|

もくじ

- 私は1945年に生れましたから64歳になった。
- 平成14年57才の会社を退職することが決まる株主総会へ向かう、車の中で脳梗塞を発症、左マヒ1種2級の障害者になり、平成21年6月26日で丸7年が経つ。
① 朝 突然に…
- 『僕は今、脳梗塞進行中だね。』
- 『誰がですか?』
- 『僕だよ。』
- 『脳の病気って大変じゃないですか。病院に行きましょうよ!』
- 今から、7年前、平成14年6月27日午前6時20分。
- 私が、株主総会出席の為の車の中の社員との会話である。
- その前日、36年間の会社生活最後の夜の食事会で、少しのお酒で酔い、家路に向かうタクシーの中で、吊り革から左手がストンと落ちた。
- タクシーを降りると、足が玄関の反対の右の方に向ってしまった。
- それも酔いのせいと思った。家族は、また酔ってふざけていると思ったようである。余りの眠さに、自室でそのまま眠ってしまった。
- 朝5時に目が覚めた。
- 今日が会社生活最後の日。深い感慨をもって立ち上がった。
- ステンともんどりうって転んだ。
- <おかしいなぁ>と思い、正座をし、シコを踏んだ。痛みは全くなかった。
- しかし、足に力が入らない。しかし、足を引きずりながらも歩けた。
- 階下の居間で、妻に言った。『見てくれないか。足がおかしいんだ。』
- 私は、シコを踏んで見せた。
- 『何か変ね。病院に行って下さいね。出来たら大きい病院へ行ってくださいね。』
- 『うん。わかった。株主総会が終わったら、午後病院へ行ってくるから。』
- そのまま、迎えの車に乗り込んで、会社へ向かった。
- 『株主総会終わったら病院へ行くから、このまま会社へ行ってくれないか。』
- 私は、部下に指示した。
- 『でも、脳の病気だったら大変です。早い方がいいですよ。まだ時間も早いし、応急手当ができるかもしれませんから。』と部下は言った。

前編 TOP
後編 TOP
- ② 病院への搬送とCT・MRI検査
私は、左半身にジーンと痺れを感じ、左指に持っていた煙火がポロリと落ちた。
- 部下は、もう私の了解もなく、都立府中病院へ向って、高速道路を下りていた。
- 自分の足で、病院の中へ歩いて入って行った。
- 部下が、事情を説明している間、ソファーで待っていた。
- 看護師が、車椅子を持ってきてくれた。
- CTを撮るという。長く待たされた。
- CTの現像ができた頃、私は医師に呼ばれた。
問診のあとに、医師が言われた。
- 『CTには、まだ痕跡が出ていません。MRI撮影をしたいと思います。』
- 『先生、これ脳梗塞じゃないのですか?』
- 『わかりません。では外で待っていて下さい。』
- MRIの撮影には、他の先生の了解が必要だという。
- カーテンの奥から、先生の大きな声が聞こえた。
- 『脳梗塞の患者がいます。MRIの許可をお願いしたいのですが!』
- 私は、「脳梗塞の患者」ということばを、遠くに聞いていた。
- 長い時間待った。
- 妻が、真っ青な顔で駆けつけたが、私の座っている姿と話すことばに安心したようであった。
- しかし、痛みはないが、車椅子の中で痺れて動かなくなって行く左半身に、株主総会への出席の許可が出ないのを感じていた。幹部一人を残して、株主総会へ出席のために他の社員は会社へ向うことを指示した。

前編 TOP
後編 TOP
- ③ 「脳梗塞の診断」と「即入院と身体の硬直」
MRIの診断の結果、その映像を基に「右の脳に梗塞が見られ、運動神経を直撃しています。左に麻痺が残るでしょう。」という説明をされた後、明るい言葉で次のように付け加えられた。
- 「リハビリでどこまで回復するかですが、頑張って下さい!」
医師の明るい言葉に影響されたのかも知れないが、何故か全く不安感はなかった。
- それは、脳梗塞の知識も全くなく、脳梗塞の後遺症とリハビリの大変さも知らなかった。
- 痛みや異常な自覚反応が全く無かったことで、楽観視出来たのだと思う。
- しかし、数時間後、初めて病室のベッドに横になった時、本当に驚いた。
- 左半身が、痺れて、全く反応をしなくなっていたばかりでなく、左に倒れたら起き上れない。
- 身体に、全く力が入らないのである。1週間は点滴だけの生活が始まった。
- しかし、事の重大さを感ずることもなく、1週間や10日間で退院でき、元の生活に戻れると錯覚をしていた。
- その日の午後から、多くの人達の見舞を受けた。
- すぐ治ると思っていた私は、むしろ心配そうな人達を反対に強く励ましていた。

前編 TOP
後編 TOP
- 点滴を受けている1週間の間に、動かなくなった自分の身体の大変な状況を知り始め、急に、不安感が押し寄せてきた。
- 「リハビリで、どこまで回復するかです。頑張って下さい!」という医師の言葉が頭の中に鳴り響いていた。
- 見舞いの品の中に、何冊かの本が、友人から届けられた。
- その中に、神渡 良平 氏の 「人は何によって輝くのか」 (PHP研究所発行) があった。
- その本の中に、氏が脳卒中で倒れた体験が語られていた。
- ―リハビリに励み再起を願う(同著17~18ページ) ―
- そんなとき、かつての大学教授の話を思い出した。
- 私は大学紛争に巻き込まれ、中途で挫折して医者にはなれなかったのだが、その昔は 医学生として勉強していた。そのころの記憶が甦ったのだ。
「脳溢血、脳梗塞、くも膜下出血などの脳障害は、壊死した部位によって言語障害、記憶喪失、運動麻痺などさまざまな障害が現れる。
- 内臓疾患の場合は手術して悪い部分を切り取れば回復は可能だが、脳の場合はメスを入れることはできない。
- そのかわり機能回復には一つだけ方法がある。それがリハビリだ。
- 悪くなったところをかばうのではなく、そこをいつも動かして脳に刺激を与え続ければ、壊死した脳細胞はどうにもならないけれども、周辺の脳にある程度までは代替機能を得させることができる。リハビリは早ければ早いほどいい。
- 症状が安定する前に代替機能をつけさせることが大事だ。」
- 以上「人は何によって輝くのかより
この文章の中で、リハビリによって、「壞死した脳細胞に代って、周辺の脳に代替機能を得させる事ができる」ということを知った。
- リハビリは、早いほど効果があるという。
- 私は、大変な勇気を得て、リハビリへの決意を深めて行った。
- そのことで、脳の代替機能という人間の生命の限りない可能性と共に、人は結局、自らの力でしか切り開けない人生の峻厳さを知った。
- *「脳の可塑性」とは、脳の神経回路の一部が障害される事によって起きた症状を、違う神経回路を発達させ繋ぎ方を変える事によってその機能を回復させたりすることであり、つまりそれは脳構造の本質的な柔軟性、変化しうる性質を指す。
- しかし、ほぼ脳卒中以前の身体的能力を取り戻し、伝記作家としても有名になられていた神渡 良平氏のように、私も健常者のように戻れるのではないかと思った。
- 患者は、あらゆる情報を自分に都合のいいように解釈するものである。

前編 TOP
後編 TOP
私は、「糖尿病」で入院したことがあった。
- 「脳梗塞発症」の7年前、50歳の時に1か月の入院で有った。
- 当時は、血糖値が高く、疲労困憊(こんぱい)の上での入院で有った。非常に医者にも脅かされ、脳卒中に罹病する可能性が高いと警告されていた。退院当時は、生活にも気を配っていたが、糖尿病は痛みもなく、食欲は旺盛であり、お酒も異常に美味しく感じられた。
- 脳卒中の知識もなく、自分のことを考えるより、会社の仕事の方が第一で有り、いつの間にか、健康管理も全くせず、日常の多忙に忙殺されていた。
- 今、考えてみると、倒れる1年間の間に、次のような予兆があった。
- ① 日頃、忙しくて睡眠不足で、血圧が多少高めではあった。
② 講演をしている中で、途中で声が出ないこと
- ③ 名古屋駅で、特急電車に乗ろうと走った時、
- 何でもない段差に躓いて倒れたことが2回ほどあった。
- ④ 異常なほどの喉の渇きを感じる時があり、
- 「糖尿病の症状である認識」を持っていたが、医者に行けば即入院ということで、問題山積の仕事から、今は離れられないと考えていた。事業が、好転したら病院へ行こうと考えていた。
- ⑤ 夜、就寝中に足が痙攣することが、しばしばあった。
- 改めて当時を振り返ると、倒れるまで、仕事を止めようとしなかったのが分かる。
- 仕事人間は、成人病と言われていても、倒れるまで仕事という理由を捨てられない。

前編 TOP
後編 TOP
脳血管障害には、壞死した脳神経細胞の部位によって、色々な後遺症が残る。
壞死した部位や大きさによって、各人の後遺症の差が生れる。
私の場合、次のような後遺症が残った。
1)機能障害
- ① 入院当初は、左手が、ブラリと下がったままで、左足も
- ピクリとも動かず、左に傾れると起き上がれない状態であった。
- ② 7年のリハビリを経て、ほぼ歩くことはできるが、足首
- や指先の力などはまだ不充分である。
- 左手は、寒い冬などは、硬直しがちであるが、生活は右手の補助が出来ており、現在はパソコンのshift
keyを押している。
- 2)体調不良障害
- ① 7年経過しても左半身が、顔面から舌、手、足の先ま
- で、ジーンと麻痺している。
- 緊張すると、左半身が硬直する。
② 発症後7ヶ月位まで力のない腕が垂れ下がったままで、その腕の
- 重みで左肩が亜脱臼を起こし、筋肉の脱落は、神経細胞に直接作用し、針でえぐられるような強烈な痛みが一日中続いた。
- しかも、その痛みの原因は、全くわからず、その旨を訴えても、病院は張り薬を支給してくれるだけで亜脱臼の原因の説明して貰えなかった。
- 筋肉の強化しか解決の道はなかったのだが、そのことを知ったのは自主グループからの情報であり、医療関係者からの説明を受けられなかった。
- 1年で、亜脱臼の痛みはなくなったが、今も肩の奥の方に痛みが残っている。
- ③ また、目の視野が狭まり、目の乾きによる痛みと視力の低下を起こした。
- ④ 発症後1~3年は、身体は非常に疲れやすく、疲れの回復が遅い。
- 常に身体は鉛のように重かった。
- これらの一連の後遺症は、年々かなり改善した。
- 現在は、健常者の時に比べ、疲労回復力等は充分ではないが、どうにか不便ながらも通常の生活もできるようになった。
- ⑤ 1種2級の障害者としては、現在の回復は、相当順調のようである。

前編 TOP
後編 TOP
- 3) 発症2~3年間の精神的後遺症*現在は、克服できている!
- *様々な経験と苦難を超えてきたはずの57歳の人間が襲われた精神的圧迫!
- ① 突如としての半身不随状況を受け入れられず、将来への不安、家族への迷惑、自分の過去の清
- 算をできない心などが入り乱れ、「自分という存在の誇りの喪失感」が、強烈な圧迫感として心に押し寄せてくる。
② この病を得た8割~9割の人達が必ず死を連
- 想しているという。
- 精神的後遺症と自分の価値喪失感により死への誘惑が押し寄せるというが、ふと気がつくと、いつの間にか死を考えている自分がそこにいた。
- 飛び降りようと窓際まで行って、手すりを超えることも、それを乗り越えられない自分に愕然としたことを、思い出す。
- ③ 脳の直撃は、感情線を襲う。
- 時としての怒りなど、自分で自分を信じられないような苛立ちを覚えた。
- 悲しみや寂しさなどの感情も、急激に押し寄せ、経験のない深い悲しみやさびしさの感情反応に襲われた。
- ④ 「頑張ってください」などの健常者からの励ましにも、異常な怒りを感じて戸惑った。
- 普通の励ましの言葉なのに、「何が分かるのか」「俺は、頑張っているんだ」という思いが、何故これほどの怒りになるのか分からなかった。
- 怒りが収まった頃、そんな自分に襲ってくる自己嫌悪に苦しんだ。
- ⑤ 当初は全く動かなかった手足の回復が、発症後三ヶ月位急激に回復する。
- そのため、そのまま元に戻る錯覚をしてしまう。
- しかし、段々と明らかになるリハビリの成果の遅さは、様々なことが出来なくなってしまったことの確認であった。
- それは、絶望感になって、心に激痛を与える。
- これらの精神的後遺症が、私を悩ませた。
- 私は、脳卒中の壁の威力の凄まじさに打ち砕かれて行ったのである。

前編 TOP
後編 TOP
- ① リハビリの開始当時の状況と感動
- リハビリ開始は、入院6日目の7月2日だった。
- リハビリ開始の日、車椅子で訓練場まで行ったはずだが覚えていない。
- 最初は、リハビリの前に、車椅子の使い方からの訓練だった。
② 最初は、平行棒での訓練だった。
- 平行棒で、歩きはじめたが、左の手足には力が入らないので、右足で立ち、右手で支えて足を運ぶことから始まった。
- 左足が動かないから、身体で反動つけて、丁度足をぶん投げて運ぶと
いう状況だった。
- 食事の時間と毎日の血糖値の血液検査以外は、部屋に戻らなかった。
- でも、その間色んな検査があった。最初1週間か10日で治ると錯覚していた。

前編 TOP
後編 TOP
- ③ パニック障害
- ・ 1週間しても全く動かない手足を感じながら、妻の来院を待って
- いた。
- 動かない左指の一本一本を、右の手で動かしていた時、急に息苦しさを感じた。“再起不能”という言葉が浮かんだ。全ての未来も私の価値も消えたと思った。
- と同時に、家族にも、大きな心配と迷惑をかけていると思った。
- その時、急激な、心の切迫感に襲われた。
- <自分はそんなに悪いことをしてきたのか!> <何故自分が!>という思いに駆られた。
- 深呼吸ができない。
- 切迫感の息苦しさの中で、病に倒れて初めて咽び泣いた。
- それが精神的後遺症による抑圧感とは、全くわからなかった。
・ どうにもならない焦燥感と悔恨の思いが押し寄せてくる。
- めまいや気が遠くなる感じや底のない真っ暗闇に、息が出来ないままスローモーションで墜落し続けているような感じに陥った。
- 自分が自分でない感じがして、このまま気が狂ってしまうのではないかと思った。
- ・ そんな精神状態が、時々起った。
- 妻は、苦しむ私の傍で、静かに、やさしさのままで、何も言わず、黙って寄り添っていてくれた。
- 私は、沈みゆく気持ちの中で、何をどうすればいいのか迷っていた。
- 全てを投げ出したい思いともう一度立ち上がらねばという思いが交錯していた。
- ・ 何日か経ったある日の午後。
- 静かに物音ひとつない病院の喫茶室。アイスコーヒの氷が溶ける音が聞こえた。そして、長い沈黙の後に、静かに妻は言った。
『あなたは絶対やれるわ。大丈夫!一緒にリハビリやりましょう!』
- その一言で、私の気持ちが、吹っ切れた。
- リハビリ室へ行こうという気持ちになったのである。
- 私は、妻に言った。「リハビリ室へ連れて行ってくれないか」と。
- ・ ベッドで少しでも左に傾くと、そのまま倒れてし
- まって起き上がれない。
- 車いすで初めて病院の外の公園で見た光景は、子供の女の子のお尻が私の目線のレベルの先にあった。大人は、まるでガリバーのような巨人に見えた。
- 私は、小人の国の住人になったような、一日で虫になってしまったような惨めな気持ちになった。
- ・ リハビリ開始後、私は杖を突きながらも、発症後初めて、自分の足で同じ公園に立っていた。
- 子供のお尻も大人のお尻も私の目線の下にあった。
- 立てた!私は、たったそれだけのことで、信じられないほどの強烈な生命の躍動を感じた。
・ 空を見上げた。
- まず飛び込んで来たものは、木々の緑であった。
- 緑が緑に澄み切っているように感じた。
- 木々の命の躍動が、波動になって私の命に飛び込んできた。
- 生き生きと、清らかに、緑の、緑に澄み切った波動に、私は叫び出したい感動に包まれた。
- しかし、感動は持続してくれなかった。

前編 TOP
後編 TOP
- ④ 急性期のリハビリの効果(発症~3か月)
・ それから歩くことが急激に進歩して行った。
- 身体を支えるバランスがとれるようになって行った。
- 何日かしたら理学療法士の先生が杖を貸してくれた。
- 杖一つで又上手に歩ける様になった。
- その杖で、リハビリ室での訓練だけでなく、病院以外の他のところも歩きたくなった。
- でも、歩き方は相変わらず身体の反動でぶん投げている感じの歩き方であった。
・ 踵を感じる!
- 「踵をつけて」「踵から歩いて!」と先生方に言われていたが、なかなか踵が感じられなかった。
- ある日、黙々と歩いていると、突然『ああ踵を感じた!』と叫んだ。
- <神経が通った!>と思った。
- 私の声を聞いて、妻の嗚咽の声が背中に響いた。
- 生命という様なものを一瞬感じて、妻の嗚咽に誘われて、涙が溢れて来た。
- 歩きはじめて、12日目の 7月14日のことであった。
- ・ 指が動いた!
- 手の親指が少し動いたのは、7月26日とメモが残っている。
- 発症後一か月目であった。
- 指が動いてビックリした。
- ベッドの上で、左指を動かしていると親指がかすかに動いた。
”指が!指がうごいた!“と思った。私は、大声を上げたかも知れない。
- “いつかきっと、元のように,指が動く”という夢を持つことが出来た。
- それから、足が内反で危ないので転ぶ懸念があるので、装具をつけて貰って歩いた。

前編 TOP
後編 TOP
- ⑤ リハビリの行動へ駆りたてた思い―
- ・ 退院を求められた時、退院後の治療について、問診や希望を聞かれた。
- 自宅へ戻ることよりは、他の病院へ転院を望んだ。
- 入院した「都立府中病院」は、リハビリ室も非常に広く、PT・OTの先生も多かった。
- ・ 8月9日42日間の入院生活で退院することになって、他の病院捜しに妻に行ってもらった。
- 病院から紹介された病院を何軒か下見に行ったけれど、府中病院と同じような開放感のある広い病院がどこにもなかった。
- ・ もう少し広い別の病院がないかと聞いたら、あるけれど入院費が高く 、1日3万円~30万円
- であるという。但し、新しい装置も完備し、リハビリもプライバシーも完全に守られるという説明であった。
・ 非常に敬愛していたOTの先生に尋ねた。
- 「その病院へ行けば治りますか?」と。先生は、首を横に振りながら、「お金を出せば、障害が直るなら、アラブの王族には障害者はいないはず。」「やはり、リハビリですか?」
- 「怪我しては何にもならないけれど、リハビリは、やったもの勝ちだと思うな。」と言われた。
- その言葉は、今に至るまで、私のリハビリの原点になった。
- 但し、怪我しないための自己責任の管理が絶対必要である。
- ・ 都立府中病院が救急病院にシフト替えすることになり、急に
- リハビリに来る患者が減っていた。理学療法士・作業療法士の先生の勧めもあり、外来で週に4日間通院することになった。
- 1日中リハビリが可能であった。今の病院では許されないことだと思う。
- 私は、非常にラッキーであったと思う。
- ・ 障害に会った人々は、多くの方々がリハビリに熱中する時期を経験する。
- 私はその根源を見つめていた。
- 人の生命は、生きることに使命を持ち,その「いのち」の表現として、人は生活し、生活を通し人生を形作ってゆく。
- 障害をもって、生活の源となるべき元の自らの身体へ戻ろうとする願いは、生命を完全に生ききりたいとする願いに直結することだと思った。
- ・ 動かない手足を否定し、健全な自らの過去に向かって、激しい願いに駆り立てられてゆく。
- 生きるとは、立って歩くこと、言葉で心を伝えること、そして目で見て、手で触ってゆくことだと強烈に感じてゆく。
- ・ 人間に与えられた機能回復が「人間の尊厳の復権だ」という思いが、私をリハビリに駆り立てて
・ 私はリハビリへ向かう自分の強烈な思いが、人間の尊厳性を守
- るためだと思えた時、自分の人生で、これほどの努力をした経験はないという思うほど努力が出来た。
- 自分を駆り立てる根源を知った思いであった。
- ・ 作業療法士の先生が、「リハビリの指導を30年やっていて、あなた
- みたいに努力する人は初めてだ」と言ってくれるほど歩き続けた。
- 朝から晩まで毎日、毎日、一日中「歩く、歩く」の生活であった。

前編 TOP
後編 TOP
- ⑥ 精神的葛藤の日々
- ・ しかし、精神的圧迫感は、改善しないばかりか、更に強く押し寄せ
- てきたのもその頃だった。
- 呼吸しても、呼吸しても、息苦しく、酸素不足の感じで、喘ぐように息をしていた。
- 得体のしれない強烈な不安感が突然、襲ってきたりした。
- ・ (パニック障害)という症状に初めて出合い、当時はその病名も原因も知る由もなかった。
- その病名を知ったのは、発症後3~4年経った頃であった。
- 原因は分からなかったが、パニック障害からは、いつの間にか、解放されて いた。
- しかし、その後、様々な喪失体験による「うつ状態」を体験していくことになって行った。
- 歩く努力というよりも、その圧迫感や急激に襲ってくる不安感から逃げるためにも、歩き続けていたような気がする。
- ・ 余りにも小さくなってしまった自分と今までの自分との狭間で、自分が解らなくなった。
- ジーとしていても、動いていても押し寄せる不安と圧迫感に押しつぶされてしまうような気がした。
・ しかし、私は、自分の見栄から、このよ
- うな精神状態を誰にも語らなかった。弱い自分を恥ずかしいと思っていた。
- 見舞客の前では、強い自分を演出していた。見舞客が帰った後、言い知れない疲労感に襲われた。いつの間にか、誰とも会いたくないという思いになって行った。
- ・ 人とは会いたくないと思ったのに反し
- て、山や川や海などの自然に触れていたいという思いが強くなって行った。
- ・ 人というものは、感動する心を失っていないと思うことがあった。
- 草花が、こよなく美しいと感じ、身体を流れる風に生命の息吹を感じた。
- 静かな打ち寄せる波の音に、言い知れぬ心の安らぎを感じていた。
・ 心の圧迫感から逃げるように、高尾山にロープウェイで
- 登った時の自然の美しさに、このままズート自然と触れ続けていたいと思った。
- 心の安らぎというものが、自然の偉大さからしかこないものだということを本当に感じた。
- ・ 多摩川の土手を、杖をつきながらも、多くの人の中で歩けた
- 喜び。
- 時には、歌を歌い、心にスキップをしながら、歩き続けた日々を思い出す。
- 妻と二人、病院の先生の口真似をしながら、笑い転げたあの楽しさも、友人の真の優しさに触れ、涙した日々も忘れられない。
- ・ でも感動が長続きしない。
- ・ 実際の障害者やその家族にとって
- ①「慢性的悲嘆」「絶えざる悲しみ」を内包している。
- ②その悲嘆は常には顕現しないでも、内的な要因が引き金になることもあるが、外的要因によって
- ③この反応には、喪失感・失望・落胆・恐れなどの感情が含まれる。

前編 TOP
後編 TOP
- ⑦ 回復期(発症3か月~6か月) ・ 維持期(発症6か月~) の経験
- ・ 退院し、書物を手にすることができ始め、色々なことを学んでいくうちに、だんだん脳卒中の病気
- のことが解ってゆく。
- リハビリは、遅々として進まない。
- ・ しかも、たくさんの同病の方々を冷静に見ていると、かなりの発症後の時間の経過にも関わらず、
- 本当に元の元気な自分に戻る方は少ない。
- けれど、ほとんどの人は、元の自分に戻ると信じてリハビリをしている。
- ・ 私自身も、同じだった。必ず、元に戻る、戻ってみせると思っていた。
- ・ でも、改めて、脳梗塞のことを学んで分かったことは、1度懐死した脳神経細胞は再生しない。
- この不自由になった身体は、元に戻ることはないということだった。
- そう思うと辛さが増した。
- ・ 急激な環境と身体の変化は、筆舌を絶するものであったから、胸の圧迫感は、更に強まって行っ

前編 TOP
後編 TOP
- ⑧ 崩れゆく精神を支えたもの
- ・ そんな時、妻はふたつのことばを私に残してくれた。
- 「あなたは、感動的に人生を生きる人だから、この病気も必ず感動に変えてゆくわ!」
- 「最後は二人でマンションの管理人でもいいじゃない。私、大工の娘だから何でもやれるわ。生活のことなんて心配してないのよ。」
- 私は、心の底からの安らぎを覚えると同時に、妻の言葉は、私に大きな光を投げかけてくれた。言葉というものの力をその時程感じたことはなかった。
・ 加えて、岐阜で一緒に仕事をしていた2人の友人が、私の
- リハビリを手伝わせてほしいと申し出があった。
- その申し出で、私は、新しく生きる場所を東京ではなく、岐阜に決めた。
- 友人が、この7年間1日も欠かさず、妻と共に私と歩いて下さった。
- ・ その人達の深い愛情によって、リハビリへ向かう心を失わ
- ないで来られたのだと思う。
- 今思うと、友人達は、私の失いかけた誇りを守り、リハビリへ向かう心を育てて下さったと心から感謝している。
- 誇りを失うことは、生きる力を失うことであった。

前編 TOP
後編 TOP

もくじ
身体のリハビリに向かう私には、同時に精神的葛藤の解決が求められていた。
- 障害によってもたらされる心の苦しみを大別すると、「自分の中から生じる苦しみ」と「他人との関係で負わせられる苦しみ」に分けられると南雲直二氏の著書で知らされた。
- (リハビリテーション心理学入門:荘道社 大田仁史氏監修)
- 1)「自分の中から生じる苦しみ」

- その苦悩は、時を同じくし、または単独で次々に押し寄せて来る。
- その苦悩が、次のような項目に整理される。
- ① 健康な身体の喪失
- ② 過去への悔恨
- ③ 目標の喪失と未来への不安
- ④ 自信喪失と孤独感
- ⑤ 家族への関係役割と存在役割の喪失感
- ⑥ 障害後の環境の変化への対応
- ⑦ 経済的不安の発生
- ⑧ 獲得されて行く無力感
- ⑨ 希 死 念 慮。
- 2)「他人との関係でもたらされる苦しみ」
- ① 障害者としての恥ずかしさ
- ・ 中途障害者にとって、障害そのものが強烈な劣等感になって行く。
- ほんの昨日まで健常者であった自分を知っており、他人の目が非常に気になった。
- 歩くこと・物を運ぶこと・当たり前の普通のことが出来なくなってしまったことへの、恥ずかしさは強烈なものであった。
- ・ 倒れた後の行動が、医師の許可が出るまで、自分の意志で出来ないことがある。
- トイレに行くことも勝手に行けない時、経験のない屈辱感を感じた。
- ・ 当り前のことが、ことごとく出来なくなってしまったことの恥ずかしさは、生活の全てのいろ
- ② 障害者に対する社会的スティグマ(烙印)

- ・ この世界は、健常者中心の社会作りが基本である。
- ・ 昨今は、バリアフリーやノーマライジェーションの思
- 想が広まってきているが、障害者への偏見や障害者を「場違いの存在・無能力者」という烙印を押している状況がある。
- ・ 職業や社会生活における差別があることに愕然とした。
- ・ 現在の社会は、障害者を受け入れる充分な状況には無い。
- 例え、復帰出来たとしても身体能力的にも発症前の状況に戻ることは出来ない。
- ③ 病人でも健康でもない中途半端な自分の発見
- ・ 脳梗塞の病気は医学的には治っているが健康でもない。
- 中途半端な状態にある障害者は、定義されないまま、社会における存在も不確実なまま宙に浮いている。

前編 TOP
後編 TOP
- *「障害受容」とは、自信喪失の状態から立ち直り、障害を自分の一部として受け止め、障害はあっても,人間としての価値は何ら損なわれないと、自己を肯定して生きることが出来ることと説かれている。
- 1) 人生観の見直し
- ・ 「障害受容」が出来ない限り、この病を克服できない。
- 「障害受容」とは、障害によって奪われてしまった「アイデンティティ(自己認識)」の再構築であり、それは「人生観の徹底見直し」が必要であると学んだ。
- 2) 「過去との歴史」と「新しい生き方」を求めて
- ・ この障害を得て、「障害受容」を求めて、私は、多くの書を求めた。その中で、特に私に影響
- ・ ひとつは、「心が動く」(荘道社発行・太田仁史監修・森山志郎 著)の中で、次のような文
- 章と出合えた。
『障害者になって、自分の新しい生き方、新しいアイデンティティー(自己認識)を求めなければならないときに、「昔のことは忘れてしまえ」と過去の生き方に訣別することを求める方もあります。
- 人は苦労して作り上げた自分のアイデンティティー(自己認識)をそれほど簡単に捨て去ることはできません。自分の生きてきた歴史に誇りを持っています。
- 私の個人的な体験では、過去を清算しようとすると、これまでに作り上げた人生の誇りも一緒に捨て去ることが多くて悩みました。
- でも今になって考えてみると、過去を捨てるのではなく、それを生かしながら新しい能力を開発する方法、それによって自分の誇りを取り戻す方法が大事だったのだと思っている。
- 人間は誇りさえ取り戻したら、障害の現実を認めることに精神的な抵抗はあまりありません。
- そのとき認めた障害の現実を前提にして、新しい生き方を手探りできたことは私にとって、迷路から脱出してリハビリの本道に出会えたと感謝しています。』(同書七十四頁~七十五頁)
- ・
私は、障害を受け、 過去の全ての仕事と新 しい仕事の計画も失った。
- 健全な身体と自分の過 去の清算を、どのようにしてゆくのか、苦しい日々を送っていた。
- その中で、森山志郎氏の語られる、過去を生かしながら新しい能力を開発する方法。
- それによって、自分の誇りを取り戻す方法が大事であり、誇りを取り戻した人間は、新しい生き方が出来るという言葉に光を見出した。

前編 TOP
後編 TOP
- 3) 「リハビリテーションの意味を求めて」
- もう一冊は、「回生を生きる」(三輪書房発行・鶴見和子・上田敏・大川弥生共著)の中で、本当のリハビリテーションに出会ってという社会学者鶴見先生と日本リハビリテーションの権威の上田敏先生の対話の中で、次のような一節があった。
上田:リハビリテーションとは、そもそもの意味が「権利
- の回復」ということです。
- 障害をもった人は、人間らしく生きる権利が剥奪されそうになってしまうわけで、人間らしく生きることが非常に困難になっている。
- しかし、人間本来の権利としてそういうものを持っているはずですから、それを回復することがリハビリテーションだ。ということは、後ろ向きではないんですね。前向きに考えて・・・。
- 鶴見:これは創造的なんです。私は本当にリハビリテーシ
- 上田:普通の医学の一番悪いところは、マイナスだけを見
- るということです。
- 悪いところがあるからそれを治す、いいところは当たり前だから別に研究する必要もないという考えでずっときているわけですね。
- リハビリテーションが今までの医学と一番違うところは、マイナスだけしか見ないということはしないわけです。
上田:マイナスをプラスに転化するんだけれども、実はマ
- イナスを持っている人間がたくさんのプラスを持っている。 それを引き出すことで、マイナスを克服できる。
- リハビリテーションというのは、そういう意味では「プラスの医学」なんです。(同著44頁~45頁)
- ・ 上田敏先生の「プラスの医学」という考え方は、全ての
- 病は「プラスの医学」であるべきと感じたと同時に、人生の出来ごと全てが、「その後の人生のプラス要因」であると感じた。
- ・ そして、この病を得て「不安の人生」は「全て輝く人
-

前編 TOP
後編 TOP
- 1)出会いとは
- 発症以来7年目「生まれ変わった新しい自分」と遭遇している。
- 健常者であったときと全く違ってしまった「心の開放感」と「澄み切った生命なるもの‐自然‐への畏敬と感動」が甦っていた。
- 「甦りとしか言い表せないこの感覚」を不思議に思う。
- それを、齎せてくれたものが、「数々の出会い」であった。
- その「出会い」は、単に人と人が会うことや同じ場所で行為することとは異なると社会学者 細田満和子氏は論じている。
- ・ 「出会い」とは、「生きることの危機」に陥ってバラバラになるという状況に直面した人と、
- 支える他者が、互いを必要としつつ支え合うという関係性が築かれることである。
- ・ ここに、真の「出会いの意義」を見出した。
- 私の障害受容に大きな影響を与えてくれた出会いが多くあった。
- 2)私の障害受容の道と自主グループ(仲間)との出会い

- ①「自主グループ」との出会い
- ・ 私は、まず、「障害受容」という課題に出合った。
- その中で、「障害受容」の道を開いて行けたのは、「1冊の著書」と「その著者」との出会いであった。
- ・ 私は、自分の精神的葛藤を克服すべく、数多くの書を求め
- ・ 「心が動く」-脳卒中片マヒ者、心とからだ十五年-「森山
- ・ そこには、障害と共に15年間生きて来られた現実と越えて
- 来られた多くの課題と努力の道程が、丁寧に、正直に語られ加えて障害と人生に深い考察がなされていた。
- ・ 私は、障害を受けて、丸1年が経過していたころであった。
- ・ 「私の障害受容の道」は、まさしく「出会い」によって開かれて行ったのである。
- ② 傾聴するという力
- ・ 「病気の不安」、「過去の清算」、「自分の弱さ」など
- 悩み全般のことを誰にも言えず耐えていた。プライドという見栄の悪魔が私の心を支配していたのである。
- ・ 「心が動く」は著者自身の体験を、正直に語られてい
- ・ 私は、すぐ手紙を書き、著書への感謝と著者が主催する
- 自主グループへ参加を希望した。
- 私は手紙に、正直に素直に自分の現状と悩みを訴えることが出来たのである。返事の手紙の中には、ご自分の体験を通した私の悩みに対する深い理解の言葉に満ち溢れていた。
- 私は、そのことで「深く癒されている自分」を見つめていたのであった。

前編 TOP
後編 TOP
- 3) 医療関係者や思想との「出会い」
- ① MRIの所見の説明の後、神経内科の医師に「右脳に梗塞が見られ、運動神経を直撃していま
- す。左に、麻痺が残るでしょう。 リハビリで何処まで回復するかですね。頑張ってくださいね。」と明るく言われた。
- その明るい言葉の響きによって、安心がもたらされ、リハビリをやろうという気持ちが植え付けられた。その後も医師の言葉を待ち続けた。
- 医師の言葉というものは、何にも増して大きな影響力があることを感じている。
② 神渡良平氏の「人は何によって輝くのか」(PHP研究会)の中
- の一節「壊死した脳細胞はどうにもならないけれども、周辺の脳にある程度の代替機能を得させることができる。リハビリは早ければ早いほどいい。症状が安定する前に代替機能をつけさせることが大事だ。」
- ③ これらの医師の言葉と医学を自分の都合の良い方に結びつけて
- 解釈してしまったが、リハビリへの決意を深める大きな、大きな要因になった。
- ④ 入院間もないころ、私は、自分の運命のとらえ方が分からず、
- ふさぎこんでいた。
- 患者は、何も語らず、黙っている時、実は多くの言葉を自分の中で発している。自己否定の連続の日々の中で、眠れず、いらついていた。思い通りに成らないからだと精神的圧迫の中で、朝早くから、夜中も巡回してくださる若い看護師の姿を眠れないまま追っていた。
- 過酷な仕事であると思えた。何故、あれほどの笑顔で生きられるのかと何度も思えた。歩けた・指が動いたという私へ「良かったですね。」という心からの言葉に大きな勇気を何度も頂いた。

前編 TOP
後編 TOP
- 4) 理学療法士・作業療法士との「出会い」
- ① 理学療法士の、「今日はいいですね。」「本当に頑張られ
- ますね。頭が下がります。」という
- 毎日の言葉に多くの勇気を得た。
- ② 作業療法士は、「30年間近いこの仕事で初めて会った人だ
- ねえ。
- あなたの努力は凄い!」という言葉でリハビリへの意欲を強くして貰えた。
- 「手は、より実用的になるまで、気長にリハビリすることが大事だな」と誰に言うのでもなくポツリと言われた。私は、その言葉をしっかりと胸に刻んだ。
- ③ 何度かの手紙や体験書籍を頂いた。この信頼できる医療関係者との「出会い」で、挫けそうに
- なる心がどれほど支えられたことか。
- 「手は治らない」と言われていたとしたらあの努力が出来たであろうか。
- 顧みて、医療関係者の言葉の重みを改めて痛感している。
- 5)「脳卒中の犠牲者」から「サバイバー」との思想との出会い

- 「社会学者 細田満和子博士」は、平成18年11月「片マヒ自立研究会100回記念講演会」で、最後に、“「脳卒中の犠牲者」から「サバイバー」へ”という言葉で、講演の締めくくりとされた。それには、次のような意味があると話された。
- ① アメリカでは脳卒中患者というのは、脳卒中を発症したばかりの人を指します。
- 多くの人が、脳卒中になって、かえって人間的に豊かになったと思っているという事実があります。この事実はアメリカでも同じように見受けられるものです。
- ですから現在、アメリカでは脳卒中になられた方を、「脳卒中の犠牲者」ではなく、「脳卒中のサバイバー」と呼んでいます。
- サバイバーというのは、生き残った人、生還者ということです。
② そこには、脳卒中を発症しても、たくましく生き延び
- て、そこから自らの人生を新しく、豊かに切り拓いてゆくという意味がこめられています。
- ③ この会場の中にいらっしゃる脳卒中のご経験者の皆さん
- に「サバイバー」になって、ご自身の脳卒中のご経験を、周りの人に見せたり、伝えたりして下さるなら、世の中の多くの人が、脳卒中になるということの意味を理解しやすくなるでしょう。
- ④ 犠牲者からジャンプアップしてサバイバーへという願いを込めて、この講演を、締めくくりた

前編 TOP
後編 TOP
- 6)新しい私との出合い
- ① 私は、細田満和子先生の著書「脳卒中を生きる意
- 味」の論文を真剣に何度も読破していた。講演の締めくくりの中で、「サバイバー」という言葉の意味を理解した時、「今日限り、脳卒中障害者を卒業しよう!」と決意した。
- ② 1種2級のままで、「サバイバー」として生きるた
- めに、NPO活動・市民活動・ホームページからの情報発信・仕事への挑戦を始めた。
- 私は、発症以来、「障害受容から変容という世界:サバインバーとして、生きようと決意出来た平成18年11月までに、4年半の月日を数えていたのである。」
- ③ 府中病院の理学療法士の岡田 公男先生から、発症1年半の報告を出した返事の手紙に次のよ
- うに述べられていた。4年半も前の手紙である。
- 「長山さんは、私が考える障害受容を完成されていると思います。
障害の受容には
1.新しい人生に踏み出しているか
2.失われた機能にあきらめはついたか
3.不自由であることに苛立たないか
4.障害が恥ずかしいかなどがあります。
-
-
- 2は、一生かかっても取り戻したいと思うでしょうし、そのことが機能回復への原動力になるでしょう。よって、これは障害の受容とは、無関係だと思います。
- 最も重要なのは、1の新しい人生に踏み出しているかです。長山さんは私が知っている誰よりも早く、新しい一歩を踏み出したと思います。
- 3については、収まっては復活し、繰り返しながら、時間が自然に忘れさせます。
- 頑張ることはないです。
- 4は一生恥ずかしいと思います。誰だって自分の弱いところは恥ずかしいです。
- だから、2と4は障害の受容とは無関係なので、乗り越える必要はありません。」
- 岡田 公男先生は、自らが身体障害者である。
- *この手紙を貰った時、発症1年半後のことであった。
- 私は、「障害受容」にはほど遠い精神状況であった。
- しかし、この手紙は、私の大きな生きる指針になった。
- そして現在、「先生、障害受容が出来ました!」と心から応えることができる。
- ④ 病院にいたころ、苦しんでいる私に、先生は、何冊もの書籍や論文をプレゼントしてくださっ
「長山さんは、いつかきっとこう言われますよ。障害こそわが人生!」と。

前編 TOP
後編 TOP
- 脳卒中になって、7年目を迎えて人は皆、「幸せ」を求めて生きる。
- 私もまた「幸せ」を求めて生きてきた。
- 「こんな幸せがあったのだ!」という静かな感慨が、私の心に迫りくる。
- 人生の晩年近くに脳卒中に倒れた。

- 苦難をこえて今、いつの間にか私の心の中に、深い喜びの世界が、広がり続けている。
- その世界は、限りなく豊かで明るい。
- 悲しみから立ち上がった人を見ては、心の底から賞讃を捧げたい思い。
- 苦難が押し寄せてくるたびに、自らの内に解決する力ありと信じられる世界。
- 与えられる人生の課題なら、受け切って生きようという思いが、心の底から生じてくる。
- 静かな自分の日々を大切に振り返りながら、自分というもの、人間というもの、そして真の人生を、深く、感得したいと切に願う。
- 無駄な強がりも見栄を生きる必要もなく、安らかな日々が続いている。
- 本当に静かで広々とした心の世界を感じている。
- 脳卒中を得て、多くのことを学び、複雑な反応をする心を見つめさせられて来た。
- 苦難や受けざるを得ない様々な出来事は、時の流れの中で、自分勝手な欲望や自己中心の生き方を粉々に砕けさせてくれることを知った。その先に心からの安らかさが訪れた。
- やはり、人間は素晴らしいと思う。
- このような心境に導いて下さったものこそ「出会い」そのものであった。
- 私は今、心から感じている。“障害こそわが人生”と。


前編 TOP
後編 TOP
|