がたくさんいるはずです。森山さん、ありがとう!
  • 参考:森山さんの著書、論文、講演活動などについてはネットで「森山志郎記念館」を検索するとご覧いただけます。

森山志郎氏の想い出




在りし日の森山志郎氏
在りし日の森山志郎氏
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森山志郎様を偲んで

河野会計事務所・所長、税理士 河野元一

  • 横濱と尾道の遠隔地にあっても、いろいろとご指導を賜っていた森山さんが、ご逝去されたことは、私にとりましては、巨星墜つ の衝撃で心が埋め尽くされた思いです。
  • 森山さんからは、以前にご本人から立派な書を頂戴しております。
  • 当時、その書の立派なのに驚入りました。到底私などは真似もできません。個展も開かれたようで、同憂の人々には大きな励ましになったことと考えられます。
  • 又、坂村真民先生の「念ずれば花開く」の詩についても、手紙のやりとり等も含み意見を交わしたことがあります。欣快でした。
  • 今後、不敏菲才の身に鞭ふって、森山さんから頂戴した教訓をむねとし、精進したいと考えます。

森山志郎氏の想い出



 高橋良三さんのCD「ひとりぼっちにさよなら」
  (運命と名なかう人々への応援歌)
  資料提供:森山晏子、篠原順子

高橋良三さんのCD「ひとりぼっちにさよなら」



高橋良三さんのCD「ひとりぼっちにさよなら」
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  • 運命と戦う人々への「応援歌」を製作した理由
  • 森山志郎さん、56歳の時、脳梗塞で倒れ平成21年3月117日に82歳で他界されました。
  • 奇しくも私の母と同じ日でした。森山さんは障害を持っても人生に前向きに取り組み、さらなる向上を目指して凛として生きた方でした。
  • 森山さんが立ちち上げた「片マヒ自立研究会」の例会を兼ねた横浜での一昨年末の食事会に参加した直後に、森山さんから、遠路良く来くれたと御礼のメールを頂きました。
  • その最後に“辛い体験を生かして、運命と戦う人々の応援歌を作るが、私の使命だ”とおだてられ、今年に入ってから、取り敢えず、私も右脳内出血、左脳内出血を起こしましたがくじけずここまで来ているので、1990年3月にイタリア、ベニスで発病して以来の事をそのまま歌詞にしました。
  • 私の闘病記を連載して頂いた“NPO生活の再建研究会“の長山弘さんに少し手を加えて頂きました。タイトルは、遠い異国で家族と離れての入院生活で、世界中の仲間の励ましが”ひとりじゃない“を教えてくれたからです。

  • ひとりぼっちにさよなら
  • 【高橋良三:デモ】
  • フィナーレというソフトを使い打ち込みをして、Appleのガレージバンドで仕上げたデモ曲です。Apple銀座店の木野真二さんに制作の協力をして頂きその上、ギターまで演奏してもらい仕上がりました。
  • 手足が不自由で歌う事は出来ませんが、これで多少の思いは伝えられます。3番、4番を繰り返して6コーラスあります。
  • 【大塚寧:編曲・演奏】
  • 私の思い入れで、この曲はプロの力を借りたく思い、部署は違いますが、かつてのKORG時代の同僚で、現在はプロのミュージシャンとして活躍している大塚寧さんに編曲と演奏を依願して仕上がりました。
  • さすかに洗煉されていて洒落た仕上がりで気に入ってます。

森山志郎氏の作品
作品1



作品2
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  • 絶 筆
  • 「これからの社会と看護・医療の関係を考える
  •     病を得て再び生きるということ」
  • これは私の絶筆である。
  • 生前大変ありがとうございました。
  • 平成24年3月17日

森山 志郎

 >生死の問題

  • ① 脳神経外科のベッドで意識が戻り、点滴につながれながらも、とりあえず、生き延びている自分を
    • 見た。まだ働き盛りで、56歳。妻と未婚の娘が2人いた。
  • ② そこにいるのは、昨日までの私ではなく、一切の社会的能力も栄誉も十分な体力も奪われている
    • 「でくの坊」でしかなかった。
    • 利き手である右手はビクともせず、だらりとしていた。右足も不完全、構音障害と言われる発音の障害が、コミュニケーションの円滑な社会生活を妨げていた。
  • ③ こんな心身でどう「生きるべきか」の疑問に、夢の中で母親が現れて、励まし叱った。
    • 「たった一度の命ではないか。大切に生きなさい」右手が使えなくても左手がある??
    • 右足が不便でも 工夫すれば、生きる道は見つかる。
  • ④ 私はどれほど苦しくても「生きる道」を選んだ。
    • 退院に際して「2級障害者手帳」の交付を受けた。


 >人生の再建の道

  • ① 人生の歩み:退院は苦しい現実と対面しなければならず、それを支える強い信念を求めた。
    • 道元の「正法眼蔵」の講義に救いを求めた。たまたま、鎌倉の松ケ丘文庫長、古田紹欽氏の講義が横浜で開かれていた。
    • 私たち夫婦はともに飛び込んだ。   「あるがままに只管打座」、短い言葉が心に残った。
    • 藁をもすがる思いだった。そこには素晴らしい仲間がそろって、悩み多き私たちの心の支えになった。この後も私たちは鎌倉の松ケ丘文庫で親しく教えを受けた。
  • ② リハビリテーションの知識:
    • 必要な知識は、保健所のリハビリ教室「ほのぼの会」が親身に教えてくれた。
    • そのリハビリテーションは初期の水準だったが、最大のメリットは、カウンセリングで、心身の障害の不具合を「自覚」できるようになったことである。


 >リハビリテーションに専心した時代

  • ① 「ほのぼの会」は1年間のみだったので、全くの入門に過ぎなかった。「新しい自分の不具合」
    • に慣らした日常生活には、膨大な日数が必要だった。
  • ② しかし、退院したばかりで、自宅の中に孤立している障害者の多いことに驚いた。
    • 多くは、懸命に人生の再建に向けた努力をして いた。
  • ③ 熱心な会員の中には、いつしか「ピアカウンセリング」の芽生えがあった。
    • 私も左手で、ワープロで皆さんのために色々とお手伝いした。
    • 川崎市の「さつき会」5周年記念誌の制作にも協力ができた。
  • ④ その協力をきっかけに川崎市の保健課長である長原慶子さん
    • (後年、神奈川県知事よりナイチンゲール賞を受けられた)からアドバイスを多々いただいた。
    • 障害者の社会復帰に熱意を傾けてきた方だけに、その助言の言葉は重かった。
    • なかでも「森山さんは、絶対に伊豆逓信病院の大田仁史先生の話を聞きない」との助言は心に残った。
  • ⑤ 私はリハビリ教室の2回生だった。卒業しても孤立の生活に耐えられず、
    • 1回生が自主グループ「泉睦会」をつくり参加の呼び掛けをしてくれたので、私も「ほのぼの会」に籍を置きながらその一員となり、 会報発行を手伝った。私のワープロが、社会の役に立つことを自覚したのである。
    • やがて事務局長として10年行動をともにする。詳細は省く。


 >障害とともに生きる工夫

  • ① 偉大な指導者、柴田先生との出会い:友愛病院から時々、柴田先生が保健所の指導に見え、
    • いつしか親しくさせていただくようになった。
  • ② ある日、お手紙が来た。日頃、楽観的な先生は、私に「『リハビリテーションの思想』
    • (上田 敏著/医学書院, 2004年)を必ず読みなさい」とあった。
  • ③ 私は、初めて「リハビリテーションの医学」が通常の「治療医学」でない「教育的医学」と知っ
    • た。そこには、コーピングスキルとか、克服する問題がそびえていた。
    • 私は茫然としたが、それでも手足を治したい願いは消えなかった。
  • ④ 大田先生のお話を聞いた。「障害は治らないから、障害とともに生きることが必要」だと、
    • そして晩年の 福沢諭吉が人生を振り返り「全く違った二つの人生を歩いた思いがする」と述べたと教わった。
    • それまでは「治る」と信じて努力した私だったが、ここにきて私の間違いを認めざるを得なかった。


 >書道師匠との出会い

  • ① 何か未知の能力を求めて:「泉睦会」の書初めで左手に筆を持った。
    • 古来筆は右手で持つものとされていたが、私が左手で書いた筆の字は右上がりでなく、水平な不思議な字だった。
  • ② 師匠は右手の使えない私に、右上がりが不要な隷書の学習を奨めてくれた。
    • 隷書とは古代中国の秦王朝でつくられた文字である。 私は6カ月に500時間の短期集中訓練を自分に課した。


 >未知の能力

  • ① ひと夏が過ぎ、秋の泉区民文化祭があった。その会場に区内の文芸愛好家が作品を持ち込んだ。
  • ② 私が左手で挑戦した「弄花香満衣」は、少しも悪びれることなく、作品は胸を張っていた。
  • ③ そして私に「できることをやればいい」と、宣言してくれた。
  • ④ 私は選んだ方向に正しい目標があると信じた。私の両肩から、健常者に負けないぞ、という
    • 「力み」が溶けた。
  • ⑤ 「できないことはできない。それでも、新しい能力を発見して磨いていけばよい」
    • これが「障害の受容」かもしれない、と思った。

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 >体験記『歩けた! 手が動いた』の上梓

  • ① 夢中になって、これまでの日誌を参考に、ワープロで原稿を書いた。悩みの中にある多くの
    • 仲間に「救われる道があるよ」と告げるために、多くの仲間を「出版記念会」に招いた
  • ② 司会をお願いした長原さんの予定が、海外視察旅行の報告書の提 出期日と重なることが
    • わかった。報告書の翻訳は私たちが引き受けることにして、長原さんに無理を言って出席していただき、出版記念会は無事に終った。


 >翻訳作業が生んだ新しい問題

  • ① 障害はあるが、昔は英語と親しくしていた仲間に声をかけて3人のグループをつくった。
    • 初日は英和辞典で単語を追いかけるのが精いっぱいだった。しかし2週目・3週目になると、驚嘆すべき変化が現れた。
    • 「こんな表現は辞書と違って、現地ではこんな意味に使うんだ」とすっかり昔の英語教師に戻っていた。
  • ② その変化を観察しながら、私はいくつかの仮説を立てた。
  • ③ その1つに「春の雪」がある。「春の雪は、どれほど白く積もって視界から緑を消していても、
    • やがて陽が照れば雪が解けて下ら小麦の青々とした畑が顔を出す」。


 >新しい仮説の検証をするために── 片マヒ自立研究会の設立

  • ① 早速、仲間の有志に声をかけて、私たちが知らない複雑な片マヒの実態を明らかにした。
    • たとえ障害はあっても自立した生き方を望む熱意があふれていた。「何を求めるか」という議論の熱意は高く、とりあえずこれまでの器具を使う「手足のリハビリ」が中心と考えていた「リハビリ」について、「心のリハビリ」という側面から議論を詰めることにした。
  • ② 数回の議論をへてまとめた文章を、私がワープロ原稿にし、地区の社協にあるリソグラフ
    • (編集部注:簡易印刷機)で製本した。
  • ③ この活動のテーマは会員から次々に集まった。特に失語症の仲間との付き合い方や、
    • 高次脳機能障害など、深刻な問題も抱えていたからである。
  • ④ 特色のあるものとしては、「地域社会」との関係で、これから迎える手探りの高齢化対策を、
    • 年齢に伴う不具合を先取りする者としての障害者の立場から、積極的に提言した。


 >阪神・淡路大震災の与えた衝撃-関心が仲間の外にある社会に向けられた

  • ① それまでは、障害者の仲間の中で「生きる」ことしか考えていなかった私たちは、この災害の
    • 詳細がわかるにつれて、救援の遅れる障害者の「社会」との結びつきに再検討を加えた。
  • ② その結果、災害の発生後初期の段階は、組織的な援助活動は不可能で、
    • 地域の自主的な活動しか期待できないことがわかった。
  • ③ 活動の範囲は、障害者の範囲に中心を置かず、一般の地域社会と強い結びつきが必要なのである。


 >活動を地域社会に広げる──5年間の活動

  • ① たまたま私の自治会で班長の改選があり、私に回ってきた。昔なら高齢と障害とで
    • 辞退したが、今回は 積極的に引き受けた。
  • ② 自治会の中を通り抜ける道路があり、先年もその三叉路で死亡事故があったのである。
    • 住民の多くは、 勤めに出かける典型的な郊外宅地だった。道路は未完成のまま一般に分譲されており、分譲当初は行き止まりのために静かな生活環境が長く守られていた。
  • ③ ところがにわかに、この行き止まりが幹線と結び付くことになった。
    • 工事用の車が乱暴な運転で、住宅地の中をわがもの顔で通り抜けるようになった。
    • 住民から悲鳴が上がった。
  • ④ そこで、「交通安全対策部」をつくり、新米の私は副部長になった。
    • 私は「バリアー」にあふれた今の社会に不満だった。
    • バスのステップ、鉄道駅の階段、道路の縁石の段差、交通信号は人に厳しく、車を優先していた。
  • ⑤ 私は一部の意見でなく、地域の全員に「アンケート」をお願いした。
    • これまで隅で発言してこなかった人の意見を、このようなフィルターで整理した。
  • ⑥ 当初、話の相手をしてくれた区の土木事務所は、市の土木部に変わった。
    • 私たちは市の公害対策部の協力で、排気ガス、騒音などの 客観的な数値データを武器に、市の規制値を超えている事実を突きつけた。
  • ⑦ 建設省に「コミュニティ・ゾーン形成事業」という意欲的な高齢社会対応プランがあり、
    • これを参考に 具体的な案が提出された。
  • ⑧ 警察署も協力的だった。速度制限を30キロに、大型車の乗り入れを禁止にし、
    • 歩道との段差も低くなった。
  • ⑨ 最も嬉しかったことは、この「コミュニティ・ゾーン形成事業」が全市18区にわたって
    • 実施され、横浜の高齢化に対する「心身のバリアフリー」を推進できたことである。


 >社会-6年間の区民レベルの活動

  • ① 横浜市には「区民会議」という、激しい政争の果てに」性格が不明確となった組織があった。
    • それぞれの正式な行政組織である連合町内会の推薦により、私は第8期泉区民会議委員に就任したのである。任期は 2年だった。4委員会があり私は、福祉委員会の委員長に指名されて、多忙な新しい毎日が始まった。
  • ② 特筆したいのは、区民を対象にした講演会の実施だった。委員になり必要な統計を調べて
    • みると、区民の高齢化が進んでおり、北部の若い世代の地域とは全く違った社会構造であることがわかった。そこで当時、茨城医療保健大学の病院長をしておられた、大田先生を講師にお招きした。 会議が夜間のため、毎回の出席は、私も送迎の妻も負担が大きかった。そういった問題はあったが、 関係者の努力でユーモアあふれる講演会が行われた。一般の委員も懸命の努力をしてくれた。
    • 平成17年3月に、横浜市の区民会議が設立30年を迎えた。記念誌『あゆみ』が発刊され、私は泉区近郊の項目を執筆した。


 >新しい出会い

  • ① 平成14年12月、「障害受容シンポジウム」で社会学との出会いがあった。すなわち、
    • 細田満和子先生との出会いである。
    • 会場で出会った細田さんは真剣に、片マヒ自立研究会の活動に参加して、それぞれの会員の意見を知り、 社会学の研究をされたいと、熱意をこめて述べられた。その成果は後に彼女の学位論文に結実した。
  • ② 同一の障害者を観察しても、ここでは本人の「変容」と「出会い」が本質的なものとして
    • 強調されていた。手足に残る障害を前提に「人の生き方」を問うものだった。
    • 「障害の受容」と言われる個人的プロセスは、「社会との関連で変容」するもので、単なる経過報告的なものではなかった。
  • ③ さらにアメリカ・ボストンの障害者と文化交流を行い、互いに励まし合った。
    • 「フォトボイス」(編集部注:写真と語りを用い、人々が自分の人生やものの見方、経験を表現することを可能にするプロセス。参加型アクションリサーチの一つでもある)を紹介されたが、残念なことにその途中で私は、片マヒ自立研究会の活動を止めざるを得なくなった。


 >社会と看護・医療の関係の在り方」について

  • ① 患者は病を治すよりも、苦痛を取り去りたくて入院している。
    • これに看護・医療制度は対応してほしい。
  • ② 老人とは、昨日まで持っていた心身の能力が一つずつ失われて、自分と言う存在・・・
    • アイデンティティの喪失に苦しむ人である。
  • ③ 老人は、残された「死」に向けて最後の努力を振り絞っている道中にある。
  • ④ 痛みを和らげて笑顔の世界を取り返したいのである。


 >最近、老人として経験した事実

  • ① 80歳になると、これまでに経験しなかった不調が現れてきた。障害はあっても日常生活は
    • 健全だったのに、赤信号が明滅し始める。
  • ② 私は夜間の頻尿に襲われた。主治医は専門医の受診を勧めてくれたのでそれに従った。
    • 腫瘍マーカーが700を超え、前立腺の肥大が宣告され、がんを見つけるために入院して生検を行った。結果は立派な前立腺がんだった。女性ホルモンの注射と内服薬で腫瘍マーカーは沈静化した。
  • ③ 突然の腹痛に襲われ、救急車のお世話で地域の中核病院に搬送され、
    • 緊急手術でウズラの卵ほどの胆石を取った。
  • ④ しかし、取り出したその胆嚢から、生理検査でがんが見つかり、
    • 急遽、肝臓底辺除去を行い退院した。
  • ⑤ 81歳になると、黄疸に見舞われた。病院に相談すると即刻入院の指示があり、
    • 検査の結果、Yの形をした胆道が細くなっており、ステントを挿入した。鼻から入れたステントを目的の胆道に挿入する技術は、 近代医学の進歩だろう。
  • ⑥ 年間を通じて抗がん剤を継続投与して、がんの拡大を防いだ。
  • ⑦ 82歳になると、突然食欲がなくなり足が腫れてきた。
  • ⑧ かかりつけ医は即刻入院を示唆したため、再び病院にかかった。
  • ⑨ 検査のために絶飲食と点滴の日が続いた。
  • ⑩ ステントの不具合を治して黄疸症状は治った。
  • ⑪ しかし食欲不振は治らず、主治医と相談して地域在宅医療に今後を任せることで退院した。     


 >入院の感想

  • ① 高齢化と少子化により、日本の社会が活力を失いつつあることは国民の共通認識の
    • 1つである。
  • ② 優秀な看護師の技量に驚くとともに、その効率的な配置に注目した。
  • ③ 子育てを支援する政府の対策も増えてきた。
  • ④ これだけの多くの心優しい女性の技能者・技術者を、今後も日本の高齢社会が
    • 抱え得るかという不安がある。
  • ⑤ 海外の看護師・介護福祉士希望者が、日本の高いレベルの国家試験を受験するため、
    • やっては来るもの の、合格率が低いことについて報道されていた。
  • ⑥ 現実は、国民性の違いや言葉の壁に悩まされているとのことだった。
    • 私はかねてより、各地の看護学部の学生に話をする機会があったが、いつのまにかその中に少数の男子学生があったことが私の関心を高めた。不安と期待が半ばであった。
  • ⑦ 今回、入院すると早速、男性の看護師の世話になる機会が生まれた。
  • ⑧ 短期間の経験であるが、冷静に評価すると、痛みを訴える患者との接触面では、
    • 何ら男女の差がないどころか、優れた体力で70キロを超える老人である私の体を、造作なくベッドの上で移動させてくれた。
  • ⑨ 一言で結論するのは早すぎるが、若い適齢期にある女性看護師が主婦になり母親になり、
    • 子育てに 専念できるためには、夜間の勤務が男性により多くの時間を代行される時代が待たれるのである。
  • ⑩ そのための男性看護師の十分な養成が必要である。すなわち男性看護師の計画的養成を
    • 提案したい。


 >深夜の病室にて

  • ① 私は利尿剤のために小水の頻度が高かった。ベッドの上で取ってもらうのも
    • 初めての体験だった。だが、「我慢しなさい」と、叱られる。さらに頼むと「この年寄はわがままなんだから」と正面から 患者の願いは無視される。障害のある足がベッドの中で痛み出した。ベッドに腰掛けようと思い、頼んだら「もう10時です。規則でできません」と、規則が出てくる。 睡眠薬を頼んだら「8時まででないとだめです」と、規則が出てくる。
  • ② 天使と言われる看護師も、疲れ過ぎたのだなと同情する。多忙な勤務で体も
    • 疲れているのだろう。心に優しさを詰め込む余裕をなくしているのだろう。
  • ③ ここに、入院患者が求める扱いとは違った扱いが発生する原因があったと思う。
    • 勤務の過密かも知れない。効率的配置の矛盾かも知れない。その対策が、外国人労働者の雇用ではないだろうか。

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■森山志郎氏 追悼

社会学博士 細田満和子

  • 森山志郎氏は、2012年2月29日、雪の降る中、がん闘病のために入院していた病院から退院した。
  • この原稿を書くために、どうしても家に帰ると言い張っていたのだと、森山氏の妻は語ってくれた。
  • 原稿は、2012年1月に本誌から「社会学と看護」に関する特集号の企画を依頼された筆者が、森山氏に患者代表として書いていただきたいと真っ先にお願いしたものである。
  • 20年余り主宰されてきた「片マヒ自立研究会」に終止符を打つ2011年末の食事会で、闘病の甲斐あってお元気そうな様子を拝見し、また森山節を披露してくださることを期待しての依頼であった。
  • 再入院していらっしゃるとは、訃報を聞くまで全く知らなかった。
  •  森山氏は、退院してから毎日4時間、ワープロに向かって原稿を書くことを日課としていた。
  • そして3月17日、この原稿を書き終えて1時間後に息を引き取られた。享年82歳。
  • 森山氏は、通常、端正で理路整然とした文章をお書きになる。
  • それは、ご著書『歩けた!手が動いた――あるビジネスマンの脳卒中リハビリ成功記』(自費出版、1991年)や『心が動く――脳卒中麻痺者、心とからだ15年』(荘道社、2001年)を一読すればすぐにわかる。
  • それらに対して、心を振り絞るように訥々と思いを書き綴ったこの原稿の文章を読むと、森山氏が引き裂かれるような痛みや苦しみを感じながらも、まさに命を削る思いで、大切なことをわれわれに伝えようとタイプを打ってらっしゃる姿が思い浮かんでくる。高貴な魂、あくなき向上心、努力と優しさに満ちた潔い生き方を心から尊敬し、素晴らしいと思う。
  • この文章の中には、患者から見た看護職への賞賛と期待、そして憐みと憤りが見て取れる。
  • 終りのほうで、最後となった入院時に経験したエピソードを紹介してくださっている。
  • そこに書かれていることを、とても悔しく残念で許せなく思う。利尿剤のためにトイレが近かったり、痛みや不眠を訴えたりする患者に対して、看護職の言葉はかくも酷く冷たいものなのか。終末を迎えようとする人に対して、人間らしい尊敬を込めた対応はできないのか。怒りさえ湧いてくるが、森山氏は赦しの心を持って、「多忙な勤務で体も疲れているのだろう。心に優しさを詰め込む余裕をなくしているのだろう」と思いやりのまなざしさえ向けている。  本誌を読んでおられる看護職の方にとっては、このエピソードは驚くようなものであろうが、こうした事実から目をそむけないでほしい。
  • おりしも、兵庫県三田市の病院で、夜中にナースコールを鳴らされることを迷惑に思った看護師が、入院患者数人に睡眠導入剤を無断投与したという事件の報道もあった(読売新聞、2012年3月19日電子版)。
  • 森山氏は50代で脳卒中になって以来、さまざまな挑戦をし続け、障害を持ちながら豊かに生きるという「新しい自分」を見いだしてこられた。そして今、われわれに沢山の教えを残して、遠くに旅立たれた。
  • ここからの学びを活かしてゆくことは、われわれに課された責任である。森山氏の思いは、この責任を引き受けようと覚悟する者の心の中に鮮
  • やかに生き続けることだろう。
  •  心からご冥福をお祈りします。


■何時までも皆様と共に

志郎氏の妻、森山晏子

  • 庭の河津桜が散り始めた3月17日、総てなし終えたとでもいうように夫は静かに旅立ちましたが、こうして追悼文集を出していただけることになろうとは、思ってもみなかったことでしょう。多くの方々に助けられ、導かれながら、障害を持っても、健やかに生きる道を考えつづけ、26年の間、只ひたすらに生きてきた人だったからです。
  • 「障害はそれぞれに違い、皆それぞれの生き方があるから、お教えすることは出来ないけれど、僕が考えてして来たことが少しでもお役に立つのであれば嬉しい」と言っていましたから、きっと喜んでいる事と思います。本当に有難うございました。
  • 障害を得ても与えられた命だから大事に90歳までは生きたいと、(最近は100歳になっていました)出来ることから、工夫しながら色々なことに取り組み、生き生きと楽しく過ごしてまいりました。この調子で最後まで、と願ったのですが、3年前に今度は胆嚢の癌に見舞われました。しかし之も手術によって克服できたと思っていましたのに、2011年の3月黄疸を発症して入院した後、抗がん剤治療を勧められました。
  • 「脳卒中のサバイバーになれたから今度は癌サバイバーになろう」と抗がん剤治療に挑戦したのです。でも治療の日は、検査と点滴の為に少なくとも3回多いときは6,7回針を刺されるので私のほうが辛く、見ていられなくてほかの治療方法はないのかと探したほどです。でも、一度も止めようとは言いませんでした。
  • 又、治療した後、3日間位は体調が優れなかったようでしたが、何かしなければならないことがあると、どんなに留めても、中止することはなく、特に研究会は、皆様にお目にかかるのが楽しみで、今日はお休みしましょうと申しても、中々返事をしませんでした。
  • しかし何時も、帰りには、皆様からのお力を頂いて、元気になっておりましたので感謝しながら帰宅するのが常でした。
  • そのうち抗がん剤の治療も効果がみられなくなり、貧血の治療が必要になりましたので、自立研究会の活動も責任が持てないので終わりにしようと、皆様に申しあげた年末でした。
  • ここ2・3年は、寒くなると体調を崩し、桜の花が散り始めるころになると少しずつ元気を取り戻していたので、今年もそうあって欲しいと願っていたのです。
  • どうぞ皆様、二度とない人生を、焦らずに、挫けることなく諦めることなく、大事に生き抜く努力を惜しまないで頂きとうございます。

森山志郎氏の想い出


編集後記

佐藤 万宜

  • 追悼誌を発行しようと発案されたのは、通夜の席であった。偉大であった森山志郎氏の功績を、後世に残したいという強い思いが追悼誌の発行につながった。
  • 皆様に原稿を募ったところ、たくさんの投稿お寄せいただきまして、ありがとうございました。
  • 特に長山様、長原様、細田様には、巻頭言や森山様の活動の思い出、森山様の絶筆の感想など、充実した内容になりました。
  • 発行するにあたり、資金源のことも避けて通れない道でしたが、これも有志の方々の協賛金により解決することがきました。ありがとうございました。
  • 森山会長がお亡くなりになられたことは、悲しいことでありますが、悲しみに浸っているばかりでは前に進めません、会長が残された足跡を踏まえつつこれからの険しい道を歩んで行こうではありませんか。

合 掌



森山志郎氏の想い出


森山先生略歴




  • 編集委員
  •      篠原順子  吉野栄一  山田裕子  山田愛子
  •      指方順一郎  豊住正治  佐藤万宜 平井咲恵子
  • 連絡:   佐藤 万宜  電話・FAX 045-811-9545
  •             メール  Kazuyosi-satou@mail.goo.ne.jp

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