リハビリとは何かな?

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森山記念館 論文館

  • リハビリとは何かな?

リハビリとは何かな?

  •  ミレニアムと騒がれた2000年の1月も、梅の便りが待たれる暖かい日差しの頃、親しくして頂いている丹羽保健婦さんから、「所で、森山さんがアイデンティティを再確認する時に、どんなことがありましたか」と、質問された。この保健婦さんには阪神大震災の報告を研究会でしてもらって以来の付き合いである。

  •  質問を受けるということは、外部からは伺い知れないことがあるということであり、それは同時に歳月の風化作用や、成長に伴う過程で「ひだ」に包まれてしまい、意識の表面からは見えなくなった事実を呼び覚まして整理することになる。
  •  自分で忘れ去っている精神活動の足掻きが顔を見せてくるに違いない。そこには、昔のアイデンティティを見失い、新しいアイデンティティを模索しながら獲得するに至る、重要な精神活動の軌跡があると考えた。

  •  それだけに簡単に答えることは極めて難しい問題だが、何とかこれに答えることが、アイデンティティの再獲得という問題に気のついた私に課せられた大きな社会的責務のように感じられた。
  •  そこで、エリクソンの発達心理学の体系を中心にして、私の心理的体験を重ねあわせて、中途障害そのものを勝手に独自の「中年の発達危機」の一つとした仮説の基に、考察を加えるという観点を加えたりして、固有の問題を指摘して、この困難な問題の核心に少しでも近づきたいと思う。


 ←①人格的活力という考え方→

①人格的活力という考え方

  •  先ず、エリクソン心理学の基軸概念の一つである「VIRTUE=人格的活力=徳性」の説明から入る。エリクソンは人間が、幼児から成長するにしたがって、それぞれの発達段階ごとに「発達の危機」を迎えながら、「人格的活力」の獲得に成功したり失敗する、とした。この時に、一つの段階を得た上で次の段階に進むという、「漸成」という概念と同時に、次の段階では、前の段階に必要とされた人間関係との「分離」という概念があるが、中年の危機に際してもこの二つは重要だったと思う。

  •  この理論の基本として、私たちは死ぬまで発達課題を持つのである。しかし、中途障害者になることは、この発達過程の順当な生育を妨げることになる。一旦は幼年期・少年期に手に入れていた「発達に伴う人格的活力」が、障害者になった後の私に、これらの「人格的活力」が、どのように残されているか、極めて不安であった。

  •  つまり、自分の立つ足元の地盤が堅固なのか、それとも崩壊しているのか、その確認ができないと前に進めない、自信の喪失状態にあったのである。


 ←(1)「人格的活力」を確認する試み→

  • (1)「人格的活力」を確認する試み

    リハビリとは何かな?
    •  従って、障害を得た初期の段階で、最も基本になるものとして、幼児期に獲得すべき「希望」や「意志」「目的」についての能力存在状況を確認できるには、退院できるまでの半年が必要になった。「希望」と「信頼」を確認できるには、下記に記すような事実が必要だった。そしてこれは幼児の場合、母親とか母性的存在が関わる仕事であるが、入院中の私には、妻を始め病院の看護婦さんや付き添いさんが、その役目を果たしていたのかも知れない。

    • ◎車椅子で移動して「動けた」
    • ◎杖で「歩行ができた」
    • ◎ 左手を使って「字が書けた」


 ←(2)次なる確認に→

  • (2)次なる確認に

  •  やがて、こんな「活力」が確認されると、次の、より高次の「活力」を求めて、エリクソンの定義する「意志」「目的」と「自律」「自発」といった、ものを求めて動き出した。

    • ◎「寝たきりになってたまるか」!
    • ◎オリンピック選手を見てみろ!
    • ◎自由に歩きたい!
    • ◎家に帰りたい!
    • ◎ 早く職場に戻りたい!


 ←(3)退院した後の生活指針→

  • (3)退院した後の生活指針

  •  退院すると、かつて糖尿病の治療で指導頂いた、近所の塩田先生を主治医として、再生に向けた日を送った。「脳梗塞だから良かったものの心筋梗塞だったらお仕舞だった」とか「盛大な死亡記事が日経新聞に載ることを選ぶか」「ベートーベンだって障害者だった」とか、さまざまな励ましを頂いた。

  •  「島崎敏樹先生の『生きるとは何か』を読んでご覧」と勧められた。市大病院の大川先生を紹介して頂き、右足に装具をあつらえてもらい、杖を使えば安全にあるけるようになった。大川先生からは回復訓練の道筋を教えて頂いた。健康を失ったために、人間とは、失ってはじめてその掛け替えのない値打ちに気がつくものだと思い知らされた。

  • リハビリとは何かな?すると私に残された「命」は大事にしたいと思ったが、そのためには、成人病の体質を改めねばならなかった。食事とストレスの多い生活習慣を、健康体質の実現に向けて舵を切り代える必要があった。それには、家族の一致した協力が欠かせなかった。

  • 食事とは、山海の珍味を並べて飽食するのではなく、心身を健やかに「養う」基本であると思い知らされた。睡眠は怠惰のシンボルではなく、入浴と共にストレスに曲げられた心身のバランスを回復させる重要な生活のステップに評価が変わった。

  • 一瞬も手から離さなかったタバコは、私にとって百害があるので完全に縁を切った。放置していた糖尿病の管理は、塩田先生の指導でキチンと管理した生活に切り替えた。


 ←(4)無能力との戦いに保健婦さんの援助→

  • (4)無能力との戦いに保健婦さんの援助

  • そうは言っても、現実の生活面では、何もできない無能な自分と対面して将来の見えない状態に苦悩が続いた。リハビリとは何かな?

    • ① 北海道で入院していた仲間と一緒に患者会を作
      • り、私は副会長になった。退院しても交流が続き、案内状を貰ったので妻と北海道にでかけ、退院後の健康診断を受けた後、全員で支笏湖に泊った。
      • 翌朝、素晴らしい光景に対面した。そして、素晴らしい風景を撮りたいという強い願望が、必死になって解決策を模索させてついにその方法を見つけるという大事件が起きた。この、必要に応じてカメラを逆さまにして使うという発見は、私が障害と共に生きるためには、さまざまな工夫をやれば色々とできる方法を見つけることができる自信が生れ精気が戻った。

    • ② やがて、保健婦さんに誘われて「機能訓
      • 練教室ほのぼの会」に参加、さまざまな回復訓練の中で、さまざまな「気づき」を得、仲間との「コミュニケーション能力」が向上し「社会性」を逐次獲得して行った。
      • 特筆すべきは、お習字のリハビリ世界にふれたことと、優しい所長が母性的な対応をして下さったことである。この段階の私が欲しいものが与えられたのである。
      • この時期にあった所長との会話を思い返してみると、将に、典型的なカウンセリングを受けていたことに気がついた。その効果として、自分とそれを取り巻く状況を見詰めることができた。
      • 友愛病院の柴田先生が講演に来て私たちに話しをしてくれた。私は、この温厚な九州の老医師にさまざまな質問をして自分を確かめていた。この保健所の訓練ステップが「有能感」を獲得する大きな舞台であったと思う。

        リハビリとは何かな?
    • ③ 前年から計画していた、写真集「愛しの大地」
      • が製本された。
      • これは北海道勤務の証にしたいと思って家族の全面的な協力を得て、その編集と印刷、上梓ができたのである。ことに目標に向けて家族で協力して仕事を完成させた喜び、できた作品を眺めることで新しい自信を持った。
      • 更に、この写真集を見た方の推薦で、渋谷の電力館で写真個展を開かせて貰うことができた。その選別、案内状作成と発送、会場のレイアウト、受付と案内、これら一連のシステムを成功させたことは、「有能感」を確認できたことになって、その喜びを夫婦で乾杯した。
      • これを通じて「勤勉」さが失われていないことを確認できた。他方、親しくして頂いた方からは「で、障害の受容はどうしたのかしら」と問われ、課題が残されていることに気がついた。


 ←(5)自主グループでの活動→

  • (5)自主グループでの活動

    • 私よりも一年前に終了した方々が、自主グループの泉睦会を作っており、会報を創刊するというので私も編集と制作に参加、ほのぼの会に参加する一方で、その事務局次長になった。やがて春になり、訓練教室を修了することになった。これまで優しい保健婦さんに囲まれて過ごす時間は快く、知らず知らず、どっぷりと「ぬるま湯」に安住しようとしている自分が見えていた。
    • 人間は成長に伴って、これまでの人間関係から「分離」することが必要であるとエリクソンは説くが、後日、顧みると、リハビリの過程では、必要に応じて母性的な優しさから出発して、次第に父親の厳しい指導に従う必要を実感した。

    • 保健婦さんの目の届かない泉睦会では、事務局長となり、会の活動を縁の下で支える「役割」を務めた。そこでは、隔月に会報を発行したが、そのワープロ作業、名簿の作成、規約の検討、毎月の行事の流れ等、お陰で社会性を始めとする各種の能力は飛躍的に向上した。この時期は仲間の会を運営することに精力を注いでいたので、これは能力を回復させると同時にエリクソンのいう「忠誠心」という人格的活力を確認した時期とも言える。

    • 更に、川崎の障害者仲間の記念文集作成を手伝ったことをきっかけに、川崎の長原女史と出会い、数々の指導を得た上、大田先生に橋渡しまでして頂いた。私はこれらを通じて、何ものにもまして、貴重な財産を得たのである。

    • これまでの足跡をエリクソンに従って説明すると人格的活力 育成役割を分担する者 私の場合の人間関係
    • ① 望み、 ―母、母性的人間―信頼 妻・看護婦・付き添い
    • ② 意志、―両親的人間―自律 妻・職場
    • ③ 目的、―核家族的人間―自発 妻・会社の仲間
    • ④ 有能感、―近隣学校内の人間―勤勉 妻・子供・友人・知人・職場の仲間
    • ⑤ 忠誠心、―仲間のグループ―アイデンティティ 同病の仲間・保健婦・ボランティア


 ←②機能回復とモラトリアム時代→

②機能回復とモラトリアム時代


 ←(1)自分への問い掛け→

  • (1) 自分への問い掛けリハビリとは何かな?
    • ① 泉睦会の事務局長の活動をつづけながら同
      • 時に、私は自分に「お前はこれで良いのか」という質問を絶えず発し続けていたようだ。しかし、今考えると、「旭化成の札幌支社長」に変わるべきアイデンティティを再体制化するためには、未だ私には回答を得ていない課題があったと思う。
      • 確かに障害を得た心身の能力は、螺旋的に回復し、仕事を達成する能力は確実に向上して、社会生活に参加できる最低の水準はクリアしていることを自覚できた。
      • しかし、私の生活してきた職業世界では、この程度では評価できる領域ではなかった。
      • 右手の自由にならない私、行動が遅々として緩慢な動作、テキパキしない言葉、こんな障害を持って生きる私に、「お前の人生の目標は何か」と厳しく問うのであった。
      • そんな無能力の「私」は本来の「私」である筈がなかった。外部から侵入した異物を攻撃する免疫のように、この無能な姿は私から攻撃されていた。

    • ② 心理学では、青年期の課題として、心の定まらない「モラトリアム」の時期を考えてい
      • る。しかし、私は敢えて、中年の、挫折という時期にも、この概念「挫折に続くモラトリアム」の時期があるのではないかと思う。
      • 青年が「モラトリアム」の時期から脱出できないまま人生を送る場合があるように、中年の障害者にも、モラトリアム期から抜け出せないまま、「ああでもない、こうでもない」と迷う障害者がいるとしても、この期間を「モラトリアム」の概念で考えることの支障にはならないだろう。障害者が「とつおいつ」するとされける期間であろう。


 ←(2) 何かの行動を→

  • (2) 何かの行動を

    • とにかく、打開するためには、何かの行動を起こす必要があった。遠い将来の目標は見えなくても、現在の一身に起きている状況に対応した行動をして行けば何かが見えて来ると思った。

      リハビリとは何かな?
    • ① 先ず、家族の全員がこれまでの個人生活を根本的に見直した。娘た
      • ちは自立を決意し、一人は結婚し、一人は自活の道を選んで独立した。妻は、運転教習所に通い再講習で運転免許を取得し、友人に頼んで中古車を買った。この車でモラトリアムの私が「うつ」に落ち込まないよう、気分転換に連れまわしてくれた。

    • ② 九州に行き両親の法事や四国に行き母の郷里に墓参し、同時に疎遠
      • になっていた遠縁の皆様と関係の修復を行いながら「私」を考えた。夜になり遠くに光る灯火のまたたきを眺めながら、弥生人と同じ闇夜の不安を体験した。同時に、手の届くような星座の煌きに、この世には昼間の太陽の下では見えないものがあることを実感したのだった。

    • ③ 中学生時代の友人が私を暖かく迎えてくれたのに、その友人が忽然と世を去った。
    •   「もう、若くない」そんな思いで九州の友人に呼びかけ、戦争中の学徒動員の記録を整
      • 理して「出発進行!」として上梓した。その作業を通じて、必死に生きた少年の日々が素晴らしい生き方として心に甦ってきた。リハビリとは何かな?
      • 「こんな厳しい環境を生き抜いてきたのに、これくらいの障害に負けてたまるか」。それはアイデンティティを模索していた私を勇気づけ、怠惰な私に激しく迫って来るものがあった。

    • ④ 基本的な信念として、若い時からトインビーの文明論の影響で「環境からの挑戦に如何に応戦するか」という態度を持っていた。消極的というかも知れないが、私が自分で挑戦して環境を切り開くというよりも、環境が牙を剥いて、私の人生に立ちはだかっていることを何とかしなければ、という「守り」の気分が多かった。
      • この障害という挑戦を受けた私には未だ適切に応戦する方法が考えつかなかった。
      • たった一つ感じたことは、この障害は、こちらが身を引けば引いただけ、ズケズケと土足で踏み込んでくる性格に思えた。
      • だから正面から対峙する必要のある障害と評価した。しかし、私の何を守るために応戦すべきなのか、何を武器に立ち向かうのか、手足の障害が昔のようになれば簡単なのにと、心の定まらない日が続く。

    • ⑤ 「うつ」になりたくなかった。「うつ」になることは、経験上、私が家族を巻き込ん
      • で、悲劇の主人公になることに他ならなかった。
      • その対策として「体操」が肉体を鍛練する訓練であれば、「心を強くしコントロールを自由」にできる「心操」があっても良いと思った。
      • 工夫として、禅寺の修行僧が、その修行の邪魔になる刺激から遠ざかる方法を借用して、「悔しい」「残念」「悲しい」こんなマイナス感情を助長しないように気を付けた。反対に、明るい感情を呼び起こす詩歌や風物は積極的に利用した。
      • 仲間と「カラオケ」に行っても、明るい歌、楽しい歌、励ます歌を選び、身の不運を嘆く歌とか、辛い思いの歌などは遠ざけた。

    • ⑥ 妻に頼んで車で、湘南海岸の浜辺で歩く訓練をしたが、寒川神社の砂利道では、歩くコ
      • ツを発見できた。カメラを持って鎌倉の古寺を訪ねた。鎌倉の歴史は吾妻鏡を頼りに、古寺の来歴を訪ねた。しかし、その季節ごとに美しい彩りを見せる、とりどりの花の装いに隠された、残酷な悲劇に慄然とさせられた。リハビリとは何かな?
      • そこで、この悲劇に溢れた歴史とそれを悼むかのような美しい花の風景と、対比させた写真集を作りたいと思った。そして障害を持つブロの写真作家になるか、こんな幻影も浮かんだ事もあった。毎月の季節の花を絵葉書に作り、友人に贈ったりもしたが、これは私の役割にはならないと結論した。カメラは私の趣味の世界に留め置いたのである。

    • ⑦ 二組の妹夫妻も、代わりばんこに協力してくれ、会社の寮に誘ってくれては、私や妻の
      • 骨休みに気を使ってくれ、一緒に箱根や房総に行った。ある時、伊豆に行った時、私は白く波立つ海を眺めながら、私の肉体が予想に反して、この一年、少しも回復していないことに気がついた。
      • 心の中で、「どうしてだろう」「何故か」「きっと昔の自分でなくなったに違いない」。ある朝、突然に「虫」に変身したというカフカの小説を思い出させていた。

    • ⑧ 俳句の勉強も始めたが、熱心な会員が競い合って、眼から青白い火花が散るような雰囲
      • 気に圧倒されたので中絶した。しかし、制約された字数と形式での芸術表現は、障害者として制約のある条件で生きる私には凄く強い支えになった。制約がなくても自覚のないまま送る人生よりも、制約があっても、自覚のある、充実した生活が好ましく思えた。ことに俳句は、感情の表出を固く禁じているので、好ましくない感情の表出を伴う芸の多い中で、素晴らしいと思った。私たち障害者には、過去の障害のない五体健全な状況を懐かしむことは、後ろ向きの感情として、良くないと思う。

    • ⑨ 古田紹欽先生の「正法眼蔵教室」の中で、「生死の一大事」や「死生一如」という死生
      • 観を教えられた。「只管打坐」という考え方は、私の歩行訓練の原則になって、私はただ、ひたすらに歩いた。リハビリとは何かな?
      • 「物事に囚われない考え=フリーフラム」という考え方を教えられ、過去の価値観に囚われている私には、「目を覚ませ」と呼びかけているように聞こえた。「心身一如」であり、「思うことはとぐるなり」という心構え等、枚挙に暇のないものだった。更に「悟後の悟り」という戒めは、リハビリで天狗になりそうな私を謙虚にさせた。
      • 「より良く生きたい」と心に思うに従って、必要な情報が次々に入り、立派な方々が私の前に現れて、その都度、疑問を解き教えて下さった。「心に願うと、外からの情報を得ようとする、受容の能力が一段と活性化する、これまで見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえてくるようになる」ことを実感した。
      • 「仏の方よりおこなわれ」という表現が決して誇張ではなく、真実だと実感した。多分、個人により違いがあるのは、その情報が持つ「意味」について評価が異なるからではないかと思う。

    • ⑩ リハビリの参考書は手に入る限り読破した。難解な上田敏先生の本など、理解、得心す
      • るまで何回も読んだ。それにしても、障害の受容とか、発達的課題の主体的な解決であるとか、高度の学習過程とか、情報が欲しい一般の障害者にも理解できるような言葉にならないかと思った。

        リハビリとは何かな?
    • ⑪ そこに平成元年10月、川崎溝の口でリハビリ講演会があって、
      • 初めて大田先生の話しを聞いた。「心配しなくても元どおりに直るよ」という言葉を期待していたのに、結果は正反対で落胆したと同時に、「福沢諭吉は一生を二生に生きた」と聞いて、何か心に落ちるものがあった。
      • 「なるほど、そうですか、やっとわかりました」。殻の中で一生懸命に外に出ようともがいていた私に、ようやく外から固い殻を破ろうとする力が加わった。リハビリとは何かな?
      • その感想を柴田先生に書き送ったら直ぐに「おめでとう」と喜んで手紙を下さった。長い長いトンネルの出口がボンヤリしてきたのである。でもまだ、どんな人生を新たに歩くのか。迷いはつづく。

    • ⑫ 平成2年2月、嫁いだ娘が難産に耐えて、無事に初孫の俊介を儲け
      • た。目をつむったまま、ひたすらに眠っている、この新しい血縁の顔を見ると、「命の鎖」を考えずにはおれなかった。両親を通じて私に与えられた「命」が、こうやって、娘を通して孫に伝えられて行く。この絶えることなく続いている「命」の尊さ不思議さに比べると、他のものは、どれもこれも矮小な気がした。この孫のためにも私は恥ずかしくない人生を生きたい、そう思った。

    • ⑬ そこで4月から土屋先生にお願して習字教室に入門をさせて頂いた。私は短期集中訓練
      • を自分で行った。
      • その成果を11月の区民文化祭で展示した。「素晴らしい。これだったら、左手を訓練して行けば,社会に役立つ役割が獲得できる」。
      • 習字を通じて「未知の能力」を発見した。
      • そこに始めて立ち向かうべき武器があることを自覚した。この武器を手に、私の「命」がより良く生きて行くために、過去の価値観や、気兼ねを止めて、「命」が生き易いように価値観を求めたら良いのだった。リハビリとは何かな?
      • その日以来、「私は右の手足が不自由ですから、これはできませんが、こんなことだったらできますよ」と胸を張って言えるようになった。
      • モラトリアムも終点に近かった。

    • ⑭ これまでの日本が私たちに与えてきた価値観は取り外した。代わりに新しく「命」という軸を持ち込んだ。
      • 「私の命」、「子供の命」「孫の命」「地域社会の命」「仲間の命」、幾億年の昔から、一度も中断されることもなく、私にまで伝わってきた「命」を子供から孫に伝えて行く事の大事さを、すべての中心に据えた。そして、私にできることは、「命」が許してくれる限り、一日一日を死ぬ日まで大事に生きていくことである。
      • 私の「命」を「より良く生きる」ことなのである。

①人格的活力という考え方
  (1)「人格的活力」を確認する試み
  (2)次なる確認に
  (3)退院した後の生活指針
  (4)無能力との戦いに保健婦さんの援助
  (5)自主グループでの活動
②機能回復とモラトリアム時代
  (1)自分への問いかけ
  (2)何かの行動を
  (3)「歩けた!手が動いた」と自律研究会の芽生え
  (4)泉睦会を障害者の受け皿にする仕事
  (5)片マヒ自律研究会の活動
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 ←(3) 「歩けた!手が動いた」と自立研究会の芽生え→

  • (3) 「歩けた!手が動いた」と自立研究会の芽生え

    • 平成三年、これまのでの経過をまとめて、世の中の人に私たちの体験記「歩けた!手が動いた」を送った。当初「私たちが裸になるのですか」と、ためらった妻も、本の趣旨を理解してくれて、「その時、妻は」という部分を執筆してくれた。長原さんを通じて大田先生にお願した「書評」には、何と「心が動いた」という標題になっていた。私は途端に目が覚めた。「動き出したのは心だった。それず手足を引っ張ってくれた」。
    • 横浜で行った出版記念会では、柴田先生と長原さんに総合司会を頼んだ。当時課長をしていた長原さんは「私、視察でオーストラリアに行って、帰ってくるのがその前日だから無理」と云うのを「出張報告書の作成を手伝うから」と無理に拝み倒して司会をしてもらった。
    • お陰で後になり、「じゃあ、頼むわよ」と分厚い「イラワラ女性センター年次報告書」が届けられた。友人と三人で「頭のリハビリだ」と云いながら、コンサイスと首っ引きで何とか訳し終えることができた。リハビリとは何かな?
    • その時、私たちは「案外、残された能力もあるなぁ」と云う実感が込み上げた。「これを使って何か役割が果たせるかも知れない」と話しが進んだ。
    • これが発端となり研究会を作ることにした。やがてそれは「片マヒにおける自立」という方向性を持つことになった。そして先ず試みた「心のリハビリ」についての数人の方々と議論をしたのが、「片マヒ自立研究会」の始まりとなったのである。


 ←(4)泉睦会を障害者の受け皿にする仕事→

  • (4)泉睦会を障害者の受け皿にする仕事

    • 闘病記の上梓も終えたので、これを機会に泉睦会から退き、自由に活動する積もりだった。所が泉睦会5周年記念に大田先生をお招きしてお話を伺った時、「障害者が元気になるには、仲間の中でふれあうことが何よりも大事なんだ」と熱っぽく語られるのを聞いて、私は考え込んだ。

    • 当時、会の運営を廻って、立ち上がるための男性的なリーダーシップを求めるリーダーと、立ち直りきれない会員のために母性的な運営に馴染んでいるリーダーとの間で、絶えずガタガタの続き、私自身はこの会に嫌気が差していたからである。

    • しかし、大田先生の指摘されるような機能が果たせる可能性があるのであれば、そんな大事な意味のあるグループに仕上げて、すくなくとも泉区には、訓練教室に引き続いて障害者の回復を助ける受け皿になる組織があるようにしようと決心した。
    • そこで、多少の荒治療を交えて事務局長に再度就任した。そして活動の中心を、できるだけ暇つぶし的行事から、努力しながら「共通の高い目標」を掲げて自信の回復が実感できる「書道」「俳句」「あみもの」「ヘルス体操」等の多様性あるメニューと、その発表の場としての「中途障害者文化祭」の方向に重点をシフトさせて行った。
    • たまたま、第1回の文化祭の前日に、市の委員会があり、私は地域のリハビリを成功させるには、障害者が自由に出入りできる場所を確保する必要がある、と熱弁を揮う傍ら、部長等の行政幹部に翌日からの文化祭の案内をした。

    • お陰で文化祭には大挙して行政の幹部が見に来てくれて、障害者の努力を見直してくれた。
    • この文化祭を通じて、泉睦会の活動が区の中で市民権を得たことは、最大の成果であった。同時に委員会で結論を出された作業所設置が急テンポで進み「通所作業所元気かい」も区内に発足した。やがて泉睦会も10年を迎える頃から、リーダーがそれぞれに独自の方向性を意図し始め、私は亀裂を覚えたのを境に事務局長を止めて、自立研究会の活動に専心することにしたのである


 ←(5)片マヒ自立研究会の活動→

  • (5)片マヒ自立研究会の活動

    • ① は、自分が障害者であることを活動の軸足に置いた。障害の有り様が複雑なために、その復
      • 権は込み入った課題を抱える。そして少子高齢者社会という時代の流れに沿って、これとの取り組みを図るには経験的なアプローチが必要と思った。リハビリとは何かな?
    • つまり片マヒ自立研究会としては、今の時代背景の中で、具体的な自分の障害を「考え」そして「解決の工夫」を模索し、人生の生き方を「整理」していく、そして、これらを仲間や広く社会に「訴え」てその「理解」を求める活動に傾斜して行ったのである。
    • これは、当然のこととして、広い意味で社会のノーマライゼーション活動の一環をなし、バリアフリーを訴える活動にも直結する。だがそれ以上に、本人や家族に希望をなくさせず自力で立ち上がる機会を待つこと、早期のしかも過労にならないリハ
      • ビリを通じて、運命から受けた挑戦から「何を守るべきか」、その際、「何を武器に戦うのか」を自覚してもらい、復権を容易ならしめること、外から窺い知れない障害者の「心のひだ」の狭間に埋もれている「辛さ」を、ケアする周囲の人に伝えて誤解を除きたいことが重要だった。

    • ② 1929年に生れた私は今日まで、数限りない方々から、限りない恩恵を受けてきた。そのお礼
      • を一人一人にすることは許されない。だから、今の私にできることは、目の前の人々にお返しをするしかないのである。リハビリとは何かな?
      • 戦後の経済復興期に経済活動の真ん中で身に付けた諸々のアイデンティティの中で、不用と考えたものは一切取り払ってしまった。私らしい生き方がようやく見つかった思いである。
      • 過去の歴史は、どんなものでも私の血や肉になって今日の私を支えている。それらの中で、過去の鎧を身に付けて生きることは、年寄りの障害者には重過ぎる。
      • これを脱ぎ捨てると、その下には少年時代からのアイデンティティか顔を出したのである。今後の人生最後の旅路に必要な薄い衣に着替えたのである。「命」を燃焼させることは、将に私のアイデンティティと整合性のある生き方である。

    • ③ 研究会の活動例会は隔月に行い、現在は38回を迎える。会場は県民活動センターの利用が多
      • く、時に講師を招くが、復職分科会の活動としては、新設の脳血管センターに赴き、ドクター、SW、企業の人事責任者を交えて、問題点を話し合い、相互理解を深める努力もしている。

      • 講演会は、昨年の実績で11回に及んだ。できるだけテープから活字にして印刷、配布している。シンポジュウム、研究発表会等にも積極的に参加し、昨年は「ノーマライゼーション」今年は三月に「よこはま福祉保健研究発表会」参加を予定している。

      • 北海道札幌市・支店長懇話会、岩手県江刺市、千葉県我孫子市、東京都葛飾区・中野区・セルフ研究会、川崎市中原区・川崎区、横浜市鶴見区・中区・都筑区・緑区・金沢区・瀬谷区・旭区・戸塚区・泉区・泉北部地区社協・都市交通局・市民フォーラム、茅ヶ崎市、岡山市、岡山元気になる会、高知市、唐津市、唐津東松浦、佐賀市、県立茨城医療大学、全国保健婦研修会、日本看護学会、都立医療保健大学、東京家政学院大学・横浜市立大学教養学部・看護短大、神奈川看護教育大学・友愛病院・市立脳血管センター、岐阜県保健婦研修会・高知保健婦研修会、県立福井看護短大、全矢崎労組、全旭大阪労組。
      • 研究資料は、「元気シリーズ」を中心に、機会ある毎に発行している。
      • 会員は、横浜、川崎、東京、相模原と分布し、復職を果たした人、定年を迎えた人と一定しないが、若くて復職を目指す会員は真剣である。遠隔地会員には、大分県、佐賀県、山口県、広島県、岡山県、大阪府、栃木県、東京都、千葉県、岩手県、大和市、藤沢市等、広範に及ぶ。

      • 分科会の方式を取り入れて、深く追求する方向を取ってきたが、会員の構成が個性化するにしたがって、この傾向を促進させる必要を感じている。つまり全員が分科会の会長としての取り組が期待されてくるということである。
      • 家族のみの懇談会も企画しており、知られざる悩みが吹き出すかも知れない。

      • インターネットを活用した活動を研究中!      荘道社参考2000年3月3日

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